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僕らは再び、旧校舎北階段の踊り場を訪れた。姿見があった場所には鏡の額縁のみが残され、鏡の破片さえも残されてはいなかった。
つい数時間前、そこにはまだ一ノ瀬の姿があった。鏡写しの悪霊によって鏡の中の世界に閉じ込められた彼女の姿が。しかし今はただ、黒く煤けた、古びた壁があるだけだ。
鏡写しの悪霊は、多くの人の生命を奪った。一ノ瀬本人は勿論のこと、悪霊に身体を乗っ取られた一ノ瀬によって、ある者は首を刎ねられ、またある者は頭を踏み潰された。そうして補習を受けていた生徒の多くが命を落とした。
悪霊と死に神の攻防戦の舞台となった校舎は、旧校舎はそのほとんどが、また新校舎は教室から玄関口までの間が、壁や床などが、大きく破損した。
――はずだった。
しかし桜と食堂でコーヒーを飲んでいたほんの数十分の間に、それはまるで嘘のように元通りに修復されていた。
「修復されたというよりは、最初から壊れてなどいなかった、といった感じだな。一ノ瀬の亡骸もいつの間にか消えて、僕の制服の上着だけが残されている。血痕もきれいさっぱりだ」
「見た目は元通りだな。だがそれは表向きだ。破壊された箇所は、やはり魂が抜け落ちている。何者かが、何らかの目的で何事も無かったように偽装したのだろう」
「誰が、一体何のために」
「それをこれから探るのだろう?」
「それはそうだけど……。どこから調べれば良いのやら」
桜は思案顔で腕を組んでいる。
「これはヒントになるかは分からないが、胡桃は気がついていたか? これまで退治してきた悪霊には、ある共通点があるのを」
「共通点?」
「そう、共通点だ」
「うーん……。おっかないところか?」
「なるほどな。人間にとって未知の存在である悪霊は、どれも畏怖の対象であろう。だがそうではない。もっと単純なことだ」
「単純なこと……ね。しかし僕が関わった悪霊は、どれも姿形が違えば、その能力も違った。共通点など見当たらないが?」
「いや、それだよ。姿や能力は違えど、お前の周辺に現れた悪霊は、その全てがお前に関係する人物の肉体を媒介して、姿を現している」
確かにそれは真実だ。だが――。
「待ってくれ。それは桜が僕の周辺に集まる悪霊を標的にしているからだろう。つまり僕の周辺に現れた悪霊だけを見ているからであって、それが必ずしも僕に関係した人だけが標的になっているとは言えないんじゃないか。僕らの知らないところで、悪霊は僕に関係のない誰かを襲っているかもしれないだろう?」
桜はゆっくりと首を横に振る。
「確かに私は胡桃という撒き餌に群がる悪霊を標的としている。それは効率を求めてのことだと以前にも説明した。我々のあずかり知らぬ場所で起こったことは考慮していない。それは認めよう。しかし本来、悪霊の出現確率はそう高くはないのだ。せいぜい週に一体出れば多い方だし、出現場所も法則性がないのが普通だ。我々の知らないところで悪霊が出現する可能性はゼロではない。だが私は悪霊退治の能力に関してはトップクラスだと自負している。半径二十キロ以内の悪霊の気配は見逃さない」
そのトップクラスの死に神が、随分と苦戦続きでしたが?
僕は喉まで出掛かった言葉を呑み込んだ。
「僅か三日で三疋もの悪霊が、全てお前に関係した人物を襲った。これを偶然と呼べるだろうか? 私は断言する。これらの悪霊の黒幕は明確な意思を持って、胡桃。お前を狙っている」
桜は僕の鼻先にビシッと人差し指を突き立てた。
「僕を?」
「そうだ。これら一連の事件の黒幕は、お前に深く関連した人物だと推測する」
「僕に関連した人物と言われてもな……」
「心当たりはないか? お前に恨みを持っている人物や、お前を殺したいほど憎んでいる人物、もしくはお前を苦しめて、苦しめて、とり殺したいと思っている人物は」
「僕はどんだけ嫌われ者なんだよ」
「お前になら星の数ほどいると思うのだ。お前を恨む人物が」
そんな嫌な告白を真顔で言われても。
「全ての人に好かれているなんて思ってはいないし、人並みには嫌われているとも思う。だが殺したいと思わせるほど誰かに恨みを買った覚えはないな」
「無いか? 女性を押し倒して無理やり襲ったり、他人を騙して不当に大金をせしめたりしたことは」
「ねえよ!」
「そうか……心当たりはないか……」
桜の死に神は小さな肩をガックリと落とした。僕をどういう目で見ていたのだ。
「私は間違えたのだろうか。強烈な悪霊の臭いを発するお前を見張ってさえいれば、A級、S級の悪霊が出現すると踏んでいたのだが。それどころか下級悪霊にさえ苦戦し、人間に被害者まで出す始末だ。あまつさえ裏で糸を引いている悪霊の手掛かりさえ掴めんとは。私は死に神失格だな」
死に神は二階へと続く階段の途中で、膝を抱えて座り込んでしまった。小さな膝小僧の間に顔を埋めている。
死に神失格――。
