侵入
そして実験は、続けられた。
私は意識を失わないようにと、何度も何度も繰り返し、集中力を高めていった。
けれど、やはり最後には気絶するように意識を手離し、そして深い眠りに入ってしまう。
目覚めても相変わらず身体は重く、そうなるともう与えられるご飯も、喉を通らなかった。
自分の腕を見る。
少し、痩せたかなと思う。
そして、何か良い方法はないかと考える。
善光先生は、どうしているのだろうと考える。
何日の時間が過ぎたかも分からない、学校もどうなっているのだろう、エミりんは元気だろうか。
ぐるぐると考えを巡らせて、ひたすら巡らせて、この真っ白に閉鎖された部屋で考える。
トントンと、扉がノックされる。
私は寝たふりをし、気配でそれが竹澤先生と知る。
眠っているのか、と小さな声が掛かる。
私は、スースーと寝息をたてる。
けれど、心の中では、泣いていた。
泣いて、泣いて謝っていた。
泣きながら、謝り続けた。
ごめんね、先生、と。
何度も、繰り返し。
先生が髪にそっと触れていった。
それが指先だったのか、唇だったのか、よく分からなかった。
私は泣いていた。
✳︎✳︎✳︎
竹澤先生が、出て行った後。
しばらくしてからドアを開ける。
廊下には誰もいない。
最近ではドアの施錠はされていないのを知っている。
自分で勝手にトイレに行ったり、すぐ近くの休憩所の自販機で飲み物を買ったりすることが許されているからだ。
私の世話をさせられている女性の自衛官が、冷たい表情で念押しする。
「監視カメラが設置されていますので、不審な行動は遠慮してください。守られない場合は、即施錠しますので」
いつものようにトイレへ行く道を辿る。
この廊下。
どこまでも真っ白だ。
汚れが目立つだろうにと、要らない心配をしながら、私は廊下の壁に右手を沿わせながら、歩いていった。
トイレなら、次の角を右へと曲がらなくてはならない。
裸足の足に廊下のひやりとした冷たさと、今私の背中を映し出しているであろう監視カメラの気配を感じながら、私は一端、角を右へと折れた。
そして、直ぐに廊下に戻ると、精一杯の力で走り出す。
ペタペタと自分の足音が響くのを聞きながら、全力で突き当たりの扉に手を掛ける。
それは、いつも鍵の掛けられない扉だということは、すでに分かっていた。
飛びついてノブを回す。
ぎいっと重苦しい音をさせて、扉は開いた。
そこを抜けて、さらに全力で走る。
遠くの方で叫び声がして、見つかったことを知る。
うろうろしていると、すぐに捕まってしまうだろう。
私はここにいる間、一生懸命に頭に叩き込んだこの施設の地図を頭の中で広げながら走っていた。
竹澤先生の話ぶりや、食事を運んでくれる女性の自衛官の話を合わせて、ここに善光先生がいるのではないかと見当をつけていた場所を目指して、ひたすら走った。
それは、運を天に任せるような無謀な行動でもあった。
きっと、直ぐに捕まってしまうだろう。
そう思ってはいたけれど、意外にも部屋から遠くまでの距離をこれた。
「はあ、はあ、先生、どこ? 善光先生、どこにいるの?」
大きな声は出せない。
抑えた声で、目の前に出てくるドアに向かって片っ端から声を掛ける。
「先生、先生、どこ?」
バタバタと足音が近付いてくる。
私は周りを見回すと、壁の少し窪んだところに身を寄せた。
けれど、監視カメラの目は誤魔化せない。
どこにも逃げ場がないことを悟ると、私はその場で自分の両足を抱き締めて、丸くなった。
捕まって、またあの部屋に戻されて、実験が繰り返される。
その実験ももう、私の意思は必要なかった。
ドームに連れて行かれ、先生と二人きりになり、何も言わずにそれは始まり、そして私は意識を持ち去られる。
「先生、」
呟くと、丸井のおじいさんに祝賀会に連れて行かれた日を思い出す。
パーティー会場から逃げ出して、小部屋でこうやって丸くなって、先生が助けに来るのをひたすら待っていたっけ。
薄暗闇の中、先生が私を見つけてくれて、抱き締めてくれたっけ。
先生はもう、他の人とはデートしないって約束してくれたんだ。
私はもうそれだけで安心して、バカみたいに浮かれまくってた。
「先生、先生」
けれど、私の前に現れたのは、身の回りの世話をしてくれる女性の自衛官と、ドームに連れていかれる時に、いつも私の腕を引っ張り上げる男だった。
「あまり、手間をかけさせないでください」
女性が冷たい声で言う。
すると男性の方が、ちっと舌打ちをすると、愚痴を言い始めた。
