7
木造の旧校舎は、新校舎が完成してからというもの、授業に使われたことはないそうだ。それ故、学校の敷地の隅にひっそりと佇むこの建築物は、今では倉庫としての役割を与えられてはいるものの、人の出入りは滅多にない。薄暗く不気味な佇まいから、「戦争で命を落とした兵士の霊が出る」だの、「自殺した生徒が砕けた頭を探して毎夜徘徊を繰り返している」といった、根も葉もない噂が流れるのも、それは致し方のないことだろう。
ちなみに昨日、柴木が柿原の机と椅子の片付けを押しつけてきたのも、きっと旧校舎に立ち入るのを憚ったからに違いない。
僕はいま、その旧校舎内に足を踏み入れている。内部は薄暗く、電気が通っていなため、扉の磨りガラスから透ける、僅かな光を頼りに歩を進めるしかない。
一歩足を踏み出す度に、木の床がギシギシと音を鳴らす。
柱に刻まれた無数の切り傷が、建物が過ごしてきた長い歴史を物語っていた。
校舎は俯瞰で見るとHを横にしたような形をしている。北棟と南棟の間が渡り廊下で繋がれており、その付け根に当たる部分にそれぞれ階段がある。僕ら生徒達はそれらを旧校舎の北階段、南階段と呼んでいた。
天井の剥がれ落ちた渡り廊下の入り口には、立入禁止のプレートが下がった鎖が掛かっていた。僕はその鎖を潜り抜け先に進んだ。放置されているためか、倉庫として使われている南棟よりも、かなり痛みが激しく感じられた。
そして北階段を登った踊り場に、噂の姿見はあった。
鏡から黒い靄のようなものが、噎せ返りそうなほどに滲み出ていた。
「一ノ瀬! 一ノ瀬、いるか!」
僕は鏡に呼び掛ける。鏡でありながら、しかし僕の姿はそこには映らなかった。
「一ノ瀬! いたら返事をしてくれ!」
上下に続く階段を映した北階段の姿見を、僕は何度も力強く叩いた。そこにいてくれ、悪霊になんか殺されないでくれと、心の中で叫びながら。
「ガッキーだぁ……」
「一ノ瀬、そこにいるのか?」
彼女の姿が鏡に浮かび上がった。
しかし、まるでガラスの箱にでも閉じ込められたように、鏡が行く手を阻み、彼女の元へと辿り着くことができない。
「ごめんね、ガッキー。あんなに真剣に忠告してくれたのにね……。私、バカだからどうしても見たくって。自分の未来、見たくって。覗いちゃった」
「待ってろ一ノ瀬! いま助けてやる。くそっ、どうやったらあっちに行けるんだ」
僕は何度も鏡を叩く。押しても、引いても、揺らしても、どうやっても僕と彼女の間を遮る鏡が行く手を阻む。
一ノ瀬は鏡に張り付くような体勢で僕の目の前にいる。鏡越しでなければあり得ないほどすぐ近くに。それなのに彼女に触れることも、その吐息を感じることもできない。
「私もね、色々と試してはみたんだよ? でもダメみたい。どうやっても戻れないの。元の世界に」
「きっとスイッチか何か、出入りするための装置がどこかにあるはず」
しかし鏡を隅から隅まで調べても、鏡はただの鏡だった。スイッチどころか汚れひとつ見当たらない。
「壁との隙間に何かあるかもしれない」
爪が剥がれそうなほど指先を入れようとするも、ガラスの縁で指を切って出血しただけで、一ノ瀬のいる世界には届かない。
「ガッキー、無茶しないで。ガッキーが傷つくの、私、見たくないよ」
心配そうな顔で、鏡の向こうから僕の指先を覗き込む。
「そんな心配そうな顔すんなよ。絶対助けるから。必ずだ」
「心配なのはガッキーの指だよ」
「お前を助けるためなら、こんな指、何本でもくれてやる」
「きっと無理だよ……」
「無理なものか」
「無理だよ……絶対に」
「この世に絶対なんて無いんだ」
彼女は笑い出した。
「あははっ、それって矛盾してるよぉ。絶対はないのに、絶対に助けてくれるの? でも……うん。ガッキーならそんな矛盾も、何とかしちゃいそうだね」
