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ゲーム盗難事件は瞬く間に全校に広がり、僕は小学校で過ごす残りの期間を全校児童の嫌われ者として過ごすこととなった。柿原とは会話どころか目を合わせることもなくなった。そんな状況に置かれても、りんごと林田だけは僕を信じて、友達として接してくれた。りんごとギクシャクしていた関係も、林田が間に入って上手く収めてくれた。
そして僕らは、揃って同じ中学に上がった。
中学に進学して、小学生時代のしがらみを精算できた訳ではない。しかし幸いにも、村八分にして存在の消えた一個人のことなど、覚えている人間などほとんどいなかった。
一ノ瀬とは中学に進学してすぐに知り合った。彼女はりんごと気が合うらしく、知り合ってすぐに打ち解けた。一ノ瀬に片想いをしていた僕だったが、りんごとの繋がりから思いがけず友達という関係を築くことができた。
広葉樹が色づき始め、秋を思わせる土の匂いが漂い始めた頃のことだった。
少し遅めに到着した学校の昇降口で、りんごは盛大なため息をついた。
「またこれだよ」
下足箱の蓋を力なく閉じて、りんごは億劫な現実を振り払うかのように、ゆっくりと首を振った。手にはシンプルな封筒の一通の手紙。彼女の表情から、それが歓迎されない手紙であることが窺えた。
「今月に入ってもう二十通目。なんで諦めてくれないかな」
「ラブレターってやつか?」
「ラブレターなら良いんだけど。差出人も内容もよく分からない手紙なんか、不気味なだけだわ。何度捨ててもしつこく入れてくるんだよね。本当、嫌になっちゃう」
「差出人はともかく、内容はどんな?」
りんごは嬉しそうに、僕に顔を近づけてくる。
「知りたい? ねぇ知りたい?」
「言いたくないなら、別に」
一転、不満そうに口を尖らす。
「差出人も見当はついているのよ。ジッとわたしのこと見てるヤツがいるから」
「どこのどいつだよ。りんご様にそんな命知らずな挑戦状を送りつけてくる輩は」
「名前なんだっけな。一組のあの気の弱そうなメガネ」
「仮にのび太と名付けよう。そののび太とお前、面識はあるのか? 無意識な優しさは時に男を狂わせるからな。お前が何か勘違いさせるようなことしたんだろ」
りんごは仏頂面のまま首を振った。
「そんなの知らない。それよりも不気味なのは、手紙の内容なの」
視線を感じて振り向くと、何者かがサッと姿を隠したのが見えた。直後、パタパタと教室の方へ向かって、足音が遠ざかっていく。
「『あの男は君には不釣合いだ』だの、『このままでは君は悲しい思いをすることになる』だの。そんなのわたしの勝手だっての。これってラブレターというより脅しよね」
「脅し? 何故?」
「その内容ならば、手紙の差出人が『あの男』を貶め、お前との恋を成就させようとしている、と解釈できないか? 手法は褒められたものではないが、それだけ本気だということだろう」
何せこの時のりんごは、髪を伸ばし始めたこともあり、色白でもう『黒ガリ』の面影はない。元々顔の造りは悪くない。性格を知らない男子であれば魅力的にも映る。
「それに『あの男には片想いしている女がいる』とか何とか。そんなの知ってるってば」
「愛されてるな」
「愛されてる? 何故?」
りんごは仏頂面のまま首を傾けた。
「ちなみにその手紙、いつからだ?」
「最初は入学してすぐだったかな。でも一学期の時は数える程だったのよ。それが二学期になってから頻度がね」
「ほほう。大層おモテになるようで」
「わたしが普段接触してる男子なんて、あんたくらいしかいないでしょ。あんた、そこそこモテるみたいだし。まあ、あんたの熱狂的なファンの仕業かもね」
「モテる? 誰が?」
さっきからどうにも会話が噛み合っていない気がする。
「りんご。お前、勘違いしているぞ」
「ヒッ――!」
突然、りんごは短い悲鳴をあげて、持っていた封筒を放り投げた。
「……落としたぞ」
僕はそれを拾い上げる。
