心の拠りどころ
「お前の中、すごいな」
先生の言葉がこだまする。
あれはいつだったのかな、私の中に初めて先生が入ってきた日。
私が、誰にも操られることのないようにと、訓練を始めた日。
先生は私をどうしたいんだろう。
能力者との共存を望んでいるのだろうか。
それとも、先生自身が私の能力を支配したいと思っているのだろうか。
異端者の、私を。
それとも。
独りで生きていけるようにと、私を自立させようとしているのだろうか。
考えてみると、それらの可能性の全てを否定したくなる。
どれも私じゃないような気がして。
私らしく生きていないような気がして。
「泣くな、よ」
先生の声。
その声で、私は覚醒し、目をあける。
そのまま顔を横に向けると、竹澤先生の苦々しい顔。
私が横になっているベッドの枕元に両腕を重ねて、その上に顔を乗せている。
顔が近くて。
キスできる距離。
けれど、気恥ずかしさはなく、私はそのまま先生を見つめていた。
睫毛が濡れて少し重いような気がして、瞼を半分だけ閉じる。
薄ら目になっているだろうけど、その目でしっかりと先生を見て留めていた。
「ごめんな、辛かったな。結構な負担だったと思うけど、段々慣れてくるから。そしたら、負担も感じなくなるはずだから、」
先生の言葉を遮って、
「帰りたい」
先生はさらに苦く笑って、言った。
「帰れないんだ、すまない」
「善光先生が、迎えに来てくれる」
自分でも思いがけない言葉が口をついて出た。
「そうだな、善は、来るだろうな」
いや、悪い、本当のことを言うよ。
すぐに口から出た先生のその言葉で、動かせない身体全体にぞわりと冷たいものが這い上がってきた。
「善は今、ここで拘束されている。お前を迎えに来た時、あいつ暴れまくって。皆で押さえつけてようやく、」
「先生が、」
私は、横たえていた身体を少しだけ起こすと、ベッドに乗せていた先生の両の腕にそっと触れた。
「先生、お願い。善光先生のとこに連れてって。助けて、先生を助けて」
涙がどんどん溢れてくる。
けれど、それに構っている余裕はなかった。
顔をぐしゃぐしゃにして、私は懇願した。
「お願い、ここから出して。そんで皆んなで一緒に帰ろうよ。お願いだから、」
けれど、先生の表情は固く閉ざされたまま、いつもの柔和な表情に戻ることはなかった。
その薄い唇は噛みしめられていた。
嘘、先生、その顔は何?
どうして、そんな恐い顔をするの?
「それはできない。お前と俺は今、自衛隊に協力している。自衛隊だぞ、国に協力しているようなもんなんだぞ。俺を信じてくれ、悪いようにはしないから。分かったな、瑠衣」
「先生、自衛隊に協力なんてして何をするの? 何をさせられるの?」
先生はそれには答えずに口をむっと結んで立ち上がると、スタスタと歩いていった。
扉の横にある小さなパネルのようなものにパスを持つ手をかざす。
「待って、待って‼︎ 行かないで‼︎」
私はベッドから飛び降り、追い掛けようとする。
けれど、実験の後遺症なのか足がうまく動かずにもつれ、そのまま床へと倒れ込んでしまった。
けれど、先生は構わずに外に出ていってしまった。
「先生っ‼︎ せんせえ‼︎」
這い上がって、ようやくドアの前に来ると先生がやったようにして、パネルに手をかざす。
けれど、ドアは開かなかった。
パネルをバシバシと叩く。
「先生‼︎」
ドアの隙間に指をねじ込む。
けれど、すぐに滑って意味をなさない。
何度かガリガリとやってみるけど、ドアはビクともしなかった。
何もかもが無駄だった。
私はベッドへのろのろと戻ると、シーツのように薄い真っ白な布団へと潜り込んだ。
膝を抱えるようにして丸くなる。
そして、自分に何度も言い聞かせた。
考えろ、と。
良い方向へ向かうように。
先生たちと一緒に帰れるように。
何もかもが上手くいくように、何か方法はないだろうか。
今までは先生たちに任せっぱなしだった。
頼りっぱなしだった。
私のせいで、善光先生は捕まってしまった。
考えろ、最善の方法を。
考えろ、私。
涙は止めどなく流れ落ちていく。
けれど構わず、私はぐるぐると回る頭を考え巡らせていった。
✳︎✳︎✳︎
その日。
私は突然、気がついた。
このところ、私は実験の合間を縫って、身体が重くて動かない時でも、目を瞑りながらずっと考えていた。
考えていたら、何かがおかしいと、矛盾点に気がつく。
いつもなら、竹澤先生や善光先生が入ってきた後には、はっきりとした目覚めが用意されていた。
身体は必要以上に動き過ぎるくらい動かせるし、その身は軽くしなやかになる。
意識はそんな動き過ぎるくらいの身体よりも、もっと早くに覚醒できていたし、私の脳の中の細胞全てが、身体に繋がるその意思を疎通させているようでもあった。
それなのに、最近は何だろう。
身体中が鉛のように重く重く、動かない。
目覚めた時には意識も朦朧とし、再度泥に沈められたかのように意識を手離した。
そう、身体をろくに動かすことも出来ずに、二度三度と、深く深く眠り込んでしまうのだ。
どうしてだろう、今までと何が違ってた?
