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その日の夕刻――。
雑多に並んだ机のひとつに腰掛け、僕はぼんやりと黒板を眺める。教壇正面列の最後尾、そこは柿原の席だった。そこから左斜め前の席を見る。ここから柿原は、毎日りんごの横顔を見つめていたのだろうか。
教室はペンキで塗り潰したような赤だった。開け放った窓から吹き込む風が、頬に少しだけ冷たい。風に揺らめいたカーテンが、オーロラのような幻想的な影を作り出している。風に運ばれた夏草の青臭さが、僕の涙腺を刺激した。
僕は少し感傷的になっているのかもしれない。
いままで信じていたものが否定された時、それが事実だと素直に認めることは容易ではない。長い年月を経て積み上げてきた自分の中の常識を否定されると、まるで年齢を積み重ね生きてきた自分自身が崩壊するような衝撃を受ける。例えば右と信じていたものが、実は左だったとしたら。その衝撃は言葉では到底言い表せない。
僕にとって、今がまさにそれだ。
りんごも僕も、柿原とは小学生の頃からの付き合いだし、一ノ瀬にしても柿原とは中学からの付き合いで、名前も知らないという関係ではない。しかし彼女達の表情から、冗談や嘘といった色は全く見えなかった。柿原がこの世に存在していたことを、まるで僕だけが信じているみたいだ。
柿原はりんごのことが好きだった。たとえりんごがそれを知らなくても、それは紛れもなく事実であり、柿原の大切な気持ちだ。
それさえも僕の思い込みなのか。僕の妄想だったというのだろうか。
廊下に足音が遠く聞こえる。夏休みのせいか、いつもより足音が響くように感じた。足音は真っ直ぐに、この教室に近づいているように思う。
足音が教室のそばまで近づくと、それはピタリと音を止めた。
「何だ、龍ケ崎か。まだ居たのか」
担任の柴木だった。
「何だとはご挨拶ですね。僕だって補習を受けた内容を復習したりするんですよ」
「その割に教科書が見当たらないがな」
柴木は目尻に笑みを浮かべてそう言った。
「先生こそ夏休みだというのに、こんな時間まで仕事なんて大変ですね」
「生徒がいないからといって、仕事がなくなる訳ではないからな。お前のような問題児を抱えていると、方々への根回しのような仕事が増える」
「……すみませんでしたね。問題児で」
「まあ気にするな。嫌いじゃないよ。お前みたいな奴」
柴木は白い歯を見せて笑う。そのまま前の席に座った。
「もうじき盂蘭盆だな。ご両親の墓参りには行くんだろう?」
「高校生が一人で行くには、ちょっと距離が遠すぎますからね。実は姫小町の家に世話になってからは、一度も行ってないです。それに親戚とはずっと疎遠になってますからね。招かれざる客が突然やってきて、平穏な毎日に波風を立てられちゃあ、叔父や叔母も堪らんでしょう」
「気の毒だったな。ご両親は事故で……だったか?」
「相手のトラックの運転手は、相当酔っていたらしいですね。車はトランクの一部を除いて、形を判別できる箇所は残ってなかったそうです」
「非道い話だな……。悪かったな、思い出したくないことを聞いちまって」
「気にしないで下さいよ。きっと僕にとっては、乗り越えられるギリギリの試練なんでしょう」
「そうか……そうだな。お前の言うとおりだ」
柴木は勢いをつけて席を立った。ここで言う勢いとは、立ち上がるための物理的な意味合いだが、きっと予想外に重くなった話に踏ん切りをつけるための、心理的な意味合いもあっただろう。
「あ、でもお前の境遇に同情したからって、テストの点数はオマケしないからな。それから補習も」
