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「クル? ねえ聞いてるの?」
「悪い、聞いていなかった。何だっけ?」
刺々しいりんごの声で、僕は現実に引き戻された。
「だからあんた、一体いつ退院したのかって聞いているの」
そうだ。僕は植物状態で入院していたはずなのだ。なのに何故だろう、現実には僕ではなく弟のこのみが、いまも意識が戻らぬまま入院を続けている。
この不可解は相違は何だというのだろう。
「りんご、お前、いつからそれに気がついていた?」
「いつって……最初からよ」
何を今更と言わんばかりの表情だった。
「僕の怪我はそんなに酷かったのか」
「酷いも何も、あんたトラックに撥ねられたんだよ。全身の骨がバラバラで、背骨もグチャグチャで、とても助かるような状態じゃなかった。もし助かったとしても、元通りの生活は諦めてくださいって。意識が戻る確率なんか、一パーセントにも満たないですって。お医者様にもそう言われたのに」
僕を見上げる瞳から、涙が次々と湧き出してきた。りんごはそれを見せまいと、僕の胸の中に顔を埋めた。
「怖かったんだから。死んじゃったらどうしようって。このまま意識が戻らなかったらどうしようって。もう二度とクルの声が聞けないんじゃないかって思ったのに。それなのに、気がつけば青陵に入学しているし、元通り元気に走り回っているし。事故のこと、誰に聞いても変な顔で『そうだっけ?』とか言われるし」
りんごの声が震え出す。
「まるで狐にでもつままれたみたいだけど、でもクルが元気になったのなら、そんなことどうでもいいかって。こうしてもう話もできないと思ったから。夢なら夢でもいいから醒めないでって、そう思ったのよ」
夢か――。
この世界の整合性のなさは、確かに夢と呼ぶにふさわしい。
「クル。あんた、あたしに何か隠してない?」
ほんの一瞬だけ躊躇った後、僕は首を横に振った。りんごの眉が僅かに動いた気がした。隠すどころか真実を思い出してさえも、僕には理解できないことばかりだ。
「じゃあ、あの子は誰よ。どうして従兄妹だなんて嘘をついたのよ」
「……いまは言えない」
死に神の存在を知らないりんごに桜を理解してもらえるほど、僕は弁が立つわけではない。それにりんごにはこれ以上、死に神や悪霊といった人外の存在に関わって欲しくない。僕はりんごを危険に巻き込みたくないのだ。
「ねぇクル。もうどこにも行かないよね」
りんごは僕の瞳を、真っ直ぐに見据えた。まるで心の中を覗かれているみたいだった。
僕は答えを返せなかった。
「約束して。危険なことには首を突っ込まないって」
「危険なこと? どうしてそんな風に思うんだ?」
北階段の狭い踊り場で、考え事をしながら何度も往復を繰り返す桜の姿を見ながら、りんごは声を潜めて言った。
「だってあの子、何か普通じゃないよ」
「普通じゃない?」
「うまく言えないけど、クルがあの子と一緒にいるのすごく嫌なの。あの子がクルをどこか遠くに連れて行ってしまいそうで、何だかすごく嫌。せっかくこうしてクルが戻ってきたのに、離れ離れになるのはもう嫌なのよ」
「桜に僕を取られるとか、そういう意味か?」
僕の的外れな推測を、りんごは当然に聞き流した。
「例えるなら悪魔か何かみたい。この世の者ではないというか、あんな冷たい目をした人、あたし初めて見た。変な例えかもだけど、近寄ると魂を持っていかれそうな、そんな怖い感じがするの」
当たらずも遠からずだ。悪魔とは違うが、魂を持っていくという点において、間違ってはいない。悪霊退治も魂を扱うという大きな枠組みの中では、まあ似たようなものだろう。
「だからお願い。もうどこにも行かないで」
「安心してくれ。この命ある限り、僕はお前とずっと一緒だ」
我ながら無責任な発言だと思った。僕は何も反省していない。平気で嘘をついている。
「馬鹿じゃないの? 別にあんたとなんか一生添い遂げたくなんかないし。さっきのは、ずっと一緒に暮らしていた猫が、突然いなくなっちゃうと寂しいみたいな、そういう気持ちで言っただけなんだから。勘違いしないでよね」