私は、竹澤先生が入って来て、焔を使った時のことを思い出そうとした。
途端に身体が熱くなり、酷い吐き気に襲われる。
けれど、思い出さなければ。
善光先生と竹澤先生を助ける何かに繋がるかもしれない。
大切な大切な、二人の先生を。
✳︎✳︎✳︎
「これ、着替え。俺が出てったら、着替えて大丈夫だから」
私がベッドの真ん中に座って、ぼけっとしているのを見て、竹澤先生が遠慮がちに言った。
差し出された着替えを見る。
真っ白なワンピースと下着。
映画でよく見る被験者候の服。
私は泣いて腫れているであろう目で、先生を見て言った。
「こんなの、嫌」
先生がベッドに腰掛ける。
「ずいぶん、着替えてないから気持ち悪いだろ。これに着替えろ、さっぱりするから」
私は服の下に隠してあった下着を取り出して、
「これ、先生の趣味?」
先生は目を逸らして、少し照れたような素振りをする。
「ばか、お前、」
「もっと可愛いのが良かった」
「じゃあ、今度買ってやるから」
今度って、いつのことだろう。
ここから出られる日が本当に来るのだろうか。
「ブラ、しなきゃダメ?」
慌てたように、先生が言う。
「ダメだろ、しなきゃ」
「だって、これすっごく大きいよ。こんなに胸ないもん」
「わ、分かった‼︎ 分かったから、それ早くおろせ‼︎」
先生が座ったまま、頭を両手で抱える。
耳まで真っ赤。
私はふっと吹き出した。
いつもの、先生とのやり取り。
けれど、何でこんなに切ないのだろう。
胸を締め上げられるような、痛み。
「女性の自衛官に用意して貰ったんだ。次はサ、サイズを小さくして貰うよ」
頭を抱えていた手を離すと、先生が振り返って私を見る。
「善が、」
その名前を聞くだけで、涙が出そうになる。
我慢しようと唇をぐっと結ぶと、私は俯いた。
「お前を……いつも泣かせてばかりだって言うんだ。お前、子供の頃、初めて俺らに会った時にも、善を見て泣いたんだってな。覚えてないかな」
「覚えてるよ……って言うか、思い出したんだ。先生も丸井のおじいさんと一緒だった。丸井のおじいさんにこの前、って言うか拉致られた時、初めて会ったのになんか懐かしい感じがするって思ったんだけど、前に会ってたからだったんだね」
「そうだな、それでなあ、お前を泣かせちまったって善が落ち込んじまって。あの後なだめるの、すげえ大変だった」
先生が遠くを見つめるような目をして、微笑む。
思い出しているのだろうか、私たちが初めて出逢った遠い遠い日の記憶。
「昨日な、善に会った」
私がはっとして顔を上げると、
「俺が側に居ても泣かせるだけだから、お前が一緒に居てやってくれって、言うんだよ、あいつ」
「え、」
嘘。
善光先生は私の側に居るって、側に居たいって言った。
言ってくれたのに。
「だけど、瑠衣を大切にしてくれ、大事にしてくれって、何度も頭を下げるんだ。俺の宝なんだ、お願いだから大切にしてくれって、ね。あいつ、本当にすげえ。何より、どんなことより……一番なんだよ、」
涙が。
「お前のことが」
先生が俯く。
だから表情は分からない。
「あいつ、お前が俺を好きだと思ってる」
うん、竹澤先生を好きだった。
先生と笑い合ったり、頭に手を乗せて貰ったり、大好きだった。
「俺らが両想いだと思ってるんだよ。バカだろ、あいつ」
うん、本当にバカだね。
先生は、お母さんを愛しているのに。
私でなく、お母さんを。
「だから、お前の前だとあんな風にぞんざいな態度に出ちまうんだよ。俺らの中には割り込めないって思い込んでて、そんで捨て鉢になっちまうんだ」
乱暴者だって、思った。
こんな人、好きになることなんて、絶対にないって思った。
そう思ってたのに。
けれど今、私は善光先生がこんなにも好きなんだ。
先生が笑って言う。
「お前は、善のことが好きなのにな」
その言葉があまりにも決定的すぎて、私は涙を零した。
しゃくり上げる私を片腕でそっと抱き締めると、先生は耳元で囁いた。
「なあ、あいつは心からお前を想ってる。十三年だぞ、信じられるか。それにこれからだって……たとえ、お前に想われなかったとしても、あいつはお前を想い続けるんだ」
そして私を離すと、立ち上がって後ろを向く。
「でもな、俺には無理だ、想うだけなんて。静さんが亡くなった時、結局は能力を使わずに、あっさり死んでしまった静さんを看取った時、俺は決めたんだ。お前を同じ目に合わせない、と。お前が自分の力を使って、自分の人生を有意義に選ぶことができるようにしたいんだ。お前のためなんだよ、信じてくれ」
先生は、私の顔を見なかった。
「善を説得してくれないか、お前の言うことなら、きく耳も持つだろう」
私は、頭を横に振った。
けれど、先生は私を見ることもなく、部屋を出ていった。