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桜の死に神  作者: くまっち
第五話
33/36

5

 僕らが地上に駆け上がると、玄関前では桜とこのみが、互角の戦いを繰り広げていた。

 このみは口に刺身包丁を咥えたまま車椅子を駆り、桜の懐に潜り込むと同時に、素早く包丁を手に持ち替え、急所を突く。一方の桜は、このみが飛び込んでくる一瞬の隙を狙い、桜の花弁を振り回す。お互いの攻撃をお互いが紙一重で躱している。どちらかの攻撃がまともに当たれば、形勢は一気にどちらかに傾く。まさにそんな戦いだった。

 一通りの命のやり取りがあった後、二人は距離を取って睨み合う。

 先に動いたのはこのみだった。両腕が見えなくなるほどのハンドリム捌きで、車椅子を急発進させて弾丸のような速さで桜に向かって突っ込む。桜はそれを間一髪で躱した。辺りにゴムの焦げたような匂いが漂った。

 このみの車椅子は実に小気味よく俊敏に動いた。平面的な動きだけではなく、時に壁や柱を利用した立体的な動きで桜の攻撃を躱していた。

「桜、気をつけろ。今までの悪霊とは違うぞ」

「分かってるわ。よく分からないけれど、あいつを倒せばいいのよね」

 分かっているのか、分かっていないのか。

「死に神。お前に僕は倒せない」

 背丈ほどもある巨大な桜色の大鎌を、桜は地面と水平に構えた。華奢な身体を沈ませると、どこからともなく旋風が湧き起こり、桜の花びらを巻き上げた竜巻が死に神の姿を覆い隠した。桜の竜巻がパンと弾けたかと思うと、死に神はまるで肉食獣のように、このみに勢いよく襲いかかった。

「消えてっ、なくなれええええええっ!」

 しかし桜の太刀は、このみの刺身包丁によって、いとも簡単に止められた。

「馬鹿な。桜の花弁をそんな包丁一本で止めるなど――」

「大きな刃を振り回すだけでは、僕は倒せないよ」

 病院の地下の更に廊下という狭い空間から抜け出したことで、巨大で重量級の鎌を武器とする桜のハンディキャップは解消された。だがそれは桜のアドバンテージを意味するものではない。武器の優劣を度外視して、単純に両者の能力を比較した場合、その差は圧倒的だと言わざるを得なかった。

「強い。胡桃、お前の弟、強いぞ」

「遅い。もっと真剣に逃げないと殺しちゃうぞ。腕をもいで、脚をちぎって、頭を斬り刻んで、脳みそを掻きだしてあげるよ。もう二度と動けないようにね。死に神は死ねないんだろう? 肉塊となって永遠に苦しみ続けるといいよ」

 このみは猟奇的に笑った。

「誰が逃げるものか。桜の花弁が、お前の血を吸いたくてウズウズしているわ!」

「その大鎌、血を吸うのか!」

 僕は驚いて、思わず声を上げた。

「……いや……吸わない」

 桜は赤面した。どうやら話を盛ったらしい。

「馬鹿ッ! よそ見するな――」

 その隙をこのみは見逃さなかった。桜が一瞬だけ僕の方を見たその間隙をついて、このみは気配もなく桜の背後を取り、手にした刺身包丁で一度、桜の背中を突いた。

「――アッ!」

 小さな悲鳴を上げた桜は、宙を見上げ、無意識に背中を反らした。

 その背中にこのみは更に包丁を突き立てる。

 何度も。何度も。何度も。突く。突く。突く。

 返り血がこのみを赤く染めた。それでもこのみが手を止めることはない。桜が地面に崩れ落ちた後も執拗に、何度も、何度も、このみは包丁を突き立てた。

「二流の死に神が。僕を倒すだって? 寝言を言うなら寝て言えってんだ。あー汚ねえ。血が付いちまった。まあいいか、病院着なんか捨てちまえば」

 手にしていた包丁を、このみは放り投げた。

 その顔はまるで悪魔のようだった。

 あの時の僕の顔もこんなだったのだろうか。竜峡の転校が僕のせいだと非難された時、柿原のゲームを盗んだのが僕だと疑われた時、りんごに付きまとっていたのが林田だと知った時、僕はあんな顔をしていたのだろうか。或いは表情を仮面で隠したまま、内心に悪魔を生み出していたのだろうか。

