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「そういうことで、後はお願いします。先生」
「こら逃げるな! あんたも一緒に来るのよ」
柿原はいつの間にか姿を消していた。しかし所詮は家の中だ。そう遠くへは逃げられまい。僕と桜は家中を捜索する。
竜峡小梅の時のことを考えると、悪霊は柿原の魂を餌にしている可能性が高い。彼の顔つきの変貌ぶりから、相当に魂を消費していることが想像できる。そして次にそのカメラを使った場合、この世界に自分の姿を存続していられるという保証はどこにもない。
リビングの扉を開ける。そこには男女二人の亡骸が転がっていた。柿原の両親だった。
優しかった二人の顔が、恐怖に歪んでいる。内蔵を喰いちぎられ、片腕までも引きちぎられていた。腕が付いていた場所の断面には、黒く変色した肉片に包まれた、クリーム色の骨が覗いている。部屋中に飛び散った黒い血液が、まるで書道の筆ででたらめに書き殴ったように、壁に掠れた直線を引いていた。
「クェェェェェェェェェェェェッ」
「キェェェェェェェェェェェェッ」
遺体の周辺を浮遊していた悪霊が、僕の姿を見つけて襲ってきた。
「気の毒に。そこの遺体の魂が悪霊化したのだろう」
「何だって!」
木魚のような形をした悪霊二匹が、その身体の大部分を占める口をパクパクと開閉させながら飛び掛かってくる。
「おじさん、おばさん。やめて! 僕です、胡桃です。正気に戻って! お願い!」
僕は二人に呼び掛ける。
「無駄よ」
おじさんとおばさんが、桜色の大鎌によって鰺の三枚おろしのように切り捌かれ、ボトリと床に落下した。切り身はプルプルとその身を震わせると、煙のように蒸発して消えた。
「新鮮な魂を欲する欲求は強力なものなのよ。呼び掛けたところで理性を失った彼らに届くとは思えないわ。人間が持つ性への欲求よりも遥かに強いと言えば、その強さが胡桃にもよく分かるでしょう?」
「くそっ、あんなに優しかったおじさんとおばさんが……」
家の中は滅茶苦茶に荒れていた。壁と天井にはりんごの写真が隙間無く、みっしりと貼られているのだが、それ以外の場所には、壊れた家具や家電があちこちに散乱していた。
一階の全ての部屋を探したが、そのどこにも柿原の姿はなかった。家の中央に二階へと続く階段がある。柿原がまだ外に出ていなければ、残りは二階ということになる。
「そういえば、あいつの部屋は確か二階だったはず。そこにいるかもしれない」
「急いだほうがいいわね。彼、憑依されているかも」
「憑依?」
「悪霊の能力のひとつよ。映画とかで見るのと基本的には同じ。ただ映画とは違って、魂を喰って空いた肉体のスペースに悪霊が入り込むのよ。だから最初は窮屈ですぐに肉体から離れてしまうんだけど、あれだけ自然に肉体とリンクしているとなると、もうかなりの魂を喰われているはず」
「憑依されていない可能性はないのか?」
「もちろんその可能性がない訳ではないわ。単純に性格が歪んだとも考えられる。でもリビングにあった死体の状態は、とても人の手によるものとは思えないでしょう?」
「柿原本人が両親をその手に掛けたと言うのか」
ふと僕はひとつの疑問に行き当たる。
「じゃあなぜ柿原に取り憑いたその悪霊は、柿原の両親の魂を直接喰わなかったんだ? 新鮮な魂への欲求は性欲より強いんだろう?」
「断言はできないけど、きっと公衆電話の悪霊のように、直接魂を喰う手段を持たないタイプの悪霊なんだと思う。何かを介して魂を喰らう」
「それがあのカメラって訳だな。話が繋がった。了解、突入しよう。桜が」
「だから、アンタも来るのよ。直接魂を喰われることはないんだから」
でも肉体をケンタッキーみたいに喰われるだろうが。喉まで出掛かった言葉を呑み込んだ。
果たして柿原の部屋には柿原本人がいた。手には例の古めかしい一眼レフカメラ。それは黒い靄に包まれ、その正体が悪霊であることは、もはや疑う余地がない。
柿原はカメラを額に当て、目を瞑り、何かを念じるようにしてシャッターに指を掛けた。
はて? どこかでこれと同じような場面を見た気がする。どこで? 何で見た?
