6
クリーム色のカーテンで四角く切り取られた白い天井が見えた。利己世界で見たどんよりと鈍い広大な空と比べるべくもない、狭くて真っ白な天井だった。
ツーンと鼻を突く消毒液の臭い。一定間隔で鳴る、無機質な機械音。僕は、病院ベッドにいた。全身を無数の管で繋がれ、僕は生き長らえている。いや、こういうのは「生かされている」というのだろう。
首から下の感覚が全くなかった。自分の意思では、僕は指一本動かすことができない。
「元通り歩けるようになることは諦めてください」。医者に告げられたというりんごの言葉を思い出す。全身の骨がバラバラに砕けるほどの衝撃だったらしいのだ。それも仕方あるまい。むしろこうして息をしているのが、不思議なくらいだ。
どこか遠くで子供がはしゃぐ声が聞こえる。廊下に重なる足音。衣擦れの音。談話室で談笑する人の声、テレビの音。利己世界にはなかったこれら当たり前の音が、こんなに懐かしく感じる。
僕は生きている。
悲しいほどに生きている。
「お目覚めかな、王子様」
気配もなく、桜は僕の枕元に立っていた。その表情は氷のように冷たく美しい。艶のある低い声が、不思議と何だかとても懐かしく思えた。
「桜か。すまないが動けないんだ。どうやら全身が麻痺しているらしくてな」
「知っているよ。そして残酷だが回復の見込みは、限りなくゼロに近いそうだ」
「そうだろうな。奇跡でも起こらない限り、どう考えても無理っぽい」
首だけを動かし桜を視界に捉えた。彼女は初めて会った時と同じ、闇のように黒いスーツに、踵の高い黒いピンヒールを履いていた。病室の丸椅子に腰を下ろし、短いタイトスカートからすらりと伸びた足を組んで、膝の上に肘を置き頬杖をしていた。
「無事生還できた感想はいかがかな?」
「最悪だな。こんなんじゃあ寝返りも打てない。お先真っ暗ってやつだ」
「生還できないほうが良かった?」
桜は少し寂しそうな表情を見せた。
「どうだろうな」
肩を竦めようとしたが、それは叶わなかった。
「生きている僕が、お前の姿を見られるということは、僕はもう死ぬのか」
「残念ながら、私の専門は悪霊退治だ。お前はまだ死ねないよ」
「そうか」
「お前には随分と世話になったからな。死神といえども、別れの挨拶くらいはせんとな。こう見えて結構義理堅いのだ、私は」
「死神に別れの挨拶をされるなんて、縁起でもない話だ」
「それもそうだな」
僕らはそういって笑い合った。
「もう会えないのか?」
「次に私に会う時は、お前が未練を残して死んだ後、お前が悪霊になった時だよ。もっともそんな再会、私は望んではいないがな」
お互いに別れの時が近いことを感じ取り、僕らの間には戸惑いの空気が流れた。次に会う時は、狩る側と狩られる側の関係だ。このように笑って会話を交わすこともないだろう。
「いや、きっとまた会えるさ」
「はあ? 胡桃。お前、私の話を――」
「何故なら僕は、お前に恋愛感情を抱いている。このまま別れたら、僕はありとあらゆる手段を使い、この命を捨て、お前に会うために、確実に悪霊になる。断言するよ」
桜はいままでで一番驚いた顔を見せた。
一瞬だけ遅れて、頬に桜の花のような薄い紅が差した。
「死に神をからかうものじゃない。私は神だ。人間ごときと釣り合いなど取れないといっただろう? それに私はお前のことなど何とも思っていない。お前の圧倒的片想いだ」
「分かっているよ。でも本当に僕の片想いなのか? お前と過ごしたのは短い時間だったけれど、時間の長さなど問題にならないほど、僕らは濃密な時間を過ごしたと思っている。桜、お前は本当に、僕に対して何の感情も抱いていないのか?」
「それは……」
