三田一族の意地を見よ 9
第睦拾肆話 康秀の異能
永禄元年三月八日
■京 九條邸
「全く、長四郎の突拍子も無い考えは何処から出てくるのか、頭の中を見てみたい気がするよ」
氏政がついつい話す。
其処へ、突然襖が開き、先ほど聞いたばかりの声が聞こえてくる。
「典厩の知謀は何処からの物なのか?朕も知りたい物よ」
驚きながら襖を見ると、二条晴良が案内する形で、先ほど拝謁した方仁帝が伏見宮邦輔親王と柳葉宮恭仁親王を引き連れていた。
慌てて平伏する氏堯、氏政、康秀。
「よい、皆今は忍びじゃ、典厩直言を許す」
「主上も仰っておられる、典厩説明致せ」
恭仁親王が康秀の説明するように命じる。
いきなりであったが、康秀にしてみれば、未来知識ですとか実は転生者ですとか言えない訳で、帝に拝謁すると決まってから万が一聞かれたらと散々考え抜いた末に作成しながらも使わなかった言い訳を答える。
「御意、臣は幼き頃より、良く夢を見ました。其処には本邦の先駆者達が臣に口々に喋りかけてくるのでございます。幼き頃は何やら判りませんでしたが。六歳の頃夢枕に恭しい方が現れこう言ったのでございます。予は水無瀬じゃ、“そなたに我が知識を授けよう。明日城下の市に来よ”
それを信じ翌朝城下の市に行くと、夢枕に立った御方が臣に見えたのでございますが、他の者には見えないらしく、誰も騒ぎもしません。そして御方は臣に手招きをするのでございます。そこで着いていくと社の方へ向かうのでございます。そして社に着くと突然一変の風が吹き終わるとその御方の姿はなく、代わりに神木の下に一人の僧が寝ておりました。
臣は驚きながら、僧の起きるのを待っておりました。四半時(30分)ほどで僧は目を覚まし臣を見ると語りはじめました。
“拙僧は沢庵と言う旅の者じゃ、ある日夢枕に水無瀬と仰る高貴な方が立って“勝沼へ行け、そして小童へこの知識を授けよ”と言われて目を覚ませば、今まで知らなかった多くの事と、多数の書籍を抱え込んでおった。此こそ神仏が拙僧に命じた性で有ろうと感じここへ来た途端、眠気に襲われてな其処でそなたが来ると水無瀬殿から教わったのじゃ、これも神仏の巡り合わせ、拙僧の知識の全てをそなたに授けよう”と言われたのでございます。
この様に暫く社に滞在した沢庵殿により知識と書籍を譲り受けたのでございます。それからというもの、時折夢の中に水無瀬様が現れては、教えを受けたのでございます。あるとき、水無瀬様に何故臣がと聞きました所、“相馬小次郎が知識を授けるならば、そなたが良いと言ったのでな”と仰ったのでございます」
康秀の話をジーッと聞いていた多くの者も一切茶々など入れることなく感じ入っている。現代でこんな事を言えば“厨二病なのか”とか“精神病院へ行け”と言われかねないが、この時代は未だ未だ迷信が大手を振って信じられていたが故に、整合性があり納得できる話で有った為、皆が信じてしまったのである。
「水無瀬様と言えば……」
「後鳥羽院の事ですな」
「なるほど、後鳥羽院は日の本の事をお考えであった」
「後鳥羽院の思し召しならば、典厩の言葉は真で有ろう」
余りの納得加減に、康秀自身が“エッ良いの?”と考えていたが、此処まで来たらやるしかないと腹を括る。
「さて典厩、宮から聞いたが、南蛮人の所業、真で有ろうや」
「はっ、柳葉宮様にお伝えしたように、南蛮人が日の本の民を奴隷として連れ出している事は真にございます。また彼等は他の國でも同じ様な事を行い、自らの野望のために、世界征服を企み動いている所存にございます」
康秀の話に主上を含めた皆が息を呑む。
「南蛮人は何故、そのような無体な事が出来るのか?」
「はっ、神より選ばれたと民であるからと称しております」
「その神の教えとは如何なる物じゃ?」
「彼等の教えは、神とは唯一絶対な存在で有り、その他の神の存在を許しません」
「本朝の様な考えと違うという訳じゃな」
「はっ、彼等は今より千五百年ほど前にイエスという人物が創作した教えを信じ、他の教えを悉く悪魔の教えと称して弾圧してきております」
「独善的と言える訳じゃな」
「はっ、彼の教えは、南蛮人こそ神より選ばれた民であり、それ以外の民は全て奴隷にして良いと羅馬法王から許可を受けておりそれを大義名分にし他の民を征服し支配してきております」
「何たる傲慢何たる奢りよ」
康秀の話に主上も憤慨している。
「遠き東海の彼方に有る國は、南蛮人の王からの使節を名乗る者が皇帝との対談中に懐に隠した武器により皇帝を人質として拉致監禁し、國中の財宝を全て奪い取った上に、皇帝を神の名において異端者として弑逆し、全ての民を奴隷化したのでございます」
康秀の話に、一度聞いた事のある者達すら息を呑む。
「南蛮人とはその様な危険な者達なのか?」
「全ての南蛮人がそうではございませんが、神の名において全てが許されるなど考える輩が多いのも事実にございます」
「主上、此は本朝の危機と言えましょうぞ、南蛮人の良いようにしては、成らぬかと」
稙通が心配顔で主上に上申する。
「典厩、そなたは、どう致したらよいと思うか、思う所を述べてみよ」
「はっ、西國で奴隷狩りをしてる南蛮人を撲滅することは難しいかと、各地の大名共が南蛮の品々を手に入れる為に自ら民を売り払っております故」
「典厩、勅でそれを止めることは出来ぬか?」
「恐れ多き事なれど、彼の者達は、既にドップリとキリストの教えに浸かっております。彼の者達には主こそ主君でございますれば、例え勅命であろうとも無視するかと」
「典厩!」
流石に、この話は危険だと思った稙通が話を止めようとするが、主上が遮る。
「太閤、良い、朕が思う所を述べてみよと言っているのじゃ、典厩続けよ」
「はっ、あの者達の考えを変えるには、南蛮人の所業を諸國へ広め容易に騙されぬように仏教界の協力を得ることも必要かと愚考致します」
「なるほど、多くの者は、彼の教えは南蛮より来た仏教の一派と考えておりますからな」
恭仁親王が康秀の話に肉付けをしながら話す。
「うむ、宮と典厩の言やよし。些か問題はあろうが、叡山にも協力させようぞ、霜台には石山へ伝えよ」
「「御意」」
主上が言った以上、決まりである。この会談の後、康秀の纏めた南蛮人とキリスト教の悪行が各地の大小名へ征東大将軍恭仁親王名で出された。此は主上への過度の恨みなどを起こさせないために、恭仁親王自身が名乗り出た物であった。
康秀が監修し恭仁親王名で出された反耶蘇檄文は、帝の弟宮からである故に、勅命より軽く見られた事は確かで有るが、本願寺、比叡山、高野山などキリスト教を胡散臭く見てきた仏教界からは諸手を挙げて支持された。
そして高野聖などにより全國津々浦々へ届けられ宗派を問わず仏僧の説法などに流用されて行った。このため史実に比べて僅かであるが京洛や堺などでのイエズス会の活動は低下していく事に成る。その為、檄文を出した恭仁親王は宣教師により“大悪魔”と罵られることになる。
これらの影響により、堺では本来の歴史でキリシタンに成るはずであった、薬種問屋丹波屋の小西隆佐が入信せず、その息子行長も仏教徒として生涯を終えることになるが、此は遠い未来の話で有る。
この様な、反キリスト教運動も、この年足利義輝が帰洛し、三好及北條側への反発からキリスト教の布教許可を出した為に混乱し、その扱いを巡って、主上と公方は激しく対立することになる。しかし奢り固まった義輝は主上の不快感を無視し続けた。
更に西國では大友義鎮(大友宗麟)や大村純忠達のように、後々になってもキリスト教の教えに妄信し神社仏閣を破壊し僧侶の虐殺し民の強制改宗を行っていく。
そして、イエズス会へ領土の寄進(長崎)を行い、物資や珍し品々を手に入れる為に日本人をポルトガル商人へ奴隷として売り飛ばす行為を行い続ける者は多数残ることになる。
さらに、九州の大小名共は、火薬一樽につき五十人の若い娘を宣教師と結託したポルトガル商人に売り払った。彼女たちは奴隷として澳門から世界各地へ売られていった。
永禄元年三月十一日
■京 池邸
北條家がいよいよ帰國する時期になった為、北條家一行が逗留している池邸に三好家一行を招待し会席が行われた。三好家、北條家共に意見の相違などがないために、ごく普通に会席が行われた。
その様な中で、会席の膳の奇抜さに三好家一行も目を見張っていた。特に性によいと言われた料理を事細かに気にしながら食べる松永久秀が印象的であり、その後に、どれが性に良い食材かと態々康秀に手紙を送って来て教えを請う程になった。
翌日、忍びだと言いながら、三好義賢が白井胤治を連れ、茶を点てるためと称して茶室を借りにふらっと現れた。亭主として義賢が、客として氏堯、氏政、康秀、胤治が点てられた茶を頂く。茶を頂きながら、ごく普通な話を行う。
「霜台殿、昨日は真に忝なく」
「なんの」
その様な中、徐に胤治が氏堯に話しはじめた。
「霜台様、典厩殿は色々と人の事が判るそうですが、典厩殿が見られた御屋形様の症状をお教え頂きたいのですが」
「霜台殿、典厩殿、儂からも御願いしたい」
胤治に次いで、義賢も頼む。
「素人に毛が生えた程度で、さほど参照にならぬと思いますが」
一応康秀が断りを入れるが、氏堯が良いとばかりに話す。
「そなたの見立てで修理殿は如何であった?」
氏堯にそう言われた以上は答えないわけにはいかずに話しはじめる。
「修理様(三好長慶)は気の病気味でございます」
「やはりの」
「見るに、修理様は細かいことまで気になり、過ぎてしまったことも後悔なさる気質に見えます。それ故に必要以上に気を使ってしまい気が滅入るのでしょう」
「うむー、考えられることよ」
「このままでは、気の病で体まで弱ってしまいましょう」
「対策はあるかの?」
「出来れば、政務に就かせぬ事でしょうが」
「そうも行かぬな」
「では、食事で何とかするしかありません」
「食事でか」
「はい」
「どの様な物を?」
「どじょう、豆味噌、鰹節、蛸、烏賊、アワビ、胡麻、大蒜、牛蒡、大根などが気の病や体力増強に良い食事です」
「成るほど、早速兄者に勧めるとしよう」
義賢はウンウンと頷きながら懐紙に記帳していく。
氏堯、氏政、胤治は話を邪魔して無いように、ただ聞いているだけである。
「所で、儂はどうじゃな?」
書き終えた所で、義賢が質問してくる。
「物外軒殿(義賢)に於いては、体調には何ら心配する所はございませんが、少々気になることがございます」
「ほうそれは?」
「今より五年後に石山より辰巳の方向にて危機が訪れると出ておりますので、努々お忘れ無きように」
康秀の話に、義賢は不機嫌さを見せずに、真剣に聞く。
「うむ、気を付けてみようぞ、他には無いかの?」
「孫次郎殿(三好義興)には、酒毒の卦が出ておりますので、酒をお控え為され益すように。また左衛門督殿(十河一存)には、瘡(梅毒)の卦が見えます。お気を付けるとでございます」
「其処まで判るとは、典厩殿は、医術も使えるとはの」