桜は柿原にジリジリと近寄りながら言う。
「超能力者もどきがやるのとは訳が違うぞ。妄想を確実に写し出す代わりに、対価として自分の魂を確実に支払わねばならない。いいのか? 自身の命を削るのだぞ」
そうだ、念写だ!
家中に張られたりんごの写真。あれほど大量の写真を、いったいどれだけの魂と引き替えに手に入れたのだ。柿原は馬鹿野郎だ。そんなものでしか、りんごを振り向かせることができないというのか。
柿原の指先に力が入る。
「ダメだ柿原! それを押しちゃあ!」
「僕の林檎はあああ、誰にも渡さないいいいいいッ!」
彼をこの世に引き留めるためには、僕の声は一瞬だけ遅かった。
シャッターがボディに沈み込む。それと同時にカメラを覆っていた黒い靄がカメラ本体に吸収され、次いで柿原の腕を伝いながら口の中へと吸い込まれた。柿原の腹部を野球ボール大のものが暴れ回る。やがてカメラから一枚の写真が吐き出され、雑然とした床にひらりと落下した。
「のおおおおおおおおおおおおん、のおおおおおおおおおおおおおん」
白目を剥いた柿原が奇声を上げる。泡と涎が半開きの口から溢れだし、柿原の細い顎を伝って床へと延びる。咆哮を上げる度に大きく開かれた口の奥から、二つの仄赤い瞳がこちらを覗いている。柿原は悪霊によって完全に憑依され、正気を失ったのだ。
「残念ながら手遅れだったようだ。仕方ない――彼を斬る」
桜は桜色の大鎌を身体の正面に構えた。歪に湾曲した大きな刃先が、窓から差し込む太陽光線を冷たく反射させた。
「ちょっと待ってくれ。斬るって言うけど、それって何とかなるんだよな? 悪霊だけやっつけるとか、改心させるとかさ。まさか柿原が真っ二つになっちまうとか無いよな?」
死に神はちっと舌打ちをし、僕から顔を背けた。
「おい頼むよ。殺さないでくれよ。あんなになっても一応、親友なんだよ」
「お前正気か? あんな風に白目を剥いてノンノン叫んでいるのがお前の友達なのか? それともお前のその二つの眼はガラス玉か? 現実をよく見るのだ」
「く……」
予想は付いていた。そんな上手い話などある筈がない。だからこそ必死になったのだ。柿原が完全に憑依される前に、こうなることを未然に防ごうとしたのだ。
「あれはもうお前の親友ではない。悪霊に完全に憑依されたあれは『写真機の悪霊』。指名手配中のB級霊よ!」
のろのろと緩慢な動きから一転。写真機の悪霊は、小動物を思わせる俊敏な動きで一気に間合いを詰め、僕に襲いかかってきた。昔、どこかで見たゾンビ映画のように、柿原は大きな口を開けて、僕の脳天へ目掛け、飛び掛かってくる。避けられない。
「脳を喰われる」
「コイツの脳みそはエロいことでいっぱいよ!」
僕の脇腹にヒールの踵が突き刺さる。
「だから何故に僕を蹴る!」
僕の身体は部屋の薄い壁を突き抜け、更に廊下の窓をも突き破った。空中に投げ出された僕は落下し、玄関の庇で背中を強打し、そして固い地面に叩き付けられた。しかし結果だけを見ると、僕は柿原の襲撃から間一髪で救われたことになる。強打した背中より、ピンヒールの踵がヒットした肋骨の方が数倍痛い。
「のおおおおおおおおおおおおん、のおおおおおおおおおおおおおん」
直後、二階の窓ガラスが一層大きな破砕音を響かせた。それとほぼ同時に、桜と悪霊化した柿原がもみくちゃになりながら、窓の外に投げ出される。桜は空中で柿原を蹴り離すと、軽快な足取りで地面に着地した。
桜に蹴り出された柿原は、バランスを崩したまま頭から地面に落下した。衝撃で柿原の首はあらぬ方向へと折れ曲がり、首の皮だけでかろうじて繋がった状態だ。落下した際に、おかしな角度で地面に引っ掛かった片腕が、まるで石膏像が壊れるように肩からもげ落ちた。既に痛みは感じないらしく、身体の持ち主に痛がる様子はまるでない。しかしそれは目の前の柿原が、もはや僕の知っている柿原ではないことを証明していた。