ガールズトーク
近くに市華の存在を感じ、春雪は足を止めた。
繋がった感覚はすぐに途切れたが、無事を確認するには充分であった。これ以上足を使って捜し回る必要はなくなったが、半刻も経たぬうちに手ぶらでとんぼ返りというのはなんとも間抜けだ。
立ち止まったのは十字路。右手に進むと歓楽街があるが、そちらはピックの行動範囲だ。
ピックは人外・人間問わず交友関係が広い。傍から見ると気儘に遊び歩いているだけのように見えるが、最近ではオークションの情報を持ち帰った実績もあるためその情報収集能力は侮れない。
〈ノート〉の補完が市華の悲願であることは重々承知している。しかし適材適所という言葉がある。主の望みを叶えるため自分に出来る最良の行為はその身を守ることだ。情報収集は他に任せておけばよい。ならば今やるべきことは一刻も早く守るべき主の許へと向かうことだが――主の滑らかな黒髪に絡みつく男の腕を思い出すと、体毛が逆立つ感覚を覚えた。
先程繋がった感覚では〈ノート〉の頁が増えている様子はなかった。主が何の収穫もなく戻って来たのであれば、従僕である自分が代わりに何かしらの収穫を持ち帰るべきではないかと考えを改める。
〈ノート〉に自らの名を記す際、見返りを求めぬことを誓った。
主に付きまとう軽薄な男の存在など、嫉妬に足るものではない。
自らが為すべき最良を選択した結果、春雪は足の先を右に滑らせた。
*
右手はバナナとチョコレートソース、左手は数種類のベリーのソース、どちらもふんだんに生クリームが使われたデザートクレープを両手に持ってシンは立ち尽くしていた。
「すまない、待たせたな」
会計を終えた市華はシンの手からチョコバナナのクレープを受け取り、二人はそれぞれ一つずつのクレープを手に店を出た。店の前に突っ立っているのも他の客に迷惑なので、特に行く当てもなく適当に歩を進める。
「付き合ってもらえて良かった。一度入ってみたかったのだけど、一人ではなんだか入り辛くて」
二人が入ったのは近頃新しく出来たばかりのクレープの専門店だった。デザートクレープといえばナイフとフォークで食べるシンプルなシュガークレープが主流であるが、この店では生クリームやフルーツをトッピングしたメニューが豊富だ。持ち帰りも可能で、その手軽さと見た目の華やかさが受けて店内は常に若い女性客でごった返していた。シンでも一人で入店するのは尻込みしてしまうくらいなので、市華にとっては更に難易度が高いことだろう。実際、黒ずくめの女がクレープ屋で会計を済ます姿は非常に違和感があり、店内で浮いた存在になっていた。
「いえ、わたしも気になっていたお店でしたので……でも、わたしじゃなくてもロウくんや兄さんだったら付き合ってもらえたんじゃないですか?」
ロウは見た目と共に味覚も子供であるし、ピックもこの手の甘い物を好む。二人とも客層で入店を尻込みするような性格ではないので、市華のお誘いとあれば喜んでお供することだろう。
「ロウとピックはともかく、春雪がな。歩き食いなんてしようものなら『はしたない』とうるさく言われてしまう」
「ああ、それは……言われそうですね」
シンはその言葉を少し前に言われたばかりである。
ロウはともかくピックと二人きりなどという状況を春雪が許すはずがないので、ピックを誘えば必然的に春雪もついて来ることになる。そうでなくとも外を出歩く際は必ず同行しようとする春雪なので、市華は多少なり辟易している様子だ。今日はお目付け役が不在であるため、今のうちにと言わんばかりに遠慮なくクレープに齧り付いた。
「それで三日も」
「んっ」
「? どうしました」
「あ、いや、遮ってしまってすまない……美味しかったものだから」
思わず声が出てしまったらしい。恥ずかしそうに口元を隠す。
(そういうところか……!)
