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小学一年の春――。
校長先生の話は、最初から最後まで全く意味が分からなかった。
母親が読み聞かせてくれる絵本よりも強力な睡眠作用を持つその話を、全校生徒の中でおそらくただ一人、真剣な眼差しで聞いている女の子がいた。
可憐な立ち居姿。小学生らしからぬ知的な横顔。清楚と形容するに相応しい女の子。
それが彼女、竜峡小梅だった。
女の子といえば、肌が黒くて痩せてガリガリ。そんなのしか知らなかった僕が、彼女に一瞬で心を奪われたのは、無理からぬ話だろう。
新入学生の後ろの席では、化粧品をぶ厚く塗りたくった母親が、息子の晴れ姿をその目に焼き付けようとしている。学問を身に付けるどころか、入学早々、女に現を抜かしているなどと知ったら、僕の母親はいったいどんな顔をするだろう。我がことながら、不憫でならなかった。
とある日、クラスの中で班をつくることになった。
入学式から数日しか経っていないというのに、クラスの中では早くも人気、不人気の仕分けが無意識に行われていた。快活で人気者の彼女は、あちこちから声が掛かり、引く手数多だ。それに対して僕はどうだ。どの班からも声が掛からないどころか、誰も僕と目も合わさない。
「きっとみんなが僕に遠慮したのだ。そうに決まっている」
強がりもどこか虚しい。
そんな僕に声を掛けてくれたのが、彼女だった。
「ねえ一人? 行くところがないなら、うちの班においでよ」
「孤高の存在。それが僕の真の姿なのだ。それこそが僕のスタイル」
「はいはい、分かりました。でもね。孤高の存在が最後まで残ると、先生が悲しむのよ。だからお願い。それに私、捨てられて鳴いている猫とか放っておけない質なの」
彼女は僕を半ば強引に班に入れた。
自分にないものに強い憧れを抱く幼少期において、彼女の男勝りな行動力はクラスの誰もが憧れを抱いた。清楚で美しい容姿を持っていれば尚更だ。
しかし、子供とは時に大人以上に残酷なものだ。
太陽の光も強すぎれば避けられてしまう。彼女は完璧すぎたのだ。完璧に何でもこなしてしまうがために妬まれ、いつしかクラスから浮いてしまったのだ。
二年に進級し、一学期も残り僅かとなった、そんなある日のことだった。
彼女は机の上で、両腕の間に顔を埋めていた。始業のチャイムが鳴る前には、教科書やノートを一通り揃えて待っている彼女が、今日に限っては机に伏せている。
「あれ、竜峡どうした? 具合が悪いのか?」
「何でもない」
どことなく、冷たい物言いだった。
「何でもなくないだろ。具合が悪いなら保健室に――」
「何でもないってば、あっちに行ってよ!」
彼女が苛ついて顔を上げたその時、マジックで落書きされた教科書の表紙が、腕の間から一瞬だけ覗いた。
教科書のいたずら書き。
僕はカッとなった。
「だれだよこれやったの!」
喧噪の教室が、水を打ったようになった。
僕は周囲を見渡す。
こちらの様子を窺いながらひそひそ話をしていた女子のグループの一人が、僕と目が合った途端に慌てて目を逸らした。
「バーカ」
どこからか、そんな声が聞こえた。
「ふざけるな。消せよ。消せよ、これ!」
僕はその女子に教科書を投げつけ、机を蹴り上げた。一緒にいた友達は驚き、ついには泣き出してしまった。悲鳴が上がる。教室はあっという間にパニック状態になった。
その後、僕は職員室で先生から叱責を受けた。事情を聞くために竜峡も職員室に呼ばれたが、泣きじゃくっていてとても話を聞ける状態ではなかった。
結局、彼女の口から、真実が語られることはなかった。
そして数週間後、別れは突然やってきた。
竜峡小梅は、クラスの誰にも何にも言わずに、突然転校した。
父親の仕事の都合だと、後になってから、僕らは彼女の転校の真相を聞かされた。




