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「お前、意識が戻っていたのか」
「そうだねえ。そうだ、といえばそうだし、そうじゃない、といえばそうじゃない。まあ、どちらにしても、君にとっては都合の良いことではないのかもしれないねえ」
「何だよ。久しぶりの再会だというのに、随分と煮え切らない態度じゃないか」
このみは病院着のまま車椅子を漕いでいた。今日は随分と顔色がいい。無精髭はきれいに剃られ、頭髪も整髪料で整えられている。このまま外泊できてしまいそうだ。
「久しぶり……。そうだねえ、随分と君を待ちわびたよ」
声が僕に似ている。とても懐かしい響きだった。そういえば、最後にこのみと話したのはいつだっただろう。ぼんやりと考えてみたが、何故だか僕は、どうしてもそれを思い出せなかった。
「彼らの真実は見られたかい?」
「真実?」
「そのための世界だろう?」
再会を喜ぶでもなく、このみは一方的に僕に問いかけた。しかし僕は、このみが問うてきた質問の意味が分からなかった。戸惑う僕を置いてけぼりにして、このみは話を続けた。
「知りたがっていただろう? 竜峡小梅の気持ちを。柿原徹也の恋心を。一ノ瀬なのはの苦悩を。記憶の欠片は、君の知らなかった真実を全て映し出しただろう?」
このみの発言を受けて、桜の死に神は、化粧っ気のない薄い眉を寄せた。
「記憶の欠片だと? ずっと寝たきりだったという貴様が、何故、それを知っている?」
「そうだ。記憶の欠片なんてもの、お前が――」
と、その時。僕の脳裏にひとつの可能性が浮かんだ。
いつからか意識を取り戻していたこのみは、僕の後をこっそりつけて、僕らを盗み見ていた? いや何だかしっくりこない。まさか、竜峡達を悪霊の許におびき出したのは――。
「違うよ。いま君は、僕が彼らを殺した張本人だと思っただろう? 残念ながらそれは違う。僕は彼らを殺せないし、ましてや悪霊なんかじゃない」
「そうだよな。お前に奴らを殺す理由なんかないものな」
そもそも常識的に考えて、このみと悪霊が結託するなど考えられない。
しかしほっとしたのも束の間だった。桜の死に神は小さな身体の前に巨大な大鎌を構え、ずいと僕の前に進み出た。
「騙されるな胡桃。こいつ、影がない。人外の存在である証拠だ」
桜が指摘した通り、このみには影がなかった。僕の足からは、蛍光灯の明かりでできた影がくっきりと伸びているというのに。
このみはおかしそうに目を細め、肩を揺らした。
「そうだね。人外の存在という点において、彼女の推測は間違ってはいない。だが僕は君たちが探しているものとは違う。何度も言うが僕は悪霊ではない」
「何がおかしい。悪霊でないと言うなら、では貴様は何者だ?」
「失礼。死に神であるはずの君が、随分と胡桃に熱を上げているようだから」
桜の頬に薄紅が差した。
「全く失礼な男だ。私が何故こんな下等生物に――」
一方のこのみは、桜の話になど耳を貸さず、腕を組んだまま中空に視線を泳がせ、何かに考えを巡らせていた。
「そうだねえ。僕が何者かを語る前に、まず胡桃、君達の勘違いを正すところから始めようか」
「勘違い?」
「そう勘違い。物事を間違って思い込むことだ。君達はある重大な勘違いをしている。だからさっきから会話が噛み合わないんだ」
勘違い。それは思い違い、または思い込みのことだが。
「勘違いする隙間など一ミリも存在しないはずだが? 僕が一体、何を勘違いしているというんだ」
「分からないかい? じゃあ説明するけど、端的に言うと僕は君なんだ」
「そのことか。それは勘違いなんかじゃない。林田に突き飛ばされ、植物人間になった僕は、何故だかこのみ、お前と入れ替わった。それはりんごが思い出させてくれたよ」
「入れ替わった……ねえ」
やれやれといった風に、このみは細い肩を竦めた。
「じゃあ聞こうか。君は幼少期、僕と遊んだ記憶があるかい? 竜峡や柿原たちと一緒だった時、僕はどこにいた? 僕らは以前どこで会った? 僕達の関係は?」
「何を今更。そんなの決まっているじゃないか。お前とは……」
しかしその問いに僕は答えられない。両親とデパートに遊びに行った記憶、柿原たちと夏祭りに行った記憶。それだけじゃない。僕の記憶の中にこのみの姿はどこにもない。どうしても思い出せなかった。
まるで初めから「龍ヶ崎このみ」なんて、この世に存在していなかったみたいに――。
「そう、それが君の勘違いだ。僕らは双子なんかじゃない。だから君がいくら思い出そうとしたところで、絶対に思い出すことなんかできない。だって龍ヶ崎このみは、龍ヶ崎胡桃が作り出した、もうひとつの人格なんだから」
「もうひとつの……人格だって……?」
僕は耳を疑った。僕とこのみが同じ肉体を共有する二つの人格、いわゆる多重人格の表と裏の関係だったなんて。しかしそんな荒唐無稽な話を、一体誰が信じるだろう。
「戯れ言を……。じゃあお前は、目の前のお前は何者だ」
「そうだ。僕はここにいる。僕は僕自身だ。なのに僕と肉体を共有するはずのお前は、どうして僕の前に姿を現すことができる。お前がこのみじゃないなら幽霊か何かなのか?」
問い詰められたこのみは、怯むどころか車椅子を前進させて僕に近づいた。