片手で口を押さえたまま、りんごは封筒を指し示した。
「中を見ろ、ってことか?」
りんごはコクコクと小さく頷く。
「うわっ! これは――」
生爪が入っていた。
咽せ返りそうに生臭い血の臭い。剥がしてからさほど時間が経っていないのだろう。爪にこびり付いていた血と肉片が、まだ乾いていなかった。
僕は血の染みた便箋を、恐る恐る広げた。
『あれほど忠告したのに。どうなっても知らないよ』
そこには愛情のベクトルを間違えた、ストーカー染みた文言が綴られていた。
「常軌を逸しているな。自分の爪を剥がして手紙に入れるだなんて」
僕は部活帰りの林田を捕まえて、今朝起こった出来事を相談していた。ちなみに生爪の入れられた封筒は、すっかり正気を取り戻したりんごによって、学校の焼却炉にあっさりと捨てられていた。
「今どきラブレターってのも貴重だけどな。でも内容が酷い。好きな相手を怖がらせてどうするんだ、って話だ」
校舎前のバス停のベンチに腰掛け、僕らは会話を続ける。林田はポケットに手を突っ込んだまま長い足を組んでいた。足が長いというのは、それだけで様になる。
周囲はもう薄暗くなってきていた。もうほとんどの生徒が下校してしまい、明かりのついた教室は残り僅かだった。校門を出て帰路につく生徒の姿もまばらだ。
「りんごは、相手に心当たりがあるって言ってたけど……」
林田は僕の顔を見る。
「けどそいつの爪はきれいに十本揃っていた」
「足の指という線も捨てきれないがな」
僕は思わず空を見上げた。
「それは見落としていた」
「りんごの奴、俺にだってひと言くらいあってもいいのに。水くさいな」
誰にでも話すような内容ではない。だが僕に話すくらいなら、林田に話した方が、より明確な解決法を提示してくれそうなものなのに。
「確かにな。でも何でりんごは、今までこのことを黙っていたんだ? そんな素振り、今まで全然見せなかったし」
「知られたくなかったんじゃないか? お前に」
「何でだよ。それこそ水くさいじゃないか」
呆れたような顔をして、林田は僕の頭をパシンと叩いた。
「痛い」
「悪い。つい、な」
「それより、りんごはただの脅しだと思っているみたいだけど、あまりに行動が常軌を逸していると思わないか? このまま放っておいていいものかな」
「とにかく手紙の差出人を突き止めないことには対処のしようがない。証拠がなければ、止めさせることはおろか、忠告することさえもできないしな」
「証拠か……」
りんごの心当たりというのが的外れだった現在、捜査を一からやり直す必要があるわけだが、いまのところ手掛かりは爪しかない。それだけで捜査を進めるには時間が掛かり過ぎる。
「全校生徒は全部で千人近い。全ての生徒の指先を調べるわけにはいかないし」
「だが何かあってからじゃ遅いぞ」
林田は、怖いくらい真面目な顔で僕を見ていた。
「龍ヶ崎。お前、りんごを送り迎えしてやれよ。さすがに衆人環視の元、昼日中に何か仕掛けてくることはないだろうがな。人の目が少ない帰りは危険だ」
「だな。そうする。サンキューな」
僅かに茜を残していた夕空は、完全に至極色に沈んでいた。冷えた空気でかじかむ指先を、僕は吐く息で温めた。冬がもうそこまで近づいていた。
「そろそろ帰るか」
「ああ」
僕らは無言で歩いた。
通りを行き交う車のテールランプが、光の尾を引きながら飛び回る蛍のように見えた。
「そういえばな」
林田は唐突に話を切り出した。
「ガキの頃、皆で夏祭りに行ったじゃん」
「ああ行ったな。懐かしい」
僕とりんごがぎくしゃくする原因となった、あの夏の祭りのことだ。
「今だから白状するけど、実はあの後、りんごが怒りだして大変だったんだよ。竜峡とはぐれたことを、『あんたら二人でどこに行ってたんだ』って」
「ああそれな、知ってるよ」
林田は平然とそう答えた。
僕は驚いた。林田がなぜそれを知っているのか。このことは誰にも話していないし、りんごはそんなことをベラベラと喋る奴ではない。
「あれ、わざとお前と竜峡を二人きりにしたんだ」
