遠く短いお別れ
市華が自らの胸に手を触れると、体内から一冊の黒いノートが出現した。手の平に吸い付くように引き出されたノートを広げながら跪き、今度はアイリスの胸の上に手を翳した。コルドナがそうした時と同じように、紙片が衣服をすり抜け浮かび上がる。
「戻っておいで」
呼び掛けに応えるように、紙片は本来あるべき場所――ノートの一頁に戻った。紙片に書かれていた血文字は霧となって消え失せる。
「アイリス!」
春雪の尾に巻きつかれたままのロウが叫んだ。
「繋がりが切れたようですね」
紙片が本来の主の許へ戻ったことで、アイリスは所持者としての資格を失った。正気を取り戻したことを確認して、春雪はロウを解放した。
ノートを体内へ戻し、アイリスを抱き起こす。こちらは薬の効果が切れていないらしく、まだ正気を取り戻していない。アイリスを駆け寄って来たロウに預け、市華は二人から距離を取った。二・三歩離れた所で立ち眩みを起こし、春雪に身体を支えられる。
「お疲れ様です……しかし、あそこまでする必要があったのですか?」
壁際に血塗れのコルドナが倒れている。気絶しているだけで外傷はない。
市華の振り下ろした血の鎌は、対象を切り裂く直前に液状化した。本来の形に戻った血液が水風船を破裂させたように頭上に降り注ぎ、コルドナは恐怖の上限に達したのか意識を飛ばしてしまった。
「充分な脅しにはなったはずだ。ここまで脅かせば、もうノートに関わろうなどと思うことはないだろう」
「あのような者のために貴女の血を使う必要はなかったと言っているのです。貴女が直接手を下さずとも、私に任せてもらえれば――――」
「イチカちゃんの感情にそのまま従って、殺しちゃってただろうねー」
ピックの声に割り込まれ、春雪は面白くなさそうな表情になった。
「イチカちゃんはムヤミやたらと人間を殺したくないから自分でやったんだよ。イチカちゃんと繋がってるのに、ユッキーは肝心なトコロわかってないにゃあ」
「…………ああ、いたのですかピック」
「いたよー。ずっといたよー。結構ガンバってたよー」
雑な嫌味に対して大して堪えた様子もなく、日常茶飯事的におどけた口調で返した。
「まー、ともあれ一件落着ってヤツだよねー」
「私たちにとってはな。けど、あの子たちは……」
市華は春雪の腕を離れ、アイリスを支えるロウに話し掛けた。
「君の意見をまだはっきりとは聞いていなかった。君はその子と別れることで決着をつけようとしていたようだが、もうそうする必要はないはずだ」
アイリスとコルドナの親子関係の修復が不可能となった今、アイリスもこの屋敷を出て別の生活を見付けるしかないだろう。ロウとアイリス、二人ともこの場を離れるのならば無理に別れる理由はなくなったはずだ。
ロウは、首を横に振った。
「……いえ、やっぱりボクはアイリスと別れます。アイリスは、人外と関わったからつらい思いをしたんだ。ぜんぶ忘れて人の世界の中で暮らす方がきっと、アイリスにとって幸せだから」
「簡単に、全てを忘れることができると思う?」
「それは……」
市華の指摘に口篭る。別れの辛さはロウも等しく感じている。ロウがアイリスを忘れることができない以上、アイリスも簡単にロウを忘れることはできないと言える。
しかし市華はその後、方法がない訳ではないと続けた。
「その子の血と共に、記憶を抜き取ってやるといい」
「そんなことができるんですか?」
吸血鬼は生き血を生命維持の糧とする。人外に転化して以降、本能として血を接取してきたが、血を吸った際にそのような作用が働くのを感じたことはなかった。
「意志を込めるんだ。血は意思を伝える媒体、血のやり取りに意思を込めることで、その行為に意味が生まれる。君が彼女を想うのなら、その想いを意志に込めればいい」
わずかに逡巡した後、ロウはアイリスの顔を覗き込んだ。
「さよならアイリス……幸せになって」
声が震えていたが、泣いてはいなかった。アイリスの虚ろな目はロウの姿を見ていた、だから泣けなかった。
首筋に唇を寄せたのを横目に見て、市華は絨毯に落ちていたアイリスのヌイグルミを拾い上げた。
「今度こそ落着?」
「そうだな……」
「ん? イチカちゃんちょっとご機嫌ナナメ?」
万事解決、大団円、と銘打つには市華の表情は曇っていた。
「男というものは、どうして勝手に女の幸せを決めようとするのだろうな」
「男としては耳が痛い話ですが……彼女なら大丈夫ではないですか? 王子を迎えに来るようなお姫様ですし」
屋敷に侵入する前に話していた内容を思い出して春雪はそう言ったが、市華はそれに同意することはなかった。
「いくら強いお姫様だって、心の底では王子に迎えに来てもらうことを夢見ているものだよ」
「なんと言うか、それはまた……」
「メンドクサイねー」
遠慮して言い淀む春雪に対し、ピックは明け透けと感想を口にした。
「強くて弱くてメンドクサくて、だから女の子はカワイイんだよ」
「どうだろうな」
同意こそしなかったが、ピックの意見には反対という訳でもないらしい。
「ところでピック、怪我は大丈夫?」
「わー、心配してくれるの? 血は止まってきたみたいだから大体ダイジョウブだよー」
深く肉を抉られていたが、人間と比較すれば吸血鬼の治癒力は少しばかり高い。傷が塞がるとまではいかないが、出血の量は落ち着いたようだ。
「大丈夫なら、それを少し分けてもらえないか? どうせもう使い物にはならないだろう」
「『それ』って『これ』? どーすんの、こんなモノ?」
市華が指し示した物をピックは不思議な顔で摘み上げ、春雪もそれを覗き込んだ。
