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黒の手記帳  作者: ナルハシ
一話
6/18

ノートの主

「アイリスに何をしたんだ!?」

 コルドナの体に力なくもたれ掛かる少女と床に転がされた注射器を見比べ、ロウは吠え付いた。

 つい先程までの怯えた様子とは打って変わって、コルドナは自信に満ち溢れた不敵な笑みでロウを見返した。

「子供というものは本当に無知で愛らしい。自身がノートの宿主であるということにまったく気付かないアイリスも、傍にいながら本当の持ち主に気付くことなくノートに操られてくれた――君もね」

 幼い人外を嘲笑い、コルドナは抱きかかえたアイリスの身体を軽く揺すった。瞼がゆっくりと持ち上がり、虚ろな瞳がロウの姿を捉えた。


「……ロ、ウ……」


 名を呼ばれた瞬間、ロウの身体が傾いだ。倒れることなく踏み止まったが、腕を力なく垂らした彼に表情はなかった。長い前髪から覗く、アイリスと同じ虚ろな瞳。

「ほらアイリス、怖い人たちがいるよ。お父様に酷いことをしようとしている。お父様がいなくなってしまうのは嫌だろう? お父様がいなくなれば、アイリスは独りぼっちだ」

 コルドナがアイリスの耳に囁きかけた。小さな身体がびくりと震えて怯える。


「いや、いや……いなくならないで……捨てられるのは、いや……こわいよ、ロウたすけて……!」


 市華・春雪を標的としたロウの動きにいち早く反応したのはピックだった。二人の前に立ち塞がり、向かって来る相手に爪を突き出す。

 爪を向けたのは回避されると想定してのことだった。回避行動を取れば相手は姿勢を崩し、取り押さえる隙が生まれる。

 しかしロウはピックの予想に反し、自ら手を突き出し手の平を爪に押し付けてきた。肉を貫く感触が爪から指に伝わるが、相手が身を引く気配はない。

 繋がった腕に重みを感じ、ピックの身体が傾く。ロウは貫かれた手を重心にして、突進の勢いそのままに空中で蹴りを放った。

「なんつームチャな動き……っ」

 リーチの差で蹴りは届かず、鼻先を掠めるに留まった。

「今の彼は操り人形も同然です。駆け引きは通用しませんよ、ピック!」

「やりにくいねー」

 春雪の助言にのん気な感想を洩らしながら、爪を引き抜こうと試みた。退こうとする以上の力で圧され、靴底が絨毯の上を滑る。


 ロウの相手をピックに任せ、春雪は市華を庇うように立ち位置をずらしてコルドナを睨んだ。

「愚かな……薬を使って自分の娘の意思を操ったのですね」

「ああ、紙片に名を書かれた者は、その所持者と意思が繋がっているからね。お陰で二人ともよく私の言うことを聴いてくれる」

「外道め」

 汚らわしいものを見るような視線を送られたところで悪びれる様子もなく、コルドナは自らの懐から赤い液体の入った小瓶を取り出した。

「アイリスは来るべくして私の許へとやって来た。彼女は私に使われるべくして使われているのだよ」

 小瓶の液体に指先を浸す。ノート専用の赤いインク――吸血鬼の血だ。濡れた指で床に倒れた黒服の名前を書き記すと、紙片はアイリスの体内に吸い込まれた。紙片の宿主の意思に繋がれた男たちが次々と幽鬼のように立ち上がる。


「ぐ……ッ!」


 呻き声に視線を戻すと、組み合っていた二人の間に距離が空いていた。片膝を付くピックは腕から血を流し、ロウは口から赤い塊を吐き捨てた。

「何をやっているのですか!」

「んなこと言われても、ゴリ押しで来る相手はオレ向きじゃないんだってばー」

 口調は軽いが、痛みを堪えてか眉根が寄っている。

 黒服の男たちがまだ膝を付いていない人外二人を取り囲む。戦闘不能と判断されたピックを放置し、ロウも包囲に加わる。そのようにコルドナがアイリスを使って指示をした。

「さあ、ひれ伏せ人外ども。そこの小娘も吸血鬼かね? 丁度インクのスペアが欲しいと思っていたところだ。女は頂いて残りは……そうだな、研究所(ラボ)にでも売り渡してやろう」

 人智の及ばぬ人外の肉体は貴重な検体として引く手数多だが、人外に対する非人道的扱いは当然赦されてはいない。しかし人ならざる者に人間の理が適用されていないというのもまた事実。人外と人間、互いが互いを如何に扱おうと、知らぬ存ぜぬと通せばそれが罷り通る。

「市華さん、これ以上は……」

 包囲が狭まる。春雪は背に庇った市華に平和的な解決は無理だと訴え掛けるが、応えが彼の耳に届くことはなかった。


「やれ」


 勝利を確信したコルドナの号令。ロウを筆頭に、ノートに操られた者たちが一斉に二人に襲い掛かる。

 市華の応えはない。

 しかし、春雪は全て承知したというように頷いた。



「……ええ、わかっています」



 獣の尾が体積を増し、鞭のようにしなった。

 捨て身同然で飛び掛ったロウに尾が巻き付き、その動きを拘束する。しかし、向かってきているのはロウ一人だけではない。

 尾はロウの身体に巻きついたまま、するりと『解けた』。

 蕾が花開くように、一本だった尾が枝分かれして拡がる。九つの尾が、それぞれ別の動きで黒服たちを迎撃する。隙を縫って一人が市華に手を掛けようとしたが、春雪は一瞥もくれることなくこれも打ち払った。