「絶対助けるって言ったら、助けるんだ!」
僕の声が、旧校舎に響いて消えた。
「絶対……助けるんだ」
それは現状、ただの決意表明に過ぎなかった。実際問題、彼女を助けるための手段が思いつかない。
「ねえ、ガッキー?」
「何だ?」
「ガッキーの好きな食べ物って何?」
「え? こんな時に何を言ってるんだよ」
「こんな時だから聞きたいんだよぉ。ねえ、何? 教えて?」
「えっと……。基本何でも食えるけど?」
「違うよ。好きなものだよ。例えば無人島にひとつだけ持って行けるとしたら、どんな食べ物かってこと」
「無人島じゃなくても。目玉焼きとかは好きかな? いや、こんなことしている場合じゃ――」
「そっかー。じゃあ、好きな色は?」
「え? き、黄色……だけど?」
「やったー! 私も黄色好き。一緒だね」
こんな時に何をしているのか。僕は彼女の真意を計りかねていた。
「おい、一ノ瀬――」
「じゃあさ、好きな女の子のタイプは? 芸能人で例えると誰?」
「一ノ瀬!」
「教えて……お願い」
僕はその時、彼女の本当の顔を見た気がした。どこか悲哀のこもった、作り物の笑顔とは違う顔。弾んだ声とは正反対の、いまにも泣き崩れてしまいそうな、そんな顔だった。
「好きな授業は何? 好きな音楽は? この街のどこが好き?」
ダムが決壊するように、一ノ瀬の瞳から涙が零れ出す。
「小さな頃はどんな子供だった? どんなものを見て大きくなったの? ご両親はどんな方だった? 将来の夢は? 結婚したら子供は何人欲しい? 苦しい時はどうやって慰めてほしい? 死ぬときは笑って欲しい? それとも泣いて欲しい?」
言葉が出なかった。これじゃあまるで――。
「ガッキーのこと、もっと知りたい」
「分かった、分かったから。待ってくれ。今助けるから」
しかし彼女は、大きく首を横に振った。
「ガッキー、もういいよ……。ガッキーが私のことを助けに来てくれただけで、私、嬉しかった。私のこと大切に思ってくれる人がいたんだって、私が生きていたのは意味があったんだって、そう思えるから。でも、もういいんだ」
「何を言ってんだよ、一ノ瀬。意味が分かんねぇよ。諦めんなよ」
「ねぇ聞いて? ガッキー、私ね?」
――赤ちゃん、産めないんだ。
ガラス越しの、泣き笑いの表情。
「何……だって?」
「児童虐待って聞いたことあるでしょ? あれってね? ドラマや映画で見るほど簡単なものじゃない。そんな簡単なものじゃないんだ」
彼女の顔には、まるで記憶の奥底に眠っていた悪魔を自らの手で揺り起こすような、そんな覚悟のようなものが浮かんでいた。
「最初は育児放棄だった――。
元々、私のお父さんとお母さん、あまり仲が良くなかったんだよね。家の中はいつも冷え冷えとしていてね、二人が一緒にご飯を食べるところなんか、私、見たことなかった。しょっちゅう口論していて、物が壊れる音なんかもう毎晩聞こえて。私、いつも耳を塞いで布団に潜っていた。
結局、二人は離婚して、私はお父さんに引き取られた。
でもお父さん、私のこと嫌いだったみたい。私は食事も与えられず、ダンボールを囓りながらベランダで過ごす日々が続いた。夏は暖かいからまだいいけど、冬は凍えるほど寒くって。ダンボールに包まりながら、こんな毎日がいつまで続くんだろうって、そう思いながら過ごした。
ある日、窓から部屋の中を覗くとね、お父さんが知らない女の人と裸で抱き合っていた。当時は分からなかったけど、今なら分かる。お父さんね、私をベランダに出して、知らない女の人とセックスしてたんだよ」
絶句するしかなかった。壮絶な幼少期を、なぜ彼女はこんなにあっけらかんと話せるのだろうか。
「ねぇ、ガッキー。知ってる? 世の中には、小学生に欲情する男の人がたくさんいるんだよ?