 あれは僕だ。紛れもなく僕が生み出したものだ。僕は責任を取らねばならない。あの悪魔を、この世界を、永遠に葬り去らねばならない。

「さて、残りはもう一匹の死に神と、目障りな僕の分身だ。りんごは僕の妻として一生ここで暮らすのだから、生かしておいてやる」

「ちょっとクル……あの子、死んじゃったの? ピクリとも動かないんだけど」

「死に神は死なないんだ。けれどあれでは……」

「後でゆっくり挽き肉にしておくから安心しな。二度と僕に生意気な口を聞けないようにしてやるよ。そっちのもう一匹の死に神も同じようにな」

 ジリ貧だ。現状を打開する策が思い浮かばない。


 その時――唐突に、出し抜けに、思いもかけずにそれはやってきた。雷雲に覆われた空を駆け抜ける稲妻のようなものが、鬱々とした僕の心の霧を一瞬で晴らした。


「そうか……全ては僕に起因していたんだ」

 そう。このみは僕で、僕とこのみは表裏一体の関係だ。それを否定したところから全ては始まったのだ。

「あん?」

 このみは不機嫌な顔を僕に向けた。

「このみ。お前はさっき『彼らの真実を見たか』と僕に聞いた。ならお前も見たんだろう? あいつらの記憶の欠片を。お前は竜峡の記憶の欠片を見てどう感じたんだ?」

 このみは思い出したくもないように、眉を顰めて吐き捨てるように言った。

「ふん、下らない。酒に溺れて暴力を振るうような親父に、生きる資格などあるか? 死んで当然だ。そんな父親に謝罪など、血迷ったことを考えるから悪霊の餌食になる。あの女は馬鹿だ」

「では柿原の時は?」

「語るまでもない。恋愛感情とも呼べないような異常な愛情を、一方的にりんごに向けた。僕にとってりんごは肉親であり、兄妹であり、恋人であり、代え難い理解者だ。自らの感情を伝えることもできない柿原のような薄っぺらな人間が、勘違いした薄っぺらな感情を、僕のりんごに向けること自体が犯罪だ。無性に腹が立つ。死んで当然だ」

「一ノ瀬の時は?」

「同じことだ。自分の過去が耐えがたいものであれば、死ぬという選択肢もある。だがその選択を取る勇気もなく、旧態依然、自分を売ることでした生きられないような弱者が、幸せな将来を望むなど笑うしかない」

 半笑いのこのみの顔を、りんごが睨め付ける。

「思った通りの糞野郎だな。だがこのみ。実は僕も同じことを思ったよ」

 りんごとこのみが同時に僕を見る。このみの半笑いの顔は驚きのそれに変わり、りんごの顔には隠すことのない嫌悪感が浮かんでいた。

「きっとお前が竜峡に抱いた感情は『親から愛されたい』という感情の裏返しだ。僕らは両親を交通事故で亡くしている。どれだけ姫小町の両親が僕らに愛情を注いでくれたとしても、それは僕らの望む愛情とは違う。望んでも手に入らない愛情を欲しているのは、お前だけじゃない。僕も同じなんだ。どのような形であれ竜峡は親に愛された。僕らはそれが羨ましかったんだ」

「下らない。ガキじゃあるまいし」

「僕らはガキだよ。親の愛情に飢えた、どうしようもなく幼稚なガキだ」

 このみは僕から顔を背けた。

「次に柿原に抱いた感情。それは言うまでもなく『嫉妬』だ。お前の言うとおり、りんごは僕らにとって特別な存在だ。りんごは良い子だよ。僕らには勿体ない。けれど他人に取られるなんて考えたくもない。仮にりんごが僕らと同じ感情を持っていてくれたとしても、それを確実に繋ぎ止めておけるものは何もないし、そうしておける自信が僕らにはない」