「なんだと!?」


 一瞬の内に手駒を無力化され、コルドナは驚愕の声を上げた。いくら人間と人外の間に能力的な差が存在するとはいえ、ここまで完璧に全方位からの攻撃に対応できるはずはない。まるで背中にも目が付いているかのような――そう考え、コルドナはある可能性に思い至った。

「貴様もノートに操られているのか!?」

「だから、貴方は愚かだと言うのです」

 春雪は先程と同じ、汚らわしいものを見るような目でコルドナを見た。その視線は別の誰かに意思を操作されているのではないのだということを証明していた。

「ノートの真価は所持者が『操る』ことで発揮されるものではありません。名を書かれた者が所持者の意思に『従う』ことで発揮されるのです」

「馬鹿な――――ッ?!」


 そのような事実をコルドナは知らなかった。コルドナに限らず、ノートの正しい使用法をする者など存在するだろうか。


 仮に存在するとなれば、それはこの世にたった一人しかいない。


「ノートの主…………まさか、その小娘が〈黒〉だというのか?!」

「あれ? 気付いてなかったんだ」

 襟巻きを負傷した腕に巻き付けながら、ピックが口を挟んだ。みるみるうちにコルドナの顔面が蒼白する。

「ア……アイリス! やれ、やるんだ!」

「はい……」

 余裕のなくなったコルドナと比べると薬で意識朦朧としているアイリスの方がまだ落ち着いているように見える。父の命令に従い、まだかろうじて行動可能な黒服の意思を操る。

 しかし起き上がりかけた黒服は、羽虫でも叩き落すかのように春雪の尾にあしらわれた。

「糸に吊られた操り人形と自らの意思で動く自動人形、どちらの性能が上であるかくらい考えなくてもわかるでしょう?」

 残る操り人形はロウ一人だが、尾に巻き付かれたまま身動きが取れずもがいている。

「な、何をしている! 貴様らも加勢しろ!」

 ノートに名を書かれることのなかった護衛をけしかけようとするが、呆然と目の前の惨状を見続けていた男たちはその声に我に返り、「ひい」とか「うわあ」とか情けない声を出して部屋から逃げ出してしまった。

「ま、待て! 逃げるな!」

 部下に見捨てられ、コルドナはいよいよ手駒を失ってしまった。こうなってはもう、ただの無力な老人だ。

「どうします? 市華さん」

 春雪が処遇を問うが、市華は応えない。そういえば先程からうんともすんとも応答がないな、とピックは市華の表情を窺った。

「……ふーん、さっきから静かだと思ったら……」

 表情を見て、意思の繋がっていないピックも市華の感情を理解した。


「……大人しくノートを返してもらえるのなら、私はそれで構わなかった」


 ようやく言葉を発した市華は、春雪の身体をそっと押し退け一歩進み出た。それだけの行動に過剰に反応したコルドナは、慌てて辺りを見回し絨毯の上の注射器を拾い上げた。そして何を錯乱したのか、その針を腕の中のアイリスの首に付きつける。

 もしコルドナが冷静なままであったなら、このような行動に出ることはなかっただろう。この時のコルドナはアイリスを〈ノート〉としてしか見ていなかった。冷静であったならば、人外相手に己の娘を人質に取るという支離滅裂さに気付きもしたはずだ。

 注射針程度では致命傷を与えられない。しかし己の娘に――罪なき少女に害をなそうとするその行為は、ある意味でとても効果的な行為だった。


 市華は手袋を片方外すと、躊躇なく指の皮膚を噛み千切った。

 赤い血液が指を伝う。爪先まで辿り着き玉となった血液は雫として絨毯に――落ちなかった。

 コルドナの行為は市華の怒りに油を注ぐという意味で効果的であった。

 彼女の怒りを体現するかのように、指先に集まった血液は重力を無視して形を変えていく。形成されたのは薄く鋭い、まるで赤い硝子細工のような血の鎌。血液を凝固させ、変幻自在に操る市華の〈矛〉だ。


「あーあ、怒らせちゃった」


 あたかも何でもないことのように、ピックは軽い口調で言った。

 そう、人外にとっては『何でもないこと』なのだと、これから自分の身に起こる事柄を想像してコルドナは戦慄した。


「アイリスはロウのことだけではなく、父親のことも気遣っていたよ。それなのにお前はその想いを裏切り、踏みにじった」

「わ、悪かった! 私が悪かった! ノートは返す……だから、許してくれ、頼む……!」

 そう言ってコルドナは腕に抱えていたアイリスを突き放し後ずさりした。

「その台詞は、私に言うべき台詞ではなかったな」

 受身を取ることもなく絨毯の上に倒れた虚ろな瞳の少女を見下ろし、市華は目を細めた。

「人の道を外れた者を相手に、私がこれ以上人の道理に従って行動しなければならない理由はない」

 市華が一歩踏み出すたびに、距離を詰めさせまいとコルドナは後退する。途中足をもつれさせ転倒したが、それでも這って後ろに下がる。

 やがて、コルドナは部屋の壁に背中をぶつけた。


「私がお前を制裁する。ノートに手を出したこと、地獄で悔いるといい」


 市華の意思により血の鎌は振り下ろされ、コルドナの視界が赤く染まった。

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