康秀としても自分の力を見せる事になってしまうが、三好政権の長期化で織田信長の増長を止めるための策として行っている。
「小田原で習いました故、門前の小僧習わぬ経を読むと言う訳でございます」
「ははは、謙遜なさるな、孫次郎の酒好きには兄者も困っているのじゃからな」
「酒毒にございますが、軽い内ならば、鬱金で緩和できますが、重い場合は鬱金では効きません故、最低でも禁酒が肝要ですな」
ふむふむと、義賢は書き続ける。
「典厩殿、大変参考になった。所で弾正をどう見なさったかな?」
義賢は康秀に先ほど会った松永久秀の事を聞く。
「弾正殿は、曹孟徳の気質を持っておられますな」
「ほう、それは?」
「治世の能臣、乱世の奸雄ですな」
胤治が呟く。
「なるほどの」
「弾正殿は、何かにつけて、悪し様に言われますが、確りとした主君さえいれば、能臣として働くでありましょう」
「成るほどの、兄者の心次第と言う訳じゃな」
「そうなりましょう」
義賢は康秀の話に納得したのか、徐に腰の物を外すと渡してくる。
「此は、儂が使っている、光忠じゃが、儂より若いそなたの方が良く使えよう」
いきなりの話しに康秀も驚く。
「物外軒殿、拙者には過ぎたる物でございます」
「いやいや、帝より鎗を下賜される典厩殿よ、儂の腰刀を是非さして欲しいものよ」
笑いながら、義賢は渡してくる。この刀こそ、永禄五年久米田の戦いで義賢戦死時の愛刀であり、織田信長が草の根分けて探し出した名刀であった。
「長四郎、頂いておけ」
氏堯の言葉で、康秀も押し頂く。
「ははは、重畳重畳、典厩殿には末永く、教えて欲しいものよ」
そう言いながら、義賢は帰って行った。重そうに胤治が諸道具を背負っていったのがお忍びと言えなかったが。
第睦拾伍話 腹黒妙ちゃん
永禄元年三月二十五日
■相模國南足柄郡小田原
小田原城下に梅が咲き乱れる中、城内の三田康秀屋敷では、氏康夫人の瑞姫、氏政夫人で武田信玄長女の梅姫、綱成夫人で氏康次女の麻姫、四女で水面下で武蔵國岩付城主太田美濃守資正嫡男の資房と婚姻の話が出ている林姫、五女で古河公方足利義氏と婚約している光姫、大道寺政繁夫人の勝姫達が集まっていた。
屋敷の大広間には康秀から送られて来た京で流行りはじめている物や馬揃えで披露された物などが所狭しと置かれていた。
「皆様、今日はお日柄も良く、夫三田長四郎康秀が考案し、帝へ御照覧致しました料理の数々をお楽しみください」
康秀夫人妙姫がにこやかに挨拶しながら料理の数々を勧める。
「まずは、“ゆば刺身と生ウニそしてゆばどうふ”でございます」
出された器も青磁の綺麗な物で皆が目を見張りながら上品に食べながらも、美味しいさが顔に出る。
「続いて、お好み焼き、タコ焼き、大判焼きなどの焼き物です」
次ぎ次ぎに料理が振る舞われる。
「寒天の梅酒漬けです」
皆、透明で斬新な食感の今で言うゼリーのような物に舌鼓をうつ。
「花梨、梅、蜜柑、柚子、木天蓼、通草などなどを漬けた果実酒です」
酒が入るとめいめいに自分の夫や家族の話をし始める。
「長四郎殿は、“もう懲りた”とお言いになって若い身空を側女も置かずに居るそうですから」
「新九郎様は、梅様が恋しくて側女を置いていないそうですけどね」
「ある意味、長順殿のお相手が見つからないと幻庵殿が嘆いていましたけどね」
そんな中、康秀が南蛮人の服装から閃いて改良したという給仕服を着た侍女が現れ盛り上がる。何と言っても、ゴシックロリータタイプ服、英国メイド服、A○B風服などなど多数が送られて来たのであるから、此は斬新すぎて驚きの連続になった。
この宴に参加した梅姫の乳母は早速、御屋形である武田晴信の元へ、逐次連絡をいれたのであるが、余りの斬新さに“三田康秀は意味不明であり、料理にて帝に取り入った。変な服を作る。商人のように金儲けをする”などと更に変な噂が流れる事になり、晴信にして見れば興味のない人物に映る事になる。
逆に殆どの手柄を氏堯、氏政に被せたために、必要以上に二者が警戒されるようになっていく。
皆が満足して帰った後、妙姫と祐姫が二人だけで祝杯を上げていた。
「プファー、いやまさか妙があれほどの腹芸が出来るとは思わなかったよ」
祐が盃を空けながらしみじみと妙を見ながら関心した風に喋る。
「フフフ、こう見えても北條左近衞権中将の娘であり宗瑞公(北條早雲)の曾孫ですよ、それに幻庵老の薫陶も受けてますからね」
口元を扇で隠しながら普段のオットリした妙と段違いの鋭い目をしながら答える。
この姿を何度か見ている祐も溜息を吐きながら流石だと納得する。
「妙はたいした者だねさ、私じゃ直情過ぎて其処まで演技する事なんぞ無理だからね」
祐の言葉を賞め言葉と感じたのか、妙はニコリと笑う。
「うふふふ、梅姉様の周りは武田の間者だらけですからね、あの乳母とて怪しいものですよ」
「それでも、母親や妹たちまで騙すのはやり過ぎなんじゃないかい?」
祐の質問に妙は扇をパチンと畳んでクルクルと回しはじめる。
「うふふ、孫九郎殿(北條綱成)に嫁いだ姉様はいざ知らず、母は今川の出ですから侍女に間諜が居る可能性が高いです。それに妹は太田資房と古河公方に嫁ぐのですよ、必要以上に長四郎様の正確な情報が四散するのは避けるべきですからね」
「まあ、確かにそうだけどね」
「それに武田晴信殿は誠意という言葉を母親の腹の中に忘れてきた御方、長四郎様の非凡さが知れ渡れば、何かしらの動きをしてくるでしょう」
「拉致か、誘惑か、暗殺かって所か」
「ええ、恐らくは、父(氏康)も大叔父(幻庵)も叔父(綱成)もその事を危惧しているのですよ、先だって、長四郎様から父に、武田晴信が信濃伊奈郡代秋山膳右衛門尉(秋山虎繁、軍記物だと信友)を介して織田信長と音信していると言う緊急の文がありまして、風魔に調べさせたましたけど、紛いもない事実でしたからね」
真剣な表情で秘密を平気で話してくれる程、信頼があるのかと祐は感動していた。
「いいのか、俺も井伊の娘だぞ」
妙は祐にニコリとしながら言う。
「ええ、長四郎様の妻である限りは祐姉さんは味方ですからね」
「判った、俺も次郎法師と呼ばれた漢女だ、石にかじりついても長四郎とは別れんぞ」
「ええ、そうですよ」
「しかし、織田と言えば今川の宿敵だ、それを知りながら音信するとは、喧嘩売ってるとしか思えんぞ」
「今川は那古野城を盗られたのですものね。この事がばれたら治部大夫殿(今川義元)は怒るでしょうし、お婆様(寿桂尼)が怒髪天を衝く事請け合いですね」
そう話す妙の顔は笑っているように見えるが、目が完全に笑っていない。
「まあ確かに、そうなると伊那口を止める形の家(井伊家)が凄い迷惑なんだけどな」
「ええ、其処で今の時点で、武田と織田の繋がりを知らせて、三國間の同盟に罅を入れるより、来年早々に治部大夫殿が織田攻めをするまでは、隠しておこうと決まりましたから」
「なるほど、織田が潰れたあとで、武田を強請るネタにするわけだ」
「ええ、散々人を騙しまくるあの男にはいい気味だと思いますよ」
「怖いな、家のような所じゃ考えつかないや」
「うふふふ、父上、幻庵老にして見られれば、長四郎様が色々考えてくれるから楽しくて堪らないそうですよ」
「確かに、俺も長四郎には何か感じる事が有ったからこそ、子まで出来たわけだからな」
「ええ、けど紗代姫は私の子でもありますからね」
「そうだな、紗代は幸せだな」
「ええ、良い夫に良い母、そして良き家族ですからね」
「長四郎も4月末には帰國かな」
「そうですね、出来るだけ早く帰ってきて欲しいですね」
「そうだな」
しみじみ二人で話ながら、ふと妙が思い出したかのように話し出す。
「そう言えば、長四郎様の案で、関東管領に色々里心と長尾との間に不信感を仕込んでいるそうですよ」
「怖い事だな」
「怖い事ですけど、私達が長四郎様を支えて上げなければ、なりませんからね」
「ああ、長四郎だけに背負わすわけには行かないからな」
ガッシリと手を組む二人の嫁であった。
「長四郎様を盛り立てる為に、一人はみんなのために!」
「「みんなは一人のために!」」
ある意味、長四郎が生前の記憶を元に書いて市井で売られている小説に毒されている二人であった。
永禄元年三月某日
■越後國頸城郡春日山城
越後では守護代であるが実質的守護と言える状態の長尾景虎が、京都雑掌(室町幕府時代の守護大名などが、京都に赴任させた外交官的存在)である神余隼人佑親綱から上洛後の北條の動きについて連絡が来たが、その内容に苛ついていた。
「ええい、伊勢の輩、公方様を蔑ろにして、帝に拝謁するとは何たる不敬、何たる傲慢!」
景虎が手紙を引き裂くように力を入れて額に青筋を立てた。
「御屋形様、起きてしまった事を何時までも悔やんでも仕方が有りますまい」
宿老の直江神五郎景綱が景虎を宥める。
「神五郎、それだけではないぞ奴等は事も有ろうに帝を誑かし、征東大将軍なる物をでっち上げたのじゃぞ!此ほど公方様を馬鹿にした行為があるか!」
「しかし、曲がりなりにも帝がお認めになった官位でございますれば」
「フン、隼人佑が関白様よりお聞きした事に依れば、今回の件は関白位を争っている九條が伊勢の輩と共謀して恐れ多くも帝を騙し奉って勅許を出させたそうだ」
景虎が手紙を渡す。
「なるほど、それらならば、公方様をお助けし、太閤殿と伊勢の企みを潰すが肝要でございます。御屋形様、暫し我慢為されませ」
「神五郎、そうは言うても、偽勅は元より、國主の家系でもなく、他國の兇徒たる伊勢風情が、左近衛権中将、相模守、伊豆守、武蔵守じゃぞ、それに山内上杉家代々の弾正少弼を氏康の弟如きが手に入れるなども、許せるわけが無かろう!」
益々苛つく景虎、酒の飲み過ぎか、肴に梅干しばかり食っているので塩分の取りすぎで血圧が高くなっている為なのか元々の性格なのか、はたまた、北條の嫌がらせ的な京都での行動が勘に触るのか、この所、頓に怒りっぽくなっていた。
「公方様さえ帰洛致しませば、先方の企みなど幾らでも打破できましょう」
景綱が落ち着かせるように宥める。
「そうか、そうじゃな、儂が関東管領職を継ぎ、公方様が一声お掛けになれば、今は時勢で伊勢の輩などに頭を下げている、関東諸将も雪崩を打って予の旗下に参じようぞ」
やっと機嫌が良くなって来た景虎をみて景綱はホッとしていた。
「真に、そうなりますな」
「そうじゃ、管領(上杉憲政)はどうしている?」
景虎はいきなり話題を変える。この辺も長い付き合いの主従であれば直ぐさま頭を切り換えて答える。
「管領様なれば、御舘にて無聊を嘆いておられるとか」
「フン、態々高い金までかけて飼っているのだから、信濃守(上野國箕輪城主長野業正、この頃は上杉を見限って独自の勢力圏を築こうと画策していた)や下総守(武蔵國忍城主成田長泰、北條家に臣従していた)等旧臣共に、内応の文でも出せば良いものを」
「御屋形様、それは酷というものでございましょう、それほどの人望があれば、態々越後まで逃げてくる事は有りますまい」