私が初めて男の人とセックスしたのは、小学五年生の時だった。相手はカビ臭い知らないおじさん。良く分からないままに、私の中に相手の男の人が入ってきて、痛くて、怖くて、私、大声で泣いた。でもその男の人、それが逆に興奮したみたいで、私がどんなに泣いても、許してってお願いしても、やめるどころか行為はエスカレートしていった。そして行為が終わると、その代金だとばかりに私の枕元に三万円を置いていった。
私はお父さんに泣きついた。でもそんな私の手から、お父さんは三万円をひったくって、こう言ったの。
――次はもっとサービスしろよ、って。
私はその後も、お父さんによって売春させられた。それは、ほぼ毎日、場合によっては日に二回やらされた日もあった。
私は何度も妊娠した。
『何で妊娠なんかするんだ、堕ろすのもタダじゃねぇんだよ!』
私はお父さんに殴られて、何度もお腹の中の物を堕ろした。お腹の中をめちゃくちゃに引っ掻き回される感覚は、何度経験しても慣れるものじゃなかったよ。
お父さんにとって私は、収入を得るためのただの道具――家畜と一緒だったんだよ」
腹の底から湧き上がる怒りを、どうしても抑えることができなかった。
「そんな馬鹿な! どうしてそんな惨いことができる!」
「後になって気付いたんだけど、お父さんに連れて行かれた産婦人科医の先生、私を犯したオヤジの一人だった。お父さんと繋がっていたんだよ。
結局、儲けを独り占めしようとしたお父さんは、その産婦人科医に裏切られ、警察に逮捕された。もちろん、その産婦人科医もね。
そして私は、子供が産めない身体になった。
その頃の私は、世の中に自分の味方なんかどこにもいないんだって思ってた。だから毎日死ぬことばかり考えていたんだ。
保護された私は、別れたお母さんに引き取られた。でも、そこでの生活も平穏とはほど遠かったよ。お母さんにはもう、新しい家族がいた。そんなトコロに、私みたいなのが入り込めるわけないよね。それに散々売春に使われた娘が家族だなんて、世間に知れたら大変じゃない? 私は学校にも行かせてもらえず、家の外に出してもらうこともできなかった。このままじゃ何も変わらない。そう思った。
だから私は家を出た。両親という檻から逃げ出すために。でも小学生が真っ当な方法で収入を得ることなんかできなかった。結局、私は、身体を売ることでしか生きて行けなかったんだ。どうしようも無かった。ただ生きていくのに精一杯だった。けど、もうたくさん。だってこんなの絶対間違ってるもん。好きな人に『好き』って言えないなんて、苦しすぎるもん。
だから――。
だから、もういいよ。私、もう生きていたくない」
泣き笑いの彼女の顔が歪んだ。
知らなかった、僕は何も知らなかった。彼女がそんな残虐な環境に身を置いていたなんて。親に裏切られ、真っ暗な茨の道を血塗れになりながら、今日まで彼女は必死に歩んできたのだ。そんな彼女に軽々しく『生きろ』なんて、どうしていえようか。
だけど、それでも――。
「生きろよ」
壁が壊されたような音が遠くに聞こえた。木造の旧校舎全体が、ギシギシと音をたてて大きく揺れた。
「それでも生きろよ。僕のために生きろ。無責任だって思ってくれてもいい。それでも僕はお前に生きていてほしい。だから諦めるなよ」
一ノ瀬は驚いたような表情を見せた。その表情が、一拍置いてから柔らかく微笑む。
「やっぱりガッキーは優しいね。最初に出会った時のままだ」
「いまそこから出してやる。きっと出してやる。だから……」
大きな破砕音と共に、旧校舎の壁が砕け散った。破片と共にそこから飛び出したのは、桜花の渦に取り囲まれた、完璧な美そのものの少女だった。
