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帰宅した僕を迎えたのは、居間のダイニングテーブルで、不機嫌そうに縦折りにした夕刊を睨みつける死に神の姿だった。テーブルの上には空になった来客用のマグカップと、朝食が終わったまま放置された食器がそのまま置かれている。
桜は朝と同じTシャツとハーフパンツのまま、夕刊の端から視線を覗かせると、殺人犯のような視線で僕を一瞥し、次にテーブル上の食器と僕の顔とを交互に睨んだ。
大地の息吹きを思わせる、壮大な胃の収縮音が部屋中に響いた。
「お腹……空いたのか?」
桜はコクコクと頷いた。
「胡桃。あんた、私を殺す気? まあいいけどね。その前にあんたの肉を桜色の大鎌で削いで、スープの出汁にしてやるから。あ、出汁は骨から出るんだっけ? まあいいわ、鶏ガラは肉が少し付いていた方が良い出汁が出るって言うしね」
「恐えこと言うなや。それに死に神には『死』という概念は無いんだろ? 大体、死に神みたいな曖昧な存在が、人間界の食料を食うのか? 腹が減ったりするのか?」
「郷に入らずんば虎児を得ずよ」
「使い方も違えば、途中からおかしな故事成語になっているぞ。まるでウマの胴体にシマウマの足がくっついた動物みたいじゃないか」
それはオカピという動物だ。ちなみにオカピは森の貴婦人を呼ばれているらしいが、彼女には全く似つかわしくないので黙っておいた。
「うっさいわね。とにかく何か食べたいのよ。いますぐ何か食べ物を用意なさい」
誰だ、こんなストレスの権化みたいな奴を連れてきたのは。カルシウムが足りないのか、それとも肛門に蟯虫でも飼っているのか。現代社会の軋轢に耐えられない精神構造をしているとは到底思えないが、見た目に反して意外とナイーブなのかもしれない。
しかし僕は往々にして過食症の死に神なんか聞いたことがない。
「くそう……雑巾のしぼり汁でも入れてやろうか」
「何か言った?」
大鎌の刃先が僕の首筋に飛んでくる。
神サマの耳は地獄耳、だった。
「なあ、桜」
「何よ」
口と皿の間をナポリタンの麺で繋いだまま、桜は眼光鋭く、いつもの調子で僕を睨み上げながら返事をした。口の周りはケチャップまみれ。僕がティッシュ箱を彼女の方に押しやると、彼女は繋がった麺を慌てて吸い込み、口の周りをティッシュで拭った。
粗野な振る舞いを恥じたのか、彼女は白い肌を紅潮させ、栗鼠のように両頬に溜め込んだ咀嚼物を無理やり飲み下した。
「竜峡と柿原は死んだ……んだよな」
桜はグラスに注がれたオレンジジュースに手を伸ばした。何を今更と言わんばかりの、超然とした態度だ。感情のこもらない声で桜は淡々と語る。
「そうね。残念ながら彼らは、この世界で言うところの『死』を迎えたことになるわ。そして魂を悪霊に喰われたいま、転生することもできない。つまり二人の存在は無くなってしまったということ」
「存在が無くなった……。それは、僕たち人間の記憶からも、存在が無くなるということなのか? つまり記憶から消されてしまうのか?」
「記憶から消される?」
「ああ。小学生の頃から柿原を知っているはずのりんごから、柿原の記憶が無くなっていたんだ。そうとしか考えられないだろう?」
「ふむ。あの発育不全の女がな……」
「だとしたら、なんて残酷な結末なんだよ。記憶にさえ残らないなんて」
「それは無いな。存在が無くなったとしても、他人の記憶を改竄するまでの影響力はないはずだ」
「そうなのか?」
「物質の存在が消える度に人間の記憶が変わってしまっていたら、どこかで必ず不整合が出る。パラドックスが起こってしまうのだ。第一、お前にはその柿原とやらの記憶があるのだろう? 記憶が消えないことは、お前自身が証明しているじゃないか」
桜は思案顔でナポリタンにフォークを入れた。フォークを皿の上でぐりぐりと回転させるたび、食器同士がこすれてキーキーと耳障りな音が鳴る。
桜はピタリと手を止めた。
「だとすれば、それは悪霊による仕業だと考えた方が自然ではないか? 悪霊は様々な能力を有しているし、もしかすると、それも悪霊による仕業なのかも知れない」
「悪霊か――」
記憶のかけらがふわりと宙に舞う、あの切ない情景が脳裏に蘇った。
