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机を向かい合わせ、僕と一ノ瀬は弁当を広げていた。味海苔二枚と白米だけの寂しいノリ弁とは対照的な、タコさんウインナー入りのかわいらしい弁当。右手に持った無骨な塗り箸と、キャラクターの柄が入った小ぶりな箸。その持ち手までもが、まるで鏡に映したかのように対称的だった。
昼休み――
それは授業時間という鎖に縛られた僕たち生徒が唯一、授業という懲役から解放された自由な時間だ。たとえ青陵高校の底辺をフナムシのように這い蹲る僕たち補習クラスの生徒でさえも、高校生活を送る上での最低限の権利は保護されている。
自由に空気を吸う権利。
自由に廊下を歩く権利。
そして自由に異性と食事する権利だ。
いま僕は、たった一人の邪魔者によってその権利を侵害されている。僕は断固抗議したい。なぜ別の教室で夏期講習を受けているはずの姫小町林檎が、我々の教室で、僕や一ノ瀬と昼食を共にしているのだ。
「りんご、お前、なぜそこで昼飯を食っている」
「別にいいじゃない。あたしにだって友達とお昼を一緒する権利はあるわよ。それとも何? あたしがいると何か都合でも悪いのかしら?」
りんごは不機嫌そうに、横目で僕を睨んでくる。
「ああ悪いね。ものっすごく悪いとも。僕と一ノ瀬はこれから昼食を取りながら、黒板に出題された難問について議論するところだったのだよ。僕らは手と手を取り合い、目の前にそびえ立つ人生の大きな壁を乗り越えようとしているのだ。分かるか? りんご」
「分がんね。喋んな。脳みそが腐る」
りんごはエビフライの尻尾を箸でつまむと、僕めがけて投げつけた。額に当たった残骸は、海苔の跡が残った白飯の上に落下した。何と勿体ないことを。僕は海老の尻尾をひょいと口に放り込んだ。香ばしい海老の風味が広がる。
「そこはかとなく、りんごの唾液の味がする」
「ぎゃあ、変態! 出せ! いま口に入れたものを出せ!」
「これで僕とお前は間接チューの間柄だ。ざまあみろ」
りんごは箸を持っていない方の手で僕の顎を掴み、口を開けさせようとする。だが僕は必死でそれに抵抗した。いつも僕に嫌がらせをする罰だ、思い知るがいい。
箸で刺した唐揚げを口に運ぶでもなく、一ノ瀬は僕とりんごのやりとりを漫才でも観るかのように、カラカラと笑いながら眺めていた。
「それよりクルに質問させて貰うけど、難問ってひょっとしてこれのことじゃないわよね?」
りんごは呆れ果てた表情で黒板を指し示した。
「三十分の一足す四十分の一って、これ小学校の問題でしょ? こんな簡単な問題が解けないの、全国の高校生の中でクルだけだよ。なのはなら楽勝だって」
僕とりんごの視線が一ノ瀬に集中した。
「当然、楽勝よぉ」
「瞳を小刻みに揺らしているのが何だか気になるが。そうか。分からないのは僕だけか」
「よく高校に入れたね。奇跡としか言いようがないわ」
ふん、りんごめ、ほざけ。この世の中は数学の方程式通りにはいかない。つまり役に立たない方程式など知る必要がないのだ。
お弁当を忘れたお兄ちゃんを、足の速い弟が何分後に追いつくか? そんなものは学校に着いてから弁当を渡せばいい。蛇口を捻ってから何分後にお風呂が満水になるか? そんなものホーマックにでも行って、お風呂ブザーでも買ってこい。
正解は数学のようにひとつではないのだ。
「クル、いま頭の中で世の中は方程式通りにいかないとか何とか、おかしな屁理屈こねたでしょ。学校の勉強は基礎を教わるんだから、直接、何かに役立つわけじゃないからね」
何故分かった?