一ノ瀬だったもの――鏡写しの悪霊は、蜘蛛のように地面を這いながら、肉と皮だけで繋がった手足で桜を追い回す。表情を失った一ノ瀬の整った顔が、今しがた肉塊になったばかりの、同級生の血みどろの首を咥えていた。
桜の死に神は鏡写しの悪霊の攻撃を、大鎌の峰の部分で器用にいなす。一ノ瀬の身体の原形を辛うじて留めた悪霊を、桜は攻撃しあぐねていた。
「桜!」
「やりにくいったらないわ。あの身体を斬っちゃったら、彼女の魂は永遠に元の身体に戻れなくなる。逆に鏡を壊せば、彼女の魂を一緒に砕いてしまう」
「他に何か手はないのかよ。死に神だろう?」
「それを今考えているんでしょう。でも現状……残念ながら何も思いつかない」
桜が悪霊の攻撃をかわすたび、旧校舎が破壊されている。木片が飛び、コンクリートの一部が砕ける。その破片は僕の足元にまで転がってきた。鏡の向こう側で、頭を押さえた一ノ瀬が、破片を避けながら小さな悲鳴を上げる。
「気をつけろ桜。破片が鏡を割ってしまったら、何の意味も無いんだ」
「分かってるわよ。だからあんたが身を挺して鏡を守るのよ。そこの彼女を死なせたくないのでしょう?」
「もとよりそのつもりだけれど……その前に旧校舎が潰れてしまうぞ」
「ねぇ、ガッキー?」
鏡の向こうの一ノ瀬の表情は、まるで憑き物が落ちたかのように晴れやかだった。
「私、頑張って青陵に入って良かった。だってここには私の知らない世界が広がっていた。ガッキーやりんごちゃんや友達と、何でもないことで笑い合って、泣いて、たまに喧嘩して。頑張って色々な人に話しかけて、色々な人と友達になれて良かった。
私ね。ガッキーのこと好きだった。ガッキーの姿を見つけて、胸の辺りがぽわっと温かくなって、幸せな気分になった。見ているだけですごく、すっごく幸せだったんだ。
でもそれと同じ位、怖くて堪らなかった。私なんかが幸せになっていいのかな。私みたいな穢れた人間が、ガッキーやりんごちゃんと一緒にいていいのかな。私なんかが生きていていいのかな。そう思うと後ろめたくもなった」
「お前は信じないかもしれないけどな。あの小さいの、あれ死に神なんだ。あいつ、ああ見えて強いんだ。きっと何とかしてくれる。だから、絶対諦めるな。絶対だ」
一ノ瀬は足元に写り込んだコンクリートの破片を、両手で重そうに抱えた。
「助けにきてくれて本当にありがとう。やっぱりガッキーは私の王子様だった。私、ガッキーの子供が欲しかったなぁ」
「おい、一ノ瀬? 何でそれ過去形なんだよ。いいじゃないか、これからバンバン子作りしようぜ? な? な?」
彼女は吹き出した。
「何それ、最悪の口説き文句だぁ」
「ああ最悪だ。でもいいだろ? お前ほどのいい女、そのくらいじゃないと口説けない」
「私、生まれ変わったら、りんごちゃんになりたい。そしたら、ガッキーとずっと一緒にいられる。緊縛プレイしたり、踵で蹴ったり、それに愛のあるセックスができる」
「ああ、縛れよ。好きなだけ股間を蹴ってくれてもいい。だから――早まるなよ!」
「ガッキーのバカ。本当バカ……。でも――」
彼女は最高の笑顔を浮かべた。
「大好き!」
鏡の向こう側で、一ノ瀬がコンクリートの塊を放り投げた。
北階段の姿見は大きな破砕音を伴って粉々に砕け散った。鏡写しの悪霊は一ノ瀬だったものの口からぬるりと吐き出され、空気に触れるとその躰を湯気のように蒸発させた。
『私、生まれ変わったら――』
壊れた魂は、転生することができない。
彼女の願いは永遠に叶うことはないのだ。
「うああああああああああああああああああああああッ!」
叫んでも、僕の声は二度と彼女に届かない。
彼女の「記憶の欠片」は、この世の絶望という絶望を、次から次へと映し出していった。そしてその最期に映し出しされたものは、恐らくは彼女にとって唯一の希望だったであろう、最初で最後の恋だった。