思わず僕は足を止めた。
「え、何だって?」
立ち止まった僕に気付かない林田は、そのまま歩き続ける。潰れた学生鞄を肩に掛け、もう片方の手はポケットに突っ込んだままだ。開いた距離を詰めるように、僕は早足で林田を追った。
「へ、へえ。そうだったのか。僕はてっきり、はぐれたものだとばかり思ってたよ」
「ハハッ。相変わらず龍ヶ崎は馬鹿だなあ。いくらガキの頃の話とはいえ、その気になればいくらでも追いつけたさ。わざとそうしなかっただけだよ」
「何のために、そんなことを?」
「決まっているじゃないか。お前とりんごを引き離すためだよ」
振り返った林田は、いつもと特に変わらない飄々とした涼しげな表情だった。
「まさか帰りの道すがら、喧嘩をおっ始めるとは思わなかったけどな」
「何故そんなことまで知っている。まさか、お前――見ていたのか」
笑いを噛み殺すように、林田は細かく肩を揺らした。
「面白かったよ、あそこまで思い通りに踊ってくれると。笑いを堪えるのに必死だった」
「お前が仕組んだことだったのか」
「勘違いするなよ。りんごと喧嘩になったのは、お前が竜峡に現を抜かして、りんごのことを蔑ろにしたからだろう?」
林田の顔色が変わった。
「お前と竜峡がくっついてくれれば、りんごはお前を諦めると思ったんだけどなあ」
「林田、まさかお前もりんごのこと……いつからだ?」
「初めて会った時からだよ。あいつがまだ『黒ガリ』って呼ばれていた頃からだ」
何てことだ。
りんごに想いを寄せていたのは、柿原だけじゃなかったのか。
「でも僕と竜峡が二人きりになったところで、どうにかなるとは限らないだろ」
「いいんだよ、そんなの。あることないことでっち上げて、噂を広めれば周囲がお前達をそういう目で見る。真偽は関係ない。それで充分なんだよ」
「仮に僕と竜峡が付き合ったとして、りんごがお前を好きになるとは限らないだろ」
「だからいいんだって。りんごが傷つけば」
「りんごが傷つけば? 惚れた女を傷つけて何の意味がある? さっきからお前の言ってる言葉の意味が、ぜんぜん理解できないぞ」
「分かるだろう? りんごが傷つく。そこに俺がつけこむ。りんごは俺のものになる。これとっても自然の流れ。常識よジョーシキ」
林田は両手を広げ、恍惚とした表情で空を仰ぐ。
僕はやっと現実を受け止めた。僕が親友だと慕っていた男は、羊の皮を被った糞野郎だったということだ。
「お前、クソヤロウだよ」
「お褒めに預かり光栄だよ。じゃあ聞くが、あの時、俺をクソ呼ばわりするお前に、一体何ができた? 後にお前ら二人を取り持ったのは誰だ? そうだ。他でもないこの俺だ」
確かにそうだ。僕には何もできなかった。それ以前にりんごを傷つけたのはこの僕だ。
「それなのに」
恍惚とした表情から一転、林田の表情は化け物のそれと化した。
「何故お前なんだ! りんごは僕の愛を受け入れるはずだった。なのに。なのに、なのに、なのに! りんごは何故お前を選んだ! ナンセンスだと言わざるを得ない!」
「何という身勝手な。もう一度言う。クソヤロウだよ。お前」
「俺を拒絶しておいて! 俺を殴っておいて! 教室では何でもなかったように俺と笑って話しやがる! とんだアバズレだよあの女!」
夏祭りの後、りんごは学校を一週間休んだ。一週間も、だ。そうだ、僕と喧嘩したくらいでは、りんごは一週間も学校を休んだりしない。芯の強い女なんだ、りんごは。
「お前。りんごに何をした」
「何もしちゃあいないさ」
「嘘をつけ。あの後、りんごの様子がおかしかった。お前が何かしたとしか考えられない。正直に言えよ」
知らず右手に力がこもる。
「キスしただけだよ。最初は嫌がっていたがな。舌を入れたら観念したように、大人しくなったよ。隙をついて舌を噛みそうになったから、顎を押さえつけてやった。あいつ、俺の唾液で糸引きながら、顔面にグーでパンチを入れてきやがった」
カッとなった。気が付くと僕は、林田の顔面に握り拳を叩きつけていた。
地べたに倒れた林田は、立ち上がると、平然とした態度で制服の汚れを払った。