「竹澤がっ‼︎ のんびりやっているお陰で、俺たちはいつまで経っても通常任務に戻れんのだ‼︎ 各務室長も、甘すぎる。竹澤なんかに大きな顔をさせているから、ちっとも先に進まないじゃないか。こんな手間だけかけさせやがって‼︎」
腕が千切れるかと思うくらいに引っ張りあげられる。
痛いっ、と私が男の腕を拳で叩くと、どんっと押されて、後ろに倒れた。
くるりと反転し、駆け出そうとすると、ぐいっと髪を掴み上げられ、ひどい痛みに悲鳴をあげた。
「嫌っ、やめて‼︎ 痛いっ、痛い‼︎」
私は髪を掴んで、引っ張り返した。
すると、足で背中を蹴られて、床に倒れた。
痛みで涙が滲む。
んん、と唸ると、その痛みは全身に広がっていった。
女性自衛官が、ちょっと暴力はやめてください、と言ったと同時に、もう少しで届きそうなくらいの壁の内側から、どかっどかっと何かを蹴り上げる音が聞こえてきた。
「瑠衣、瑠衣なのか‼ ︎何をした、何をしてるっ‼︎ やめろっ、乱暴するなっ‼︎ お前ら皆んな、皆殺しにするぞ‼︎」
どんどんと鈍い音をさせて、壁が揺れる。
先生の怪力でも破られない厚みのある壁が阻んで、先生の声もくぐもって小さい。
痛みに鈍っていた思考が、愛しい人を思い出させる。
「先生っ‼ ︎善光先生っ‼︎」
私は床に這いつくばっていた手を壁へと伸ばす。
あちこちの痛みに耐えて、膝立ちになり、壁に両手をついて触る。
善光先生がすぐそこにいると思うだけで、身体が熱くなる。
頬を。
壁に擦り寄せて、呟く。
愛しさを込めて、先生、と。
「善光に近づかせるなと、竹澤さんが、」
「何もできやしんさ。おい、早く連れていくぞ」
両腕を、二人がかりで引っ張りあげられる。
「嫌だっ‼︎ やめてえ‼︎ 先生っ‼︎ 」
どんっ、と音がする。
壁を蹴り上げているのか、拳で叩いているのか。
「やめろっ‼︎ やめてくれっ‼︎ 乱暴しないでくれえ、頼むっ‼︎ 瑠衣っ、るいぃっ‼︎」
泣いているようにも、懇願しているようにも、怒り狂っているようにも聞こえる。
先生のこんな声。
今までに聞いたことがない。
いつも横暴で。
口が悪くて。
すぐに怒って、憎まれ口を叩く。
それなのに今、こんなにも取り乱して、私の名前を叫び続けている。
私は我に返って、頭を巡らせた。
そうだ、この時のために、ずっと考えていたこと。
出来るか出来ないか、一か八かだけれど、これはチャンスだ。
こんなにも近くに先生がいる。
私は、指先に、脳に、細胞に、意識を集中させた。
回線を切断し、一切の思考をストップする。
そして、それから先生の姿を思い浮かべる。
そこに居る。
直ぐそこに。
この壁の向こう側に。
私は腕を、手を、指先を伸ばすようにして、神経を走らせた。
ギリギリまで研ぎ澄ませて。
そしてもっともっと、研ぎ澄ませて‼︎
この、手を伸ばした先に先生が居る‼︎
「せんせえ‼︎」
身体がふわりと浮く感覚。
腕を真っ直ぐに上げると、白い壁に手が当たった。
何だろう、この壁。
所々にヒビのようなものが、縦横無尽に細かく走っている。
そして、血が。
べっとりと。
吐き気に襲われて、視線を彷徨わせる。
自分の手。
ごつごつとした指。
その関節からも、血が滴り落ちている。
私。
じゃない。
この人、怪我をしている。
そう思った瞬間、はっと我に返った。
そして、先生、先生と、何度も叫ぶ。
「お、お前、俺の中、か?」
口が動く感覚があった。
その口を動かして、喉を鳴らして、伝える。
先生、やっと会えた。
腕が、動く。
今、先生は自分自身を抱き締めている。
「瑠衣、瑠衣……るい、」
何度も繰り返す。
名前を呼ばれているだけなのに。
ただそれだけなのに。
先生の愛情がそこかしこから、水が流れ込んでくるように止めどなく伝わってくる。
それは、乾き切ってしまった私の心に、じわりと染み込んでくる。
満たされていく、どんどんと。
先生、私の身体を返してもらって。
私がそう言うと、先生は目の前の壁に手をついて、ぐぐっと押し始めた。
ミシミシと嫌な音と共に、細かく入れられたヒビが徐々にそれを伸ばしていく。
次の瞬間、それは爆発した。
白い壁は、大きいものから小さいものまでの細々とした欠片にその姿を変えて、砕け散った。
ぽっかりと壁に穴があく。
その勢いで、前のめりになり、どんっと床に手をついて倒れるのを防ぐ。
すぐに顔を上げると、驚きの中の二人の自衛官と、ガクリと頭を垂らして両腕を抱えられている、私の姿があった。