「先生にオマケされると、後々金品を請求されそうで怖いですよ」
「先生の給料は安いからな。給料日前にはそれも一考の余地ありだな」
そう言って柴木は、またも白い歯を見せた。
「先生の生活を支えるだけの経済的余裕は僕にはありませんよ。何せ親が遺してくれた僅かばかりの財産が僕の生命線なんで。それに弟のこともあるし」
「お前、弟さんがいたのか」
柴木は驚いた表情を見せる。
「知りませんでしたか。まあ随分と長いこと入院していますからね」
「知らなかったな。どこか悪いのか?」
「ええ実は――」
その時僕は、突然、得体の知れない違和感に襲われた。どことなく据わりの悪いこの感じ。胃の辺りがムズムズする不快感。柴木のネクタイの柄が彼に似合っていないからか? いや、それならば顔を見た瞬間に既に感じている。そうではない。
「――た、どうした。聞いているか、龍ケ崎?」
僕は柴木の声で現実に引き戻された。
「スンマセン。何でもないです」
「受け持ちの生徒のパーソナルデータは、一通り頭に入れたつもりだったがな。どうやら見落としていたみたいだ」
既に違和感はどこかに消え去ってしまっていた。
「暗くなる前に帰れよ」
柴木はそう言うと、大儀そうに肩を揉みながら教室を出て行った。
「あ、そうそう。帰るついでに一つ頼まれてくれないか」
思い出したように教室に戻ってきた柴木は、少しも悪びれることなく、僕に頼み事という名の命令を下した。
「お前が座っている席の机と椅子。旧校舎の備品倉庫に戻しておいてくれるか。何故か一つ多く用意されていたみたいなんだよな。転校生の話もないのに。不思議だよな」
少しも不思議なんかじゃない。それは柿原の席だったんですよ。
そう言いかけて、僕は言葉を呑み込んだ。
柴木の指示通り、旧校舎の備品倉庫に柿原の机と椅子を戻した僕は、その足でS市立総合病院を訪ねた。もちろん入院中のこのみを見舞うためだ。
診察時間が過ぎた病院のロビーに、人の姿は疎らだった。同じフロアにある薬局の天井から吊された電光掲示板が、既に調剤が終わった分の整理券番号を表示している。調剤を待つ人の数も、もう残り少ないと見えて、三つある窓口の一つを残して、他の窓口は既にシャッターが下ろされている。
僕はこのみの病室がある五階へと向かうため、ロビーでエレベータの到着を待っていた。すると、ふと視界の端に見慣れた顔を見つけた。樹脂製の椅子にぼんやりと腰掛ける、見慣れた制服。色素の抜けた枯れ葉色のツインテール。
――一ノ瀬なのはだった。
彼女はいままで見せたことのない沈んだ表情で、自分のつま先をじっと見つめていた。調剤を待つ風でもなく、さりとて帰るでもなく、一人、また一人と帰って行く患者たちをまるで気に止める様子もなく、彼女はただそこに俯いて座っていた。
ついに最後の窓口にもシャッターが下ろされ、電光掲示板はきょうの役目を終え電源が落とされた。
僕は停滞した空気を引き裂くように、努めて明るく声を掛けた。
「あれ。一ノ瀬じゃないか?」
彼女はからくり人形のようなぎこちない動きで、首だけを僕の方に向けた。
「ガッ……キー?」
僕はギョッとした。振り向いた彼女の顔はまるで、生への執着を捨てた囚人のようだった。稚気に富んだ、いつもの彼女の姿はどこにもない。しかし彼女は、僕を僕だと認識すると、途端に笑顔を、その顔に無理に貼り付けた。
それはいつもの彼女の笑顔だった。彼女のどこか痛々しい笑顔。ああそうか。彼女の笑顔から前向きな感じがしないのは、きっと彼女の表情が絶望をベースに作られているからなのだ。どんなに作り物の笑顔を貼り付けても、絶望というベースが透けて見えるからなのだ。
しかしなぜ?