ベタベタなツンデレ発言が僕を安堵させた。いつものりんごだ。じゃれ合うような、りんごとのいつもの会話だ。非日常の中で感じるほんの少しの日常が、僕の心に暖かった。
だが、りんごは怒るだろうか。
たったいましたばかりの約束が、実はもう履行不可能かもしれないと知ったら。このままずっと一緒にはいられないと知ったら。
――だって僕はもう、既に死んでいるかも知れないのだから。
瀕死だったはずの僕が、何故、平然と高校生活を送れているのか。何故、僕はこのみと入れ替わっているのか。それはいま見ているこの世界が、死の間際に見る、僕による僕のための、都合の良い夢だからなのかもしれないのだ。
死に神や悪霊が存在する世界の中で、それを絶対にあり得ないことだと、一体だれが否定できようか。
と、その時――
リズミカルな振動を伴った着信音が旧校舎内に響き渡った。
「メ、メールだあ。誰かなあ」
大根役者っぷりを如何なく発揮しながら、赤面したりんごは、制服のポケットから携帯電話を取り出した。慣れた手つきで携帯の液晶画面にメールを表示させる。
「何よ、これ」
そんなりんごの表情が恐怖で凍りついた。
僕にはそのメールの内容が予測できた。表情を強張らせたりんごから、携帯電話をひったくり、僕は携帯の液晶画面を見た。
『S市には、どんな不安も取り除ける病院があるらしい』
僕は聞かねばならない。メールでおびき出した竜峡や柿原達を殺すことに、あるいはそれを僕に見せることに、一体、何の意味があったのか。このメールの送り主ならば、全てを知っている気がするのだ。
液晶画面に表示されたURLに接続すると診察予約の画面に誘導された。何もしていないのに勝手に画面の『予約』が押され、画面が切り替わる。
『受付けました。○月×日△時に診察予約をしましたので、一〇分前までにS市立総合病院受付窓口までお越しください』
「どうした胡桃。悪霊からのメールか」
着信音を聞きつけた桜が、階段の踊り場から文字通り飛んできた。眉根を寄せるりんごを気にもせずに、桜は僕に顔を近づけて携帯の液晶画面を覗き込む。
「胡桃、これはきっと罠だ」
「僕もそう思うよ」
「まさか、行くつもりなのか?」
「勿論だ。それにここを見てくれ。S市立総合病院、僕の通い慣れた病院だ。偶然なのか意図的になのか、それは分からないが、地の利はこちらにあると思わないか?」
「罠なのだぞ。それでも行くのか?」
僕は頷いた。
「返り討ちにしてやるよ。桜が」
「お前のその他力本願なところ、何とかならないのか……」
桜は呆れ顔で言った。
「ねえ、クルどういうこと? 罠って何? まさか危ないところに行くわけじゃないよね。さっき約束したばかりだよね」
かの偉人は言った。「約束は破るためにある」と。
よもやりんごがこのような怪しげなメールの誘いに乗るとは思えないが、僕が警戒するのはそこではない。りんごの携帯にメールが届いたということは、既にりんごは奴の目標にされているということだ。それを分かっていながら、家で布団を被って寝ているわけにはいかないのだ。
「りんご。お前は家に帰っていろ。ここからは危険な戦いになる気がする」
「危険って……じゃあ、あんたはどうすんの。何であんたがそんな危険なところに行かなければならないの? お願い、行かないで」
りんごは懇願する。
「何でかって? それは僕が、悪霊をおびき出すための餌だからだよ」
「クルの言ってること、分かんないよ。ちゃんと説明してよ」
取り乱すりんごの背後から、桜が気配を消して近づいていた。そんな桜の気配に、りんごが気がついた時には既に遅かった。
桜はりんごの影を斬った。切り離された影の端を指先で摘まむと、桜はそれを一気に引き剥がして呑み込んだ。
「悪く思わないでくれ。たとえお前が胡桃に纏わり付く貧相な身体をした雌だとしても、お前を失えば胡桃は悲しむだろうからな。ここで我々の帰りを待っていてもらうよ」
「何よこれ、動けない! どうなってるのこれ。離せ! 離しなさいよ!」
身動きの取れないりんごの頭を、僕はくしゃくしゃになで回した。
「ゴメンな、りんご。無事に帰ってこられるよう祈っていてくれ」
もう二度と、生きては帰ってこられないかもしれないけれど。
もう二度と、会えないかもしれないけれど。




