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黒の手記帳  作者: ナルハシ
一話
4/18

母なる者

 地下へ続く階段の前で煙草の煙をくゆらせていると、見覚えのある顔が近付いてきた。

「よーぉ、お疲れさん。どうした?」

 同僚の男に片手を挙げて挨拶をすると、相手も同じように片手を挙げて簡単な挨拶を返してきた。

「交代か? まだそんな時間じゃないだろう」

「物騒な客が来たらしくてな、用心のために人を集めろとのお達しだ。ここは俺が見るから、お前はそちらに行ってくれ」

「物騒な客?」

「人外だという話だ。おそらく『あれ』が目的で来たのだろうな」

「うへぇ。人集めてそいつも捕まえるつもりなのかね、旦那様は」

 軽口を叩いて煙草の火を石造りの壁で揉み消す。

「んじゃ、ちょっくら行ってきますかね」

「ああ、あとは任せろ」


 やる気のない見張りを見送った後、交代で来た黒服の男はしばらく辺りの様子を伺った。


「やはり、この先に人外が捕らえられているようですね」


 そう話し掛けると、角を曲がった先にあるドアから市華とアイリスの二人が顔を覗かせた。

「はい。まちがいないと思います」

 そう言って男に近付いていくアイリスの腕には、クマのヌイグルミと一緒に折り目正しく畳まれた着物と分厚い帯が抱えられている。

 男が軽く頭を振ると、一瞬のうちに獣の耳が現れた。顔の造形も、角ばった厳ついものから中性的な美貌の青年のものへと変わっている。

「声までまったくの別人になるなんて、すごいのですね春雪さん」

「狐は人を化かすものですからね」

 声色も普段のものに戻し、黒服を身に纏った春雪は得意気にそう言った。


 ちなみにこの黒服は屋敷の警備員の一人から失敬したものである。雇い主の娘であるアイリスが声を掛けて油断させ、春雪が手刀で昏倒させた後に身包みを剥ぎ取った。

 中身の男の方はというと、適当な部屋に放り込んで隠してある。ロウとの密会を時折見逃してくれていた人物であったらしく、命に別状はないとはいえアイリスは少しばかり心が痛む思いをした。

 しかしその甲斐あって、それ以降はこれといった騒ぎも損害もなく忍び込むことかできた。


「人間の臭いが移ってしまいそうです。ああ、早く着替えたい」

 春雪は服の襟を引っ張り、不快そうに鼻を蠢かせた。

「なら、今の内にそうするといい。私一人で行く。ここから先にはもう見張りはいないのだろう?」

「はい、そのはずです。ドアに鍵はかかっているとは思いますけれど……」

 市華の問いにアイリスが答えた。心配そうに眉尻を下げる春雪。

「一人で大丈夫ですか?」

「春雪は見張りと、この子の安全を。何かあれば呼ぶ」

「……わかりました」

 尚も心配そうな春雪に背を向けて市華は階段を下り始めた。







 がちん、と金属音が聞こえてロウは目を覚ました。

(……気絶、してた?)