「ハハハハ、それもそうじゃな」
「所で、この所越後に他國の間者が入り込んでいると言うが真か?」
景虎が長尾家の暗部を預かる景綱に念押しで聞く。
「御屋形様、手の者からでございますが、管領様に接触を図ろうとしているとの事でございます」
「うむ、管領に接触とは、伊勢の輩め何を企んで居るのだ」
「管領様が他者と会うときには播磨守(大石綱元)左衛門五郎(倉賀野尚行、両名とも上杉憲政家臣であるが、早い内から見限って長尾景虎に内応して憲政の行動を逐一報告していた)が付いておりますから話は筒抜けにございます」
「そうか、それで最近の話は?」
「頻りに関東を懐かしがっている様で、上野からくる行商人を呼んでは、関東の話を聞いているとの事」
「フン、年寄りが望郷の念に囚われはじめたか、又ぞろ“関東へ出陣せよ”と叫んで五月蠅くなるの」
「その行商人共は間者では無いのだな?」
「播磨守、左衛門五郎だけではなく草にも調べさせましたが、単なる行商人でございますな」
「ふむ、ならば良いわ、儂としては早々にでも、上洛し公方様より関東管領就任の許可を受けねばならぬのに、三好の輩のせいで、公方様は未だに朽木谷よ、六角殿(六角義賢)も大概だらしがないの」
「仕方が有りますまい。三好は畿内を押さえております。それに六角殿だけでは如何とも出来ぬでしょう」
「うむ、やはり儂が行かねば成らぬか」
そう言いながら盃で梅干し片手に酒をチビチビと飲む景虎であった。
第睦拾睦話 東國情勢
永禄元年(1558)三月(新暦四月)
■関東各地
長い冬が終わり春三月となった関東各地では農民達が今年の作付けのために苗代の準備に精を出していた。弘治三年は旱魃で収穫が激減したのである。これが普通の領主であれば、凶作時には民との間で年貢の減免などでもめ事が起こるのが常であったが民第一政策の北條家の領國では、それぞれの作柄を調査し年貢の減免及び免除を行い民の生活が悪化しないようにしていた。
その様な政策をしたとしても、今までであれば、この季節は食糧不足で餓死者や欠け落ち(農地を捨てて逃げる事)が続出する所であったが、康秀の発案により数年前から始めた義倉制度によって蓄えられた各種穀物から、生活に必要な穀物が適量配給された。
更に康秀の指示しておいた渇水に強い西瓜の栽培などで、蛋白質や栄養価の高い西瓜の種なども食料として利用させたため、この年は凶作にもかかわらず、北條領國は餓死者無しという驚くべき成果を上げていた。
苗代も、康秀が指示した物で、此によって直蒔きの時と比べて、等間隔に並んだ稲で生育が良くなり世話もやりやすくなるという影響から北條領國全域に採用されつつあった。その苗代を作る農民達の顔は明るく悲壮感が見られない。
「いやー、殿様のお陰で、おらの家でも誰も病気にならなかっただよ」
「うちもだよ、昔なら、一冬で爺さま婆さまが、おっ死んだもんだがね」
「西瓜の種があれだけ食べられるなんぞしらなかっただよ」
「管領様(上杉憲政)じゃこうはいかなかっただな」
「うんだな、情け容赦なく年貢を取られたもんだな」
「ほんに、小田原のお殿様のお陰やな」
伊勢早雲以来の民本主義で大事にされている民百姓は北條家の支配を喜んで汗を流しながら仕事をしている。今年こそ豊作でありますようにと願いながら。
同じ関東でも北條の勢力圏ではない、常陸、安房、下野などでは旱魃の影響で飢饉が発生し餓死者が続出していた。また北條の准勢力圏でも國衆の支配地域の中で、目先の利益しか見ていない領主は、北條の政策である雑多な税を取らず民に余裕を持たす政策が行われずに、未だに旧来の税制で年貢の取り立てを行っているため、一揆や農民の逃亡が後を絶たずに、田畠は荒れる一方であった。
各地で発生した欠け落ち農民の一団は、次々に風の噂で聞いた食える土地である北條領へ逃げ出してくる始末である。一応北條側では、味方の地域より流れてきた者達は、説得の上帰國させようとしたいたが、殆どの者が帰國を拒否して、北條側國衆側双方に悩みを残していた。
一方て敵國から来た一行には、狭山台地などに入植させ、茶畠開墾に従事させていた。此も康秀の発案であった。これら政策や種痘により疱瘡も発生せずに衛生感の強化により、北條領國の人口は増加の一歩を辿っていた。
一方隣國の甲斐では餓死者、欠け落ち、疫病が多発していた。特に小山田氏の支配する都留郡では毎年のように雪害、風害、水害、旱魃などの天変地異によりガタガタの状態で有った。その為にも武田家では豊かな信濃への略奪のための侵略を強化していたのである。それを甲斐の民も自らが豊かになるなら構わないという考えで支持していたのである。
■武蔵國 西郡 酒勾村
三田康秀の領地酒勾村では、康秀が都へ行ってからも、残った野口刑部少輔秀政の手により、種々の改革が進み、康秀がこの村を治めた頃の、村高三百八貫から千貫を超える程に生産力が上がっていた。
木質クレオソートから製造される正○丸擬きや、綿花栽培、蒲鉾生産などの海産物加工、海藻灰から作成されたヨウ素を元にした消毒剤ヨードチンキの生産。(これと蒸留アルコールにより怪我を負った後の破傷風や敗血症などや乳幼児の死亡率が劇的に低下していた)
更に風車動力を利用したアルキメディアン・スクリューで海水を上げ浜式塩田へ揚水し、濃くなった塩水を水車動力の鞴で霧状に竹の枝に吹きかける流下式塩田方法も使い、塩の増産も行われていた。
その為に、康秀の領地は、北條家内で上位を争うほどの収穫高で、多くの家臣団がその技法の伝授を受けつつあった。これは三田家側が康秀と妙の好意として教えた事になっていた。
伝授者は農学者と言う触れ込みで酒勾三田家(康秀の家を本家と分けるための称号)の家臣となっている風魔衆の一人が各地を周り伝授していた。彼は、大久保長安と同じ様に、康秀の非凡さを隠すが為に作られた人物と言えた。彼の名前は二宮金次郎尊徳と言う。
■武蔵國 埼玉郡 岩付城(現埼玉県さいたま市岩槻区岩槻城)
岩付城主の太田資正は宿老である宮城政業からの報告に青筋を立てながら唸っていた。
「中務(宮城政業)、それほどまでに百姓共が逃げ出したと言うのか?」
資正の質問に、資正の父である資頼兄である資顕、自分と三代続けて仕えてきた政業は答える。
「はっ、何分ここ十年ほどは天候不順続きでございます。その上に、河越の損害(川越夜戦天文十五年(1546))も未だ癒し切れておりません」
政業の言葉に渋い顔をしながら資正は答える。
「判っておるわ。小田原へ尻尾を振っていた兄者が死んで家督を継げたと思ったらこのざまとは情けない。折角管領様に馳走出来ると思ったのだが、何故憎っくき氏康如きに頭を下げねばならぬかと、何度も何度も悔しい思いをしたものだ」
「殿仕方が有りますまい、水は高きから低きに流れる物、既に今の管領様(上杉憲政)の御命運も尽きたかと存じますれば」
資正は政業の言葉にまた渋い顔をする。
「そうだが、未だ越後がおる、越後の長尾なれば、それに常陸の佐竹、安房の里見もだ」
「判っております。今は雌伏の時でございましょう」
「今に見ておれ、この俺が氏康包囲網を作り上げてみせるわ」
「殿、短気はなりませんぞ」
「判っておる、今はひたすら臥薪嘗胆よ、その為に資房と氏康の娘との婚姻話に乗ったのだからな」
資正は悪人面でそう喋りながら、考えていた。
“俺が家を継ぐために兄を殺り、兄嫁と姪を追い出したのだから、氏康の思う通りにしてたまるか、それに資房より政景の方がよほど俺に考えが近いのだからな、いざとなれば資房を廃嫡すれば良いだけよ”
「殿、今は辛抱の時期、努々油断無さらぬように」
「判っておる。それにしても憎々しきは、逃げた連中が狭山で開墾している事よ」
「小田原にも、百姓を返して欲しいと伝えましたが、百姓共が“年貢の減免をしない限りは帰らない”と言っておるとの事で」
「忌々しき事よ、しかし減免せねば、益々逃散が増えるか」
「仕方ない事ですが、小田原へ百姓の説得を頼むしか有りませんぞ」
「氏康め!」
資正はギリギリと奥歯を食いしばりながら呪うように呟いた。
この後、宮城政業が小田原へ向かい、百姓の説得を頼み込み、狭山から百姓が帰村してくる事に成った。しかし基幹産業が北條領のように多角的ではない岩付領では農業生産は米作が殆どで旱魃に非常に弱かった。
(この時代の荒川は現代の元荒川が荒川本流であり、(1629年徳川幕府により現在の荒川へ流路変更)末田須賀堰(1600年代完成)も作られていなかったために、天水、ため池、中小河川からの引水に頼るしか無かった)
その為に、百姓の帰村が成っても、抜本的な改革をしない限りは、天候不順による凶作と飢饉からは逃れる事が出来ない事を例え判ったとしても、一地方國衆である太田資正には難しい事であった。
■越後國 頸城郡 御舘
御舘では、越後の長尾景虎の元へ亡命し居候状態の関東管領上杉憲政が上州から来た行商人の持って来た品を見聞して遙か彼方の故郷を懐かしんでいた。
「おお此が上州で流行りはじめた、こんにゃくとな」
「はっ、管領様、この様にして薄切りにして生姜醤油で食します」
「うむ、美味よ」
「此方は、味噌田楽でございます」
「此も美味じゃ」
商人は上州や関東の名産品を憲政に献上していく。
「播磨守(大石綱元)左衛門五郎(倉賀野尚行)、どうじゃ懐かしい味よの」
「はっ、懐かしゅうございます」
「真に」
一通り食べた後、商人に褒美と買い込んだ品物の代金を支払うと下がらせた。
「久々に食した古里の味は良かったの、早く帰りたいものよ」
また憲政の望郷の念による我が儘が始まったと二人は心の中で舌打ちする。
「御屋形様、今は未だ時期ではございませんぞ」
「兵糧などの問題もございますれば」
酒が入っている憲政は二人の忠告を聞いていないと思えるほどに怒鳴りつける。
「その様な話は聞き飽きたわ。早う景虎に関東へ討ち入れと伝えて参れ!」
「その儀は……」
「良いから伝えて参れ、それに三百貫(三千万円)では足りぬ故、増やすように伝えよ」
又かと言う顔で、二人は下がっていく。行く先は無論今の主君たる春日山城の長尾景虎の元へであり、憲政の馬鹿さ加減をご注進に行くのであった。
二人が去った後、憲政は一人、こんにゃくの煮物を突っつきながら考える。
フー、あの二人、儂が気が付いていないと思っているであろうな。既に殆どの家臣は長尾に尻尾を振っておる、仕方なき事よあと数年もすればあ奴が管領様と呼ばれるのであろうからな。
そう頭の中で呟く憲政の顔には深い皺が刻まれていた。
今思えば、耳に痛い忠言を煙たがり、阿諛追従する者達ばかりを近づけて、贅沢三昧の暮らしをし、その癖、身の程知らずの陣を催し、士民に見捨てられしまった。つくづく儂は馬鹿であった。
死なずに命長らえておるが、最早死んだも同然、願わくば龍若丸の成長と管領になって貰いたい事のみだが、景虎が果たして龍若元服のおりに管領職を手放すや否や、景虎が是と言っても、他の者がどう出るか……
