想い、想われ
ドアの向こうから慌しく走り回る複数の足音と、怒号が聞こえる。
「やっぱりダメだよ……逃げるなんてムリだ」
部屋の隅で息を潜め、ロウはアイリスに言った。
「戻ろう。ボクがムリヤリ連れ出したってことにすれば、アイリスが怒られることはないから」
「ダメよ! そんなの……っ」
思わず大きな声が出てしまい、アイリスは慌てて口を塞いだ。
「……ダメ、そんなの。わたし、もう見てられないの、ロウが傷付くところ。わたしのせいでロウがひどい目に遭うなんて、そんなのもっとダメ」
「いつものケガなんて、なめておけば治るケガだよ。アイリスが気にすることじゃない」
「わたしは、ロウのこと友達だって思ってる……ロウは違うの?」
泣き出しそうな顔で言われてしまい、ロウは少し困ったような顔で微笑んだ。
「ボクは、アイリスが友達になってくれてすごくうれしいと思ってる……ちょっと待って」
ロウは部屋の中を見回し、机の上にメモ帳の束を見付けると一枚紙を剥ぎ取った。自らの人差し指の皮を噛み千切り、滲んだ血で文字を書き綴る。
「これを」
紙を小さく折りたたみ、アイリスがいつも抱きかかえているヌイグルミのリボンの下に捻じ込んだ。
「黒のイチカという人に会って、渡して。それを見せれば、きっと力になってくれると思うから」
「ロウ……?」
行動の意味がわからず、アイリスは不安げな瞳で立ち上がるロウの姿を見上げた。
「ボクが時間をかせぐから、アイリスはうまく屋敷を出て」
そう言われてようやく自分のすべきこととロウのしようとしていることを理解したが、引き止めるにはもう遅かった。
「たのんだよ」
そう言い残して、ロウは一人部屋を飛び出した。
*
「ロウは、お父さまが連れて来たんです。いつも地下のお部屋に入れられていて、近付いてはいけないと言われていたのですが、気になってこっそり会いに行くうちに仲良くなったんです。ロウはいつも傷だらけで……それが、お父さまがロウに何かあぶないことをさせているせいだって知ったんです。それで、わたし……」
「カワイソーって思って、逃がそうとしたワケだ」
ピックの言葉に、アイリスは頷いた。
「だけど結局わたし、ロウを助けられなかった。わたしのせいできっと、もっとひどい目に遭ってる……」
「んー、まあ、今から助ければいいんじゃないのー? ちゃんと頼まれたおつかいはできたんだから、あとはナントカなるし、ナントカするよー」
アイリスの住まいでもある問題の屋敷を遠目に眺め話す二人のその後ろで、春雪は市華にそっと話し掛けた。
「本当に、彼女も同行させる気ですか? 案内だけならここまでで充分だと思いますが」
「屋敷の中も案内が必要だ」
「ですが、正直……」
足手纏いだ、と言おうとして、市華の真っ直ぐな視線に気付き口を噤んだ。
「あの子自身がそうしたいと言っているんだ。それに」
「それに?」
市華の視線が動いて、少女の緩やかに波打つプラチナブロンドを見つめた。
「お姫様が王子を迎えに行く御伽噺があってもいいと、私は思っている」
それを聞いて、春雪は呆れたように嘆息した。
「僕は、姫にはそれを護る騎士が必要だと思っています」
「それなら、私たちがなってやればいい」
「……僕のとっての姫は、貴女だけです」
「そう」
素っ気なく言って、歩みを進める。
「人間は愚かです。貴女が従えるのならばともかく、貴女が人間に従う必要はありません。それだけの力を、貴女は持っているというのに……」
「私はそんなことを望まないよ。それに私も、元はその愚かな人間だったはずだ」
振り返ることなく言われ、春雪はそれ以上口答えすることはなかった。
彼女は決して支配を望みはしない。それは従っている春雪自身、身を持って理解していた。
「そろそろ行こう。ピック、用意は?」
「うん、いつでもばっちり。お先に行くねー」
足元に置いていた四角い鞄を手に取り、ピックは手を振って屋敷に向かって行った。直前まで話をしていた相手がいなくなり、アイリスは不安げな顔で市華を見上げた。
「あの、ピックさんは……?」
「まずは正攻法で交渉を進めてみる。話し合いで解決するのなら、その方がいいだろう」
交渉の相手はアイリスの身内だ。友人を助けたい気持ちはあるが、荒事を起こしたくないという気持ちがあるのも事実だった。
「大丈夫でしょうか?」
「あまり期待はしていない」
「えっ?」
予想外の回答に、思わず声がうわずった。
「よく舌は回りますが、交渉事に向いているとは思えませんからね。十中八九失敗しますが、ロウさんを救出するだけの時間稼ぎにはなるでしょう」
