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期待と不安が交差する校舎前。真新しい制服に身を包んだ生徒達。校庭に咲く満開の桜が、まだ生え揃わない芝生に淡色の絨毯を敷き詰める。南から吹いた一陣の風が、桜の絨毯を地吹雪のように巻き上げ、周囲を薄紅色に染め上げた。
校舎前に張り出された大判の上質紙を、ぼんやりと見上げていた。クラスの名前が表記されたすぐ下に、氏名が五十音順に列記されている。
あちこちから悲鳴にも似た歓声が上がる。そちらに目を向けると、女子生徒が友人と思しき生徒と手を取り合って小さく跳ねていた。周囲をよく見ると、そこかしこで同じような光景が見られた。
その中で、僕はポツンとひとり、取り残されようにそこにいた。
僕はここで三年間を過ごすことになるのか。ここから始まる毎日に漠然と思いを馳せてみるが、特段なんの感慨も湧いてはこない。
数日前まで小学生だった人間が中学生になるという事実。それは就学場所がA地点からB地点に移動する程度のことであって、特別な理由が存在する場合を除き、誰しもが経験する小さな変化でしかない。そこに特別な感情など湧こうはずもなかった。
そんな僕の前に、彼女は突然現れた。
「ねぇ、キミ何組ぃ?」
僕はうまく言葉を紡ぎ出すことができなかった。彼女はそれを察したのか、
「あ、ゴメンね。馴れ馴れしかったかなぁ? よく言われるんだよね、お前は相手のパーソナルスペースに不法侵入してくる軽犯罪者だってぇ」
そう言って人懐っこい笑顔を向けた。
「あ……うぅ……」
「……ん? どしたのぉ」
彼女は不思議そうに小首を傾げた。
色素の抜けた少し傷んだ髪。ぱっちり開いた大きな黒い瞳。彼女には周囲の人間とはどこかしら違う、個性のようなものを感じた。
同じ制服を着て同じ靴を履いているはずなのに、彼女が持つ存在感は、他の誰とも違う輝きを放っていた。しかし、それはまるで電球のフィラメントが切れる前に見せる、一瞬の輝きのように、切なく儚い瞬きのようにも見えた。
「あれれぇ? キミって……」
彼女は下から見上げるようにして、僕の目を覗き込んだ。
僕は、僕をまっすぐに見据える瞳が苦手だ。心の内を見透かされているように感じるからだ。この時の彼女の瞳がまさにそれだった。僕は彼女の目を直視することができずに、視線を逸らした。無意識だった。
「ああっ! いま無視した。キミ、わたしのこと無視したでしょぉ」
「ああ……うう……」
言葉が出なかった。無視した訳じゃない。ただそれだけを伝えたいだけなのに、喉の奥で何かが絡まったみたいに、うまく言葉を発することができない。
そんな僕の様子を見て、彼女はやはり不思議そうに小首を傾げた。
「うぅん? ……ま、いっか」
飽きっぽい性格なのだろうか、次の瞬間にはもう、彼女は別の生徒に話しかけていた。おそらく話しかける相手は僕でなくても、他の誰でも良かったのだろう。たまたま僕がそこにいた。だから話しかけてみた。さして意味のない行動。彼女、一ノ瀬なのはにとっては、きっとそれだけのことだったのだ。
だが僕にとってはそうではない。邂逅ともいうべき出会いだったのだ。
その日を境に、まるでフィルターを通したように、くすんで見えていた毎日の風景が一変した。彼女と出会ったことで、朝露に輝くベランダの朝顔みたいに、見る景色全てがキラキラと輝き出した。
彼女の姿を自然と目で追ってしまう。彼女の声に無意識に反応してしまう。意識するつもりはないのに、僕の意識は勝手に彼女へとアンテナを向けてしまう。
――嘘だ。本当は気付いていた。僕は完全に彼女のことを恋愛対象として見ていた。
でも僕なんかが彼女のことを好きだなんて、他の連中に知られたらどうしよう。気味悪がられるかもしれない。冷やかされるかもしれない。そうしたらきっと彼女を困らせてしまう。だからそれだけは絶対に避けなければならなかった。万が一にでも、口を滑らすようなことがあってはいけなかった。