兵庫助(曽我兵庫助)と宮内少輔(本庄宮内少輔)に諭されて越後へ来たが、長尾と言えば祖父、上杉顕定叔父、上杉房能を殺した家、曽我は父親(長尾為景)と違うと申したが、兄を廃し家督を奪うは不忠よ。性根は親父と一緒のようじゃな。此処は身の振り方を考えねばならぬな。
第睦拾漆話 堺鋳銭所
永禄元年三月十八日
■和泉國 堺
帰國間際の北條家一行は、この時期になっても征東大将軍恭仁親王の視察の随員として行動していた。
堺では、朝廷御料所に成ると共に、西國唯一の鋳銭所となる事が決まると、早速、和泉守兼鋳銭正である山科言経と和泉介兼鋳銭祐である新見富弘達と会合衆の話し合いにより、銀貨については銀吹き職人である南鐐座の湯浅作兵衛を召しだし作成させる事とし、銅貨については、鋳物師の総元締めたる富弘が河内鋳物師を堺へ移住させその任に当たらせることで話が決まった。
その話を受けた河内鋳物師達は、度重なる戦乱からくる危機から、朝廷領たる堺への移住を多くの者が望み、結果的に大多数の河内鋳物師が堺へ集まり、貨幣鋳造は元より、鉄炮生産など各種事業に引き手数多になる。その後、河内へ残った鋳物師達も次々に移住を行い、堺は一大生産拠点と成っていく。
恭仁親王御臨席の中、新たに作成された鋳銭所では、平安時代の皇朝十二銭以来久しく途絶えていた中央政府による鋳造貨幣である銅銭、永禄通寶と銀銭である扶桑銀貨及び贈答用などに使われる瑞穂金判が作成されることになった。
永禄通寶は古代より続く銅銭の製造方法である鋳造方法で製造され、銀銭である扶桑銀貨は壱匁銀(凡そ3.75g)、五匁銀(凡そ18.75g)、拾匁銀(凡そ37.5g)、五拾匁銀(凡そ187.5g)、百匁銀(凡そ375g)と五種類の製造が決まり、瑞穂金判は小判と大判が作られ小判は四匁五分(凡そ16.8g)、大判は四拾五匁(凡そ168g)として製造が決まった。
銅銭は、量目壱匁(凡そ3.75g)銅純度九割二分(92%)錫八分(8%)であり永楽通寶を充分駆逐可能な貨幣である。永禄通寶は従来の銅銭と同じく中央に四角い穴が開けられ、その表面は従来の銅銭のように上から右回りで永禄通寶と書かれているが、裏面には康秀の発案により発行年が記され、その上偽造防止の為に、アラビア数字とギリシャ文字による符号も鋳造時に記された。
銀銭は量目が五種類あり、銀八割五分(85%)銅一割五分(15%)であるが鋳造ではなく、康秀の発想による古代ローマ時代以来の均一にならされた鍛造銀の延べ板から、円形に打ち出された円盤に貨幣の模様を付けたタガネを打ち付ける方法で貨幣を作り上げる方式を日本で初採用していた。
扶桑銀は、円形の穴のない銀銭で、表面に五三の桐紋と下面に右から左書きで、壱圓から百圓までが書かれている。裏面はアラビア数字で1~100までの数字と発行年が打印されているが、これらは打印時に上面下面と一挙に打印する方法で作成されている。
銅銭に比べて高価な銀銭は更に高度な偽造防止策が為された。銀銭は打印時に円形の窪みのある台座に入れ、その上からタガネで打印するのであるが、その際に窪みの内側にあるギザギザにより貨幣側面にギザギザ模様が付き貨幣を削って量目を誤魔化すことが出来ない様になっている。
更に、裏面には製造後にアラビア数字とギリシャ文字とローマ数字で製造番号が打印され、鋳銭司により発行枚数が正確に記録された。此により同じ番号の銀銭は存在しなくなり偽造が非常にやりにくく成っていった。扶桑銀貨の流通後に銀銭を受け取る商人達はまず最初に裏面を見るように成っていく。
瑞穂金判は、金八割五分(85%)銅一割五分(15%)であるが、実際の取引には殆ど使われない象徴通貨として製造されるため、製造は一定重量の金をタガネで叩き俵状にした物で有る。所謂史実の小判と大判である。此にも偽造防止の製造番号が打たれたが、製造数が少ないために他の貨幣に比べ管理は楽と言えた。
また、今回の新貨幣発行に伴い貨幣の単位が詔で発せられ、古来より銅銭一枚で壱銭、百枚で壱疋、千枚で壱貫に改訂を加え、百枚で銀壱圓とされ、従来の壱貫が拾圓となった。更に小判一枚は公定歩合で銀五拾圓相当とされた。
この様な変更は、貨幣発行こそ朝廷の専属事項であることを内外に示すために行われたが、実際に所は、堺、伏見、京、奈良、博多などの大商人の協力と話し合いの元で行われた事であった。
尤も商人達も銀拾匁(37.5g)が銭壱貫とされる実態に沿った公定歩合が詔で決まったため、商売がやりやすく成った事は確かで有った。更に鎌倉以来より続く、割符の仕組みを割符屋・替銭屋などと共に整理し為替と言う新たな方法も考案された。
この際、北條側よりアラビア数字が公開された、当初は“使い辛い”“覚えるのが大変”との声も出たが、一度慣れてしまうと使いやすく計算が素早く進む為に商人の間で大流行することになる。
鋳銭所での公式行事が終わった後、既に堺へ帰っていた、天王寺屋の津田宗達子息助五郎(津田宗及)魚屋の田中與四郎(千利休)達による茶会が開かれた。
「親王殿下にはご機嫌麗しく恐悦至極に存じます。手前は津田宗及と申します」
亭主である、津田助五郎が恭しく親王一行を茶室へ案内する。此が千利休であれば親王であろうと関係無く慇懃と対応したであろうが、流石に助五郎には其処までの度胸はなかった。
「宗及、茶会は身分の上下無く楽しむ物と聞いておる。そう畏まらずとも良い。それに茶の湯では自分より宗及の方が遙かに物事を知っておろう。何と言ってもつい先日まで拙僧などと言っておったぐらいじゃからな」
ガチガチの宗及を見て、恭仁親王が笑いながら冗談を言う。それに因り場が解れた。
「流石は、親王殿下ですな、徳が高こうごじゃりますな」
山科言経が更に笑いを煽るように話す。
「ハハハ、そうよの、徳は徳でも得かも知れぬがな」
訳の判らない話で、皆が苦笑いするが、それも親王と言経の計算である。
「ささ、宗及、続きを」
親王にそう言われて宗及も気を持ち直して、昼食として懐石が振る舞う。
食事が終わると、宗及が見事な腕前で茶を点てる。
「見事なものよ」
「真に」
皆が口々に宗及の一挙手一投足に感心する。
「流石は、紹鷗(武野紹鷗)殿の弟子よな」
「真でごじゃりますな」
親王も言経も感心する。
「お恥ずかしうございます」
恥ずかしそうに宗及は答える。
其処へ康秀が風魔を使い調べていた事を暴露し歓心を得る。
「そう言えば、紹鷗殿がお亡くなりになり早三年ですかな?」
そう言われた、宗及と與四郎が頷く。
「はい、我等が師、紹鷗が亡くなりましたのは弘治元年閏十月二十九日(1555年12月12日)でございます」
「そうでござるか、茶の湯、歌道と三条西実隆卿に師事なされあれほど開花させたのでございますな」
康秀が其処まで、師匠の事を知っているのかと、宗及も與四郎も驚きながら、この方に話してみたら何とか成るのではないかと、師匠の家の相続争いを思い浮かべる。
「はい、師はそれはそれは、素晴らしき方でございました」
思い浮かべるが、流石に一商人の相続争いを宮様達に言う訳には行かないと葛藤する中、調べて事情を知る康秀が、追い打ちをかけるように背中を押す。
「宮様、我が曾祖父は三条西実隆卿と昵懇でございまして、その縁から、紹鷗殿の事も気になりまして色々聞いて歩いたのでございますが」
そう言いながら、康秀が暗い顔をするので、親王も話を聞いてみたくなる。
「典厩、何やら顔が暗いがどの様な事があったのか?」
「はっ、紹鷗殿には跡継ぎがおりますが、未だ齢九才であるが故に、家を継げずに義兄の今井久秀(今井宗久)なる者に後見を任せたのでございますが、その者の性根悪く、堺の有数の豪商でもある“かわや”の家財と殆どの茶道具を自らの物とし、子息はみじこくにされているのでございます」
宗及も與四郎も康秀が其処まで知っているとはと驚きながら、此で何とか成るのであろうかと期待する。
話を聞いた、親王も乗っ取りに話を聞き眉間に皺を寄せる。その後、康秀に言われるがままに、宗及も與四郎も久秀の悪行や行いを話し続けた。
「その童の名前は何と言うのじゃ?」
全て聞き終えた親王が徐に質問を行いそれに宗及が答える。
「新五郎と申します」
「左様か、私が何か言ってどうにかなる相手で有ればよいが、そなた達の話を聞く所ではとても聞かぬあいてよの」
「宮様、更に厄介なのは、あの者は堺では嫌われ者でございますが、松永弾正と昵懇とか」
「成るほどの、類は友を呼ぶと言う訳じゃ」
親王の話に、皆が絶句する。幾ら何でもやばい相手の悪口を言うのは危険だと思いながら。
「殿下、恐れ多き事なれど、時と場所をお選び下され」
流石に不味いと言経がやんわりと注意する。
「判っておる、この者達は信用できる故の話よ」
そう言いながら、扇で口元を隠し笑う。
「今の私では何とも出来ぬが、天は見ておられるものよ、のう典厩」
親王は全てお前のお膳立てで有ろうと、康秀に目で訴えながらニヤリと笑う。
康秀も流石は叡山で海千山千と丁々発止してきた親王殿下だと思いながら答える。
「左様でございます。天は必ず見ておりましょう」
茶会が終わり、宗及も與四郎も松永弾正の圧力ではどうしようも無いのかと、がっくりしていた。
しかし、帰洛する途中で親王が康秀に、答えを再度聞いた際に康秀は徐に詩を述べた。
「典厩、先ほどの答えを聞いておらぬな」
「やはりそう来まするか、では“時は輝、ゐの身はじけし、天之矛”という所でございましょう」
「そうよの」
康秀の詩を聞いた親王は直ぐに意味を判ったが、その他は中々判らなかった。
(今井久秀が天罰を受けるのは将軍義輝が帰京した混乱時になるであろうと言うことである)
尤もこの話自体誰も外へは話さなかったために、闇に葬られる事に成った。
しかし、この後、永禄元年十一月に将軍義輝が帰洛した混乱時、堺で師匠に旨く取り入り、婿になった挙げ句に幼い師匠の子の行く末を頼まれながらその財産の殆どを横領していた、今井久秀が急の病で死去した為、新五郎の後見人として田中與四郎、津田宗及の二人が成り、久秀と違い誠心誠意後見を行った。
二人とも、親王と北條家の暗躍を想像したが死ぬまで決してその事を話す事はなかった。それほど久秀の行いに憤慨していたからであり、恩を仇で返す様な真似をすることはするわけがなかった。
第睦拾捌話 強請るは長尾
永禄元年三月二十五日
■山城國 京 九條邸
帰國間際で慌ただしい中、氏堯、氏政、康秀は九條稙通に呼ばれ九條邸へ向かった。
九條邸には、征東大将軍恭仁親王、伏見宮邦輔親王、二條晴良が集まっていた。
氏堯、康秀が座ると、早速酒杯が廻され宴が始まる。
暫し酒や肴を嗜むと、徐に晴良が話し出す。
「霜台(氏堯)、そなた等のお陰で、朝家も嘗ての賑わいを多少なりとも取り戻すことが出来た」