春雪もそれが当然だと言うように市華に同調した。
アイリス自身は家の実情を把握していないが、ハニーズ・ビーストの見解では屋敷の主であるコルドナはそれなりの武力を保有しているだろうと予想されていた。仲間であるはずの二人の態度に、アイリスは作戦の成功よりもピックの安否に不安を覚えた。
「だ……大丈夫なのですか……?」
「ピックならそれなりに上手くやる。期待はしていないが、その辺りは信頼している」
心配する素振りも見せず、市華は事も無げに答えた。同意を求めるように、春雪に視線を送る。
「……信頼はしていませんが、信用はしています」
渋々といった様子で答えた。
信頼と信用の違いをアイリスは理解できなかったが、二人の言葉を聞いて少し安心した。
(仲が悪いわけじゃないのね)
友好的なピックを除く二人は仲間をぞんざいに扱う節があったが、仲が良いとは言い難くとも互いに嫌い合っているというほどではないらしい。三人には三人なりの仲間意識があるのだろう、とアイリスは思った。
(いつもケンカばかりしていても、仲がいい子たちっていたものね)
今よりもまだ少し幼かった頃の友達を思い出して微笑みそうになるのを抑え、表情を引き締めた。
(今は、今の友達のことを考えなくちゃ。もう少しだけ待っていて、ロウ)
先陣が屋敷の中に招き入れられたのを確認して、アイリスたちも行動を開始した。
地下に鞭打ちの音と、悲鳴を押し殺したような呻き声が響く。
コルドナは軽く息を切らし、錠に繋がれた人外を打ちつける手を止めた。
「さて、そろそろ口を利く気になったかね、ロウ君? 私も歳なのでね、こういった運動はなかなか身に堪えるのだよ」
リズムを取るように、鞭の柄を手の平に叩きつける。
ロウの露出した皮膚は赤く腫れあがり、所々血が滲んでいる。俯き、血を滴らせる口元が微かに動き、コルドナは耳を寄せた。
「何かね?」
「ばーか」
無言で頬を打ちつけた。
「口の利き方がなっていないぞ、薄汚い化け物風情が。アイリスを何処へやった?」
「しらない」
「嘘を吐くことは許可していない。アイリスは代替の効く貴様とは価値が違う。貴様なぞ、その血を全て絞り取ってしまえば用済みなのだぞ? 血を全て失いたくなければ、居場所を教えることだな」
長く伸びた前髪の隙間から目の前の老人を覗き込み、ロウは嘲笑した。
「替えがきくなんてウソだね……ボク程度の人外しか捕まえられないくせに。だいたいアンタがえらぶってるのだって、その『バケモノふぜい』が作ったノートがあるからでしょ? 自分自身じゃ何もできない『ニンゲンふぜい』が」
「……どうやら、仕置きが足りないようだ」
コルドナのこめかみに青筋が浮かんだ。
ロウは目を瞑り衝撃に備えたが、痛みはやって来なかった。そろりと目を開けると、コルドナはいつの間にかやって来ていた黒服の男に何事か耳打ちで報告を受けていた。
報告を聞き終えると鞭を黒服に渡し、引き換えに渡されたタオルで汗を拭いてから解いていたスカーフを首に巻き直した。
「私は客人の相手をせねばならなくなった。貴様はしばらくそこでそうしたまえ」
吊り下げられたままのロウを残し、コルドナは黒服を従えて部屋を出た。
完全に姿が見えなくなったのを確認してから息を吐き、脱力する。しかし手首の錠が皮膚に食い込み、すぐに態勢を立て直した。足が床に着くぎりぎりの高さで吊られている所為で、少しでも力を抜くと全体重が手首に掛かってしまう。姿勢を維持するのも辛いが、爪先立ちになり手首への負担を減らした。
(アイリス)
自分を助けようとしてくれた人間の友人のことを想う。
彼女が本当に〈黒〉を探し出せるとは思っていない。黒の捜索を理由にして、わずかな間でもアイリスをこの屋敷に住まう悪意から遠ざけたかった。
しかし今は彼女を行かせてしまったことを、ただひたすらに後悔していた。
(あんなヤツでも、アイリスにとっては『親』なんだ)
アイリスの戻るべき場所は家族の許であり、自分の許ではない。目的を果たせても果たせなくとも、アイリスは必ずこの屋敷に戻って来る。
人外に手を貸してしまったことで、戻ってきたアイリスの立場が悪くなってしまうのではないか、それが心配だった。
失敗した。
関わって欲しくないと思うのなら、向けられた好意に甘えず強く突き放すべきだった。
悪意に触れさせたくないと言うのなら、せめて一言「二度と戻って来るな」と添えるべきだった。
ロウは、身体の力を抜く。
錠が皮膚に食い込んで痛むが、それも仕方のないことなのだと思った。