その身体へと、手を伸ばそうとした途端に。
腕や足は動かされ、私が何かを思う前に、行動される。
善光先生が、その意思を持って、動かしているのだ。
そう、これは、この身体は先生の身体。
「ひっ‼︎」
「うわあぁっ‼︎」
目の前で、信じられないような光景が繰り広げられている。
自衛官二人の、恐怖に引きつった顔。
二人は私の身体を放り投げ、後ろを振り返りながら逃げていった。
ちょ、ひどっ。
打ち所でも悪かったら、どうすんのよっ。
「おい、瑠衣‼︎ 変なこと、喋んなよっ。俺、オネエ言葉になってんぞ‼︎」
諌められて、ごめんごめん、と苦笑しながら引き下がる。
先生は両手を広げると、今は空っぽであるはずの私の身体を抱き上げて、肩の上に乗せた。
え、やだっ、うそっ、パンツ見えちゃうよっ。
「瑠衣っ‼︎ だから‼︎ 変なこと言わせるなっつうの、勘弁しろって‼︎」
だって、パンツぅ、喋ろうとすると、強い口調で遮られた。
「もたもたしてっと、来ちまうぞっ!!」
善光先生は、私を抱えたまま、ずんずんと歩き出す。
先生を通して見る、私の目にはその景色が通り過ぎていくのが早過ぎて、視点が定まらない。
歪んだガラスを通して見せられているような景色に、少しだけ吐き気を覚える。
先生は、扉をどんどんと壊しながら進んでいった。
意識を集中しているのは私だけれど、身体を動かしているのは先生だ。
先生、エレベーターに乗って‼︎
そこ右っ‼︎
「分かった」
すぐに、その扉を開けたエレベーターに飛びのる。
これで良いのか、判断に迷ったけれど、1Fのボタンを押す。
すると、それまで順調に上がっていったエレベーターが、急にガクッと揺れて止まった。
「止められたか、くそっ」
先生は私を肩に担いだまま、扉をこじ開ける。
そして、それは驚くほど軽々と開かれた。
これが先生の力。
そして、これが私の力。
エレベーターは、一階の少し手前で止められている。
あと、少しの所なのに……と思った瞬間。
先生は私の身体を床に置くと、軽くジャンプし、エレベーターの天井と一階の床の隙間に手を入れて、腕に力を込めた。
嘘、そんな隙間から出ようとしているの?
「ああ、大丈夫だ。これだけ隙間があれば……くそっ、上がれ‼︎」
片手で身体を支えながら、もう片方の腕でエレベーターの天井部分を上へと押し上げる。
ギギギっと歯軋りでもするような嫌な音を立てて、エレベーターの天井が歪な形に変化しながら少しずつ持ち上がっていく。
それと同時に、徐々に隙間も広がっていった。
凄まじい力。
「あと、少し、だ。くっそ、上がれっ‼︎」
そして、床に転がっていた私の身体を担ぐと、広がって余裕の出来た隙間にぐいぐいと押し込んだ。
エレベーターの天井を片手で支えながら、自分もひょいっと身軽に上がってくる。
「ふー、挟まれねえかと思って、さすがにびびった。大丈夫か、お前」
うん、先生すごいね、力持ちだあ、かっこいいなあ、そう私が言うと、
「俺の口使って、変なこと言うの止めろって」
先生が意識のない私の身体を、再度ひょいっと肩に乗せると、そのままエレベーターホールを後にする。
けれど、玄関まであと一歩というところで。
広い玄関ホールで、取り囲まれてしまった。
数十人はいる。
皆んな、自衛官の制服を着ている。
違う制服の姿も見られたが、警備員だろうか。
皆、警棒やサスマタ、スタンガンを掲げて、私と先生を取り囲むように回り込んだ。
そしてそこに、竹澤先生も。
「竹、悪いが帰らせてもらうぞ」
「行くなよ、瑠衣」
先生が顔を歪めて言う。
「俺と一緒にいてくれ」
どっ、と胸が鳴る。
その言葉に、動揺して。
違う、これ私じゃない。
善光先生の揺らぎだ。
私じゃなく、先生が動揺している。
そうだ、私と竹澤先生が両想いだと思っているから。
先生、
私は告げた。
善光先生の身体がびくりと震える。
先生、必ず迎えに来るから。
竹澤先生の顔が、さらに歪んだ。
きっと、善光先生の顔も。
必ず、迎えに来るから、待っていて。
それが私の答えだと分かると、善光先生はずんずんと玄関に向かって歩き出した。
一人の自衛官がサスマタを向けてくる。
それを片手で掴んで、いとも簡単に先端をぐにゃっと曲げると、取り上げて床に放り投げた。
皆が後ずさりしていく。
分かっているのだ。
誰も、どのような方法でも、この人を止められないと。
先生と私は玄関のドアを開けて外へ出ると、駐車場へと進んでいった。