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黒の手記帳  作者: ナルハシ
序章
1/18

 雨が降っている。


 景色を霞ませる霧雨。

 否、景色を霞ませているのは雨だけではない。


 白い煙と灰。


 雨の重みに押し戻されることなく立ち上り、舞い上がり、一帯の景色を霞ませている。

 その一帯の地面は雨に濡れることなく、代わりに白い灰が雪のように降り積もっていた。

 灰に埋もれながら、小さな炎が燻っている。


 炎が消える頃、そこにはいつの間に現れたのか一人の女が佇んでいた。


 少女のようにも、少女であることをやめたようにも見える年頃の女。

 黒く長い髪に、黒い瞳。着ている簡素なデザインのワンピースまでもが黒い色で、その対比で肌だけが異様に白く見えた。


 彼女は、先程まで炎が燻っていた場所を見下ろしていた。

 身を屈め、灰に半分埋まったそれを拾い上げる。


 それは、一冊のノートだった。

 表紙は焼け焦げ、煤に塗れて黒くなっている。

 ノートの隅は茶色く焼け焦げているが、内部にまでは炎は侵食していなかった。

 焼き切れることなくノートとしての形は保っているが、そのページは半分以上抜け落ちているようだった。


 ノートを閉じると、彼女は地面に降り積もった灰を指で掬い取った。

 そして、表紙の右上の辺りを指で撫でる。


 縦に一本、横に一本線を描く。


 黒い表紙に、白い灰で十字が描かれた。

 白い十字が簡単に消えてしまわぬようにもう一度線をなぞってから、彼女は悲しげに、あるいは愛おしげにノートを抱き締めた。

 彼女がノートを胸に抱えて身を起こすのを待っていたかのように、風が巻き上がった。

 ワンピースの裾と長い髪が風にはためき、地面の灰が拡散してゆく。


 灰を全て吹き飛ばし、風が止むと雨はようやく地面を濡らした。それと同時に彼女の身体も雨に濡れる。黒髪が雨に濡れ、艶を増した。



「おかえり、イチカちゃん」

「おかえりなさい、市華(いちか)さん」



 濡れそぼつ彼女に声を掛ける者がいた。

 一人はおそらく彼女と〈同類〉の者。もう一人は同類でこそないが、確実に人間ではないとわかる者だった。


「市華……それは、私の名前?」


 二人に聞き憶えのない名で呼ばれ、彼女は不思議そうに首を傾げた。


「貴女は僕たちに名を教えては下さらない――――いえ、未だ自らの名を思い出せずにいる。ですから、僕たちは貴女のことをそのように呼んでいます」

 そう言うと、獣の耳と尾を持った中性的な美貌の青年は一歩進み出て、彼女の前に跪いた。上等そうな着物の裾に泥水が滲み込むが、気に掛けることなく青年は言葉を続けた。


「どうか、貴女のノートに僕の名を記して下さい」


 青年の言葉に、彼女は戸惑いを見せた。

 彼らが何者であるのか、それどころか自分自身の正体さえもわからない。

 しかし〈ノート〉に名を記す、その行為の意味だけは理解していた。


「どうして……?」

「僕はずっと、自ら望んでそうしてきました。そうし続けることを誓いました、だから」


 彼女が憶えていないだけで、この問答は何度も繰り返されていたのだろう。そうすることが当然であるというように、獣の青年は答えた。

「オレは違うよー」

 もう一人の男も同じなのだろうかと視線を向けると、尋ねるまでもなく、それも当然であるというような答えを寄越された。


 二人にしてみれば当然のこと。しかし、彼女にとってはそうではない。


「ノートに名前を書けば、私は必ずあなたを利用する。けれど、私は見返りに与えられるものを持っていない。持っていたとしても、私からあなたに与えることは……きっとできない」


 申し訳なさそうに彼女はそう言ったが、獣の青年はゆるゆると首を横に振った。


「それで構わないのです。僕は貴女に多くを求めはしない、ただ傍に置いてくださるだけでいいのです」

「オレは見返り欲しいけどねー」

 謙虚さの欠片もない言葉に面白くなさそうな視線を送って、獣の青年は続けた。


「どうか僕を使ってください。僕の命を利用して下さい。貴女から何も与えられることがなくとも、僕は血の一滴まで全てを貴女に捧げます。貴女は何も気にすることなく、ご自分の目的を果たすことだけを考えて下さい」

「私の……目的……」


 ぽたり、前髪を伝って雫が落ちる。ノートが濡れてしまわないように、両腕で庇うように抱き締める。


「そうだ、私は……」



 取り戻さなければならない、失ったものを。欠けてしまった(ページ)を。

 そして思い出さなくてはならない、自分自身を。それよりも大切だったはずの何かを――――



 彼女はノートを抱き締める。愛おしげに、あるいは悲しげに。


 霧のような雨は彼女に纏わりつき、雫となって頬を伝う。

 それはか弱い少女であることをやめようと望んだ彼女が流す、涙の代わりだった。

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