表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
桜の死に神  作者: くまっち
第五話
34/36

6

 クリーム色のカーテンで四角く切り取られた白い天井が見えた。利己世界で見たどんよりと鈍い広大な空と比べるべくもない、狭くて真っ白な天井だった。

 ツーンと鼻を突く消毒液の臭い。一定間隔で鳴る、無機質な機械音。僕は、病院ベッドにいた。全身を無数の管で繋がれ、僕は生き長らえている。いや、こういうのは「生かされている」というのだろう。

 首から下の感覚が全くなかった。自分の意思では、僕は指一本動かすことができない。

「元通り歩けるようになることは諦めてください」。医者に告げられたというりんごの言葉を思い出す。全身の骨がバラバラに砕けるほどの衝撃だったらしいのだ。それも仕方あるまい。むしろこうして息をしているのが、不思議なくらいだ。

 どこか遠くで子供がはしゃぐ声が聞こえる。廊下に重なる足音。衣擦れの音。談話室で談笑する人の声、テレビの音。利己世界にはなかったこれら当たり前の音が、こんなに懐かしく感じる。

 僕は生きている。

 悲しいほどに生きている。

「お目覚めかな、王子様」

 気配もなく、桜は僕の枕元に立っていた。その表情は氷のように冷たく美しい。艶のある低い声が、不思議と何だかとても懐かしく思えた。

「桜か。すまないが動けないんだ。どうやら全身が麻痺しているらしくてな」

「知っているよ。そして残酷だが回復の見込みは、限りなくゼロに近いそうだ」

「そうだろうな。奇跡でも起こらない限り、どう考えても無理っぽい」

 首だけを動かし桜を視界に捉えた。彼女は初めて会った時と同じ、闇のように黒いスーツに、踵の高い黒いピンヒールを履いていた。病室の丸椅子に腰を下ろし、短いタイトスカートからすらりと伸びた足を組んで、膝の上に肘を置き頬杖をしていた。

「無事生還できた感想はいかがかな?」

「最悪だな。こんなんじゃあ寝返りも打てない。お先真っ暗ってやつだ」

「生還できないほうが良かった?」

 桜は少し寂しそうな表情を見せた。

「どうだろうな」

 肩を竦めようとしたが、それは叶わなかった。

「生きている僕が、お前の姿を見られるということは、僕はもう死ぬのか」

「残念ながら、私の専門は悪霊退治だ。お前はまだ死ねないよ」

「そうか」

「お前には随分と世話になったからな。死神といえども、別れの挨拶くらいはせんとな。こう見えて結構義理堅いのだ、私は」

「死神に別れの挨拶をされるなんて、縁起でもない話だ」

「それもそうだな」

 僕らはそういって笑い合った。

「もう会えないのか?」

「次に私に会う時は、お前が未練を残して死んだ後、お前が悪霊になった時だよ。もっともそんな再会、私は望んではいないがな」

 お互いに別れの時が近いことを感じ取り、僕らの間には戸惑いの空気が流れた。次に会う時は、狩る側と狩られる側の関係だ。このように笑って会話を交わすこともないだろう。

「いや、きっとまた会えるさ」

「はあ? 胡桃。お前、私の話を――」

「何故なら僕は、お前に恋愛感情を抱いている。このまま別れたら、僕はありとあらゆる手段を使い、この命を捨て、お前に会うために、確実に悪霊になる。断言するよ」

 桜はいままでで一番驚いた顔を見せた。

 一瞬だけ遅れて、頬に桜の花のような薄い紅が差した。

「死に神をからかうものじゃない。私は神だ。人間ごときと釣り合いなど取れないといっただろう? それに私はお前のことなど何とも思っていない。お前の圧倒的片想いだ」

「分かっているよ。でも本当に僕の片想いなのか? お前と過ごしたのは短い時間だったけれど、時間の長さなど問題にならないほど、僕らは濃密な時間を過ごしたと思っている。桜、お前は本当に、僕に対して何の感情も抱いていないのか?」