「あの時、竜峡と柿原が死んだとき、二人の記憶の欠片から共通して見えたものは、携帯メールに届いたURLから繋いだ掲示板の存在だ。思えばその掲示板に書き込まれた噂の内容とリンクした悪霊が出現していた。これはもはや偶然とは言えないよな」
「梅干し並みに収縮した脳ミソで考えたにしては、なかなか的を射た推論ね。何らかの方法でターゲットの情報を収拾し、その掲示板とやらで弱みを突いて、自分のフィールドに獲物をおびき寄せる」
「そして罠にかかった獲物をパクリってな」
桜は腑に落ちない顔をしている。
「それはあり得ないわね……」
「何でだよ。実際に竜峡と柿原の元にメールが届いたんだぞ」
「そうなんだけど……」
桜は再び皿の上でフォークを回し始める。
「……本来あの程度の悪霊に、そんな知能はないはずなのよ」
確かにそうかもしれない。公衆電話の悪霊、そして写真機の悪霊にしても、ぜいぜい雄叫びを上げるのが精一杯だった。人間の言語を満足に口にすることもできない悪霊が、メールや掲示板といった、文字を多用するツールを使ったと考えるには無理がある。
「だとしたら……」
「そう」
桜は麺が巻き付いたフォークを、僕の目の前に突きつけた。
「どこか近くに、裏で糸を引いている強力な第三者がいたはず」
暗闇の中、手探りで問題の糸口をつかんだ。そんな感じがした。
「一ノ瀬の携帯に届いたんだ。例のメールが。掲示板には、『旧校舎の北階段姿見に未来の自分が映る』とあった。そこに行けば、何か手掛りが掴めるかもしれない」
「そうね」
落ち着き払い、パスタを豪快に啜りながら、桜はこともなげにそう言った。口に吸い込まれて行く麺が、暴れまくる無数のミミズみたいで、見ていてちょっと気持ち悪い。
「幸いお前には悪霊を呼び寄せる不思議スキルがあるみたいだからな。私が動かなくても何かしらの事件が起こる。まったく便利な体質だ」
「要らないよ、そんなスキル。まるで公園のベンチで昼寝していたら、いつの間にか野良猫に囲まれてしまうみたいなスキルだ。もっとこう、いつの間にか女の子に囲まれてしまうみたいな、そんなライトノベルの主人公みたいなスキルが良かったな」
「……クズが」
桜が汚いものを見るような目で、僕を一瞥した。
「私がお前のような、どうしようもないゴクゾウムシの側にいるのは、そのスキルのためだ。お前の側にいれば、絶対に黒幕に繋がる悪霊に辿り着くはずなのだ。だからそれまでお前は絶対に死ぬな。死ぬことは許さんぞ」
上から目線の神サマに、僕はふと一縷の不安に襲われた。
「引き寄せるのは……まあ、いいとして。桜、お前本当にそんな奴、倒せるんだろうな。この間は、お前の言う『あの程度の悪霊』に、随分と苦戦していたようだけれど」
「ああ、実はもう少しで再起不能になるところだったのだ。さすがに脳がバラバラに砕けてしまったら再生ができない。動くこともできないし、考えることもできないからな」
そう言って桜は他人事のように笑った。
「頭の半分が砕けたお前を運ぶのは大変だったんだぞ。グロくて何度吐いたことか」
「あの時は相性が悪かっただけだ。地球を滅ぼす規模の悪霊が来たって、今度は倒す自信があるわ。千人の弟子よ、かかってこい」
「そんな規模の悪霊との対決は、是非他所でやって下さい」
「それにしても、あの写真機の悪霊から、よく隙を突いて私を連れ出せたものだ。この私でさえ、ほんの少しだけ苦戦したというのに」
「それについては、僕自身にもよく分からない不思議なことがあってな。時間が止まったみたいに、周囲がスローモーションに見えたんだ」
「もしや悪霊と対戦したことで、お前自身の経験値が上がったか。きっと教会に行って牧師にでも聞けば、あと何疋悪霊を退治すれば次のレベルに到達するのか、教えてもらえることだろうよ」
「からかいやがって。ボスキャラ退治は神サマにお任せします。それに首が地面に転がったり、胴体から内臓を撒き散らしたり、僕はこれ以上、親友がそんな目に遭うのは見たくないからな」
「心配する必要はない。もうそんな場面を目にする必要は無くなるだろうからな」
桜はニヒルに笑った。
「たいした自信だな」
「違うわ。胡桃の首が地面に転がるからよ」
「……冗談きついよ、桜さん」




