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補習五日目――
終わりは唐突に訪れた。
「おいっす!」
商店街の魚屋の親父ように威勢良く挨拶をしながら、僕は補習組の教室へと足を踏み入れた。窓際最前列に、窓から差し込む光に透けた、色素の抜けたツインテールが見えた。一ノ瀬はピンと背筋を伸ばしたまま、まっすぐに正面を向いて座っている。
僕は吹き出す汗を手の甲で拭う。早朝であるにも拘わらず、外の気温は早くも三〇度近かった。
青陵高校の新校舎は最近建設されたというだけあって、各教室にエアコンが完備されている。少しでも優秀な生徒を集めようという学校側の魂胆と、自分の子供に快適な学習環境を用意してあげたいという、生徒の父母らによる要望が一致した結果だという。
しかしいまは夏休みということで、エアコンの冷房は弱めに設定されているようだ。教室の天井に据え付けられた吹き出し口からは、ぬるめの風邪がゆるゆると流れてくる。それでも外の気温に比べれば天国のようだ。
教室に集められた生徒は総勢二〇名。ある意味、各クラスを代表する猛者とも言える。普段はさほど面識もないが、五日も同じ教室で学べば、自然と親交も深まってくるというものだ。もっとも僕は、そのほとんどを欠席していたために、いまは教室でぽつんと浮いた存在になってしまっている訳だが。無論、自分以外は全員知らない生徒という訳ではない。同じクラスの生徒もいるのだから、その生徒に話しかければ淋しい思いをする必要もない。その内の一人が彼女、一ノ瀬なのはだ。
僕は彼女の方へと視線を向ける。彼女は正面を見据えたまま微動だにしない。
「…………」
何故だろう。不思議と僕は、彼女の姿に違和感を覚えた。紺色のプリーツスカート。紺襟に白い一本線のセーラーの夏服。健康的な肉付きだが、すらりと伸びた手足が特徴的な、どこか華奢にも見える不可思議な体躯。外見はいつもの彼女に間違いない。しかし瞬きひとつせず、青白い顔で正面を見据える彼女の身体は、ぴくりとも動かない。まるで精巧にできた蝋人形のようだ。
僕は教室の空気がいつもと違うことに、この時になって初めて気が付いた。教室の誰もが言葉を発さずに、視線を一点に集中させている。そしてその視線の先には彼女、一ノ瀬なのはの姿がある。いつも彼女と行動を共にしているショートカットの女子生徒は、困惑気味に遠巻きから彼女を眺めている。
誰の目から見ても彼女の様子が尋常でないことは明白だった。肌や髪の質感は間違いなく彼女のそれなのだが、どこかいつもの溌剌とした彼女らしくない。そう、今日の彼女にはおよそ生気というものがない。
まるで彼女の肉体が、何者かに乗っ取られでもしてしまったように。
乗っ取られる……?
「――まさか!」
僕の脳内で、携帯電話の着信音が鳴り響く。次いで彼女の思い悩んだ表情が浮かぶ。そしてそれは、例の『噂を語りあうスレ』に書き込まれた、ひとつの噂へと帰結する。
『A市にある青陵高校旧校舎の北階段の姿見には未来の自分が写るらしい』
「何てことだ!」
僕は間違えてしまったのか――。
次第に襲ってくる強烈な後悔の念が、津波のように押し寄せてくる。
あの時僕は、なぜ噂の痕跡を残してしまったのだろうか。たとえ嫌われてでも、僕は彼女の携帯電話を叩き折るべきだったのだ。「信じるな」なんて、どうしようもなく「信じろ」と同義じゃないか。もし彼女の身に何かあったなら、それは疑うべくもなく僕の責任だ。
「何、何なの! なのは、どうしたのよ!」
突然、日常を引き裂く悲鳴が教室内に響いた。その声で僕の意識は一瞬で現実に引き戻された。
油の切れた歯車のように、一ノ瀬の首がギリギリと回り始める。首の角度が真横を向くと、そこで彼女は口の端を不自然に吊り上げ冷たく笑った。焦点の定まらない視線。人懐っこい彼女の笑顔は、もうそこにはなかった。
首をふるふると小刻みに震わせ、彼女はさらに首を回そうとする。刹那――彼女の頭部を支えていた首が、まるで小枝でも折れたような軽い音を伴い、力を失った。それまで壊れた扇風機のように動きを止めていた彼女の首が、その音を合図に再び滑らかに動き出す。肉と皮だけで繋がった彼女の首が、あり得ない方向――真後ろを向いた。