一生で一番輝いているはずの思春期に、彼女はなぜ絶望しなければならないのか。
「あれー、ガッキー偶然だねー。どうしたの? こんなところで」
「ちょっとな。色々あるんだよ、僕にも」
「あ、ひょっとして、これが、これか?」
一ノ瀬は小指を立て、次に膨らんだお腹を撫でるような仕草をした。
「お前は昭和のオッサンか。違うよ、この病院に弟が入院しているんだ」
「ほえー。ガッキー、弟さんいたんだぁ」
「あぁ、もう随分長いこと入院している」
「そんな大病してるんだ。大変だねぇ」
無理に驚嘆の声を上げる彼女の表情には、やはりどこか陰が差して見える。僕と会話していながら、心はどこか遠くを彷徨っているように見える。
「一ノ瀬こそこんな所でどうしたんだ? 風邪でもひいたか?」
「あ……うん、風邪とは違うんだけどぉ。ちょっとね」
婦人科の欄をぐるりと丸で囲まれた紙袋を、彼女はさりげなく背中の後ろに隠した。
「何にせよ、大事にしろよ。悩みがあったら、遠慮せずに僕に相談してくれ」
我ながら、何と無責任な発言だろうと思った。彼女の悩みを聞いたところで、僕はそれを解決する術を持たないし、彼女の人生に対して責任も持てない。
「うん……ありがと」
ありがとうなんて言わないでほしい。僕はただの偽善者だ。彼女の力になりたくて、でも何もできないただの偽善者だ。後ろめたさで逃げ出したくなる。
暫しの沈黙の後、僕は沈黙に耐えられなくなり席を立った。その僕の制服の袖を彼女は反射的につまんだ。彼女は泣き笑いのような顔をしていた。
「ガッキーあのね? 私――」
その時――。
リズミカルな振動と共に、寒々しい着信音が病院のロビーに鳴り響いた。
「ありゃりゃー、電源切るの忘れてたぁ」
彼女は携帯のフリップを慌てて開き、電源を切ろうとボタンに指を掛けた。しかし、液晶画面を見た彼女は、それを思い留まった。
「何これぇ? 変なメール……」
僕の背筋を冷たいものが過ぎった。
竜峡、そして柿原の記憶の欠片で見た一場面。それらと酷似している。まさか……。
「悪い。ちょっと貸してくれ」
僕は彼女の手から携帯電話を奪い取った。無題のメールの本文には謎のURLのみが貼られている。やはり……予想通りだ。
「どうしたの? ガッキー」
彼女は僕の手に握られた、自分の携帯電話の液晶画面を覗き込んだ。
「『噂を語り合うスレ』 何これぇ?」
画面をスクロールさせる。投稿された噂のほとんどは、根も葉もないデタラメばかりだ。『某コンビニ○×店の監視カメラは死角が多くて万引きマンセー』だとか、『○丁目にある廃墟で一〇年前に一家心中があったらしい』といった、情報源が不明で、無責任な噂で埋め尽くされていた。
しかし中には見覚えのある噂も記述されている。
『どこにでも、誰にでもつながる公衆電話がS市にあるらしい』
『誰もが自分だけを見つめてくれるようになるカメラがあるらしい』
見つけた。やはり記憶の欠片で見た内容は現実だったのだ。しかしそれは同時に、竜峡と柿原の死が現実であることを意味する。
僕は更に画面をスクロールさせる。一ノ瀬の携帯の下矢印ボタンを、何度も叩き付ける。あった。きっとこれだ。
「一ノ瀬、このサイトに書かれたことは全部嘘だ。絶対に信じるな。絶対にだ」
「ほぇ? うん……分かったぁ。分かったけどぉ?」
怪訝な顔で僕を見つめる。一ノ瀬は僕に何かを聞きたがっている。しかし柿原の存在さえ覚えていない彼女に、悪霊の話を信じてもらえるだろうか? 情報を消せないのならば、封印するしかない。もし許されるなら、彼女の携帯をいまここで、真っ二つに折ってしまいたいくらいだ。
掲示板の最後の書き込みは、不自然なほど具体的な噂で締めくくられていた。
『S市立青陵高校旧校舎北階段の姿見には、未来の自分の姿が映るらしい』