「クルってさ、最近いつもなのはのこと見てない?」
りんごに感づかれていた。しかし僕はあくまで平静を装う。
「そりゃあ見るだろ。へちゃむくれのりんごなんかを見るよりも、きれいどころの一ノ瀬を見ていた方が精神衛生上よろしいだろ? 十人中十人の男子はそうするはずだ」
「へちゃむくれって何よ! しかも『なんか』って言った! こう見えてあたしだって結構モテるんだから。ラブレターだってもらったことあるんだからね! イーだ!」
りんごは顔をくしゃくしゃにして「イー」をした。
「そうやってムキになるところが、お子ちゃまだってんだよ」
「何よ、あとで泣いたって知らないんだからね。死んじゃえ!」
りんごは機嫌の悪いゴリラのように、外股で足を鳴らしながら行ってしまった。
「ねぇガッキー、林檎ちゃんの生着替え写真あるけど、買わない? 安くしとくぜぇ」
「フッ……いらんな、そんな貧乳幼児体型女の着替え写真など。そんなマニアックな代物、たとえ2チャンネルの住人だって欲しがるやつなんかいるものか。おっと失礼、幼児好きの小学校教諭辺りなら買うかもしれんな」
二年に進級した頃には僕と一ノ瀬との関係は、普通に会話ができる程度にまで進展していた。とは言え、親密になったという程ではない。りんごが一ノ瀬を紹介してくれたおかげで、友達の友達としてただのクラスメイトよりは距離が近付いた、という程度のものだ。
「おっと、いまの台詞は録音させてもらいましたぜぇ?」
「待て、一ノ瀬。いくらだ? いくらで取引する?」
「一〇〇チロルでどうかね?」
「フッ……僕も甘く見られたものだ、八〇チロルだ」
「仕方ない、取引成立だぁ。……ところで写真はいくらで買う?」
そう言って僕らは笑い合う。
一ノ瀬は笑うと目が針のように細くなる。その笑顔を見るためなら、僕は何だってできるとさえ思えた。たとえ他の何を失ったとしても。
想いは加速度を増して大きく膨らんでいった。
二年の一学期も終わり頃になると、僕は一日のほとんどを、彼女のことを考えて過ごすようになっていた。
「僕は僕の気持ちを彼女に伝えよう」
それからそう決心するまでには、さほど月日を要しなかった。僕は自分の中で作り上げた戒律を、いとも簡単に壊そうとしていた。
僕は彼女に手紙を書いた。自分の中から沸き上がる思いの丈を、二枚の便箋に全てぶつけた。自分の口で直接伝えることは憚られた。返事を聞くのが怖かったからだ。だから感情を持たない手紙に、僕の想いを託したのだ。
しかし、その手紙が彼女の手に渡ることはなかった。
僕は周囲がまるで見えていなかったのだ。
告白しようと決心した翌日、校門前で僕は彼女の後ろ姿を発見した。
手紙を渡さなきゃ――。
声を掛けることに一瞬だけ躊躇する。手紙を渡すというだけの何気ない行為が、これほどまでに恐怖するものだとは思わなかった。僕は胸ポケットの中の手紙を再度確認し、自分の中の勇気を奮い立たせ、震える声で彼女に声を掛けた。
「一ノ瀬――」
絞り出した声は途中で途切れた。
彼女の隣には林田の姿があった。林田の腕に自分の腕を絡ませ、顔を寄せるようにして話している。彼女の顔は幸せそうに見えた。僕はそれを呆然と見送った。
僕じゃなかった。
彼女が必要としている場所は、僕の隣じゃなかった。
何を思い違いしていたのだろう。
僕が一方的に想いを寄せていただけだ。彼女は僕のことを、ただのクラスメイトとしてしか見ていない。気持ちを伝えて何かが変化するとでも思ったか。僕に気持ちを伝えられて、彼女が喜ぶとでも思ったか。きっと困らせるだけだ。そんなことは最初から分かりきっていたじゃないか。
それから二年が経過した。
僕は彼女と同じクラスで高校生活を送っている。