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桜の死に神  作者: くまっち
第五話
30/36

2

 病院の受付けはシャッターが下ろされ、既に業務は終了していた。

 まだ昼過ぎだというのに、患者の姿はおろか医師や看護師の姿さえ見当たらない。空気の動く音さえ聞こえない深い深い静寂の中で、僕と死に神の足音だけが遠くまで響いた。

 売店にはカーテンが掛けられ、その横に設置された自動販売機が、気まぐれにジージーと微かな音を立てる。

 まだ昼過ぎだというのに病院内は薄暗かった。非常口を知らせる誘導灯だけが煌々と灯り、リノリウムの白い床に緑色を不気味な反射させている。

「受付に来いという話ではなかったか?」

「……のはずだけどな」

 その受付は人のいる気配など、微塵も感じさせなかった。

「開けてもらえませんか。予約した者ですけど」

 声を返す者はない。何かがおかしかった。ここは僕の良く知る、S市立総合病院なのに。いつもは誰もが忙しそうに往来する、もっと活気のある病院のはずなのに。

「どうしたっていうんだ。この病院は」

「もう既に相手の領域に足を踏み入れている、ということかもしれないな。我々はもう、奴の掌の上で踊らされているということだ」

「元より罠に掛かるのは覚悟の上だったけどな」

「しかし、こんなところで油を売っていても仕方あるまい。先に進もう」

 誰もいないロビーを通り抜け、奥へと進む。壁沿いに診察科が並んでおり、その前の廊下が待合室になっている。が、そこに並ぶ椅子に腰掛ける者は、いまは誰もいない。

 試しに内科の診察室を覗いてみた。廊下と違い、診察室の中には明かりが灯っており、折り畳まれたカーテンの向こうには、診察デスクとレントゲンフィルムの読影に使用するディスプレイがあった。デスクの上には、ついさっきまで使っていたかのように、聴診器と開きっぱなしのカルテが放置されたままだった。

「ここも、もぬけの殻だ」

 誰もいないことを確認すると、僕と桜は診察室の中に足を踏み入れた。脱衣カゴに脱ぎ捨てられたカーディガンを手に取る。まだ何者かの温もりが残っていた。

 突然、診察デスクにあった二脚の椅子の内の一脚が、音もなく、すうと動き出した。

「胡桃。いま椅子が動かなかったか?」

「ああ動いたな。きっと幽霊でも座っていたんだろう」

 僕は冗談とも取れない冗談を飛ばした。

「ヒイイッ! 幽霊」

 桜は恐怖のあまり、小さな悲鳴を上げた。

「いやいやお前、死に神だろ。死に神が幽霊を怖がってどうする」

「それ偏見だぞ。死に神だって怖いものは怖いのだ。悪霊は見慣れてるけど、本物の幽霊に遭遇するのは初めてだ。だって目に見えないんだぞ。怖いと思わないのか?」

「僕は死に神の方が百倍怖いけどな」

 臆病な神サマは僕の背中にしがみついていた。

「さあ、次に行くぞ」

「ま、待って。置いていかないで」

 膝をガクガクと揺らした情けない神サマは、僕に引きずられるように診察室から出た。診察室とは対照的に待合室の廊下は相変わらず薄暗かった。

 待合室の奥には、永遠とも思えるような暗くて長い廊下が続いている。その突き当たりに、ぼんやりと薄く光る何かが見えた。

 重たい足を引きずるように暗闇の中を進むと、突き当たりには二基のエレベータがあった。その内の一基、手術患者の搬送などに使用される業務用のエレベータは、まるで僕らが来るのを待ち構えているかのように、扉を開けたまま停止していた。光の正体は、扉の開いたエレベータの明かりだった。しかし――。

