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頬に伝わるヒリヒリとした熱と痛み。つぶらな瞳に涙をなみなみと湛えた彼女は、振り抜いた手を頭上に掲げたまま、呆気にとられた僕を、まるで親の敵のように睨んでいた。
真っ黒に日焼けした肌。がりがりに痩せた手足。男の子のように短く刈上げた髪の毛。男の子のような女の子。あだ名が「黒ガリ」な女の子。小学二年までの姫小町林檎は、そんな女の子だった。
小学二年の夏――。
「気持ち悪りィ」
そのひと言で僕は殴られ、彼女は涙したのだ。
S市N地区の中央を北から南に縦断するN川は、その昔、N地区の生活用水を賄う重要な河川だったという。毎年七月の中旬に開催される夏祭りは、過去に何度も決壊を繰り返したN川の安泰を祈願する祭りだったらしい。しかし堤防技術が発達した現在では、本来の目的は無意味なものとなり、祭りは形骸化されたものとなっていた。
年配の自治会長からそんな話を聞いたのはいつだったか。
僕は暮れゆく西の空を眺めながら、鳥居前の石段に腰掛け、通り過ぎる幾人もの浴衣姿の大人達を見送る。周囲を染めた茜色が、時計の針が進むにつれ黒く塗りつぶされていく。
境内の入り口から社殿へと繋がる長い通路には、綿飴や金魚すくいなど数々の夜店が並ぶ。テントの鉄骨に吊るされた白熱電球が、賑やかに通路を照らしている。まるでそこだけ夢の中の世界のように、周囲の薄闇からぼんやりと浮かび上がって見えた。
約束の時間は十八時。しかし集合時間から三十分が経過しても、待ち人は姿を現さない。
「竜峡、来られるかな」
「分かんねえってさ。あいつん家の親、けっこう厳しいからなあ」
口から漏れ出した心の声に、林田が素早く反応した。
「柿原の家、小梅ちゃん家から近かったでしょ? 迎えに行きなよ」
「えー遠いよ。それにこの時間になっても来ないなら、もう来ないんじゃないの?」
りんごの提案を、柿原は億劫そうに退けた。
夏祭りに行こうと言い出したのは竜峡本人だった。いまにして思えば、友達と過ごす、最後の夏の思い出が欲しかったのかもしれない。
ところが当の竜峡は、いつまで経っても姿を現さない。
予定は未定であって決定にあらず。そんなこと、分かってはいたけれど、当時の僕にとって、彼女のいない夏祭りにどれほどの意味があっただろうか。
この頃の僕は竜峡のことで頭がいっぱいだったのだ。勉強も、ゲームの攻略法も、林田たちと会話した内容でさえも入り込む余地がないほどに。
だから薄闇の中にぼんやりと浮かんだ彼女の姿を見つけたとき、僕は「いやっふう!」と叫び出さずにはいられなかった。
「ごめんね、遅くなって」
「別に待ってねえし」
濃紺の浴衣。帯の色に合わせたみたいな、黄色いちりめんの巾着。向日葵の髪飾りをして、ほんのちょっとだけ化粧をして、いつもとちょっとだけ違う彼女。まるで映画の中のヒロインのように、僕には彼女がキラキラと輝いて見えた。
でも僕は何だか照れ臭くて、彼女を目を合わすことができずに、ぶっきらぼうな態度を取ってしまう。
「竜峡、来られるかなー」
「来られるかなあー」
林田とりんごが誇張して、僕の真似をする。
「ばか、それを言うなよ」
「それを言うなよおー」
柿原までもが彼らに倣って真似をする。顔がカアッと熱くなった。横目で竜峡の顔を覗き見ると、彼女も照れくさそうに俯いていた。
僕らは思い思いに夜店を楽しんだ。
お祭りといえば金魚すくいだ。数枚の硬貨と引き替えに受け取ったポイをザブンと水につけた瞬間に、ポイは嘘みたいに簡単に破けてしまった。去年のりんごは簡単そうにすくっていたのに。店のおじさんに文句を言ったら、すごく怖い顔で睨まれた。散々粘った挙句、おじさんがよそ見している隙に、反則スレスレの技で何とか一匹だけすくい上げることができた。
「ほら」
金魚と水草が入った小袋を竜峡に差し出す。彼女は一瞬だけ戸惑ったが、「ありがとう」といってそれを受け取った。
水草と一緒に泳いでいる金魚を、竜峡は嬉しそうに眺めていた。
その後は、りんご飴を買って竜峡と二人で食べた。お面を被って、射的でキャラメルを取って、二人で分けた。たくさん笑って、たくさん話をした。
本殿の賽銭箱に十円を投げ入れ、大きな鈴のついた縄を揺らす。静かに掌を合わせると、僕らは思い思いに願い事を心で呟いた。
このままずっと、彼女といられますように。
「竜峡、何お願い事したの……?」
「内緒」
あかんべえをしながら、彼女はそういった。夜店の白熱電灯を背にした彼女のシルエットに、僕は暫く見惚れていた。この時間が永遠に続けばいいのに。
「あれ……あいつら、どこ行った?」
気がつくと、近くに林田達の姿はなかった。「探そうか」と、来た道を引き返そうとした僕のシャツの裾を、竜峡はつまんで引き止めた。
「いいよ。あとできっと合流できるよ」
再び僕らは、並んで歩いた。
その時、遠くで一筋の光が暗闇の中を竜のように駆け上った。刹那の静寂の後、光が夜空に大輪の花を咲かせた。一拍遅れて響いた大きな音が、すうと暗闇に吸い込まれる。鼻腔を掠める火薬の匂い。それに混じって生温い夏の匂いがした。