晴良が感謝の気持ちを込めているのが口調で判る。
「勿体のうございます。朝家復興は本朝の安泰に繋がりますれば、臣として当然の事をしたまでにございます」
氏堯が、北條家を代表して礼を述べる。
「この度、主上より今回の事で、麻呂も褒美を賜ったのじゃ」
「それはそれはおめでとうございます。してどの様なご褒美でございましょうか?」
晴良が、上機嫌で聞いて欲しいと言うように褒美を賜ったと言うので、よほどの事と思い氏堯は礼儀として聞いて見た。
待ってましたとばかりに、晴良はにこやかに話しはじめる。
「今、麻呂の奥が身重であるのじゃが、その子が男児で有れば、断絶している鷹司の家を継がすようにとの有り難きお言葉を賜ったのじゃ」
「それは、真におめでとうございまする」
本当に嬉しそうに晴良は笑顔を見せた。
「晴良、自分のことだけでなく、やることがあろうに」
邦輔親王が呆れたぞと言う顔で、義弟に当たる晴良を窘める。
「此は失礼致いたしのじゃ、済まぬ、つい嬉しうなってしもうたわ」
「晴良、良いから、早く伝えてやらぬか」
「そうじゃそうじゃ、実は典厩(康秀)の献上せし薬酒、止瀉薬、酒精、化膿止を主上(正親町天皇)も院(後水尾上皇)もその効能を大いに驚かれ、品々に直々に銘と標を下賜致すとの事なのじゃ」
「それは恐れ多いことにございます」
康秀もまさか主上から表示と薬の名前を貰えるとは思っていなかったので、此処は本当に驚いていた。
「まず標じゃが、五三桐を下賜致す故、これ以来、標として使うようにとの事じゃ、そして薬酒じゃが、滋養強壮に効くとあり、実際に上皇様の御体調も良くなれておられる故、上皇様より、仙丹の如き酒とし、仙如湯を賜うとの事、次いで、止瀉薬じゃが、腹痛をいなし、水中り食中りを治し、歯痛までもいなす事によって、主上より伏中丸を賜うとの事、そして酒精と化膿止のお陰で、多くの者が命を落とさずに済んだと主上も上皇様も大変感心なされており、御二方で酒精は昇爽剤と化膿止は紫沁剤として、賜うとの事じゃ」
「ハハー、ありがたき幸せにございます」
康秀は転生したとは言え、現代人であったが故に、天皇に自分の献上した品物が好まれ、名前まで貰えるとはと、必要以上に感動し感謝していた。
邦輔親王、稙通、恭仁親王が口々に康秀のした事の意味を教える。
「典厩、良かったの、主上はいたく御喜びじゃ」
「真に、上皇様の御体調も宜しくなっておる故よの」
「そうよ、最近まで父上の顔色はどす黒く、辛そうなお顔であったが、最近は血色も良く晴れやかなお顔を為されることが多くてな」
「恐れ多いことにございます」
康秀は益々恐縮していた。
「ハハハハ、典厩らしくないぞよ。お主はもっと不貞不貞しいかと思っておったがの」
「そうじゃな、公方をやり込めた様に、なんぞするかと思ったがな」
恭仁親王と稙通の言葉に皆が笑い始める。
「私とて、年がら年中、謀をしている訳ではございませんし、何処ぞの剣豪公方と違い、主上には何の確執もございません故」
「ハハハハ、此は取られたの、確かに北條殿には主上への献身が感じられるの。それに引き替え鄙公方は挨拶一つ寄越しもせんからの」
恭仁親王が軽く公方の悪口を言う。
「まあまあ宮、何と言っても鄙にいるので洛中へ来るのが大変なのでしょう」
稙通が苦笑いしながら話しかける。
「そうよの、霜台、鄙公方は越後の守護代(長尾景虎)に何やら繋ぎを取っているそうじゃな?」
親王の質問に氏堯が答える。
「はっ、國元より文によりますれば、洛中駐在の越後守護上杉家京都雑掌の神余隼人佑を通して色々と画策しておるようにございます」
「成るほどの、守護代の元には、関東管領(上杉憲政)が逃げ込んでおる故、大方先年、院(後水尾上皇)より賜った勅命を元に関東へちょっかいを出す気であろう」
流石に、叡山で海千山千を相手にしてきた恭仁親王であるが故に、長尾景虎の思惑を予想して見せた。此には史実を知る康秀も内心では驚愕した。
「何とも、宮様は大変ですの。下手すれば鎌倉へ越後の蛮兵が攻め寄せて来るやも知れまへんな」
稙通が戯けた風に話すと、実子の危機を放っておけるかと邦輔親王が苦虫を噛みつぶした様な顔で話す。
「太閤、冗談やない、鎌倉には六が行くのじゃぞ、その様な事が有ってはたまった物ではないわ。そうじゃ聞く所によると守護代は義に厚いと称しておるようじゃが、本当はどうなのじゃ?」
邦輔親王の質問に氏堯が答える。
「はっ、確かに、武田晴信に追われた信濃の村上(村上義清)を始めとして多くの信濃衆を保護し、彼等の所領を取り返すために、何度となく武田と戦っております」
その話に、邦輔親王は安堵の顔を見せる。
「ならば安心よの、まさかその様な男が、主上の任じた将軍を蔑ろにはせぬな」
「判りませぬ、所詮は人間のすることにございます」
「では、どうしろと言うのじゃ?」
「其処で、更に念には念を入れた方が宜しかろうと思うのでございますが」
「典厩、それは如何なる事じゃ?」
「はっ、長尾は先々代為景以来、三條西家の青苧の苧課役を殆ど払っておりません。更に当主景虎に至っては、越後-畿内間の青苧流通の支配権を獲得しております。更に越後には多くの荘園が有り、その中には禁裏御領も有りますが、それらを土豪達に横領されたままに放置しております。無論、それ以前であれば長尾の力が越後全土へ浸透していなかった故の事で有ると言えましょうが、先年景虎が家出騒ぎを起こし、家臣、國衆一同が景虎に忠誠を尽くすとの約束をさせておりますが、義と申しながら、禁裏に荘園年貢の上納もせず仕舞いでございます。彼の者ならば、悠々と年貢を上納できますにも係わらず」
「成るほど、越後を仕切った以上、そして義に厚いのであれば、真っ先に主上へ年貢を北條の様に上納する訳じゃな」
康秀の話が判った稙通が頷く。
「其処で、皆々様にご協力を頂き、越後や越中の長尾の勢力圏に有る各家、寺社、門跡の持つ荘園や各種利権を、恐れ多いことにございますが、朝家、院、宮家などに献上し所定の年貢を納めるように圧力をかけます」
康秀の大胆な提案に皆が皆、息を呑む。
「長四郎、それは禁じ手ぞ」
氏堯は、朝廷を出汁にする事を平然と言う康秀を叱責する。
「禁じ手なのは、判っております。しかし、当家と違い長尾は義と義と言いながらも、勅を得る時に主上への献金を行い、先々代は、貰ったこともない錦の御旗を無くしたと称して賜ると言う詐称をする家で有り、主人を二度も殺害した謀反人でございます。しかも心は主上ではなく公方へ向いておるのは確実にございます。その様な輩に、義と称して関東の民の生活を滅茶苦茶にして欲しく無いのでございます」
康秀の真剣な表情に皆が驚く。
「典厩、そなたの民を思う心は、やはり相馬小次郎の血かも知れぬな」
恭仁親王が康秀の話を聞いて感想を述べる。
「確かに、そうやも知れぬの、後鳥羽院が相馬小次郎にお主を紹介された事もその心意気の所以かもしれないの」
「確かに、そうじゃな」
そう言いながら恭仁親王が邦輔親王と暫し相談をし始める。
「宮、如何であろうか?」
「ふむ、確かに面白いかも知れぬ」
暫くして話が纏まり、恭仁親王が皆に話しはじめる。
「典厩の提案、面白いが、流石に主上や院に御迷惑をかけることは出来ぬ。其処で伏見宮家は今回、五が白川伯王家、六が柳葉宮に養子に入るのであれば、それの祝いに荘園と権利を祝儀として贈る事にすれば良い」
「麻呂としても、子は可愛いのでな、少しでも安全を得られるのであれば吝かではない」
「典厩、そう言う事よ、そなたの心意気を汲んで伏見宮家が全て仕切ってくれるそうじゃ」
二人の宮様の提案に皆が驚く中、稙通が最初に笑い出した。
「ハハハハ、流石は宮、海千山千ですな」
「何の、太閤ほどではないわ」
「霜台、典厩、麻呂達に任せておけ」
此会談から、三月後の永禄元年七月、北條家が関東へ帰って以来、洛外では京奪還を目指す将軍義輝と六角義賢の軍勢と三好勢との戦いが続いていた。そんな中、長尾家の京都雑掌の神余親綱は二條晴良の元へ呼び出された。
「太閤様、如何様でございましょうか?」
「うむ、今日呼んだ他でもない、お主に会いたいという者達が揃っておるのじゃ」
晴良がそう言いながら、新築時に作った大広間へ親綱を自ら案内すると、其処には公家や僧などが幾人も待っていた。
「太閤様、このかた方は?」
「うむ、この者達は、皆そなたの主に用がある者ばかりよ」
「主にございますか?」
「そうよ、越後小泉庄、瀬波郡新庄、牛屋保、荒河保、小泉本庄、小泉庄、石井庄、佐橋庄、比角庄、宮河庄、鵜河庄、小国保、赤田保、埴生保、長橋庄、宇河庄、大積保、大島庄、白鳥庄、吉河庄、越中大荊庄、丈部庄、佐味庄などの領家の者達と青苧などの所役の持ち主じゃ」
紹介された、一條家、九條家、三條西家、北野社、万寿寺、穀倉院、丹波安国寺、覚園寺、伝法院、東大寺、西大寺、万寿寺、祇園社等々の代表者が一堂に会し、皆が皆、親綱を冷めた目で見る。
「領家と所役の方々は主に何用でございましょうか?」
祖父昌綱以来都で活動してきた、神余家としては彼等が、荘園や所役の年貢を渡せと言うであろうと想像が付くが、今まで有れば、貧乏のどん底で出会ったが故に多少の金品で諦めされていたのが、北條家からの献金と荘園の寄贈により各公家、寺社もにわかに経済状態が良くなったために、旧荘園主が年貢に関して強く言う様になっていた。その為に、親綱は何度となく嫌みを言われていたが、何とかノラリクラリしていたが、流石に関係無い太閤二條晴良の召還を断るわけにはいかずに来たのであるが、来たがばかりに酷い目に遭ったのである。
「この度、伏見宮様の貞康様が親王宣下され、五宮様が白川伯王家をお継ぎになり、六宮が柳葉宮の婿君に成られる事で、宮に荘園と所役を祝いとして贈る事に成った」
如何にも、判っておるな、宮家の荘園と所役をネコババする気ではないであろうなと圧力をかける。
「それは、おめでとうございます」
親綱にはそう言うしかなかった。
この日以来、長尾家には有形無形の形で年貢の督促が行われる事に成った。
第睦拾玖話 医聖
永禄元年三月二十八日
■山城國 京 池邸
帰國準備中の康秀の元に三好義賢に仕える白井胤治が尋ねて来た。彼はある人物を連れて来ていた。
「三田殿、いよいよ御帰國でございますな」
ごく普通な挨拶から始まった話で有るが、この後、胤治から紹介された人物の名を聞いて康秀は驚いた。
「白井殿、態々の起こし忝のうございます」
「いやな、三田殿のお陰で御屋形様(三好長慶)の気の病が少しは緩和しつつあるので、主(三好義賢)に代わって礼を言いにな」
「それはそれは、ようございましたな」
康秀は三好長慶の病気が緩和したと聞いて本気で良かったと思っていた。
「忝ない、本来であれば主豊前守殿(義賢)が来なければならぬ所でございますが、生憎阿波へ渡っておりまして、真に申し訳ないとの事にございます」
「いえいえ、それほどの事をした訳ではございません故、その心遣いだけで忝ない事にございます」