相手は同性、ましてやピックが慕う相手。それにも拘らず、普段の凛とした印象とのギャップも相まって強烈な衝撃を受けてしまった自分に愕然とするシン。男は一見隙のないように見える女性の意外と抜けた一面に弱いと耳にしたことがあったが、見事な手本を見せ付けられた気分になった。
心を落ち着かせるために一口クレープを齧る。トッピングの味を引き立てるためか生クリームの甘さは控えめだ。ベリーの酸味をクリームがまろやかに包み、確かに美味である。
「それで?」
遮ってしまった話の続きを少し申し訳なさそうに促しつつも、二口目を運ぶ。市華に倣ってシンも食べながら話す。
「いえ、三日も姿を暗ませたのは一人になる時間が欲しかったからなのかと」
「数日戻るつもりのないことはピックに伝えていたし、暗ませたつもりはなかったのだけど……」
その報告はピックから受けていない。しかしピックは比較的放任主義であるので、報告の必要はないと判断してのことかもしれない。彼の性格を考えれば面白がって黙っていた可能性もあるが、市華ならば一人でも心配はないだろうとシンもロウも判断していた。過度に心配していたのは春雪一人だけである。
「伝えなかった兄さんも悪いですけど、春雪さんも過保護過ぎる気がしますね。市華さんだって子供じゃないんですから」
「そうとも思うが、春雪に悪いことをしたかもしれない。きっと、一人で遠出をしないよう何度も同じ注意をされていたのだろうな」
釈然としない物言いだ。注意されているとすればそれは自分の話であるはずなのに、まるで別の誰かの話をしているような。
「言われたことを忘れていたんですか?」
「忘れていたというより、憶えていないんだ。私の記憶の始まりは四年ほど前からだから、それより以前に言われていたのだとしたら」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください!」
突然の新事実に思考が追いつかず、シンは市華の発言を止めた。言われたことを忘れていただけならば市華がうっかり者であるというだけで話は済むが、記憶がないとなると話は変わってくる。
「記憶喪失……ということですか?」
「近いけれど、少し違う。私は生まれ変わるたびに転生以前の記憶を失うようなんだ」
転生――それは〈母なる者〉と呼ばれる吸血鬼にのみ見られる特性だ。
ハニーズ・ビーストに所属する市華以外の吸血鬼達は皆、それぞれ〈母なる者〉から血を授かり人間から吸血鬼へと転化した者達だ。人間として生を受けた者を人外へと変化させる能力を有している者は吸血鬼の中でも〈母なる者〉と呼ばれる者――市華もその一人にあたる――だけだ。
全ての吸血鬼は、元は人間だった。それは市華も例外ではない。ならば生みの親たる〈母なる者〉達は如何にして誕生したのか――その答えが転生だ。
人間としての生を終えた一部の個体が、生前と変わらぬ姿で人外として生まれ変わったものが〈母なる者〉と呼ばれる吸血鬼の正体だ。転生は自然発生的に起こり、何故そのような現象が起こるのか、その理由や条件は解明されていない。
一般に吸血鬼は不老不死であると認識されているが厳密には違う。〈母なる者〉の眷属となった者は転化した瞬間から肉体の時間の流れが停止し、老いることがなくなる。加えてその身に起こるのは〈矛〉の発生や代謝の活性など、身体能力の上昇。これによって人間の頃と比べると生存率が上昇するが、怪我などの外的要因によっては命を落とすこともある。つまり肉体は不老ではあるが完全な不死とは言えない。
そして〈母なる者〉――転生した吸血鬼の肉体に起こるのは時間の停止ではなく逆行だ。彼女らは人間であった頃の最期の姿で生まれ、血液の接取を継続しない限りその肉体は退行――若返りが進行する。他の吸血鬼と違い〈母なる者〉にとっての吸血行為は活動するためのエネルギー接取の他に、逆行を防ぐ意味もある。退行を続けた結果の肉体消滅、或いは外的要因による肉体の死、その後に起こるのは再びの転生だ。そうして〈母なる者〉は何度も蘇る。この特性が一般に不老不死と認識されている。
「だけど転生のたびに記憶を失うなんて話、わたしの母なる者にあたる方からは聞いたことがありません」
「他の母なる者に会ったことがないので詳しくは判らないが、私も自分以外にそういった事例があるとは聞いたことがない。多分、これが関係しているのだと思うのだけれど」