桜は顔を伏せた。スーツの裾を指先で弄っている。
「キスをしよう」
「なっ、ななな何をいきなりばかなことを!」
突然の提案に、彼女は紅潮した顔を上げた。
「別れのキスだ。それで僕は桜のことを忘れる」
「で、でも……」
普段の桜は口が悪く、女性らしさなど微塵も感じない。が、実のところ彼女の中身は、その九割が純粋な乙女でできている。
「それとも怖気づいたか?」
「望むところだ。この勝負、受けてたとう」
そして残りの一割は、ただの阿呆だ。
桜はベッドに腰を下ろし、僕の頭部の両脇に手を置いた。ギシリとベッドが軋む。僅か数十センチの距離に桜の顔がある。彼女の瞳が、病気と見紛うほど熱っぽさを帯びていた。
「い、行くぞ」
声が裏返っていた。桜は生唾を飲むと、ぺろりと舌なめずりした。
「おい。ちょっと待て。お前、僕を喰うつもりか」
「ば、馬鹿を言うな。空気が乾燥していて唇が乾いていただけだ。ガサガサな唇で接吻などされると、貴様が気の毒だと思っただけだ。レディーの嗜みだ」
本当、黙っていれば息を呑むほど綺麗なのに。残念美人だ。
桜はベッドに肘を置き、片手で僕の髪に指先を滑らせた。潤んだ瞳が僕を見つめている。彼女の耳からさらりと落ちた長い髪と、甘く柔らかい吐息が僕の唇に掛かる。彼女は艶っぽい仕草で髪を耳に掛けると、熱っぽく見つめる瞳を閉じた。
柔らかくて温かい唇が、僕の唇と重なった。
「もう一回だけ……」
もう一度、唇を重ねる。
さっきよりもっと深く、絡み合うように。
唇同士を繋ぐ糸が、陽光を浴びてキラキラと輝いた。
「さよなら……」
さっきよりもずっとずっと情熱的なキス。
涙でぐちゃぐちゃになった顔で何度も交わすキス。
永遠のさよならを予感した最後のキス。
――だった。
「んっ!」
異変を感じて、桜は顔を上げた。
桜の唇の間から、血が溢れ出している。
「ごめんな、桜。騙したみたいで」
「貴様、私の舌を……!」
「死神の血肉を喰らうと、全身から血を噴き出して、もがき苦しみながら死ぬんだろう? いまの僕には最高の、最高に無様な死に様だと思わないか」
「馬鹿なことを」
桜は口を押さえていう。
舌足らずな喋り方だった。僕が彼女の舌を噛み切ったせいだ。
「お前は死神の血肉を喰らうということの、本当の意味を知らないのだ」
「もう遅いよ。これで僕は死ねる。僕に殺されて死んでいった仲間達も、これで少しは気が晴れるだろう?」
「自分と向き合うとお前は言った。自分を見捨てないとも」
「崩れて行く利己世界を眺めながら、僕は考えた。死んでいった仲間達に、僕はどうやって償えばいいのだろうと。でも最後まで答えは出なかった。唯一、思い浮かんだのは、僕の命で、せめてもの誠意を見せること。それだけだった。だから――」
口の中に広がる鉄の味。グミのような「舌」の感触。
「今度こそさよならだ、桜。本当に好きだったよ」
僕には生きる資格がない。
だから。
全身が燃えるように熱くなる。感覚が麻痺しているはずなのに、全身を走る激痛だけが無遠慮に襲ってくる。胃の辺りから熱いものがこみ上げてきて、僕は堪らず吐き出した。ベッドのシーツに真っ黒な染みが広がった。鼻や気管に吐瀉物が詰まって激しく噎せ返る。
それを合図にするように、僕の全身の毛穴という毛穴から血が噴き出した。周囲が血飛沫で真っ赤に染まった。いや、眼球が血に染まって、見えるもの全てが赤く見えるだけかもしれない。
苦しい。息ができない。肺が破裂したか。
ごめん、みんな。もうじきそっちに行くからな。
そして。ざまあみろ、自分。
赤いフィルムを通したみたいに見えていた景色が、ゆっくりと暗転していく。




