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『ねぇりんごちゃん、見てよ。四つ葉のクローバーを見つけたんだ。これを持ってると幸せになれるんだって。あげるよ』
空中に飛散した記憶の欠片が仄かな光を明滅させた。
記憶の欠片――。
柿原が何を見、何を思ってきたか。本人亡き現在、それを知ることに意味などない。
『くれるの? ありがとう。カキハラはやさしいね』
差し出された四つ葉のクローバーを、りんごは満面の笑みで受け取った。
一面を緑に囲まれた丘。そこには無邪気な子供の頃の柿原とりんご、そして僕の姿があった。
『なんだそれ、美味いのか?』
鼻をほじりながら面倒そうに草弄りをする僕に、振り向いたりんごの顔が憮然とする。
『クルは食べ物の話ばかり。カキハラみたいにロマンチックなこと言えないの?』
『その葉っぱ、あれだ。正月のお粥に入れるやつ、苦い葉っぱだ。美味しくないぞ』
りんごは日焼けして真っ黒になった頬を、プクリと膨らませた。
『こらーっ! 謝れ。カキハラとあたしに謝れ!』
りんごは幼い僕の胸ぐらを掴み上げた。そのまま僕の頬にビンタを張る。右の頬を叩いたら、返す手の甲で左の頬を叩く。僕の顔は、叩かれた反動で、右に左にコミカルな動きを見せる。そういえばこんなことは、僕らの間では日常茶飯事だった。
『りんごちゃん、あのね!』
もじもじしながら幼い頃の柿原は、地面に向かってりんごの名を呼んだ。Tシャツの裾を握りしめた拳が微かに震えていた。消え入りそうな声で柿原は続ける。
『ぼく、りんごちゃんのこと……』
だがりんごは、そんな柿原のことに、全く気が付いていない。
柿原は言葉の先を繋ごうと大きく息を吸った。意を決して顔を上げたその先に、りんごの姿はいなかった。りんごの瞳の中に柿原はいなかった。
記憶の欠片は、その光をさらに弱々しく明滅させた。
僕は別の欠片を手に取った。
中学の制服に身を包んだりんごが、何かを思案するような表情で歩いている。歩くスピードが遅いために、同じ制服を着た生徒に次々に追い越されている。柿原は同じ制服の後ろ姿の中からりんごの姿を見つけると、一瞬だけためらってから声を掛けた。
『おはよう林檎ちゃん。今日は雲ひとつない良い天気だね。絶好の図書館日和だと思わないかい?』
『あら柿原、おはよう』
どこかうら寂しげな表情。しかしりんごは、すぐに取り繕った笑顔を顔面に貼り付けた。泣き出しそうな笑顔。そこから何かを悟ったように、柿原の表情もまた曇り出す。
柿原に気を遣わせた事を察したのか、りんごは夏の空を見上げ、当たり障りのない話題で会話を繋ぐ。
『まったく気持ちの良い天気よね。でもさ、こんな天気の良い日に、わざわざ図書館まで足を運んで読書ってどうなのよ?』
『図書館は静かだし、それに活字を目で追っていると、気分が晴れ晴れしてこない?』
『晴れ晴れどころか頭が痛くなるわよ』
りんごはこめかみを押さえて再び天を仰いだ。
『ねぇ、それよりあんた高校はどこに行くの? どうせ海星とか南あたりの有名な進学高なんでしょ? あたしゃどこでも選り取り見取りのあんたの頭が、羨ましくてしゃあないわ』
『林檎ちゃんは? 林檎ちゃんはどうするの?』
『進学校でビリよりも、バカ学校でトップの方が精神衛生上よろしいかなって。だから市内の高校でいいんだ。あたしは青陵に行くよ』
『あのさ……』
柿原はりんごに何かを言いかけて、その言葉を飲み込んだ。
記憶の欠片は、そのほとんどが消えていた。
僕は僅かに残った欠片のひとつを手に取った。
青陵高校の制服を着たりんごは、快活な笑顔を見せていた。その隣には同じ制服を着た僕の姿があった。りんごはしがみ付くようにして、僕の腕に自分の腕を廻している。
『コラァ、クル逃げるな! あんたさっき小学生の胸ガン見してたでしょ。目が犯罪者の目だった! ほら警察行くよ。自首すれば少しは罪が……。あ、コラ。待てーッ!』
柿原の記憶の中の僕は、僅かな隙を突いてりんごの腕からするりと逃げ出した。そして僕は、まさに脱兎のごとく逃走を開始した。ひらひらと布きれが風に舞うように、僕の背中がどんどん遠くなる。
りんごは近くに落ちていた石ころをひとつ拾うと、パンツが見えるのもいとわず、足を高々と上げて、オーバースローで石を投げつけた。石は寸分の狂いもなく、僕の後頭部にヒットした。僕の後頭部から、真っ赤な鮮血が霧のように散った。
『待ちなさい。この犯罪者ぁっ!』
りんごはその後も僕を追った。二人の姿が小さくなる。
『まただ』
その様子を校舎の陰から見ていた柿原が、口の中で小さく呟いた。
『また林檎は胡桃を見ている。あいつのことしか見ていない』
爪の先がコンクリートの壁を引っ掻く。
『何故だ! 何故だ何故だ何故だ!』
柿原の爪が剥がれ、コンクリートの壁に血の跡が伸びる。
『僕はこんなに林檎のことを愛しているのに。小さな頃から林檎だけを見てきたのに。林檎のために志望校を変えてまで青陵に入学したのに。何故だ! 何故、林檎は僕を見てくれないんだ。何故、何故、何故、何故!』
校舎の壁に自分の頭を打ち付ける柿原。叫声を上げながら、柿原は何度も、何度も、壁に頭を打ち付けた。
その時、柿原の携帯電話が、物悲しげなメロディと共にリズミカルに振動した。メールの着信を知らせるメロディだった。
無題のメールには、サイトのURLが貼られた本文だけが表示されていた。
『噂を語り合うスレ』
そこにはこうあった――。
『誰もが自分だけを見つめてくれるようになるカメラがあるらしい』
情景がゆっくりと暗転し、記憶の欠片は全て消え去った。
愛情の暴走――。
「柿原、お前。りんごに自分の気持ちさえ伝えてないじゃないか……」
血だまりに内臓を撒き散らした柿原の抜け殻に、僕は苛立つ気持ちをぶつけた。
そんなものに頼るなよ、と――。