そう言って空いた方の手を自身の胸に当てる。衣服をすり抜け、体内から黒い表紙のノートが引き出された。
「このノートには他人の意思に干渉する力がある。けどそれは私の矛とは別の力。こういった力を持つ者の存在を、私は私の他に知らない」
〈矛〉とは自身の身体の一部分を変化させた吸血鬼の武器とも言える力。市華の矛は血液を変幻自在に操るものであり、他人の意思を操作するような力はない。加えて特異なのは、〈インク〉となる吸血鬼の血液さえあれば〈ノート〉の主である市華以外もその力を使うことが出来るという点だ。
市華という存在の一部であるようで、それ自体が独立した存在のようにも思える〈ノート〉。市華以外にこのような力を持つ吸血鬼の存在は、シンにも心当たりがなかった。
「ノートが存在するから私が他と違うのか、私が他と違うからこのノートが存在するのか……それは判らない。だけど、私の欠けた記憶とノートの抜け落ちた頁、何か関係があるような気がしている」
「欠けた……ということは、何か憶えていることもあるんですか?」
軽く頷くとノートに視線を落とした。
「このノートが持つ力の使い方、それから……」
ノートに向けられた視線は、かつてシンが殺意の視線を向けられた時には想像すら出来なかったものだった。
「このノートが何か……とても大切なものだという感覚だけは残っている」
愛しいものを見るような、穏やかな光の宿った目。それがノートにこだわる理由。訊ねる手間もなく、予期せぬ形でシンの疑問は解消された。
ノートを元の場所に戻し、クレープを食べる作業を再開した市華は何が可笑しいのかふふ、と笑った。
「どうしました?」
「いや、意外と普通に話せるものだなと思って。私は君に嫌われていると思っていたから」
齧り付こうとしていたクレープを持つ手に力が入り、生クリームが飛び出した。
「……大丈夫?」
「だ、大丈夫、です」
片手でもたもたとハンカチを取り出し、鼻に付いたクリームを拭う。
「べ、別に嫌っている訳では……」
ちょっと苦手なだけです、という言葉は改めて齧り付いたクレープと共に飲み込んだ。
「そう? 私は一度、君を本気で殺そうとしてしまったのだから、嫌われていても当然なのかと思っていた」
やはりあの殺意は本物だったのだと思い知り、寒気に襲われた。
「それにピックのこともある」
「ピックは関係ないですよ?!」
今度は急激な体温上昇。思わず声のボリュームも上がってしまった。
「君はピックのことが好きなのだろう?」
「す……ッ」
自分の中で明確にしていなかった感情を言語化されて、シンは返す言葉に詰まった。
シンにとってピックは、〈母なる者〉を同じとする血を分けた眷族同士だ。いわば兄妹のようなものであり、ピックからもそのように認識されている。
ピックが行方知れずになるまでは傍に居るのが当たり前で、再会してからもまた傍に居たいと思った。
市華はまた勘違いをしていしまったのだろうかという顔をしている。言い訳を考えていたが、自分自身を誤魔化す理由はあっても、彼女を誤魔化す意味はないと思い直した。
「わたしが見向きされなくてもそれは誰かが悪いわけじゃなくて、わたしに魅力がないってだけですから……正直、市華さんが羨ましいです」
「私が? 女性的な魅力の話なら、私の方こそ君が羨ましい」
二人は揃って意外そうな顔をした。
「市華さんでも、他人を羨ましいと思うことがあるんですか?」
「それはあるさ。私はその……女らしい身体つきではないから」
シンの胸元をちらりと見た後、足元まで見通しの良い自分の身体に視線を落とした。どういった反応をすればいいか悩んだ結果、苦笑いを浮かべるシン。しかし心は少しだけ軽くなったように感じた。
(わたし、構え過ぎてたのかな)
悠久の時を生き続ける〈母なる者〉〈黒〉の市華は、高い位置から他者を見下ろしこの世の全てを見通しているものと思い込んでいた。
自分などが手を伸ばしても届かない場所に居ると――しかし実際は誰しもが持っているような些細なコンプレックスに悩み、同じ高さの目線で話の出来る等身大の女性。
「そろそろ戻ろうか」
二人とも手元のクレープをすっかり平らげてしまった。目的は果たしたので後は拠点に戻ればいいだけだ。
帰宅を促す市華をシンは引き止めた。
「市華さん、良かったらもう少し付き合いませんか?」
出掛ける前には想像すら出来なかった行動だが、もう少し女の子同士のおでかけを楽しんでみても良いかもしれないと今は思えた。