「それは……」

 桜は顔を伏せた。スーツの裾を指先で弄っている。

「キスをしよう」

「なっ、ななな何をいきなりばかなことを!」

 突然の提案に、彼女は紅潮した顔を上げた。

「別れのキスだ。それで僕は桜のことを忘れる」

「で、でも……」

 普段の桜は口が悪く、女性らしさなど微塵も感じない。が、実のところ彼女の中身は、その九割が純粋な乙女でできている。

「それとも怖気づいたか?」

「望むところだ。この勝負、受けてたとう」

 そして残りの一割は、ただの阿呆だ。

 桜はベッドに腰を下ろし、僕の頭部の両脇に手を置いた。ギシリとベッドが軋む。僅か数十センチの距離に桜の顔がある。彼女の瞳が、病気と見紛うほど熱っぽさを帯びていた。

「い、行くぞ」

 声が裏返っていた。桜は生唾を飲むと、ぺろりと舌なめずりした。

「おい。ちょっと待て。お前、僕を喰うつもりか」

「ば、馬鹿を言うな。空気が乾燥していて唇が乾いていただけだ。ガサガサな唇で接吻などされると、貴様が気の毒だと思っただけだ。レディーの嗜みだ」

 本当、黙っていれば息を呑むほど綺麗なのに。残念美人だ。

 桜はベッドに肘を置き、片手で僕の髪に指先を滑らせた。潤んだ瞳が僕を見つめている。彼女の耳からさらりと落ちた長い髪と、甘く柔らかい吐息が僕の唇に掛かる。彼女は艶っぽい仕草で髪を耳に掛けると、熱っぽく見つめる瞳を閉じた。

 柔らかくて温かい唇が、僕の唇と重なった。

「もう一回だけ……」

 もう一度、唇を重ねる。

 さっきよりもっと深く、絡み合うように。

 唇同士を繋ぐ糸が、陽光を浴びてキラキラと輝いた。

「さよなら……」

 さっきよりもずっとずっと情熱的なキス。

 涙でぐちゃぐちゃになった顔で何度も交わすキス。

 永遠のさよならを予感した最後のキス。

 ――だった。

「んっ!」

 異変を感じて、桜は顔を上げた。

 桜の唇の間から、血が溢れ出している。

「ごめんな、桜。騙したみたいで」

「貴様、私の舌を……!」

「死神の血肉を喰らうと、全身から血を噴き出して、もがき苦しみながら死ぬんだろう? いまの僕には最高の、最高に無様な死に様だと思わないか」

「馬鹿なことを」

 桜は口を押さえていう。

 舌足らずな喋り方だった。僕が彼女の舌を噛み切ったせいだ。

「お前は死神の血肉を喰らうということの、本当の意味を知らないのだ」

「もう遅いよ。これで僕は死ねる。僕に殺されて死んでいった仲間達も、これで少しは気が晴れるだろう?」

「自分と向き合うとお前は言った。自分を見捨てないとも」

「崩れて行く利己世界を眺めながら、僕は考えた。死んでいった仲間達に、僕はどうやって償えばいいのだろうと。でも最後まで答えは出なかった。唯一、思い浮かんだのは、僕の命で、せめてもの誠意を見せること。それだけだった。だから――」

 口の中に広がる鉄の味。グミのような「舌」の感触。

「今度こそさよならだ、桜。本当に好きだったよ」

 僕には生きる資格がない。

 だから。

 

 全身が燃えるように熱くなる。感覚が麻痺しているはずなのに、全身を走る激痛だけが無遠慮に襲ってくる。胃の辺りから熱いものがこみ上げてきて、僕は堪らず吐き出した。ベッドのシーツに真っ黒な染みが広がった。鼻や気管に吐瀉物が詰まって激しく噎せ返る。

 それを合図にするように、僕の全身の毛穴という毛穴から血が噴き出した。周囲が血飛沫で真っ赤に染まった。いや、眼球が血に染まって、見えるもの全てが赤く見えるだけかもしれない。

 苦しい。息ができない。肺が破裂したか。

 ごめん、みんな。もうじきそっちに行くからな。

 そして。ざまあみろ、自分。

 

 赤いフィルムを通したみたいに見えていた景色が、ゆっくりと暗転していく。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