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黒の手記帳  作者: ナルハシ
二話
12/18

針使い

 約束の場所、約束の時間。着慣れた黒のコートを纏い、市華はほんの一時間前までは社長秘書であった女の前に立っていた。


「約束が違いますよ」


 街灯の下で待ち構えていた女はやって来た市華の姿を見て眉根を寄せた。

「私一人だ。仲間は連れて来ていない」

 出発の直前まで春雪はついて行くと言って聞かなかったが、どうにか振り切って来た――はずである。隠れて後を尾行(つけ)ていなければ。

 まさかどこかに隠れているのではあるまいかと市華はそっと気配を探ったが、女の方は周囲を警戒している様子はない。一人であるかどうかよりも、市華自身に何か不満があるらしい。


「どういうつもりであなたが来たのですか」

「君が来いと言ったのだろう?」


 早く交渉に入りたいと逸る気持ちを抑え、機嫌を損ねないようにとまずは女の質問に答えていくがどうにも話が噛み合わない。

 会話の齟齬を感じているのは向こうも同じのようで、募らせた苛立ちを爆発させた。


「わたしは〈黒〉の市華に来るように言ったはずよ!」

「だから、私が来たのではないか!」


 ん? と二人揃って宙を仰いで考える。


「黒の市華……あなたが?」

「そうだ」

「ピックの妻だと言っていた、あのキモノの女性(ひと)は……?」


 どう考えても春雪のことを言っている。そういうことか、と市華はようやく齟齬が起きた原因に辿り着いた。


「あれは市華ではないし、妻というのもその場限りの方便だよ。それに、あんな見た目だが春雪はそもそも女ではない」

「じょ、女装……?」

「まぁ、そんなところだ」

 実際は術で肉体を女の(かたち)に変えていたので女装という表現が適切であるかは微妙なところであったが、これ以上話をややこしくするのも得策ではないのでそういうことにしておいた。


 つまりこの女は、女の姿に化けた春雪こそが〈黒〉の市華だと勘違いしていたということだ。


「用事があるのが彼の方だったと言うのなら、呼んでくるけれど……?」

 人違いだったというのなら自分は交渉の相手に相応しくない。提案をすると、ぽかんと開けていた口を閉じて首をぶんぶんと振った。

「い、いえ! あの人が男だったのなら問題はないわ! わたしは、初めから黒の市華に用があったの!」

 必死に取り繕っているように見えるが、誤解が解けてようやく本題に入れそうだった。

「話をする前に……ノートの紙片はどこにある?」

 女は豊かな胸を押し込んだスーツの隙間に手を入れ、折り畳まれた紙片を取り出した。間近でそれを見た瞬間身体が惹きつけられる感覚を覚え、紙片が本物であると確信した。

「いいだろう。それで、話というのは?」

「その……――とは……――いで……」

「? すまない、よく聞こえないのだが」

 歯切れ悪く、もじもじと紙片を撫で回している。折り目が付くことは大して問題ないのだが、破られでもすれば回収が面倒になる。そんなことを気にしていると女が軽く咳払いをした。

「……あなたとピックは、どういう関係なのですか?」

「ピックと……?」

 また先程と同じ話題ではないか、と食傷気味になりながらも事実を伝える。

「私のことはピックの義理の妹だと紹介されていたと思うが、それも方便だ」

「そんなことは判ってる! わたしが聞きたいのは、あ……あなたが、彼のことをどう思っているかということです!」

 落ち着きを取り戻したかと思いきやまたも語気を荒げた。

 流石にここまで言われてまだ意味を取り違えるほど市華は鈍感ではない。

「君が思っているような関係ではないよ。ノートの断片を捜す手伝いをして貰っている。それには感謝しているが、ただの仲間だ」

「でも、ピックが黒の市華に惚れ込んでいるという噂を聞きました」

 見知らぬ相手に噂が伝わってしまうほど広まっている話なのか。普段からそういった態度を大っぴらにしているピックのことだ、酒場ででも自ら吹聴して回っているのだろう。性格と口の軽さに嘆息する。