「こんなに体当たりで気持ちをぶつけているのに、あたしの気持ちが伝わっていないなんて……遺憾だわ。分かっていてはぐらかされているんだと思ってた」

 りんごがふて腐れる。

「そして一ノ瀬に抱いた感情はきっと『同情』だ。お前はいま、『死ぬ勇気』という言葉を選択したが、本当は彼女の『生き続ける勇気』を尊敬していたに違いない。こんな世界を創ってまで現実から逃げた僕らにとって、泥水を啜ってまで生きる彼女の生き方は眩しすぎた。そんな彼女から好意を寄せられて嬉しくないはずがない。だがそれと同じくらい僕らは怖かったんだ。僕らには彼女が好きになる価値が本当にあるのか? 失望させてしまうのではないかと」

 このみが車椅子を僕の目の前に寄せ、刺身包丁を僕の喉元に突きつけた。

「それがどうした。僕は君の理解者です、ってか? 分かったようなことを」

「理解者? 違うな。僕はお前そのものだ。そしてお前は、これまで僕が向き合うことを拒絶してきた僕の本心だ。他人に嫌われることが怖くて隠してきた僕の本心だ。僕は自分に自信がなくて、嫉妬深くて、親の愛情に飢えた幼稚な、器の小さい人間だ。林田の謀略に嵌まり植物人間になったのをきっかけに、僕は魂を腐らせ悪霊となり、利己世界を創り出し、挙句にお前という人格まで生み出した。それもこれも、全てをお前に押し付け、自分の殻に閉じこもるためだったんだ」

「今さら懺悔か? だがもう遅い。僕は何の罪もない竜峡を、柿原を、あまつさえ一ノ瀬まで殺してしまった。もう後戻りなどできない。僕はお前を殺して、この閉じた世界で生きて行く」

 包丁の刃先が震えていた。

 僕はこのみが突きつけた包丁を、素手で握り込んだ。手から血が流れた。

「もういいんだ、お前一人で苦しまなくても。分かったんだ。きっと僕が本当に怖かったのは、傷つくことなんかじゃなく、失うことだったんだ。だからこうして、お気に入りのものを全て、自分の手元に置きたくなった。でも、それはもう終わりだ。他から与えられたもので自分を満たすのはやめだ。僕はお前と、自分自身と向き合うことに決めた。たとえ僕が世界中で一番の糞野郎で、世界中の誰もが僕らを見捨てたとしても、僕だけは僕を絶対に見捨てない」

「わたしもあんたを見捨てないわ」

 灰色の空を見上げながら、りんごは少し恥じらいながらいった。

「まあ、あんた、元からその程度の人間だしね」

 地平線の端から、空が少しずつ崩れて行く。乾いた砂の城が風に吹かれて少しずつ形を崩していくように、世界が砂塵を上げながら、ゆっくりと崩壊して行く。

 包丁を突きつけたこのみの腕が力を失う。

 このみは憑きものが落ちたような、晴れやかな表情をしていた。

「この世界も楽しかったんだけどな」

「同感だ」

「桜の死に神、死んだのか?」

「こいつはこの程度では死なないさ。そもそも死に神に『死』という概念はない」

「そうだったな」

「ただこれだけの傷を負っているし、暫くは動けないかもしれないな」

「そうか……じゃあ、お前がケリを付けてくれるか? その大鎌で僕を斬って欲しい。弱い自分を受け止めたお前に、もう僕は必要ないだろう?」

「……分かった」

 僕は桜が握っていた桜の花弁を手に取った。桜の花弁は抵抗しなかった。僕を受けいれてくれたのか、桜と同様に気を失っているのか、それは分からなかった。

 ひとひらの桜の花びらが、どこからともなくひらひらと舞い落ちた。

「消えて……無くなれ……」

 手に残った感覚が、いつまでも消えなかった。


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