「あー怖い怖い。これだから学のない奴らは怖い。冷静に話を聞くふりをして、結局最後は暴力に訴えることしか知らない野蛮な人種だよ。なあ龍ヶ崎」
「りんごの悔しさは、この程度では収まらなかっただろうさ」
「カーッ! この期に及んで、まだあの女のことを庇うか」
「僕はいま、猛烈にお前の尻の穴に、竹刀をぶち込みたい気分だ」
通りを通過する車のヘッドライトが、断続的に林田を照らす。さっきまでポケットに入れていた手を顎に当て、不思議そうに首をかしげていた。
「しかしなあ、龍ヶ崎」
「どうした。クソヤロウ」
「竜峡が転校しちまったのは計算外だったよなあ。せっかくのお膳立てが無駄になっちまったよ。あの女も、大概使えねえよなあ」
「林田。テメエはりんごのみならず、竜峡までをも侮辱するのか」
「お前もお前だよ。あのシチュエーションで、ペロチューもできないとか、どんだけヘタレだよって話だ」
こいつ、どこかで僕らを見ていたのか。
「お前は既にりんごに振られているだろうが。いい加減しつこい男は嫌われるぞ」
「ん? 誰が? 誰に振られたって?」
「お前だよ。りんごに振られたんだろう? 脈なしってやつだ。諦めろ」
「振られてなんかいないさ。ちょっとタイミングが悪かっただけだ」
「ポジティブだな。でも無理だ。諦めろ」
「無理じゃないさ。そのために俺は、俺とりんごを邪魔する障害を取り除くことにしたんだからな。『急がば転べ』ってやつだ」
「『急がば回れ』だろ」
「どうでもいいよ。どちらにせよ結果は一緒だ」
正気の沙汰ではない。
「笑わせる。竜峡はもういない。僕にはお前の魂胆がばれてしまった。これ以上、何をどうやって、その障害とやらを取り除くって言うんだ」
次の瞬間、僕は息を呑んだ――。
車のヘッドライトが照らした林田は、ゾッとするほど胡乱で冷たい目をしていた。
「邪魔なんだよ、お前」
静寂に林田のセリフだけが響いた。
まるで世界から音が消えてしまったみたいだった。
狂気そのものの林田の顔が、ゆっくりと遠ざかっていく。にやけ顔で顎をさする林田の手元を、僕は無意識に見ていた。車のヘッドライトが、林田の手元を明るく照らした。
林田の親指には爪がなかった。
血と肉がまっ黒に固まっていた。
直後、僕は真っ白い光に包まれた。次いで、経験したことのない大きな衝撃が、全身を走り抜ける。天地がひっくり返ったように、景色がグルグルと回り、焼き菓子を割った時のような小気味よい音が、身体のあちこちで次々と鳴った。
気が付いた時には、大型トラックのテールランプが数メートル先にあって、運転手らしき人物が僕を見下ろしながら、意味の分からない言語を怒鳴り散らしていた。
「早く救急車を! 早く!」
狼狽した運転手がその場を離れたのを確認すると、林田は僕の髪を掴み上げ顔を近づけてきた。おかしくて仕方がないといった表情だった。
「冥土の土産に教えておいてやるよ」
遅れて全身に痛みがやってきた。
「竜峡の教科書に落書きしたのな。あれ、俺だ。あいつ、俺より目立っていて気に入らなかったんだよ。俺より人気者とか、生意気なんだよ」
痛い。痛い。けれども、指先さえも動かない。
「つまりあれだ。お前が喧嘩を吹っかけた女連中は全くの無実だったってわけだ。ウケるよなー。ナイトを気取った文字通りの勘違い野郎だ」
痛い。痛い。僕は生きているのだろうか。それとも死んでいるのだろうか。
「それとホームルームで喧嘩の件をぶり返す発言をしたやついただろ? あれも俺だ」
意識がだんだん遠のいてゆく。
「柿原のゲームソフトを、お前の鞄にそっと入れておいたのも俺だ。周囲の信頼を失っていく龍ヶ崎胡桃君。気持ちよかったわー。俺、思わず勃起したもん。おい、聞いているか? あれ。死んだか、これ? 全身バラバラだもんな。流石に死んだか――」
もう何も聞こえない。
ポキ、ポキ、バキン。
完全に何かが壊れた。
どうして忘れていたのだろう。
植物状態で入院していたのは、僕のほうだったんだ。