康秀の低姿勢に胤治は益々好感を持った。
「白井殿、そろそろ儂を紹介してくれぬかな?」
堂々巡りの話に胤治の後で待っていた年の頃五十ほどの禿頭の品の良い人物が話しかける。
「おお、済まないことを致しましたな、三田殿、この方は曲直瀬道三殿と申して李朱医学(最新の漢方)を専攻にしておられる方でしてな、都で天文十五年(1546)から啓迪院なる私塾を開いておられる。最近は御屋形様や豊前守殿を見て貰っておるのだが、三田殿よりお教え頂いた医食同源の為の食事療法をいたく感心して、私が三田殿の元へ行くと聞き、是非とも会わせて欲しいと言われまして、どうしてもと断り切れませんでした」
胤治の挨拶もそこそこに、道三が自ら挨拶を始める。
「三田様、私は、若き頃、足利学校へ赴き、其処で田代三喜様の名声を聞き師事して金元医を修めました。その後都へ帰り、医術の為に多くの弟子を育てて勉学に励んできましたが、三好様のご病状回復のための手段を持ち合わせていなかった私に比べ、三田様は食事療法でそれを緩和為された、此は新しき医術と言えると是非御教授頂きたく無理を言って参じた次第。更に三田様が帝へ献上した上その効能故に名を賜った摩訶不思議な薬の数々を是非、多くの病に苦しむ者達の為にお譲り頂きたくお願い申し上げます」
土下座しながら、懇願する道三の姿に、康秀は“曲直瀬道三と言えば医聖だよな、そんな人物が土下座するって何と言う罰当たり”と驚いていた。
「曲直瀬殿、お手をお上げ下さい」
「何とぞよしなにお願い申し上げます」
康秀の言葉にも係わらず、道三は未だ頭を板の間に擦りつけたままである。
「その様に、頭を下げてお出ででは、話も出来ません故」
「道三殿、三田殿もこう仰っておるのだから、頭をお上げなさいませ」
流石にそこまで言われると道三も頭を上げたが、心底教えを請いたいという目で康秀を見ているが、康秀にしてみれば、自分が凄いわけではなく、四百年も後の医療を知っていただけである事が、心苦しく感じていたが、今後の関係などを考えても教えないという選択は取れない事だけは判っていた。
「曲直瀬殿、私の医食同源などは単に歴々の方々の知識や経験を纏めたに過ぎませぬ故、多くの病に苦しく者達に光明を与えるお方成れば、お教えすることは吝かではございません」
康秀の答えに道三も胤治も安堵の顔をする。
「三田様、有り難きお言葉でございます」
道三は喜んでいるが、康秀は薬に関して是と言ってはいなかった。
何故なら幾ら朝廷や堺商人と言えども、北條家の最高機密に匹敵する各種薬の製造法をそう簡単に教える訳には行かないために、実物の製造は小田原で行い、完成品を畿内へ輸送する方法する事に成っていた。更に、その薬品を一部商人などが死蔵、値の釣り上げ、転売、横流し、敵対大名への販売等を出来なくする為に朝廷や商人衆と話し合って畿内における管理最高責任者として山科言継を充て、全て任せることにしていたからである。
その為、幾ら曲直瀬道三と言えども、そう簡単に薬品が手に入るような状態では無かった。其処で康秀は現実を知らせ、更に山科言継との面談をお膳立てする事にした。
「曲直瀬殿、医食同源の書は直ぐにでもお貸しできますが、薬に関してでございますが、帝より名を賜りました以上、畿内での管理は山科卿が執り行う事と主上からの命により決まっております故、近いうちに山科卿とお会い出来る様に取り計り致しましょう」
山科卿の名前が出て、少々困惑する道三。
「道三殿、如何為された?」
「はっ、山科様と言えば、私に勝るとも劣らない程の技量のお方であり、公卿様にございますれば、果たしてまともに相手をして頂けるかと心配にございます」
山科言継の性格を良く知らないらしく、道三は非常に不安そうである。その為に不安を解いてやろうと康秀が悪戯心を出す。
「曲直瀬殿、良い事を教え致そう。山科卿は大層な酒好きでな。曲直瀬殿が酒樽一斗でも担いていけば、呵々と笑いながら出迎えてくれましょうぞ」
康秀の言葉に、道三は目を大きく開けて驚いているが、胤治は苦笑いをしていた。
「三田様、それは些か、酷い話では?」
「三田殿、いやはや、面白きことですな」
「真に、嘘は申しておりませんぞ」
康秀の余りの笑い顔に、皆が段々笑い始めた。その後、氏堯、氏政、長順、大道寺政繁、池朝盛、医に長ける島津忠貞親子も呼ばれて、宴を大いに楽しんだ。
「曲直瀬殿は当代一の医聖でございますな」
道三の話を聞いたことがある忠貞が赤ら顔で賞める。
「いえいえ、未だ未だ私に知らぬ事が多きことがよく判りましたぞ。三田様のお作りに成った医食同源を読ませて頂きましたが驚くことばかりでございました。私も今まで得た医の全てを残そうと医書を書いておりますが、未だ未だ未熟と判りました」
「流石は、典厩殿よ、医に関する事、私より遙かに勝りますな」
忠貞が康秀を賞める。
「その様な事はございませんぞ私の物は知識だけの物でございますれば、実地を何度と行っている皆様とは経験が違いすぎまする」
「しかし、聞く所によりますれば北條様の御領地では、民が安堵して暮らせているそうですな」
胤治が何気なく話題を振る。
「私の元にも坂東からの弟子が来ておりますが、同じ坂東でも北條様の御領地出身者から聞いた話では税も安く、民への収奪も無く、夜盗共も厳しく取り締まられているとの事ですな」
「左様でございますな。確かに坂東でも北條領は安定しております」
「同じ坂東でも他からの弟子達の話は悲惨の一言でござます。皆収奪に怯え、略奪に怯えておる倉にございます」
道三の生の話に、北條側の皆が頷く。
「成るほど、やはり其処まで来ていたか。本来であれば民を護るが侍の役目なれど、昨今の侍は民より収奪することしか知らぬようよ」
皆が氏堯の言葉をしみじみと聞きながら心に沁みかせた。
「良き言葉でございますな、心に染み渡ります」
胤治が皆の心の内を代弁していた。
帰り際に道三が氏堯に頼み事をした。
「霜台様、我が弟子の幾人かを小田原で修行させたく有りますが、御願いできますでしょうか?」
氏堯にしても曲直瀬道三との繋がりが出来るのは良い事と考えたので康秀に聞いて見た。
「長四郎、この話如何であろうか?」
康秀にしてみれば、氏堯が賛成であると言葉の節々に感じたために賛成する事にした。
「そうでございますね。非常に良いことと思います」
「うむ、長四郎もそう思うか、ならば是非も無しだな、曲直瀬殿、喜んでその提案をお受け致そう」
氏堯と康秀の話を心配そうに見ていた道三がその答えを聞いて頭を下げながら喜色を見せる。
「霜台様、三田様、誠に忝のうございます」
この後、北條家帰國の数ヶ月後、曲直瀬道三の弟子達二十名が小田原へ来てその地で坂東啓迪院を開設することになり、足利学校と共に坂東の医学の粋として発展することに成っていく。
永禄元年三月二十九日
■山城國 京 九條邸
九條邸に氏堯、氏政、康秀が呼ばれていた。
「太閤様にはご機嫌麗しく」
一応挨拶だけは確りとする面々。
「良い良い、其処まで畏まる必要もあらへん」
「では、太閤様、この度の御召しは何用でございましょうか?」
氏堯の質問に稙通が答える。
「南蛮人の事じゃが、朝議で幾度となく考えた事で、主上とのご相談で決まったことじゃが、今の事態で南蛮の邪教を捨てることが出来ぬ者が多くいる。更に堺などの商人は南蛮貿易でその財を稼いでおる者が多くいるが為に、一概に南蛮との付き合いを全て禁止する訳には行かぬのじゃ。その為に禁教を命じるが、邪教を教える宣教師以外の南蛮人まで排除する必要は無かろうと主上がお慈悲をお与えすることにしたのじゃ。昔から本朝は多くの移住民と仏教を始めとした異教を身に受けてきた事も有る故じゃな」
「成るほど、確かに本朝は古来より大陸、朝鮮から多くの帰化人を受け入れてきましたし、仏教なども外来の物でございますが、それをかみ砕き本朝風に直し続けた訳ですね」
「その通りよ、南蛮の良き物があれば取り入れ、本朝の安全のために使う事こそ、後鳥羽院のお言葉に沿うことに成ろうと、主上のお考えじゃ」
「主上のお考え、この北條氏堯、確と主氏康に伝えます」
「うむ、良き事よ」
稙通の話に康秀もこの程度が落とし所だなと感じていた。実際鎖國でもしたら文化的に遅れる可能性が大なので南蛮との節度を持った付き合いは必要と考えていたからである。それに康秀が今の所各地の商人に頼んでいる財物や、此から頼む品々は欧羅巴、阿弗利加、新大陸から搬入しなければ成らないもが多々有るために、南蛮人完全排斥を煽った事は少々やり過ぎたかと思っていたこともあったのである。
所詮は実戦経験の無い転生者学問の康秀で有るから間違いもやり過ぎもあった。
永禄元年三月二十九日
■山城國 京 池邸
夕方になり、堺から津田宗達が最後の話にやって来た。
「津田殿、色々とお世話になり申した」
「とんでもございません、当方もたんまり儲けさせていただけましたのですから」
「それはそれは」
「是非此からもよろしくお願致します」
「それは無論でございます」
その様な話が行われた中で、康秀が宗達に頼み事をした。
「津田殿、南蛮人の商人に色々な作物を持って来て貰いたいのだが」
「ほう、三田様、どの様な物でしょうか?」
「それは……」
康秀が、津田宗達に頼んだ作物はその後数年をかけて日本へと到達することに成るが、史実と違い遙かに早く届くことで、多くの民の命を救うことに成るのであるが、この時点では康秀としても一か八かの賭であった。
第漆拾話 帰國へ
永禄元年四月十日
■山城國 京 池邸
ここ数日、小田原へ帰國する北條家一行に対して多くの人物が訪ねてきていた。
伏見宮を始めとする皇族の面々、九條稙通を始めとする公卿の面々、三好家を始めとする武家の面々、五山を始めとする僧の面々、津田宗久を始めとする商人の面々、曲直瀬道三を始めとする面々等々、各界から来る来訪者にてんてこ舞いで対応していた。
ある者は別れを惜しみ、ある者は名残惜しそうに、ある者は小田原へ帰っても仕送り(年貢)送ってくれとの念押しに、ある者は今後とも商売で宜しくと、ある者は共同研究を是非宜しくと、そしてある者は坂東で珍しい茶器が見つかったら宜しくと、三者三様の話をしてきていた。
そんな中、九條稙通との会談では、康秀が頼んでいた事などが話し合われていた。
「以前典厩が怪しいと申しておった、上皇様の綸旨だと申していた神事舞太夫天十郎なる者が舞舞・移他家・陰陽方よる役銭を徴集する事を認めた内容の花押も印判もない御証文じゃが、典厩が持ってきた写しを調べてみたが筆跡も全くの別物と判った上に、その者が言った大永八年閏九月二日の記録にもその様な物を出した事も、その者が申した公卿が斡旋した事実も無かったのじゃ。つまりその者は間違い無き事に恐れ多くも主上の綸旨を騙り役銭を巻き上げる大悪党じゃ」
