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黒の手記帳  作者: ナルハシ
三話
17/18

夢魔

「これと、これ……こっちの方がいいかな? この組み合わせとかどうですか?」

「どう、と言われても……」

 

 自分のクローゼットの中には存在しない種類の服を突き付けられ、市華は大いに困惑していた。

 シンの誘いに乗ってブティックに入ったところまでは良かったのだが、入店するなりシンは自分ではなく市華に合わせたコーディネートを選び始めた。

「市華さんはもっと身体のラインを強調してもいいと思うんですよね。折角細いんですから」

 シンが選んだ服は市華の普段の格好と比べれば露出度の高いデザインだが、あくまで良識的な範囲である。

「いや、その色は……」

「そんなに派手じゃないと思いますけど?」

 本音を言うともっと華やかな色を着せてみたいが、黒い色を好んで身に着けている市華の趣味に考慮して落ち着いた色を選んだつもりだ。

「もしかして、自分には似合わないと思ってます?」

「それもあるのだが、今はこの色以外着てはいけない気がして」

「今は?」

 聞き返されたことで妙な言い回しに気が付いたが、取り繕おうにも無意識に零れた言葉の理由は市華自身にも解らない。

「すまない、気にしないでくれ」

「よく解りませんけど、今はってことは、いつかは着てもいいってことですよね? じゃあその時のための服を選ぶくらいはいいんじゃないですか? はい、試着してみてください」

 そう言って先程選んだコーディネート一式を市華に押し付けた。

「試しに着るくらいはいいですよね?」

「それは構わないが……」

 意外と押しが強い、と言いかけたが、シンがハニーズ・ビーストに加わるに至った衝動的な行動を思い返すとそう意外でもないのかと思い直した。

(ピックのように上手くはかわせないな)

 観念して服を受け取り試着室へと向かったが、一瞬だけ躊躇して振り返った。


「似合わなくても笑わないでくれ」

「その時は他に似合いそうなのを探すだけですよ」


 そう言いながら既に次に着せるべき服を選んでいる。

 まだもう少し、二人のお出かけは長引くことになりそうだった。





 *





 春雪は見慣れた内装の部屋に一人佇んでいた。


「ここはハニーズ・ビーストの……? いつの間に……」


 見慣れているのも当然の場所であったが、出先から拠点に戻った記憶がない。それ以前に、何処かに出掛けていただろうか?

 背後のドアが開く気配がして振り返った。

「春雪、ここにいたのか」

「市華さん……帰って来ていたのですか?」

 黒い髪、黒い衣服の見慣れた姿。そうだ、確か自分は主の帰りを待っていたのだった。そう思って声を掛けたが、不思議そうな顔をされてしまった。

「私はどこにも出掛けていないよ。君に黙って出て行くはずがないだろう?」

 そうであっただろうか。しかし彼女がそう言うのであれば間違いはないのだろう。自分がいくら心配しても、転生の度に記憶を失う彼女はそのことを忘れてしまう。だが今回はその想いが正しく伝わっていたようだ。或いは、そのことだけは忘れずに憶えていたか。

