招待状
男は人ならざる者に追われていた。
灯りの燈った大通りを避け、細く入り組んだ細い路地を駆ける。
「な、なんで俺がこんな目に……っ」
日々真面目に仕事に取り組み清廉潔白――とは言いがたい男ではあるが、当人は人外に追い回されるような理由に心当たりはない。
街で幅を利かせたチンピラであろうと、わざわざ人外の不評を買うような真似をする酔狂な輩はいない。人間と人外は別の生物だと考えるのが正しい。猛獣に喧嘩を仕掛ける人間はよほどの自信家か、よほどの大馬鹿者かのどちらかだろう。
走りながら、背後の様子を伺う。暗くて遠くまでは見えないが、後ろから追って来ている気配はない。気を緩め、走る速度を落とす。
「逃げないでよ、ちょっと話を聞きたいだけなんだから」
「ぎゃあッ!?」
視線を進行方向に戻したと同時に頭上から降ってきた声に驚き、悲鳴を上げて急停止した。見上げた屋根の上にいたのは、男からしてみれば自分の子供であってもおかしくない年頃に見える少年。しかし男はその少年を目の前にして、殺人鬼にでも出くわしたかのような反応で来た道を引き返した。
「もう――……ママ、そっちに行ったよ!」
やや呆れたような反応をした後、少年は暗闇に向かって呼び掛けた。
男が向かった先には暗闇があった。そこから暗闇よりも濃い『黒』が浮かび上がる。
道を塞がれ、男は再び急停止する。
「ノートについて知っていることがあるのなら、話を聞かせてもらいたい」
凛とした、冷淡とも取れる女の声。
それは黒い衣服を身に纏った黒髪の女だった。その傍には金色の獣の耳と尾を生やした美貌の青年が付き従っている。
「お、俺が何をしたって言うんだ!? 俺をどうする気だ!?」
「君が何をしたのかなんて知らない。私は話を聞かせてもらいたいだけだと言っている」
「チクショウ、どこのどいつがけしかけてきたってんだ……?! おおお俺は人外に恨みを買うようなことはしていないぞ!!」
男のどもり様に人外二人は顔を見合わせる。
「よほど後ろめたいことがあるのだろうか?」
「そのようですね」
相槌を受けて、女は一瞬だけ視線を宙に彷徨わせた。男を刺激しないように、言葉を選ぶ。
「君に危害を加えたりはしない。そちらから手を出してこない限り――――」
「く、くそぉぉお!!」
言葉の途中で、男は雄叫びを上げて突進した。女と優男が相手と侮り突破は容易と考えたか、あるいはただの自暴自棄か、その手にはナイフが握られている。
獣の青年は自身の着物の上前を掴み捲り上げると、素早く前に進み出た。
「あ」
女が制止の言葉を発する前に、獣の青年の膝が男の鳩尾に突き刺さった。
「時間がかかったわりに、ハズレだったね」
「そうだな」
応接室のソファーの上で床に届かない足をぶらつかせながらロウがぼやくと、向かいに腰掛けた市華が結果は判り切っていたというように応えた。
「焦れば見付かるというものでもありませんよ。気長にいきましょう」
のんびりと茶を運んできた春雪の姿を、ロウは長く伸びた前髪の下でじとりと見た。そもそも今回の聞き込みが予想外に長引いたのは春雪が男を気絶させてしまい、介抱に時間を取られたためである。気絶させずとも無傷で取り押さえる手腕は持ち合わせているはずだが、涼しげな見た目に反して意外と激情に駆られやすいことを〈ハニーズ・ビースト〉の中では一番の新入りであるロウは気が付いていた。
「わかってるけど……」
人外は人間の常識の枠から外れた者。寿命も人間の常識の枠には当て嵌まらない。長寿の者が多いが、特に吸血鬼と呼ばれている者達は不老不死であると言っても過言ではない。ハニーズ・ビーストの中では市華とロウ、この場にいないもう一人がそれに当たる。無限に等しい時間があるのだから焦っても仕方がないという意見にはロウも同意だった。
茶と一緒に出された夜食代わりの焼き菓子に手を伸ばす。
吸血鬼は生物の血液のみを生きる糧とし、それ以外の食物の摂取を必要としない。必要ではないが全く意味を持たない行為というものでもなく、生き血を得られない場合の空腹を満たすため手段として人間と変わらない食事を摂る者がほとんどだ。餓死こそしないが、空腹を感じるのは他の生物と変わらない。
「ごちそうさま」
焼き菓子を二つ平らげて、市華は席を立った。
「どちらに?」
「もう一度捜しに出る。今度は何か見付かるかもしれない」