自分を責める桜を、僕は初めて見た。ああ見えて彼女は彼女なりに、責任を感じているのかもしれない。
「死に神だからといって、万能な訳じゃないんだろう? 確かに僕の仲間が死んだのはショックだけれど、それにお前が責任を感じる必要はないよ。恨むべきは悪霊であって死に神ではない。それにお前は生きている。個体として死に神としての活動ができるという意味で生きている。それが何より大事なことだろう? 生きてさえいれば、何度でも挽回の機会があるんだから」
驚いた顔で桜は顔を上げた。不思議な物でも見るような目で僕の顔を見つめる。
「それで……いいのか?」
「何だよ。そんな魂の抜けたような声を出しやがって。お前らしく――」
魂を抜かれたような桜を見るのは初めてだった。いつものあの刺すような視線は、いまはそこにはない。普段の不遜な態度とのギャップが、僕を意味不明にドギマギとさせた。
「もしかして、慰めて……くれたのか?」
「お、お前には死んだ仲間達の敵をとって貰わなければならないからな。こんなところで落ち込まれても困る。それにお前がいないと、僕は悪霊から身を守る術がないんだ」
「お前に気まで遣われるとは……。ますます死に神失格だ」
沈んだ横顔に揺らぐ長い睫毛が、彼女の憂いを物語っていた。僕は不覚にも、その横顔に、暫しの間、見惚れていた。
ギシリ、ギシリ……。
僕ら以外には誰もいないはずの旧校舎に、何者かの足音が近づいていた。倉庫のある南棟ならともかく、北棟に向かってくるということは、目的は備品などの出し入れではない。
「クルー、どこー?」
声の主はりんごだった。
床板の音にかき消されるほど、小さくか細い声だった。時折鳴る、パキンという床板の割れる音に、「ヒイッ!」だの「ギャアッ!」といった悲鳴が、その度に上がる。
「まったく騒がしいことこの上ないな」
桜の死に神は憮然とした顔で、足音と悲鳴のする廊下を睨んだ。
りんごは僕らの姿を見つけると、緊張から解放されてホッとしたように、胸をなで下ろした。
「あんた達、こんな所で何やってんの? ここ立ち入り禁止よ」
僕は返答に窮した。死に神と共に悪霊探しをしているなどと説明したところで、りんごが信じるはずがないし、一ノ瀬が殺された事件の現場検証をしていると説明しても、おそらくは一ノ瀬の記憶すら、りんごには残っていないだろう。
――はて?
ここである疑問が浮かんだ。
「りんご。お前、こいつが見えるのか?」
「当然でしょ? お化けじゃあるまいし。大丈夫?」
りんごの視線は確実に桜のいる方角に向いている。
僕と桜はお互いに見合った。
「胡桃」
音もなく近づいた桜が、そっと僕に耳打ちをする。
「前から思っていたことだが、おかしいと思わないか。どうしてこいつに私の姿が見えるのだ? もしかするとこいつが悪霊の黒幕という可能性はないだろうか」
「まさか、そんなことはあり得ない。こいつの身元は僕が保証する。さっきの話じゃないが、僕はこいつに恨みを買った覚えは無いし、こいつが僕を陥れても何の得にもならない」
りんごは僕と桜を交互に見て、あからさまに顔を顰めた。
「ねえ。クルちょっと」
りんごは僕の腕を乱暴に掴むと、そのまま階段下の廊下まで僕を連れて降りた。機嫌の悪いゴリラのように、ドスドスと大きく足を鳴らしながら。踊り場の桜を何度も気にしながら、りんごは僕を階段に一番近い教室へと引き入れた。
りんごは僕を逃がすまいと背中に腕を回し、責めるような目で僕を見上げた。
「何だよ、わざわざこんな所まで連れてきて」
「前からクルに聞きたいことがあったの」
思い詰めた表情だった。
「どうした。そんな怖い顔をして」
「一緒にいた子、本当に従兄妹なのよね」
幼さの残る薄い唇が、何かを言いかけて言葉を呑み込んだ。
「あんた。従兄妹なんかいないよね。私、思い出したの。昔、あんたのお父様とお母様が遊びにいらした時、親戚はいないって言ってた。親も兄弟も自分達にはいないって」
「そ、そうだったか?」
余計なことを思い出しやがって。
「まあそれはどうでもいいわ。私が聞きたいのはそんなことじゃないの」
「どうでもいいのかよ!」
階段の踊り場に残してきた桜の様子がどうしても気になるらしく、りんごは教室の扉から何度も踊り場の様子を探るように顔を出した。
りんごは覚悟を決めたように、息を大きく吸い込んだ。
「あんた、いつ退院したの?」
「……は?」
僕はりんごが発した言葉の意味が、理解できなかった。
数秒もの間、息をするのも忘れ、僕はその場から動くことができなかった。
「退院? 何のことだ?」
「だってあんた事故で――」
その刹那――まるで雷に打たれたかのような衝撃を受けた。
僕はりんごのそのひと言から、様々な記憶を辿り、最終的にひとつの事実を導き出した。まるで絡まった糸くずが、その一部の綻びから次々と解けていくように。
「どうして僕は、いままで忘れていたのだろう。こんな大事なことを」