その現実離れした光景に、教室内の誰もが言葉を失った。
突如、側にいたショートカットの女子生徒の頭部が消えた。女子生徒は、自分の身体に起きた変化を確かめるべく、両手で頭部に触れようする。しかしその両手は元々頭部があった場所を空しくすり抜けた。直後、女子生徒はがくりとその場に崩れ落ちた。
「一人目、捕マエタ」
教室後方の掲示板には、砕けた頭部の血と肉片が同心円状に広がっていた。生徒の一人が、呆然と自分の頬に付着した液体を手で拭った。手のひらを見た生徒の瞳が、みるみる恐怖に染まって行く。
「ぎいゃああああああああッ!」
「化け物だ、逃げろおッ!」
教室内は逃げ惑う生徒達でパニックになった。机が倒れ、椅子が転がり、それに躓いた生徒に他の生徒が躓く。前後方の二箇所にある出入り口は生徒が集中し、足を滑らせた女子生徒が後からきた男子生徒に踏まれていた。
「愉シイナ。鬼ゴッコ、愉シイナ。サア逃ゲロ、捕マエタラ、食ベチャウゾー」
それまでじっとしていた一ノ瀬は、楽しそうに手足をジタバタさせると、逃げ惑う生徒達を追い掛けようと席から立ち上がった。
しかし彼女は脳と身体がうまくリンクしていないようだった。椅子に躓き、背中から倒れ、その拍子に顔面を強打した。その拍子に、首がさらにおかしな角度に曲がった。
彼女はそれを気にする様子もなく、仰向けのまま関節を逆に折り、這うような体勢で逃げた生徒を追い始めた。
教室出入口付近で転んで逃げ遅れた女子生徒が、恐怖のあまり失禁し、腰を抜かしたまま後ずさりする。彼女の元に、首をぶら下げた一ノ瀬が、カサカサと手足を細かく動かしながら近づく。その姿はまるで、網に掛かった羽虫に近付く蜘蛛そのものだった。
「イヤッ、来ないで! 来ない――」
骨が砕ける厭な音が響いた。僕は思わず顔を背けた。
女子生徒の頭部だったところから飛び散った血液と脳漿が、教室の床に扇状に広がった。頭部は砕けて既に原形を留めていない。
「マタ捕マエタ。愉シイナ。サアモット逃ゲロ、捕マエタラ、食ベチャウゾー」
全くなす術がなかった。
「獲物発見、獲物発見」
僕の姿に気が付いた一ノ瀬が、手足を細かく動かしながら、その場で回転するようにしながらこちらを向いた。彼女の躰が一瞬沈み込む。
豹変した彼女が不気味に笑った。
次の瞬間、手足の伸びきった彼女が僕の目の前に迫った。あぁ……きっと一秒後には、僕の身体は脳みそを撒き散らしながら、この床の上に転がるのだろう。そして十七年間の童貞人生に幕を下ろすのだ。
「ボーッとするなバカ!」
脇腹に痛烈な痛みが走る。直後、僕の身体は達磨落としの駒のように真横に飛ばされた。教室後方の「夏休みの心得」が貼られた血みどろの掲示板に、その身体を強く打ちつけた。
「またこれですか!」
「少しは避ける努力くらいしなさい。お前の努力は、毎日無駄に白い米を啄むことだけなのか? 少しは社会のお役に立とうとは思わないのか? バカ胡桃」
教室の中に、大きな桜花の渦が巻く。その中心に、桜色の髪をなびかせ、透き通るような白い肌の、全身黒いスーツに身を包んだ、高さ十五センチのピンヒールを履いた死に神が、その身の丈ほどもある桜色の大鎌を背負い、静かに降り立った。
「桜!」
「『旧校舎の北階段の姿見に――』でしょ? もし本当に例の掲示板の内容が悪霊と関連づけられているとしたら、その悪霊の正体は恐らく『鏡写しの悪霊』に間違いないわ。鏡写しの悪霊は、普段は鏡の中に棲んでいて、鏡に映った人間の魂と自分の魂を瞬時に交換してしまう『置換』の能力を持つ悪霊よ」
「だとしたら、一ノ瀬はもう……」
「そうとは限らないわ。置換はその名の通り、肉体と魂を単純に置き換えるだけの能力、本体である鏡が無事なら、被害に遭った人間の魂もまだ無事である可能性が高いわ。ここは私が抑える。だから胡桃は――」
しかし、魂が無事だとしても、一ノ瀬の身体はもう――。
「分かった。旧校舎の姿見に向かうよ」
諦めたら、そこで全て終了だ。
僕は教室を飛び出した。