吸血鬼の時間は無限である――という理屈は彼女には当て嵌まらないのか、時間が惜しいと言うように先程脱いだばかりの黒いコートに袖を通す。
まるで時間に限りがあるみたいだ、とロウは感じていた。
〈ノート〉の紙片を悪用しようという輩は多い。そういった者の手に渡る前に回収したいという気持ちは理解出来るが、それだけが理由ではないように思えた。他にも何か特別な理由があるのかもしれない。
市華は自身について多くを語らない。他の二人ならば何か知っている可能性があるが、尋ねようという気はなかった。幼いながらも男として、ライバルあるいはお邪魔虫の手を借りるのはプライドが許さない。
「ボクもいくよ」
何にせよ自分は市華の役に立てることをするのみだ、と大急ぎで食べかけの菓子を口の中に押し込んだ。
「いや、もう遅い時間だ。ロウは先に休むといい」
飲み込むのに苦戦しているロウを制して、市華はドアに向かった。
「でしたら、僕が――――」
「たぁだいまーぁ」
お供に名乗り出ようとした春雪の声に、陽気な声が被さった。
市華がドアノブに手を掛けるより先にドアが開き、その隙間から滑り込んできたピックが彼女の首を抱き込んでしな垂れかかった。ロウは口一杯に頬張った菓子の奥で「んぐ」と呻き、春雪は尻尾の毛を逆立たせた。
「酔っているのか?」
「んー、ちょっとねー」
普段は白い頬が、その肌に巻かれた薄紅の襟巻きのように淡く紅潮している。
市華は首に巻き付いた腕を解くと、自分の足で立つように促した。軽く支えてソファーの傍まで運ぶと、ピックはその上にごろりと転がった。
「こんな時間まで呑んでいたのですか」
「信じらんない。ボクたちたいへんだったのに、一人であそんでたんだ」
「遊んでたワケじゃないよー、ジョーホーシューシュー。せーっかくお土産持って帰ったのにー」
非難の声に唇を尖らせ、ピックは白い封筒を取り出した。市華はそれを受け取ると、封を切って中身を検めた。
「パーティーの招待状のようだけど、これは?」
「えーっとね、どっかのエライさんが毎月やってる会員制パーティーの招待状ー」
「何者が何の目的で開催しているものなのか要領を得ませんね」
「いいんだよー、そこは重要じゃないから。重要なのは、その裏でやってるオークション」
その言葉を聞いて三人の目の色が変わった。
「ノートの紙片が出品されているということか?」
「……って話だね。コソコソ隠れてやってるくらいだから、表に出せない非合法なお宝がいっぱい出るんじゃないかなー。アタリの確率高いと思わない?」
寝転がったまま両手を頭の後ろに組んで、得意気にふんぞり返った。
「何処でこのような物を……」
「オレさま顔が広いからねー」
「あそんでるだけじゃなかったんだ……」
「ムダに走り回ってるだけの誰かさん達とは違うんだよー」
春雪とロウの顔が不機嫌に歪んだ。半分は遊び目的で飲み歩いていたようなものだろうが、有力な情報を掴んだ事実は変えることが出来ないので何も言い返せない。
市華は招待状をじっと見詰めて、難しい顔をしている。
「オークションへの潜入はピックに任せても構わないだろうか……?」
「えー、イチカちゃんも一緒に行こうよー。ドレスコードがあるんだよ、イチカちゃんのドレス姿見てみたーい」
そう言ってピックは勢いよく上体を起こした。詰め寄られて思わず目を逸らす。
「だから、だ……私には向いていないというか、似合わないというか……パーティーなんて行ったことがない、と思うから……」
普段の凛とした態度が崩れ、自信のない様子で指を組んだり解いたりしている。
「ダメだよー、こーゆーパーティーって奥さん連れて行かないと男はナメられちゃうんだから。ダイジョウブ、オレがちゃんとエスコートするよー」
ひょい、と市華の片手を取ったが、即座に春雪に叩き落とされた。
「誰と、誰が、夫婦だと言うのですか」
「オレとイチカちゃん」
「勝手なことを……! 市華さん、エスコートは僕にお任せ下さい。軽薄な男共は決して近付けさせません」
「勝手なコト言ってんのはドッチかなー? 招待状貰ってきたのオレだよ?」
パーティーの常識は判らないが、妻という役割での参加を前提とした方向で話が進められている。口を挟もうとしたが、言い争いはヒートアップして既に市華の声は二人の耳に届きそうもなかった。
結局、市華に拒否権が与えられることはなく、誰が彼女をエスコートするかという問題については白熱した手遊び対決により決着がつけられたのであった。