「姫と王子は別れなければならないのかもしれない。けれど、二人の間にパンくずを蒔くくらいは許されるだろう?」
クマのヌイグルミを軽く持ち上げて、市華は悪戯っぽく微笑んだ。
*
事件の後、行き場所のないロウはハニーズ・ビーストに身を置くことになった。
普段は居間として使われている応接室のソファーには既存メンバーが腰掛け、ロウは一人緊張の面持ちで直立していた。
「ええと……ロウと言います。知らないことも多いし、力は弱いですけど、みなさんの役に立てるようがんばります!」
決意表明と共に深く頭を下げて、ロウはハニーズ・ビーストの面々に挨拶をした。
「そう畏まる必要はないよ。疲れてしまうだろう?」
「そだよー、ハルユキみたいになっちゃうよー」
「……私は、これが素です」
ピックの軽口に、不機嫌そうに返す春雪。その様子を見て緊張が解けたのか、ロウの表情が和らいだ。
「そうですね……じゃなくて、そうだね」
そう言い直して、ロウは改めて挨拶をした。
「じゃあ、これからよろしくね。ボク、ママのためにがんばるから!」
「マ」
絶句する春雪と、目を丸くする市華。ピックだけが楽しそうに反応した。
「ママってイチカちゃん? じゃあオレがパパー!」
「それはなんかヤダ」
「却下です」
ばっさりと切り捨てるロウに続き、春雪も鋭い言葉を投げ掛けた。
「カワイクないお子さまだねー。初対面で噛み付いてくるしさ」
「それは操られてたから……ちゃんと謝ったし、ボクの矛で治してあげたからいいでしょ。だいたいボクに負けるなんて、そんなのでママのこと守れてるの?」
「負けてないし、ロウくんよりは役に立ってるよー。手加減してあげてたのワカンナイかなー?」
「ボクもアンタよりは役に立つもん!」
子供の喧嘩を始めた二人に呆れた視線を送って、春雪は市華の様子を見た。
「ママ……ママというのはさすがに……」
「嫌なら訂正しては如何ですか?」
難しい顔をしてぶつぶつと呟いている市華に助言するが、市華は益々難しい顔になった。
「……いや、好きに呼ぶといいと言ったのは私なのだから、それを訂正してしまうのもどうなのかと……」
「変なところで真面目なんですから」
前にも増して纏りのない面子になってしまったな、と自分もその中の一人であることを忘れて春雪は嘆息した。
*
「準備は終わった? アイリス」
この日はアイリスが孤児院を発つ日。長年面倒を見てくれたシスターが、出立の準備の進捗を尋ねてきた。
「終わっています。みんなにもあいさつを済ませました」
「本当に忘れ物はない? 心残りはない? 本当に余所のお家の子になってしまって大丈夫?」
出立を控えたアイリスよりも、送り出す側のシスターの方が落ち着かない様子だ。
「大丈夫ですよ。新しいお父さまもお母さまも、とても優しそうな人ですもの」
「そうなのだけど……あなたのことは特に心配なの。今度こそ、幸せになりなさいね」
「わたしはずっと幸せですよ?」
「そう……そうだったわね」
微笑むアイリスに、シスターも困ったような微笑みを返した。
二年前、アイリスは自身が育った孤児院の前で倒れているところを発見された。
里子に出されたアイリスが何故このような場所に倒れているのか、孤児院では大騒ぎになった。加えてアイリスは里子に出された先での記憶、里子に出されたという記憶自体を失っていた。
突然戻ってきたアイリスを、孤児院の人間たちは再び受け入れた。きっと引き取られた先で酷い目に遭い、辛い記憶を自ら消してしまったのだろうとシスターたちは心配したが、アイリスには心配されるような憶えはなかった。
アイリスの記憶では自分はずっとこの孤児院で育ち、心配されるほどの辛い思い出などありはしなかったのだから。
呼び鈴の音が響いて、二人は窓の外に視線を向けた。
「お迎えの方がいらしたみたいね」
そう言ってシスターは一足先に玄関へと向かった。アイリスも後に続こうと、荷物を詰めた鞄と、その上に置いていたクマのヌイグルミを持ち上げた。
このヌイグルミは共に施設にやって来た、ずっと傍にいた大切な友人だ。自分にとって一番の理解者だと思っているが、彼については一つだけ、アイリスにはどうしてもわからないことがあった。
首のリボンの上に巻かれた薄紅色の布の切れ端。リボンはアイリス自身が巻いたものだが、この布切れはいつ、誰が巻いたものなのか心当たりがなかった。はっきりとした時期はわからないが、アイリスが孤児院の前に倒れていたという時期にはもう首に結び付けられていた。
引き裂いて作ったのか、布の端はほつれていてみずぼらしい。しかしアイリスは、この布を捨ててしまおうと考えたことはなかった。
現在は滲み変色し、ただの茶色い汚れになってしまったが、この布には文字が書かれていた。
薄紅の布を指先で撫でる。この布を見ていると何かを思い出しそうな、不思議な気分になる。湧き上がる感情の正体が何なのか、二年経ってもアイリスにはわからない。
「……大丈夫よね?」
新しい家族との生活に全く不安がないかと言えば嘘になる。しかし不安な気持ちになって布を撫でると、友人が『大丈夫だよ』と自分を励ましてくれる気がした。アイリスは布に書かれていた言葉に何度も元気付けられてきた、それだけは確かだった。
「うん……大丈夫。わたしは今までもこれからも、ずっと幸せだから」
そう語りかけて、アイリスは玄関へと向かった。
今はもう読めなくなってしまった文字。布には、赤い字でこう書かれていた。
『こまったことがあったらボクをたよって――――きみのメドヴェーチェより』