次々と絶え間なく打ち上げられる打ち上げ花火を、僕らはその場でじっと眺めた。
僕の手が微かに竜峡の手に触れた。
竜峡の横顔を見る。彼女は花火を見上げたままだ。
夜空に咲く花火の明かりが、暗闇に彼女の輪郭を浮かび上がらせる。
心臓の鼓動が早くなった。
もう一度、手が触れた。今度はさっきよりも、明らかに故意に。
花火を見上げたまま、僕らは手をつないだ。
林田達と合流できたのは、花火が終わって人の数がまばらになった頃だった。
翌日が休日とはいえ、もう夜の九時を回っている。小学生がうろちょろしていていい時間ではないし、ちょうど懐具合も寂しくなってきたところだ。
僕らは待ち合わせた境内の入り口で散開した。夜遅いこともあって、自然と家が近い者同士が固まって帰ることになった。竜峡と林田そして柿原が川向こうの組、こちら側は残りの僕とりんごという組み合わせになった。
それぞれがお互いに「また明日」、「じゃあね」などと挨拶を交わして別れた。
お囃子の音色を背中に、僕とりんごは街灯の疎らな薄暗い歩道を並んで歩いた。
竜峡と過ごした時間を思い出し、僕は無意識に声が高くなっていた。
「あー楽しかった。やっぱりお祭りはいいよな」
「…………」
沈黙が流れる。りんごの丸いほっぺたが、心なしいつもより膨らんで見えた。
「射的やったか? お前、射的上手いもんな。去年の射的屋のおやじ、僕の顔を見てビビってたぞ。今年もお前と一緒だと勘違いしたんだろうな」
「……フン」
ドンドンと大きく足を鳴らしながら、りんごは早歩きで僕の半歩前に出る。
「りんご? お前、もしかして何か怒ってる?」
「怒ってない」
そう言ったりんごの口調は、明らかに怒りのそれだった。
「怒ってるだろ。どうしたんだよ。お祭り楽しくなかったのか?」
「楽しかった」
とは言うものの、楽しかった人間の態度ではない。
「待てよ、どうしたんだよ」
僕はりんごの手首を掴んだ。街灯の下で足を止めたりんごは、観念したようにその場で振り返った。俯いた顔が街灯の明かりの影になって、うまく表情が読み取れなかった。
「小梅ちゃんとドコ行ってたのさ」
ぼそりと呟くような言葉は、上手く聞き取れなかった。僕が返答に窮していると、りんごはさっきよりも遙かに強い口調で言った。
「小梅ちゃんと! ドコ行ってたのさ!」
言葉の意味が分からなかった。
「どうして二人していなくなるのさ。言えないの? 言えないようなトコ行ってたの、ねえ? そんなトコで、二人でいったい何してたのさ。言ってみなさいよ!」
「ちょっと待てよ。なんでそうなっちゃうんだよ。だいたい途中でいなくなったのは、お前達の方だろう? 僕と竜峡の二人をのけ者にして、お前達だけで祭りを楽しんでいたんだろ!」
「そんなわけないじゃん! 知らない人達が間に入ってきて、みるみるうちに離れていって、気付いたらはぐれちゃってたんだもん!」
「だったら途中で、声を掛ければよかったじゃないか!」
「掛けたよ! 掛けたけど気付いてくれなかったんじゃない。あんた達どんどん離れていっちゃうし、だいたいあんた一回だって後ろを振り向いてくれた?」
そんなことをした記憶はない。
「それに、わたしが林田や柿原と一緒にお祭り歩いて楽しいと思うの? どうしてそんなこと思えるのよ!」
夜の住宅街に二人の言い争う声が響いた。どこかの野良犬が、迷惑そうに吠えていた。
「楽しくないのかよ。お前、あいつらといて、楽しくないのかよ!」
「楽しいよ! 楽しくないわけないじゃない」
「じゃあ何を怒っているんだよ!」
「違うもん」
「何が違うんだよ」
「わたしが一緒に金魚すくいをしたかったのは、林田じゃないもん。一緒にりんご飴を食べたかったのは、柿原じゃないもん。一緒にお面被って、一緒に射的して、一緒に笑って、一緒にお喋りしたかったのは、一緒に花火を見たかったのは、あいつらじゃないもん」
ふと花火に照らされた竜峡の横顔が、脳裏をよぎった。
「どうして気付いてくれないの。ずっと側にいたのに」
りんごの声は震えていた。
それはどうしたって告白だった。
迷惑ならば、そうだと言えばよかったのだ。お前の気持ちには応えられない、と。なのに僕はりんごを傷つけるのが怖くて、そうできなかった。
それどころか――。
「お前、もしかして僕のことが好きなのか? うわっ、気持ち悪りィ。男同士で好きとかないだろ。竜峡に言われたなら嬉しいけど、りんごに言われてもなー。ってあいつらどこにいるんだよ。罰ゲームなんだろ、これ。無理やりあいつらに言わされてるんだろ?」
夏の緩んだ空気に、頬を打つような音が響いた。
いつものように悪態をついてくると思っていた。「あんたなんかこっちから願い下げだよ」とか、「あたしとあんたなんかとじゃ、全然釣り合わないじゃない」とか何とか。
でも違った。
りんごは泣いていた。僕はりんごを傷つけた。
「りんご、ごめ……」
「ごめん。先帰る」
頭の悪い僕は、その時になって初めて気がついた。
りんごが傷つくのが怖かったのではない。りんごとの関係が壊れることが、それによって自分が傷つくことが怖かったのだ。