「読心術なんか身に着けていると、一生独身だぞ」
「クルには時々オヤジが憑依するみたいね」
「ふん。いずれにせよ、方程式など、僕には知る必要のないこと(ニードナットゥノウ)だ」
知る必要のないこと、か。何も知らないというのは幸せなことだ。現在この町で起こっている、およそ現実離れした事件を、この二人は知らないのだから。
――悪霊。
桜の死に神曰く、悪霊とはこの世に存在する物質の魂の残り滓。つまりはゴミだ。そのゴミが腐敗し、形を変えることで悪霊に変異し、新鮮な人間の魂を求め、そして喰らう。その悪霊に僕らの知る人物が犠牲になった。その事実をこの二人が知ったらどう思うだろうか。きっと悲しむだろうし、悪霊に恐怖もするだろう。
竜峡は四肢を引きちぎられ、想像もできない痛みの中で突然の死を迎えた。柿原は身体を真っ二つに斬られ、痛みを感じる間もなくこの世を去った。彼らはそれぞれに悩みを抱えていた。それを悪霊につけ込まれ、命を無残に散らすことになったのだ。
僕は彼らの最期に立ち会っていながら、彼らに何もしてあげられなかった。彼らが悩んでいることに気が付くことさえできなかった。彼らはいま、僕を憎んでいるだろうか。僕を恨んでいるだろうか。
そしてあんな酷たらしい最期を迎えたことを、僕は二人に伝えられないでいる。もし許されるなら、この先ずっと隠しておけるものなら、一生僕の胸に仕舞い込んでしまいたい。世の中には、知らない方がいいことがあるのだ。
怖いのはりんごの洞察力だ。今はただ彼女が昨日の話題に触れないことを祈るだけだ。
「そういえばクル、昨日渡したプリントどうした?」
早速キター。
「あー、あれだ。その……」
「ごめん、あれ間違えて渡しちゃった。夏期講習のプリントなんか渡されても、クル困るよね。ごめんね? こっちが本物だった」
言い倦ねている僕の言葉を遮って、りんごは「夏休みの心得」と書かれたプリントを、スカートのポケットから取り出し、僕の目の前に広げて見せた。
「さすが林檎ちゃんだねぇ。本当にガッキーの奥さんみたい。いいなぁ。羨ましいなぁ」
一ノ瀬の言葉になぜか赤面して俯くりんご。しかし僕は、そのりんごとの会話に、強烈な違和感を覚えずにはいられなかった。
「ちょっと待て、りんご。お前、いま何て言った?」
「何よ。そんなに怒んないでよ……本当に間違えたんだから仕方ないでしょ? でも別にいいよね。こんな小学校のプリントみたいなの、別になくたって困らないし、むしろ困ったのはあたしの方なんだからね」
「いやそうじゃない。起こっているわけじゃないんだ。気のせいかもしれないが、さっきの言い方だと、まるでプリントを僕に渡すのが目的みたいに聞こえたものだから」
「……は? そうだよ。違うの?」
「違うだろう。昨日お前は僕に『プリントを柿原の家に持って行ってくれ』って頼んだよな? 分かるか? 僕にプリントを渡すことが一義的な目的じゃなくて、お前が柿原の家にプリントを持って行くのを嫌がったから、僕が柿原に届けるためにプリントを受け取ったんだ。つまり最終的にそのプリントを受け取るべき相手は、僕じゃなく柿原だ。そうだろう?」
語気を荒らげる僕に、りんごと一ノ瀬は、きょとんとした顔で互いに見合った。
「クルの方こそ、何をおかしなこと言ってるの?」
「何ってお前……」
ああ、そうか。理解した。きっと僕は、からかわれたのだ。僕はプリント一枚で、見事にりんごにからかわれたのだ。そしてあの惨劇を目の当たりにしたのだ。いや、もしかするとあの惨劇を含め、今まで起こったこと全てが、ドッキリだったのかもしれない。もしそうなら、あまりにも悪質な冗談ではあるが。だが冗談ならそれはそれで構わない。
「ねぇガッキー?」
りんごと一ノ瀬は、同時に僕を見た。
「――柿原って誰?」