光のない双眸が僕を見上げる。
「そう。それを説明するためにはもうひとつ。君には認識しなければならない重大な事実がある」
「認識しなければならない重大な事実?」
僕はさっきから、鸚鵡のようにこのみの言葉を繰り返してばかりだ。
「まず第一に――」
このみは人差し指を僕の鼻先に立てた。
「桜の死に神は、なぜ君に近づいたんだろうね。霊魂管理局特務課所属の死神のエースが、公衆電話の悪霊や写真機の悪霊程度の低級霊から君を守るために、わざわざ派遣されてくると思うかい?」
「いや、それはない。私の目的はあくまで悪霊退治だ。人間の保護は業務対象外だ」
このみの説を、桜はあっさりと否定する。
「初対面で僕を襲ったんだ。守るなんて考えは絶対にないと断言する。それに桜は、口癖のように『A級ないしS級の悪霊が近くにいるはずだ』と言っていたし、僕の周囲から悪霊の匂いがするからと、僕の部屋に住み着いていたくらいだ。目的は悪霊退治だろう」
後を継いで、僕は桜の発言を補足する。
霊魂管理局、公衆電話の悪霊、写真機の悪霊。これらの単語がこのみの口から出ることに僕は違和感を覚えた。桜のいうとおり、彼はただの人間ではないのかもしれない。
「そうだね。僕もそうだと思う」
素直に僕らの意見に賛同したこのみは、ゆっくりと頷く。
「第二に――通常、人間には見えないはずの死神が、なぜ君には見えるんだろうね。君だけが特別な存在なのかい?」
「僕だけが特別かと問うならそれは否だろう。桜の姿が見えたのは僕だけじゃない。風呂上りの桜とかちあったりんごは、間違いなく桜の死に神の存在を認識していた。変な勘違いまでして、わざわざ自分の家まで柳刃包丁を取りに帰ったくらいだ。間違いない」
桜と視線が合った。彼女は戸惑った顔で頷いた。
「桜の死に神を認識していたのは、りんごだけかい?」
「いや柿原もだ。玄関の隙間から外の様子を覗いた柿原は、桜を見て僕に『それはお前の女か』と聞いた。死に神の存在を認識できない人間が、そんなことを聞けるはずがない」
もっともあの時、既に柿原は悪霊に憑依されていた。それが原因とも考えられるが。
「では最後に。君は中学二年の夏に、林田の手によって事故に遭い、植物状態になった。通常の人間ならば、二度と起き上がることができないほどのダメージだ。なのに君はいつの間にか高校に入学し、何不自由なく生活している。そんなことがあると思うかい?」
「だからそれは僕とお前が――」
「龍ケ崎このみという人間は存在しない。それはさっき、君自身が証明したはずだ」
ぐうの音も出なかった。
「それに君は、どうして『龍ケ崎このみ』に固執するのかな。記憶を辿れば、そんな人物が存在しないことは君にだって分かったはずなのに。まるで事故に遭ったという事実を、龍ケ崎このみという架空の人物に押し付けて、重大な事実から目を背けているみたいだ」
桜は構えていた大鎌を床に下ろし、焦点の合わない目で僕を見た。
「どういう……ことだ?」
「知らない。僕は何も知らない」
そう言いながらも、きっと僕は既にその解答を得ていたのだと思う。それはいままで可能性を認識しながら、僕自身が打ち消してきたのと同じものだ。しかし同時に僕は思う。
認めたくない、と――。
何故認めたくないのだろうかと僕は自問するが、答えはあまりに明白だった。
居心地が良かったのだ。
ここには僕の望む全てがあった。
心から信頼できる親友がいて、叱ってくれる教師がいて、時々腐って、励まされて、映画のような恋をして、近所の猫はだみ声で鳴いて、夜空はビカビカと星が輝いた。望んでも手に入らなかった全てがここにはあった。
それを認めてしまうと、僕はそれらを全て手放さなければならない。僕はそれが嫌なのだ。僕という人間の能力だけでは、どうやっても手に入らない、それらを失うのが怖かっただけなのだ。
「理解っているんだね?」
「ああ……。僕を含め、りんごも、柿原も、それどころかこの世界を生きている人達全てが、人間という存在ではない。そしてこの世界は、悪霊である僕が創り出したものだ」
「ご明察。そして君は咎人だ。君はこの世界が、本来自分が生きるべき世界ではないと知りながら、それを認めようとせず、結果として親友を見殺しにした」
「違う! 知らなかったんだ、悪霊なんてものを。見殺しにしたわけじゃない!」
桜は、信じられないものを見るような目をしていた。
「胡桃……。貴様、私を騙していたのか……?」
「違う! 違うんだ! 信じてくれ、桜」
僕は懇願する。そうするしかなかった。
「何を信じろというのだ。私は知らずに悪霊の手助けをして、死ななくても良い霊魂をみすみす死なせていたというのに」
「君は罪を償うべきだ。無関係な魂をこの世界に連れてきたことを。人間だけじゃない。公衆電話、カメラ、旧校舎の姿見。それとこの街にある、ありとあらゆる物の魂をだ」
「本当に知らなかったんだ。僕が望んだことじゃない!」
「信じていたのに……ッ!」
首筋に冷たい感触が触れた。蛍光灯の光を歪に反射させた桜の花弁の刃先が、僕の首筋に当てられていた。
桜は泣いていた。小さな唇を噛みながら。
「もうこれで分かっただろう?」
このみは僕の耳元で囁いた。
首筋に触れた刃物の感触よりも、遙かに冷たい声で。
「お前、もう消えちゃえよ」