これは康秀が転生前に読んでいた歴史書の事を思い出したのであるが、小田原城下にて偽証文で役銭を取りたてていた天十郎の事を調べた結果、当人が実在し同じ行動を取っていた為、今後のことを考え写しを手に入れて、稙通に調査を御願いしていたのである。
戦乱になり偽勅が蔓延っていた為憤慨していた稙通にしてみれば、康秀の発案ではじまった朝廷、門跡寺社、公家、地下人などの各家文書の照査収集を行う事に続いて偽勅の筆跡鑑定を行った事で、今回の様な偽勅が容易に判るようになり朝廷の権威の上昇に繋がったのであるから娘婿の十河一存に次いで康秀の事を頼もしく思っていた事も有り、今回の頼みなど易い事であった。
「太閤様、忝なく存じます」
稙通は康秀の礼に手を振りながらにこやかに答える。
「なんの、典厩の洞察力で偽勅を一罰百戒に出来るのじゃからなんの事が有ろうか、禁裏では今後その様な者が出ぬように、東國におけるそれらの差配は綸旨を柳葉宮に下賜致すことと成った。西國に関しては、伏見宮がそれを取り仕切ることに決まった」
「それはそれは、此で悪徳な者が蔓延ることが緩和されましょう」
「さらには元々無主の地である河原、山野に住まう者達や道々を流離う者達や木地師などに主上の赤子としての綸旨を与え、河原に生える葦葭の伐採になどに関しては全て主上の勅により無税と処す事も決まった」
「それは宜しゅうございました。古来より河原者は生産に関与せぬと散々馬鹿にされて来ました故、主上の御英断に海よりも深く山よりも高い感謝を感じるでしょう。更に木地師は惟喬親王(文徳天皇の長男ながら母の身分が低く皇位に就けなかった)の末裔を称し親王御真筆と称する木地師の免状を所持しておりますが、それに主上の綸旨が裏付け致すことで、朝家の為に働くことでございましょう。更に葦葭の無税は何かにつけて年貢を取りたてようとする馬鹿な領主共の動きを押さえることとなり、全國の河原は主上の土地と思わすことも出来、朝家復興の道しるべとなる事でしょう」
稙通は康秀の大仰な話にも嫌な顔一つせずに話を聞いてくれる。その話が終わると、康秀が東國安泰と万が一にでも歴史が史実通りに動いた際に被災するかも知れない寺社の子院を東國へ建てることの許可を主上へして貰っていた返事を伝えてくれた。
「それと、典厩の願い出ていた叡山、高野山の子院を坂東へ建立する件と明応以来うち捨てられて久しい鎌倉大仏殿の再建(応安二年(1369)の倒壊以後露座のままで有り、明応地震(明応七年八月二拾五日(1498)以来寺も興廃していた)も上皇様主上も大いにご関心為され、勅が出る事と成った」
「はっ、重ね重ね恐悦至極に存じます」
「ハハハ、良い良い、上皇様、主上も典厩の得心をいたく感心なされ、天台座主の応胤入道親王様、真言座主の栄任殿も快くご許可していただけたのじゃ、そればかりではなく、叡山の開山以来燃え続ける不滅の法灯と高野山の千年近く燃え続けている消えずの火も坂東へ分け与えるとのお言葉じゃ」
不滅の法灯は織田信長の比叡山焼き討ちで根本中堂と共に消え去って居たので、それを分けて貰えると言う事で康秀も大いに喜ぶ。
「太閤様、此ほどの驚愕の事はございません、誠に忝なく存じます」
「さよかさよか、寺号も叡山は主上が高野山は上皇様が御下賜為され、叡山は東叡山永禄寺と高野山は金剛山金剛寺と名付けよとの事じゃ、両寺とも扁額は上皇様御自ら筆を執られるとのこと、それに典厩の申しておった、鐘楼の碑文じゃが國家安康、君臣豊楽、川大徳心とはよくぞ考えたと上皇様、主上もご関心為さっておられたぞ、それもあって上皇様が喜んで碑文の筆を執られるとの事じゃ」
「寺号を下されるだけではなく、扁額と碑文まで上皇様、主上にはどれ程感謝しても足らぬぐらいにございます」
「國家安康、本朝が安定して平和、君臣豊楽、主上から庶民まで豊かで楽に生活でき、子孫も繁栄する、川大徳心、大河のように大いなる心で徳を与えよか、典厩よくぞ考えたものよ、此でもう少し歌が上手ければ良いのであるがの」
稙通はそう言いながらカッカッカと笑う。
笑いが収まると、一昨日、顯如と康秀が仏教の戒律と食に関する事を話したことをきいていた稙通はその事を聞いて来た。
「そう言えば、顯如殿と戒律のことを話したようじゃな?」
「はっ、嘗て天武帝は仏教の戒律に基づき肉食禁止令を出し、狩猟・漁獲の方法を制限し、牛・馬・犬・猿・鶏の肉食を禁止為され益したが、親鸞殿以来の真宗は肉食を行っております」
「うむ、そうじゃな、殺生厳禁の仏僧が肉を喰らうとはと感心できぬがな」
「それでございます。聞く所によりますれば、お釈迦様は肉食為さっておったとの事ですが、自ら屠殺するなどしなければ、お布施で頂いた物は有りがたく頂いたそうにございます」
「成るほどの、お釈迦様が肉を食べていながら、何故戒律で肉食を禁止されておるのじゃ?」
「それでございます。どうやら、唐に仏教が伝来した際に、各宗派事に信徒の取り合いを行い“うちの方は向こうより肉を食べないから徳が高い”などと誹謗中傷合戦の結果、肉食禁止の戒律が出来たようにございます」
「成るほどの、では親鸞殿は正しかったと言う訳じゃな」
「其処までは、どうとも言いかねますが、その辺りで顯如殿と話した結果、殺傷さえしなければ気にせずとも良いのではと結論付けました」
「何とも強引な話よの」
呆れた表情の稙通を見ながら、康秀は続ける。
「それに、今では叡山の僧などは平気で女を抱き肉を喰らっておりますから、既に既成事実となっておりましょうよ」
「ハハハ、そうで有ったな、破戒僧が多いのも叡山よな」
「それに、鹿、猪、熊、狼、鶴、鴨などは平気で食べておりますし」
「まあ、確かにそうじゃが」
「それに、適度の肉食は心身共に良い影響を与えるとの事、唐人を見て判るように我等より遙かに優れた体つきをしておりますが、あれは肉に含まれる体の成長に必要な物を多く取れるからだとの事にございます」
「うむー、それも医食同源の結果か」
「はい、同じ時に生まれし犬、猫に方や穀物中心の餌を方や肉魚中心の餌を与えた結果、成長が倍近く違いました故」
「成るほどの、しかし主上に肉食解禁を願う訳にも行かぬな。典厩此処からは麻呂の独り言よ、坂東で何をしようと遠すぎて禁裏は手が出せぬから、坂東で何かあっても知るよしもない、肉を喰らおうが罰する訳にも行くまい」
「ありがたき幸せです」
「独り言じゃ独り言じゃ」
この後も、松永久秀の使いで子息の松永彦六久道とも会い、久秀に頼まれていた、精力の付く食材の献立表改訂版などを贈りその際一緒に連れてきた大饗長左衛門(楠木 正虎)と挨拶を交わしている。
永禄元年四月十五日
■山城國 京 池邸
池屋敷では、関東へ帰る四千五百人と池家に仕えることで残留する五百人の別れが続いていた。当初五千人程であった人数は、旅の各所で勧誘した者達とその家族、雑賀、根来の鉄炮衆、穴太の石工、番匠達、播磨鋳物師や各種の河原者など総勢一万人越えで帰國することとなり皆が皆、京雀達を驚かすための意匠を凝らした準備も済み、大いに別れと新たなる新天地への希望を胸に抱きながら明日を迎えようとしていた。
永禄元年四月十六日
■山城國 京 内裏
内裏清涼殿では平安絵巻より出てきたような大鎧に身を包んだ征東大将軍恭仁親王に対して、主上より錦の御旗と太刀が下賜された。また世継ぎの六宮には朝仁が、妹宮で養女の聖秀も秀子の名が授けられ同時に親王宣下も行われた。その後三人は文武百官に見送られ、御馬揃えの際に新造された内裏西の馬場へと移動を開始した。
馬場に着くと、準備されていた見事な名馬に征東大将軍恭仁親王が跨り、移動してきた上皇、帝を筆頭に文武百官、多くの民の歓声の中、征東大将軍の錦御旗を先頭にして順次、移動を開始した。
朝廷からも幾人もの僧籍にあった公卿の子女が還俗し、征東大将軍に仕えるために共に坂東へと下向していく。さらに六宮が修行していた青蓮院からは門跡坊官大谷泰珍が還俗し二代目征東大将軍に成る朝仁親王のお就きとして傍らにいる。彼は自ら志願したからである。
都の沿道には馬場に入れなかった多くの民が集まり、馬に乗る恭仁親王、輿に乗る朝仁親王、秀子内親王の艶やかな姿に見ほれながら旅立ちを祝福してくれている。
再建成った朱雀大路を九條まで行くと一行は一旦八條まで戻った後、西進して都へ行きて以来、北條家が資金を出して御室川に架けた桂小橋、桂川に架けた桂大橋を渡り長岡方面へと移動を開始した。
まず向かうは、大山崎の水無瀬宮とその対岸に有る石清水八幡宮へ東國下向の挨拶に向かうこととなった。此は、今回の禁裏復興は水無瀬様こと、後鳥羽上皇が康秀の夢枕に立った事であるからその御礼にと言う事であり。石清水八幡宮は祭神が応神天皇であり武人の神様であるが故に、征東大将軍たる恭仁親王が参るのが礼儀として考えられたからである。
第漆拾壱話 大和にて
永禄元年四月十七日~
■大和國奈良
水無瀬宮では、夢枕のホラの影響で康秀が恭仁親王と共に祭神たる後鳥羽院に対する神事を行った。
水無瀬宮参拝を終えた一行は淀川を渡し船で渡り対岸の石清水八幡宮へ向かった。
康秀はその際も地元の地侍等で関東へ下向する事を承諾した者達を数人引き連れる事に成功していた。その中に、さほどの人物は居なかったが、征東大将軍の陪臣の陪臣に仕えると言うだけでも、彼等にしてみれば名誉に感じるのか皆が感動の趣で参加していたのを見て、権威が無い状態でもこれほどとはと、“腐っても宮様だな”と途轍もなく失礼な事を考えたりしていた。
石清水八幡宮では祭神たる八幡大菩薩(誉田別命=応神天皇)に全員で参拝し。更に臨時祭で恭仁親王の養嫡男朝仁親王が七歳で舞人を務めるなど神事を行った。
石清水八幡宮で一泊後、一行は巨椋池を左に見ながら木津川沿いを一路奈良へと向かう、本来であれば巨椋池を右に見て、伏見から醍醐へ抜け山科から逢阪を越えて大津、瀬田へと近江へ向かうのが普通であるが、この当時京奪還を狙う足利幕府十三代将軍足利義輝と協力者六角義賢率いる軍勢が大津付近で虎視眈々と京侵攻準備を行っていたが為、三好勢も山科、白川などに集結しており、一触即発の事態に巻き込まれない為の措置であった。
奈良へ向かう一行は恙なく奈良坂へ到着した。奈良坂には興福寺が支配している北山宿が有り非人達の住処と成っていた。親王一行は此処で、非人達を分け隔て無く親しく労い、金子、衣料を与え多くの感謝を得た。
康秀に至っては、般若寺に有る北山十八間戸(癩病(ハンセン病)などの重病者を保護・救済した福祉施設)にまで足を伸ばし、患者に金子、清潔な衣類、栄養有る食材などを配布し親しく話しかけた。
康秀にしてみれば、現代知識でハンセン病自体の感染力が低い以上はお見舞いを行う事に躊躇はなかったが、他の者にしてみれば、康秀の行動は非常な驚きを与えた上に、皆が康秀が感染するのではないかと何かにつけて体調を心配するはめに成ったのであるが、それは仕方のない事であった。