「多分、ただの遊びだよ。飽きればすぐに私の許から離れてしまうと思う。それより気になっているのだが、君はピックの知り合い――――っ!」


 飛来した針を咄嗟に手で払った。打ち落とし損ねた一本が手の腹に突き刺さる。

「ただの遊びのために、わたしは黙って置いて行かれたって言うんですか!?」

 泣きそうな表情で女が怒鳴る。投擲の動きは確かにあったが、目の前にいながら針を取り出す動きには全く気付けなかった。

 腕を引き再び投擲の構えを取る。女の指が伸びたように見えたのは一瞬で、瞬きの後には既に針が指の間に挟みこまれていた。

 再び投擲。コートの裾を掴み、勢いよく翻した布を盾にして針の速度を殺す。今度は全て布で叩き落し、手に刺さっていた針を引き抜いた。


(爪?)


 白い針に思えたものは細いこより状になった爪だった。

「落ち着いてくれ、私は君と争うつもりはない。ピックの知り合いなら尚のことだ」

「……判りました」

 感情的になりやすいようだが案外聞き分けはいい。女は大きく息を吐き、紙片を掲げた。

「あなたはノートさえ手に入ればいいのでしょう? でしたら、ノートはピックと引き換えでどうですか?」

 双方丸く収まる交換条件。しかし、市華はそれに即座に頷くことは出来なかった。


「交換しようにもピックは私のものではないし、物のように大人しく引き渡されてくれるような奴でもないよ、あの男は」


 市華の知るピックという男は自由な男だ。ハニーズ・ビーストに身を置いているのは彼自身の意思であり、離れる時もまた彼の意思でしかあり得ないだろう。

 その返答に女の顔が一気に紅潮した。

「解ったようなことを――わ、わたしだってそのくらい解ってる! でも、そうでもしないとわたしの所には……!」

 ポケットに手を入れ、取り出したライターを紙片と共に掲げて見せる。炎の灯りが物騒な笑みを照らした。

「応じないと言うのなら、この場でノートを燃やします! 本気ですよ? 私にとってはただの紙切れでしかないのですから、これに火を点けることなんて――……」


 ――――ぱきっ


 女はやけに近くで何かが割れる音を聞くのと同時に、顔面に軽い衝撃を受けて視界を歪ませた。

 片目の視界が赤く霞んでいる。眼球を動かして焦点を調整すると、先程よりも市華との距離が縮まっていることに気が付いた。


「そんなことは許さない」


 落ち着いた――妙に落ち着き過ぎている声。

 市華の手の平から伸びた赤い針が、眼鏡のレンズの表面に突き刺さっていた。


「燃やすのだけは駄目だ。そんなことをすれば、私は君を――――」


 針が形を変え、血管のように拡がりレンズを這う。蠢くそれが睫毛に触れて、女の首筋に寒気が走った。



「はい、そこまでー」



 横から伸びてきた爪が市華の〈矛〉の先端を切り落とした。切断された部分が液状化し、ひび割れたレンズを流れ落ちる。

 女は腰を抜かし、その場に座り込んだ。

 市華は爪の持ち主の顔を見る。


「ピック……?」

「イチカちゃん、顔怖くなってるよ。眉間にシワ寄ってる」


 間に割って入ったピックに指摘され、市華は矛を収めて眉の間を撫でた。

「ついて来ていたのか?」

尾行(つけ)たんじゃないよ。お散歩コースがたまたま一緒だっただけ」

 この男にもついて来ないよう言いつけていたはずだが、ものは言い様である。

 ピックは振り返ると、地面にへたり込んでいる女に向けて片手を挙げてみせた。

「やっ。久しぶりだねー、シン」

 シンと呼ばれた女は今頃目の前の男の姿に気が付いたらしく、驚愕の表情を浮かべた。言いたいことが多過ぎて整理が付かないらしく、口をぱくぱくとさせている。

「ゴメンねー、イチカちゃん。ホントはこんなダイタンなことできるような子じゃないんだよー。コレ返すから許してあげて」