 身じろぎしようとして、自分が吊り下げられた姿勢であることを思い出した。頭の上で拘束された手が冷たく、感覚がない。

 前髪から覗く光景は灯りを消されてしまったのか、暗い。否――黒い。


「君がロウ?」


 目の前に、黒ずくめの女性が佇んでいた。視界の端に開いたドアが見える。先程の音は鍵を壊した音だったのか、と冴えない頭で認識した。

「あなたは……?」

「君の友人に頼まれて、助けに来た」

「っ! 黒のイチ――っあ……!」

 目の前の人物の正体に気付き勢いよく顔を上げたが、その拍子に錠が手首を擦り、顔を顰めた。

「すぐに外す。少し待って」

 そう言って市華は部屋を見回した。錠の鍵は幸いにも、わかりやすく壁に掛けられていた。鍵を取り、幼過ぎる少年を縛める鎖に手を掛けた。


「あの……マザー・イチカ」


 ロウに覆い被さるようにして鍵を外していると、恐る恐るといった調子で呼び掛けられた。呼ばれ慣れない名を聞き、市華は気抜けしたような顔でロウの姿を見下ろした。

「私には血の眷属はいない。〈母なる者(マザー)〉と呼ばれるほど大層な存在ではないよ」

「そうなんですか? じゃあ、なんと呼べば……」

「まぁ……好きに呼ぶといい」

 錠が外され、支えを失ったロウは膝から崩れ落ちる。床に倒れこむ寸前に、市華がその身体を支えた。

「す、すいません……」

「手当てをした方が良さそうだな」

「だいじょうぶです。このくらいなら、自分で……」

 そう言ってロウは血の滲んだ己の手首を舐めた。舐めた跡には赤い痣が残ったままだったが、擦り切れて裂けていたはずの皮膚は元通りに再生していた。

「それが君の矛?」


 人外の中には身体の一部を変化させた〈矛〉と呼ばれるものを持つ種が存在する。市華やピック、そしてロウがそれに当たる。

 特性は個体により様々だが、同じ血を宿した眷族は〈母なる者〉と呼ばれる個体の特性を受け継ぐ矛を持つことが多い。


「ボクのは矛と言えるような強いものではないんですけど…………あの、それより、アイリスは……?」

 別の箇所の傷も治癒しながら、ロウは心配そうに訊ねた。

「一緒に来ているよ。私の仲間と上で待っている」

「そう……ですか」

「浮かない顔だ」

 一瞬顔を綻ばせたが、すぐにまた表情を曇らせた。

「アイリスは、約束通りあなたを探し出してくれました……けど、それを期待していた自分がはずかしいんです」

「君はあの子を信じていなかったのか?」

「そうじゃない! ……ボクのことで、アイリスに迷惑をかけたくはなかったんだ。それなのにけっきょくボクは頼ってしまった。ボクからも、あの父親からも遠ざけることがアイリスのためだと思ったのに、それを伝えることもできなかった……」

 市華はロウの言葉を黙って聴いていたが、やがてぽつりと呟きを洩らした。


「男というものは……」


 呟きの意味がわからず、ロウは市華の顔を見た。表情の変化に乏しい印象だったが、今の表情はどこか面白くなさそうに見えた。

「君が想いを伝えられていたとしても、あの子はきっとここへ戻って来たよ」

「そう……でしょうね」

 アイリスは父親の許へと戻って来る――市華も自分と同じ考えに至ったのだろうと考えたが、次に彼女は流れに関係ないようなことを口にした。


「君は、まだ幼いのだな」

「?」


 人外の実年齢は必ずしも見た目で判断できるものではない。しかし幼いロウが人間としての生を捨て、人外として生きるようになってからまだ日が浅いのは事実だった。それを見抜いたのは母なる者だからこそなせる業かと推測したが、そうではないらしい。

「君はまだ、女というものをわかっていない。腕力では男には敵わないかもしれないが、女の心は時に男が思っている以上の強さを発揮する。たとえ私をここへ連れてくることが叶わなかったとしても、あの子は一人でここに戻ってきたはずだ」

 正直なところ、ロウはこの言葉の意味を理解しきれなかった。それも、少年の幼さ故だ。


「もうだいじょうぶです」

 完全とは言えないが、可能な限りの治癒を終えたロウは開いたままだった服のボタンを閉めた。

「ひとつ訊いてもいいだろうか? 君のメモにあった『ノート』というのは?」

 ロウがアイリスに託した紙片、そこに書かれた文字が市華の求めるものと一致するのかを本人に尋ねた。今までの話を聞く限り、アイリスを外に逃がすための方便である可能性も考えられたからだ。

「実物を見たわけじゃないから、ぜったいにそうだとは言い切れないですけど……ボクが〈インク〉として捕まっているのは、そういうことだと思います。それに、ときどき意識がとんで、憶えのないケガをしていることがあるんです。ノートには、そういう力があるんですよね?」

「意識がない……?」

 少し考え込んだ。求めているものとは特徴に多少の差異がある。しかし、限りなく『当たり』に近い情報だった。

「本物かどうかは実物を見ればわかることか…………歩けそう?」

「あ、はい」

 思考をやめ、ひとまずこの場から離れようとロウに促したが、足取りは頼りないものだった。

 市華はロウの目の前で少し身を屈めると、襟元のボタンを一つ外した。

「やはり消耗しているようだな。私の血を飲むといい」

「そ、そんな……っ」

 母なる者から血を受ける――その重要性を理解していたロウは申し出を断ろうと千切れんばかりに首を横に振った。振り過ぎて、立ち眩みを起こした。

「ただの食事だ、そこにそれ以上の意味を込めはしない。遠慮をするようなことじゃない……それに、女の子に情けない姿を見せたくはないだろう?」

 一番情けない姿を見せたくはない女の子の姿を想像して、ロウの頬に微かに赤みが差した。

「……すいません」

 心底申し訳なさそうに、控えめに市華の肩に手を添えた。

 鋭く尖った犬歯が、首筋の薄い皮膚に食い込む。

「……っ」

 皮膚を貫く痛みにわずかに表情を歪めた。痛みは一瞬で、それを癒すように柔らかな舌の感触が首筋を撫でる。


「ノートのこと、知らせてくれてありがとう」


 ロウは至近距離で聞こえた声に驚いて顔を上げようとしたが、それを押さえつけるように髪を撫でられた。

 今まで抑え込んできたものが溢れそうになって、思わず首筋に噛り付いた。

「よく耐えてきた。辛かっただろう」

 もう一本の手を背に回され、そのあやすような手付きに涙が滲んだ。

「もう我慢する必要はない。少なくとも、この場にアイリスはいないのだから」


 ロウは、堰を切ったように泣き始めた。泣きながら、赤ん坊のように首筋に縋りつく。市華はそれを黙って受け入れた。


 体内に流れ込む血液も衣服越しに触れる手も、温かく、母のように優しかった。

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