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鬱々とした気持ちのまま、月曜日はやってきた。
どんなに拒絶しても、月曜日は誰の許にも平等にやってくる。
毎朝、必ず僕の家に寄って朝食まで食べていくりんごが、その日は顔さえ出さなかった。食卓に用意された四人分の朝食の前で、母親は壁に掛けられた時計を見上げる。
「今日、りんごちゃん、遅いね」
「風邪でもひいたんじゃないか?」
恍けたセリフもどこか空々しい。
母親は僕の顔を心配そうに覗き込んだ。父親は関心が無さそうに新聞を広げてはいるものの、さっきからページが進んでいない。僕は心の中を覗かれているみたいで、何だか落ち着かなかった。
「りんごちゃんと喧嘩でもした?」
「してない」
「早く仲直りできるといいね」
「そんなじゃないから」
その日の味噌汁は、何だか妙にしょっぱく感じた。
「今日は姫小町さんが病欠です」
朝のホームルーム。担任の口からりんごの欠席が告げられた。
理由は明白だ。僕はりんごを傷つけたくないと言いながら、これ以上ない程に最低な方法でりんごを傷つけた。それが原因だ。それ以外には考えられない。
謝らなければ。でも何と言って謝ればいいものか。この時の僕はまだりんごへの謝罪をためらっていた。りんごの欠席に、僕は心のどこかで安堵していた。
「龍ケ崎、はよ。今日りんご休みって、お前、何か聞いている?」
「い、いや。知らね」
林田の問いに対して僕は正直に答えることができなかった。僕はこの期に及んで自分を擁護することを考えていた。林田の目が僕を責めているように思えた。
「夏とはいえこの辺りの夜は冷え込むからな。風邪でもひいたんだろ。なあに明日になればまた元気な顔で登校してくるさ」
嘘を嘘で塗り固める。僕は底の見えない泥沼に、片足を取られたような感覚に襲われた。
謝ればきっと許して貰えるだろう。しかし甘い考えを見透かされているかのように、翌日もりんごは学校を休んだ。その翌日も、更にその翌日も。結局、りんごは学校を一週間も休んだ。
謝罪の機会は訪れなかった。
その翌週の月曜日、りんごは何事もなかったように登校してきた。
学校の玄関口で彼女の姿を見つけ、僕は声を掛けようと近寄った。「この間はごめん」「どうして朝、家に寄ってかなかったのさ」。話したいことが沢山あった。でも何故だろう。いつも通り話し掛けるだけなのに。喉元まで言葉が出掛かっているのに、息が止まったみたいに喉が詰まって、上手く言葉が吐き出せない。
「あのさ、りんご」
「何?」
振り向いたりんごの目が冷たかった。まるで拒絶されているみたいだった。
「変なの」
そして搾り出した言葉は行き場を失った。「ごめん」とひと言、伝えたいだけなのに。それさえ拒絶されてしまいそうで、僕はそのたったひと言が言えなかった。
教室の中では、何もかもがいつも通りだった。ホームルーム前の緩んだ空気。クラスメイト達の笑い合う声があちこちから聞こえる。
「りんごちゃん、風邪はもういいの?」
「うん、平気。心配してくれてありがと」
窓辺に並んだ柿原とりんご、二人の会話が聞こえてくる。
時折吹き込む風がカーテンを揺らして、二人の姿を隠してしまう。柿原とりんごは、笑い合いながら手でカーテンを払った。二人のすぐ近くには、林田の姿もあった。窓際の席のひとつに腰掛け、二人の会話に笑いながら相槌を打っている。
僕は彼らの近くに寄ることができなかった。離れた席に一人腰掛け、三人の姿をただただ眺めていた。
「そういえば小梅ちゃんは? さっきから姿を見ないんだけど」
りんごがキョロキョロと教室を見渡す。
「それが、休んでいるんだよ。病気とかじゃないみたいなんだけど。先生に聞いてもはぐらかしてばかりで、何だかはっきりしないし」
そう言われてみれば、ここ一週間、竜峡の姿を見ていない。あれほど毎日、彼女の姿を追っていたというのに、僕は現金だ。
「ねぇ柿原、何か聞いてないの? あんたの家、すぐ近くでしょ」
「それが聞いてないんだよ。でも、家の前通ったら、何か変なんだよ」
「何がどう変なんだよ」
二人の会話に林田が口を挟む。
りんごが微かに身構えたように見えた。
「人の住んでいる気配がないというか、妙に静かなんだよね。呼び鈴にも反応がないし。でも確か彼女の両親、二人ともお仕事してる筈だから、日中は誰も居ないのかもしれないけど」
ばかだなあ柿原。僕は心の中で毒づく。
「ばかね柿原。親はともかく、小梅ちゃんは学校をずっと休んでいるんでしょ? 誰もいないって、じゃあ小梅ちゃんは、家にいないでどこにいるっていうのよ」
りんごの言う通りだ。学校をサボってゲーセンにでも入り浸っているか、そうじゃなければ、何かの事情で長期入院でもしているか、だ。
その時、教室内のざわめきを掻き消すように、ダサいジャージの冴えない独身教師が教室に入ってきた。朝のホームルームの時間だ。
教師は出席簿を教壇に置き、神妙な顔で第一声を発した。
「皆さんに残念なお知らせがあります。竜峡さんがお父様の仕事の都合で、急遽転校することになりました」
「え……」
世界から、音と色が消え失せたような感じがした。
直後、思い出したように教室が喧噪を取り戻す。
「はい静かにー」
教師が手を叩いてその場を収めようとする。
「皆さんには挨拶をしてから、と彼女は言っていたのですが、時間の都合でそれも叶わず突然のお別れとなりました。皆さんにはくれぐれもよろしく、とのことでした」
「そんなのあんまりだ」
「ひと言くらいあってもいいのに」
そんな声が上がる。
お祭りの夜、彼女はこのことを知っていたのだろうか。もしそうだとしたら、彼女は一体どんな気持ちで笑っていたのだろう。きっと最後になるであろう友達とのお祭りは、彼女の中では既に、思い出として片付けられているのだろうか。
「先生――」
教室から声が上がった。
「この間の喧嘩が原因じゃないでしょうか」
教室が波を打ったように静まり返った。
喧嘩とは、僕がクラスの一部の女子と起こしたものだ。竜峡の教科書が落書きされたことに端を発して、僕はクラスの一部の女子と喧嘩になった。しかしそれは僕自身の問題で竜峡に責任はない。ところが竜峡は、自分にも原因の一端があると、騒動に責任を感じていた。彼女が落ち込んでいたことは、クラスの誰の目から見ても明らかだった。
「違います。さっきも言いましたが、竜峡さんの転校は、お父様の仕事の都合が理由です。喧嘩は関係ありません。だから……な。気にするなよ、龍ヶ崎」
先生はぴしゃりとそれを否定した。原因はあくまで父親の仕事の都合であると。そして喧嘩の発端となった僕を気遣う優しさまで見せた。しかしその優しさは、裏を返せば僕が原因だといっているようなものだ。
周囲の目が、僕の存在を否定しているように感じた。りんごも、林田も、柿原も、クラスのみんなも、そして担任の教師でさえも。
きっと僕さえいなければ、何もかもが上手くいっていたのだ。
ポキン。
何かが折れたような音がした。