「何だか怪しいと思わないか、胡桃?」

「これ以上ないほど怪しいが、行くしかなくないか?」

 まるでウツボカズラの袋の中に飛び込む羽虫になった気分だが、しかしここまできて引き返す訳にはいかなかった。僕らはエレベータに足を踏み入れた。

 するとエレベータの扉が自動的に閉まり、勝手に階数ボタンのB2が選択された。

「ヒイイッ! 勝手に動いた」

「落ち着け、桜。ある意味、予想通りだ」

 エレベータは浮遊感を伴い、地階へと向かってゆっくりと動き出した。


 今更ながらに考える。

 ここ数日で起こった不可思議な事件。桜の死神が現れてからというもの、僕の周囲の人間が次々と死んでいった。その全てが悪霊と呼ばれる化け物によるものだった。そして悪霊は、僕に関連する人物ばかりを狙っている。

 分からない――。

 何故、僕を直接襲わずに、僕に関連する人物ばかりを狙ったのか。僕に恨みを持つ者の仕業だとすれば、こんな遠回りなやり方をせずに直接僕を襲えばいい。

 それに僕とこのみが入れ替わっているという事実――。

 それらが全くの無関係だとは、僕には到底思えなかった。

 液晶画面の階数表示が地下二階を示すとほぼ同時に、エレベータはゆっくりと停止した。獣の爪痕のような無数の擦り傷のついた鉄の扉が、重い金属音を伴って、粗っぽい動きで開いた。

 目の前は闇が広がっていた。僕らはその闇の中に身を投じた。光源になっていたエレベータの扉が閉まると、辺りは数センチ先も見えない暗闇に包まれた。時々、思い出したように明滅する蛍光灯の明かりが、暗闇の中に、奥へと伸びる廊下の残像をぼんやりとつくりだした。

「それにしても――」

「何だこの異様な臭いは」

 僕らは思わず口を覆った。

 ねっとりと絡みつくような、生温かい湿った空気。何かが腐ったような不快な臭いと、それに混じった線香の乾いた匂いが、辺り一帯に充満している。持ち上げられるような胃の不快感。それによって逆流してくる胃液と内容物を、僕は無理やり飲み込んだ。

 口の中に甘酸っぱい臭気が広がった。

 

 キィ、キィ――。

 

 金属が擦れるような音がした。

 それは暫く止んだかと思うと、再びキィ、キィと鳴り始めた。まるで神経を無遠慮に撫でられるような、とても不快な音だった。桜は僕を盾にするように背後に身を隠した。

 キィ、キィと鳴る度に、その音は長い廊下の向こうから少しずつこちらに近づいていた。時折、休みながら。少しずつ。少しずつ――。

 蛍光灯が瞬くことで、音の発生源たる主のシルエットが、一瞬だけ浮かび上がる。それはまるで、蝋燭の炎が揺らめくように、ゆらり、ゆらりと揺れながら上下に伸縮を繰り返していた。

 

 キィ、キィ――。

 

 蛍光灯が瞬くごとに、それは距離を詰めてくる。激しい恐怖と後悔が湧き上がってきた。背後で僕の制服の裾を握る桜の手に、ぎゅっと力が入る。

 どの位そうしていただろう。僕は自分の存在を脅かしかねないそれが、目の前に到達するのをただじっと待つことしかできないでいた。

 果たして眼前に現れたそれは、生身の人間だった。車椅子の背にもたれかかった痩せこけた身体、見覚えのある顔が蛍光灯の瞬きにはっきりと浮かび上がった。

 車軸の擦れる不快な音が僕の目の前で停止すると、廊下の蛍光灯は、彼の登場を待っていたかのように一斉に点灯した。

 眩しさで目の前が真っ白に霞んだ。僕は思わず目を眇める。

 見間違いではないだろうか。そう思えるほどだった。眩しさに慣れてきた僕の目が見たものは、僕には到底受け入れがたいものだった。

「そんな馬鹿な」

「なぜお前が――」

 僕らは目を疑わずにはいられなかった。

「やあ初めまして。いや、久しぶりと言うべきかな?」

 龍ヶ崎このみの姿がそこにはあった。


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