 おかしなことを言う、と微笑する。

「お茶でも入れるよ」

「それでしたら僕が」

「たまには私にやらせてくれ。座って待っていて」

 主に給仕をさせるのは忍びなかったが、申し出を無下にすることも出来ず大人しく従った。水を汲む音やティーセットを用意する些細な音が耳に付く。妙に静かだ。

「他の者達はどうしたのですか?」

「他……誰のことを言っている? ここには私達しかいないだろう?」

「そう――……でしたね」


 何か違和感がある。何か違和感があるが、何処に違和感があるのかは不明瞭だ。


 何故他に誰かが居るなどと思ったのだろうか? ここに住んでいるのは僕と市華さんだけだというのに――……






「堕ちた」


 机に突っ伏し規則的に背中を上下させる春雪の隣で目を瞑ったまま、レーヴはルージュで光る唇をにたりと歪ませた。

 市華と呼ばれていた女に薬缶の火を止めさせると、今度は春雪の傍に寄るように操作する。夢の世界はレーヴの領分だ。眠りに落ちた者の夢の内容を都合よく操るのは容易い。


「ハルユキは幸せな夢を見て、アタシはノートのことを教えてもらう。どっちにとっても『都合がいい』でしょ?」

 しかしまだ春雪の夢は現実との境界が曖昧になったばかりだ。ノートについて探りを入れるには、春雪の意識を更に深く引き入れ夢を現実と思い込ませる必要がある。

「夢だってバレたら台無しだものね」

「そのように操ることが出来るのでしたら、ノートなど不要なのではないですか?」

 新しい酒を差し出すついでに、寡黙なマスターが珍しく口を挟んだ。

「アタシが操れるのは夢の中だけだもの。夢は現実に叶えてこそ夢、でしょ?」

「そうですか。失礼をしました」

 素直に疑問に思っただけで、約束通り邪魔をするつもりはないらしい。少し会話を交わしただけでまたすぐに自分の仕事に戻った。

 レーヴは運ばれてきた酒で口の中を潤し、再び目を閉じた。






「少し様子がおかしいな。疲れているんじゃないか?」

「そうかも……しれません」

「その髪はどうしたんだ?」

「髪?」

 指摘されて後頭部に触れると、纏めていた髪が解けかかっていた。挿していたはずの簪も無くなっている。

 市華は春雪の背後に回ると、その髪を指で掬い上げた。

「私が髪を結い直しても構わないか?」

「! そのような――……」

 振り返った拍子に市華の手から髪の毛がするりと離れた。

「すまない、嫌だったか?」

「いえっ、嫌ではないのですが……」

 視界に入った市華の表情が少し悲しげであったため、主の手を煩わせる訳にもいかないと思いつつそんな返答をしてしまった。

「嫌でないのなら構わないな」

 そう言ってやや強引な態度で解けかかった髪を下ろした。

 春雪は観念して前に向き直り、されるがままになる。指が髪を梳く感触がこそばゆい。

「君の髪は長くて綺麗だから、一度触ってみたかったんだ」

 春雪の黒髪は変化でそのように見せているだけの紛い物に過ぎない。そしてその髪の色は憧れの模倣だ。


「出来た」


 しばらくして、市華の手が離れた。結い上げられた自分の髪を撫で、名残惜しげに背後の人物を振り返る。

「上手く出来たとは思うのだけど、どうだろう?」

 軽く小首を傾げた拍子に、高い位置で一つに結んだ長い髪が揺れる。


 憧れ、焦がれた黒髪が手の届く距離にある。


 知らず、春雪は立ち上がり腕を伸ばしていた。

 揺れる髪の束を捕まえて、指を絡ませる。

 市華は一瞬驚いたような反応をしたが、拒絶することはなく身を委ねた。絡ませた指を撫でるように滑らせると、くすぐったがるように僅かに身を捩じらせる。

 指が毛先まで辿り着いた。はらはらと手から零れ落ちていく感触が名残惜しく、今度は髪の結び目に手を伸ばす。そのまま撫で下ろし、黒髪ごと首筋を引き寄せた。手折れてしまいそうな程に細い。

 髪の色と同じ色の瞳が見上げてくる。〈母なる者〉などという大層な肩書きは似つかわしくない、女と言うにはまだ幼さの残る無垢な少女の姿。


 欲しかったものが今、全て手の中にある。


(ああ、なんて――……)


 全てを受け入れるように、市華は目を閉じた。その姿を目の前にして、春雪は思った。






「なんて、都合のいい悪夢」






 ガシャン、とガラスの割れる音が響いた。


「ぐ……ぅっ……!」

 九本の黄金色の獣の尾。春雪の背後から伸びたそれがレーヴの身体を締め上げていた。

「なん、で……アタシの……夢が……!」


 レーヴの魅了の術は完璧だった。夢の深くに落ちた者は、それが夢であると自身が気付かない限りその呪縛からは逃れられない。たとえ夢であると気が付いたとしても、己の欲望や願いを映した甘美な夢から逃れることは出来ない――はずだった。


 眠りから醒めたばかりの春雪はぼんやりと周囲を見回した。足元に割れたガラス片が散らばり、床を濡らす液体からはアルコールの臭いが立ち昇っている。

 はらり、と髪が解けて背中に落ちた。髪に挿していたはずの簪がテーブルの上に置いてある。

 呻き声。市華の姿を真似た『何か』を拘束したつもりであったが、尾が巻き付いていたのは先程まで酒を呑みながら話をしていた女だった。ここでようやく、現実に起こっていた出来事に察しがついた。

「僕の主に売女の真似事をさせましたね」

「ゆ……夢の話、じゃない……! アタシは、アナタの望み……叶えた、だけ……っ」

「僕の望み?」

 話をさせようと首に巻き付けた尾の力を緩める。気道が開くと同時に、不足した酸素を取り込むためにレーヴは大きく息を吸った。

「そうよ、アナタの夢の中にいた市華って女! アナタあの女に振り向いてもらえないんでしょう? だからアタシが振り向かせてやったのよ! いい思いさせてあげたじゃない。夢の中のあの女は、アナタを見ていたでしょう!?」


 レーヴの言う通り、夢の中の市華は春雪を見ていた。違和感を覚える程に、春雪だけを。


「愚かですね」


 〈黒〉の市華は振り返る過去を持たず、目的を遂げるため常に前だけを見ている。市華の視線の先に春雪はいない。彼女が見ている相手がいるとすれば、それは何処か遠くにいる誰かだ。


「あの方は僕のことなど見てはいない……だからこそ惹かれ、僕はあの方の隣でその横顔を見続けることを選んだのですよ」

 みし、とレーヴの身体が軋みを上げる。

「ぁぐ……っ!」

「大方、僕を篭絡してノートを手に入れようとしたというところでしょう。手を出した相手が悪かったようですね」

「だ、誰か……助け……!」

 体中に巻き付いた複数の尾が殺意を持って皮膚を圧迫する。レーヴは周囲に助けを求めたが、テーブル席の人外達は初めから無関心を決め込んでいるか、巻き込まれては堪らないと視線を逸らすばかりだ。

「お行儀の良いお客様ばかりのようですね」

 客の中にレーヴを救おうとするものはいない。一縷の望みに賭けて、カウンターの奥でグラスを磨いている店のマスターに視線を送る。

「グラスを割ってしまったことは申し訳ありません。きちんと弁償させて頂きます」

「……あまり、店の中を汚さないようにお願いします」

「善処します」

 仕事の手を止める時間を与えることなく、春雪は話をつけた。

 救いのない状況にレーヴは恐怖するが、締め付けられた喉では息を飲むことも出来ない。

「主に害を為そうとする者を赦す道理はありませんが、僕の主は不要な殺生を好みません。ですから――」


 春雪はレーヴに微笑みかける。人形のように整った――整い過ぎている――異形の笑み。


「決して知られぬよう、処理いたします」

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