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「何だ。従兄妹なら最初からそう説明すればいいのに」
「言ったよね。何度も言ったよね。話を聞かないで殴るなんて非道い」
「またクルの悪い虫が顔を出したかと思って」
「そんな虫、飼ってないから!」
真上から照りつける容赦ない太陽の下、僕とりんごは青陵高校へと向かっていた。今年の夏は取り分け暑い。シャワーを浴びてきたにも拘わらず、ほんの少し歩いただけで、汗が止まらない。開襟シャツが、肌に不快に貼り付く。額から吹き出した汗が頬を伝い、アスファルトに黒い点を打っては消える。
歩道に立つ街路樹の陰を渡り歩きながら、僕とりんごは休み休み学校へと向かう。
「そんなペースじゃ、また遅刻しちゃうよ」
りんごは小言を並べながら僕の数歩先を行く。
丘の上の学校へと伸びる長い坂道。その先にある校舎の姿が見え始めた頃、遠くに始業のチャイムが聞こえた。腕時計の文字盤は午前八時三十分を差していた。
「ほらー、遅刻しちゃった」
りんごは腰に手を当てて頬を膨らませた。しかし、仕方ないとでも言いたげなため息をひとつ落とすと、
「ま、いいや。サボっちゃえ。一度やってみたかったんだ、これ」
「優等生のお前にしては珍しいな。いいのか? 本当に」
「夏期講習だしね。それに……」
「それに……何だ?」
「何でもない。あたしはクルと違って、一日くらいサボっても成績落ちないしね」
「どうせ僕は頭が悪いですよ」
僕はいじけて見せる。僕がやっても全然かわいくないのだけれど。
「あのね、クル。柿原のこと覚えてる?」
「柿原って、柿原徹也だろ?」
「そう、柿原徹也。未来の生徒会長との呼び声が高く、優等生で人格者と専ら噂の。小さい頃クルに苛められては泣いてイジけていた、現生徒会庶務のあの柿原徹也よ」
「おお、あの柿原か。泳げないくせに川に飛び込んで、溺れて流された挙げ句に死にかけたところを近所の大人に助けてもらった。あの柿原が未来の生徒会長とはな。人間、変われば変わるものだ」
「クルの場合は変わらなさ過ぎ。もう少し大人にならないとね」
そう言ってりんごは、僕に向けて「イー」をした。
「それで、その柿原がどうした?」
「うん。その……ね?」
りんごは言いにくそうに、上目遣いで僕を見上げる。
僕は彼女のこの態度が何を意味するかを知っている。幼い頃から兄妹のように育った僕には、彼女の言いたいことが、まるでテレパシーのように伝わってくるのだ。
「コンビニ……寄るか?」
「は? 何でコンビニよ」
「おしっこだろ?」
「違うわよ。バカ」
どうやら弘法は筆を誤ったらしい。
「デートに誘われちゃった」
「ヘイ、トニー! 黄昏れちゃった?」
親指立てちゃった。
「違う! 親父ギャグは嫌いだし、わざわざ日本くんだりまできて黄昏る外国人の友達もいない。そうじゃなくて、デートに誘われたの! 柿原に!」
「デート?」
彼女の真意を理解できず、僕は思わず足を止めた。俯いたりんごが、数歩進んだ先で足を止めて振り返る。彼女は僕の反応を窺うように、じっと見つめている。
「デートってあれか? 男女が親交を深めるために、遊園地や動物園に意中の相手を呼び出して、その帰り道に迷ったフリをしてホテル街に誘い込み、テレビが見たいだのお腹が痛いだの言って、喰った喰われたの攻防戦を繰り広げる、あれか?」
「途中までは良かったけど、後半制球に苦しみ九回裏、逆転サヨナラタイムリーを打たれたピッチャーの気分だわ。クルの頭の中はそんなことでいっぱいなのね、最っ低!」
りんごは呆れたように、大きなため息をひとつ落とした。
「つまらない冗談はさて置き、まあ良かったじゃないか」
「良かった……の?」
「違うのか? お前を魅力的だと感じてくれる奴がいたんだ。この場合『良かった』だろ? それでお前ら、付き合うのか?」
まるで、子供が泣きたいのを我慢して、無理して笑った顔だった。
「いいの? クルはそれでいいの?」
「いいも何も、お前が幸せになるのを、邪魔する権利は僕にはないだろう?」
「本当にそれでいいの?」
「柿原はいい奴だしな。ちょっと頼りないところはあるけど」
坊主頭の無邪気な笑顔を思い出した。
「いいの? 毎朝ご飯作ってくれる人がいなくなるんだよ? 本当にそれでいいの?」
「ダメだ。それは困る!」
僕はピシャリと言い放った。
「だって餓死する自信がある」
さっきまでの表情が一変し、りんごは勝ち誇ったような顔になった。
「でしょでしょ? それでね? クルにお願いがあるのよ」
「猫撫で声を出すな。それはキャバクラにお勤めのお姉さんの専売特許だ」
僕の発言を聞き流しつつ、りんごはうさぎの顔をモチーフした肩掛け鞄から、プリントでぶ厚く膨らんだクリアファイルを取り出した。
「このプリントを柿原の家に届けて欲しいの。あいつ、一学期の始め頃から、学校を休んでいるらしいのよ。同じクラスの人や先生が、家を訪ねてはいるみたいなんだけど、呼び鈴を押しても誰も出ないらしいの。でも家には物音がしたり、誰かがいる気配はするらしいんだよね」
「家族総ニートって奴か」
僕は心配そうな表情をつくって見せた。
「国民総生産みたいに言わない。そんな日本語は聞いたことがありません」
「それで、家も近いし小学校からの仲良しグループだったお前に、白羽の矢が立ったという訳だ」
「そうなのよ。でもデートを断って気まずいし」
「何だ、既に断っていたのか」
「うん。それに最近の柿原、何か様子が変って言うか、気持ち悪いって言うか……」
「様子が変? 生徒会の活動が忙しくて疲れていたんだろう」
「そうかもしれないけど目つきがね、何かに取り憑かれたみたいに、どこを見ているのか分かんなくて、顔つきも病的になったっていうか。とにかく昔の柿原じゃないのよ」
縋るような目をして、僕のシャツの袖を掴んで振り回すりんご。袖のボタンが飛んでビリッ、と破ける音がした。
僕はふと、数ヶ月前に会った柿原の姿を思い出した。
「そういえば柿原ってあいつ、写真部だったか?」
「写真部? うちの学校に写真部なんてあった?」
「いや無い。でもあいつ、少し前に高そうなカメラを持っていたぞ。一眼レフっての? プロが使うみたいな立派な奴。それでたまにお前のこと撮っていたみたいだぞ」
「げーっ。盗撮? 信じらんない」
「声を掛けたら慌てて逃げていったけどな。あいつ、インドアな奴で、趣味は読書とインターネットです、とか言いそうな奴なのにな」
「だね。柿原にしては意外な趣味だね」
今にして思えば、その時見かけた柿原は確かに疲れたような、少し病的な顔をしていた。生徒会の活動が忙しくて疲れているのだろうと思い、「あまり無理するなよ」と声を掛けたのだが、彼は顔に不気味な笑みを浮かべただけだった。
「それでその柿原のところに、僕に行けと?」
「……だめ?」
りんごが上目遣いで手を合わせる。
「自分で行けよ。お前が頼まれたんだろ?」
「お願い。キスしていいから。何なら舌入れてもいい」
「それは断固辞退させてもらう」
夏休み三日目――。
未だ補習出席の目処はつかない。