恭仁親王一行が非人に対しても親しく慈悲の心で接することで、各地の非人、河原者などから、朝廷、征東大将軍府、北條家は非常に信頼感と敬愛を受ける事と成る。その上、康秀の行動により、座などの特権や、穢多(鞣し皮などを作る)の様に、大名や寺社により保護されている者達、生活の糧がある非人以外で、移動が可能な多くの賤民が次々に関東へ移住し、その地で差別のない生活を始める事と成る。
この者達は、後に氏康の計らいで康秀の預かりとなる者が多くなり、康秀の元で強力無比な戦力として活躍することと成る。彼等にしてみれば、自分達を差別しない康秀を失えば又ぞろ賤民として支配される事と成るなどまっぴらご免で有った故、織田信長の鍛えた足軽など及び着かないほどの猛訓練で三田康秀軍の中核となるが、それは遙か先の話で有る。
その後、奈良坂を下り東大寺や興福寺の甍が輝く奈良中心へと到着した。
一行は其処で十日滞在し、その間に奈良各地の社寺に参拝をする事と成る。
大和守護と言える興福寺に向かった一行は一乗院別当覚慶(足利義昭)の歓待を受けた。
「覚慶殿、この度の御招待真に忝なく存じます」
恭仁親王が覚慶に丁重に挨拶をする。
「さほどの持てなしも出来ませぬが、旅の疲れを是非にお取り頂きたく支度させました。御緩りとお過ごし頂けたら幸いにございます」
そう覚慶が言いながら案内した部屋には寺とは思えない程見事な料理の数々が並んでいた。流石にあからさまに肉類は無いが、贅を尽くした物で有ることはその場にいた皆が感じていた。
「覚慶殿此ほど見事な品々を忝なく存じます」
「何の、この地で無辜の民草を護る事も中々出来ぬ自分に比べて、親王様は敢えて坂東へ下向しそれを為さろうするのですから、感服致しております。此より行く先々で何かと御苦労するやも知れません故、せめて此処にいるときだけでも御緩りとして頂きたく考えた次第」
覚慶も恭仁親王も恭仁親王が覚恕法親王と名乗っていた頃から多少の面識は有った為、親王に親しく話しかけている。
恭仁親王もこの十六歳年下の覚慶を真面目で素直な人物と知っていた為、話す言葉が上辺だけの社交辞令では無いことも判っていた為ににこやかに返答している。
酒が入り和気藹々と話している中で、覚慶が御馬揃えの事に話題を振ってきた。
「先だっての御馬揃えは見事なものでございましたな、拙僧も生まれは武家ではございますが、あれほど見事な御馬揃えは治承八年(1184)に源義経が駿河国浮島原以来の事でございましょうな、あの様な馬添えは等持院様(足利尊氏)も鹿苑院様(足利義満)ですら、行えませんでしたからな、此ほどの事を易く出来ると言う事こそ、真に朝家の復興と兆しと言えましょう。朝家復興が成れば日の本の民も安心して生活出来るようになるでしょう」
覚慶は恭仁親王に全く邪気の無い笑顔で話す。
「今回の事は、北條殿有っての事と言えますから」
「拙僧も疱瘡になった祭に北條殿の手配された医師のお陰で命拾いを致しました」
既に都留芽庵を北條家が手配したことは覚慶にも知らされており覚慶は益々九條稙通と北條家に感謝と親近感を感じていたのである。
恭仁親王は覚慶の言葉に関心した顔で頷く。
「北條殿のお陰で朝家も安泰でございますからな」
「真ですな」
その後もたわいもない話などが続いたが、夜が更けて皆に酔いが回った為にお開きと成ったが、覚慶が北條氏堯に話が有ると言う事で、密かに宿坊を抜けだし氏政と康秀を連れて一乗院宸殿へと向かった。
宸殿へ通されると覚慶が一心不乱に経を読んでいた。
氏堯達に気づいた覚慶が佇まいを直してから徐に話しはじめた。
「霜台殿(氏堯)この様な夜更けに来て頂いて申し訳ございません」
「お気になさらずに、我等は常日頃夜討ち朝駆けをしております」
そう言われて多少は覚慶の顔にも安堵感が見えた。
暫くモジモジしていた覚慶を苛つくことなくジッと三人は待っていたが、意を決した覚慶が真剣な表情で話しはじめた。
「霜台殿に言う事では無いのですが……」
そう言いながら一瞬黙ってしまう。
「覚慶殿、何やらお悩みの様子、我々で良ければお力に成りましょう」
「実は、先だって疱瘡に成った際に都留芽庵殿に助けられましたが、その際に御息女の詩鶴殿の献身的看病にてこの様に五体満足に過ごすことが出来たのでございますが……」
「それは重畳でございました」
氏堯の言葉が余り聞こえていない風の覚慶はギュッと手を握りしめながら更に話す。
「その際に詩鶴殿とその、あの、何と言って良いやら、なのですが……男女の仲に成ってしまい。此は拙僧の未熟さ故の事なのでございますが……」
真っ赤に成って告白する覚慶に事情を知っている氏堯達は此処まで純粋で有ったかと関心していたが、康秀だけは、歴史で習った陰謀好きの義昭とは似ても似つかぬ姿に戸惑いを隠せなかったが、それが覚慶には驚いていると勘違いさせる事になっていたので結果的には良い事であった。
「成るほど、その様な事がございましたか、女人を覚慶様に近づけたは我等の罪にございます。詩鶴とやらを尼にし生涯罪を償わせましょうぞ。無論我等も罰を受ける所存」
氏堯がそう言うと覚慶は慌てる。
「いや、霜台殿、それは待たれよ。詩鶴は詩鶴は何処へも行かせては成らぬのじゃ」
「何故にございますか?覚慶様を惑わした者でございますれば、早急に処断するのが我等のせめてもの罪滅ぼしでございます」
氏堯達渾身の演技に覚慶は益々慌てふためく為、氏堯、氏政、康秀は笑いを堪えるのに必死であった。
「詩鶴には詩鶴の腹には我が子がおるのじゃ。我が妻と我が子を失いとうはないのじゃ。例えそれで別当の地位を追われてもじゃ」
詩鶴の献身的な姿と大麻による暗示により完全に詩鶴を愛おしく思っている覚慶は其処まで思い詰めていたのである。
此処まで来たら、氏堯も予想通りと康秀とくみ上げた解決策を暫し考えた振りをした後で話しはじめる。
「判り申しました。覚慶様が其処まの御覚悟をお聞きした以上は、見て見ぬ振りをすることは出来ません」
「霜台殿」
「詩鶴には興福寺界隈で都留芽庵と共に医を生業とさせる事に致しましょう、無論費用等は当家が負担致します。太閤様にもその旨をお知らせ致します」
氏堯の答えに覚慶は目を輝かせて頭を下げ感謝の念を述べる。
「霜台殿、拙僧の我が儘を叶えて頂き真に忝ない。生涯霜台殿の恩は忘れませぬ」
そう言って氏堯の手を握りしめしばらくの間離す事はなかった。
永禄元年四月二十四日
■大和國興福寺一乗院
興福寺一乗院別当覚慶からの呼び出しにより興福寺衆徒の面々が一乗院にて征東大将軍恭仁親王との宴に呼ばれていた。僅か二歳で当主を継ぎ八年目の十歳でしかない筒井藤勝(筒井順慶)が後見人である叔父筒井順政に連れられ参加し、筒井家や興福寺、春日社に関係の深い國人達も参加する事を許されていた。
そんな中に、大和北東部の平群郡の國人領主嶋政勝がいた。彼は大和の國人に過ぎない自分が征東大将軍に拝謁出来ることに驚くと共に恐れおののいていた。その他の國人も大いに驚いていたので彼だけでは無いのであったが。
所がその際に、恭仁親王から直接に杯を賜ると言う栄誉に恵まれた。その際緊張のあまり手が震えたが、親王の側にいた三田康秀が軽い冗談で場を和ませてくれた為に恥をかかずに済んだ。
恭仁親王に拝謁の後、同席していた康秀にお茶でもと誘われた政勝は緊張のあまり喉の渇きが尋常では無く成っていた為と先ほどのお礼を言おうと、康秀の誘いを受け座敷へと案内された。
座敷に着くと、康秀は湯を沸かしてあった茶釜から、湯を柄杓で汲むと急須と茶碗を温め始めたが、政勝にしてみれば、堺などで行われている茶の湯と全く違う作法であったが、政勝自身もさほど茶の湯などを知らぬ為に違和感を覚えずにいた。
康秀が行ったのは、お茶を点てるのではなく、煎茶を煎れる行為であり、ごく普通に飲めるように熱く無く薄く量の多いお茶であった。
「ささ、嶋殿」
茶の湯の作法が判ら無い政勝が康秀に申し訳なさそうに伝える。
「三田様、お恥ずかしいことでございますが、自分は茶の湯を嗜みませんのでどの様に飲んで良いか一向に判らないのです」
それを聞いた康秀が説明する。
「嶋殿、それは煎茶と言って、茶の湯と違うものですので、ごく普通に湯を飲む様に味わい頂ければ幸いです」
成るほどと政勝は茶碗を持つとゆっくりと茶を飲み始めた。濃くもなく苦くもない爽やかな芳香が口一杯に広がり、それが終わると甘みが舌に残り喉がゴクリと鳴る。
「お恥ずかしい限りにございます」
喉が鳴ったのを恥じて政勝が謝るが、康秀はにこやかに答える。
「煎茶とは、美味しく飲むものでございますから、喉が鳴るのは当たり前です」
康秀の言葉に政勝も成るほどと頷く。
政勝が先ほどの件でお礼を言うと康秀はにこやかに礼を受けた。
その後たわいのない話をしているうちに、康秀がポツリと話し出した。
「聞く所によると、嶋殿が何やらお悩みと覚慶様よりお聞きしたのですが、私に任せて頂けませんでしょうか」
「何がでしょうか」
確かにあの事は外には少しは知られているが、北條家の重臣に頼む訳も行かぬと政勝は惚けようとするが、康秀の次ぎの言葉に驚く。
「嶋殿の家中で何やらもめ事があるそうですな」
康秀の指摘に政勝はギクリとする。
「何故その様な事を……」
政勝の質問に康秀は煎茶を入れ直してから政勝に向いて答える。
「畿内に一年もいませば、自ずと噂は集まるものでございます。況してや北條家では広く人材を求めております故、畿内各地の報を集めておりました。その中に嶋殿の御嫡男の噂もございました」
其処まで知られてはと、政勝も真実を話しはじめる。
「そうでございましたか、お恥ずかしい限りにございますが、拙者が後添いを迎えて次男が生まれて以来、勝猛は荒れておりまして、手が付けられぬ状態なのでございます」
「成るほど、後添えの子が後を継ぐと考えての事でございましょうな。実際に豊後守護大友家では後添えの子を当主が可愛がり後を継がそうとした挙げ句に、嫡男の手の者が父、後添え、弟を惨殺しておりますし、美濃斉藤家では嫡男が父、弟二人を討ち取っておりますな」
康秀の話を聞いてやはりという顔をする政勝。
「拙者としては、勝猛に後を継がすつもりですが、中々信じようとせぬのです」
「成るほど、人とは一度疑心暗鬼に陥ると中々目が覚めぬもの」
「左様ですか」
ガッカリする政勝に康秀が提案する。
「嶋殿、当家は関東で飛躍の為に大いに人材を求めております。御嫡男を当家の家臣として迎え入れたいのですが」
「北條殿の家臣となれと」
「はい、このまま行けば衝突は必然、それならば当家が御嫡男を一端の将としてお迎えしたしましょう」
「成るほど、しかし愚息が頸を振るかどうか判らないのです」
「其処は我々が説得致しましょう」
政勝は康秀の真剣な表情に事態を丸投げする事にして見ようかと考え始めた。
この翌々日、何を言うかとへそを曲げながらも父親からの懇願で氏堯、氏政、康秀に会いに嶋勝猛が興福寺を訪ねてくることに成る。