「あっ!?」

 気付かないうちに紙片がピックの手から市華へと渡っていた。シンは声を上げてピックを見上げた。

「わたしのこと、気付いてたんじゃないですか!」

「そりゃ気付くよ。気付いてないなんて言ってないよー?」

「だったら、なんでパーティーでわたしのこと無視したんですか?!」

「だって仕事中だったんでしょ? ジャマしたら悪いかなーと思って」

 どうやらシンは人外であることを隠して仕事をしていたようなので、人外の男と接点があると判ればいらぬ詮索を招いていたことだろう。ピックらしからぬ気遣いと正論にシンは押し黙った。

「やはり、知り合いだったのだな」

「まぁねー」

 〈母なる者〉を同じくする者は〈矛〉に同じ特性を受け継ぐ。シンの矛がピックと同じ爪であったことから、二人は同じ眷属なのではないかと市華は予想していた。

 ピックは気まずげに俯くシンの前で屈み、小さな子供にするように視線の高さを合わせた。

「ところでさ、シンはなんでこんなことしちゃったの? オレとイチカちゃんに嫌がらせしたかっただけ?」

 視線を逸らして羞恥に顔を赤くするシン。

「そういうことを言ってやるな。きっと、君の様子を知りたかっただけで悪意はなかったのだと思う」

「ノート燃やそうとしてたのに?」

 一瞬とはいえ殺意を向けた相手を庇う市華を意外そうに振り返る。

「その気があれば、ノートの力を使うことも出来たはずだ」

 本気でピックを手に入れるつもりがあったのなら、そうすることも充分に可能だった。それをしなかったのはピックの気持ちを操る真似をしたくはなかったからに他ならないだろう。思わず怒りに我を失ってしまったが、ノートを燃やすと言ったのもただの脅しだったのだろうと冷静になった今は思う。

「なるほど。寂しくてオレの気を引きたかったんだねー」

「も、もうやめてくださいぃ!!」


 衝動的な行動を細かに分析されてしまい、あまりの恥ずかしさに耐え切れずシンは両手で顔を覆った。


「オレ戻る気ないけどさー、サミシイならウチに来れば? うん、それがいいや。そうしよう」

「へ……?」

 思わぬ提案に素っ頓狂な声を出して顔を上げた。ピックは名案だと言わんばかりに一人で頷いている。

「ピ……ピックの所……い、一緒に……?」

 考えが飛躍して在らぬ妄想をしているのか、顔が先程とは違った色味の赤に染まっている。

「いいよね、イチカちゃん?」

 シンの処遇について許可を求める。ノートが無事に戻ってきた今、これ以上のことはピックとシン二人の問題だ。二人がそれで納得して元の鞘に収まるのであれば反対する理由もなかった。

 ピックのシンに対する態度に思わず笑みを零す。

「彼女のことを大事に想っているんだな」

 シンの口振りからピックが飽きて捨てたものと誤解していたが、実際は自由過ぎるピックを追いかけ切れず、結果彼女が置いて行かれてしまったというだけのように思えた。

 市華の笑みに応えてピックもにまりと笑う。

「そりゃそーだよ。血で繋がった大事な妹だもん」

「い、いもうと……?!」

 ピックの発言に衝撃を受け、甘い夢から醒めたシンはがっくりと肩を落とした。しかしすぐに勢いよく顔を上げる。

「わ、わたしのことを妹だって言うんだったら、これからは『お兄様』って呼んでやる!」

「お好きにドウゾー」

「う……っ」

 当人としては呼ばれて恥ずかしい渾名を付けてやったつもりだったのだろうが、その程度で恥ずかしがるようなピックではなかった。

「や、やっぱり『兄さん』で……」

 むしろ言った本人の方が気恥ずかしかったらしく、もはや誰に対して行われたものか判らない譲歩が為された。

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