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三田一族の意地を見よ 8

第伍拾睦話 足利義輝の野望


弘治三年十一月十日


近江国朽木谷おうみのくに くつきだに岩神館いわがみやかた 足利義輝仮行在所


この日、既に雪に因り通行が困難になりつつ有る途中越を越えて態々都から武家伝奏ぶけでんそう勧修寺尹豊かじゅうじ ただとよが、将軍家と三好家の和睦を斡旋するために朽木谷の義輝の元へ派遣されてきた。

本来であれば、九月前半には三好側の承諾を得ていたにも係わらず、二ヶ月ほど使者の遅れが生じていたのは、将軍家と近衞家に近い武家伝奏広橋國光が感情的な事で仮病を使い続けた事と、御年五十五歳の勧修寺尹豊の夏風邪が治らなかった事などや、譲位、即位などで時間が取れなかった事も影響して、この日の派遣になったのである。

義輝側は既に支援者である六角義賢ろっかく よしかたから先帝の譲位と新帝即位の情報は得ていたために、それに関する事だと考えていたが、その予想は大きく外れる事と成った。

朝廷よりの使者と言う事で、上座へ座る尹豊が徐に書状を取り出し、義輝等幕府側の者達に読み聞かせる。

「朕は、従四位下じゅしいのげ征夷大将軍せいいたいしょうぐんけん左近衞中将さこのえのちゅうしょう源義輝みなもとのよしてる並びに従四位下じゅしいのげ筑前守ちくぜんのかみ源長慶みなもとのながよし両名に畿内平穏の為、和睦を勧告するものである」

尹豊の言葉を聞いていた、義輝の眉間に次第に皺が寄っていった。

「如何でおじゃる?筑前守は既に和睦に同意しており、公方の帰洛には是であると言うておじゃるが?」

義輝にしてみれば、この帰洛では都に三好の輩の大勢力が残ったままで有るため、この和睦には否であると言いたい所であるが、帝の斡旋による和睦有る以上は、即断できずに考え込んでいた為、その為にも暫し側近と話す必要があると考えた。

「はっ、帝の御慧眼には頭の下がる思いにございます」

そう言われた尹豊は義輝が同意したのだと思い話す。

「流石は、当代一と言われし室町殿(将軍の別名)でおじゃるな、嘸や帝も御喜びにおじゃりましょう」

「御使者様、当家としても、等持院様を始めとする御先祖様に御報告しなければ成らぬ為に、暫し席を離れる事をお許し頂けないでしょうか?」

義輝が先祖に報告すると聞き、既に仕事は成ったとの考えた尹豊は何の疑問も持たずに許可する。

「先祖への報告は大切な事でおじゃりますからな、気にせずに報告してくるが良いでおじゃろう」

「忝なく存じます。御使者様には些少なれど湯殿と酒宴を用意させます故、暫し旅の疲れを御緩りとお慰め頂ければ幸いにございます」

義輝の下出に出た姿に気分を良くした尹豊はその言葉に甘えて、座敷を出ていった。

尹豊を送り出した義輝の顔には、憤怒の相が浮かび上がっていた。そのまま表情を変える事もせずに直ぐさま別室へ移り、近臣達を呼び寄せた後、人払いを行い余人も近寄れない状態にして、朝廷よりの和睦の話をし始めた。

話を聞くうちに、近臣の中でも賛成と反対に分かれ喧々諤々と話し合いが始まる。


曰く、絶好の機会成れば、一刻は恥を忍んででも帰洛し、その後力を付けすべし。

曰く、征夷大将軍としての意地と誇りがある以上、三好如きに迎合する必要は無し。

曰く、勅命講和であれば致し方ないが、内々の和睦斡旋であれば断るべきである。

曰く、是であろうと非であろうと、ある程度の条件の上乗せは行うべきである。


近臣達の話し合いを聴いていた義輝が、ある程度意見が出尽くした所で、野太い声で宣言する。

「臣等の意見はよう判った。予はこの和睦は御先祖様に対しても亡き父、萬松院様(十二代将軍足利義晴)にも顔向けできん事と思う」

義輝の言葉に近臣達の脳裏に否であるとの言葉が浮かぶ。

「さすれば、お断りするのでございますか?」

三淵藤英みつぶち ふじひでが恐る恐る質問する。

「そうは言うておらぬが、ある程度の条件を出し、三好腹がそれを呑むのであれば帰洛も吝かではは無い」

その言葉に、皆が表情を変える、ホッとした顔をする者、悔しそうな顔をする者、困惑する者など、義輝は目聡くその者達の顔色で近臣達の感情を読み、階層分けを行っていた。何度となく辛酸を舐めてきた以上、猜疑心が頭を持ち上げていたからである。

「さすれば、どの程度の条件を出すのでございますか?」

続いて義輝にしてみれば義理の叔父(晴光の姉が義晴の側室)にあたる大舘晴光おおだち はるみつが質問した。

「そうよの、山城、攝津、河内、和泉よりの三好勢の退去、堺の返還、人質として孫次郎を出させるぐらいかの」

義輝の話に近臣達も息を呑む、とても三好が呑むと思えない程の条件だったからである。

「上様、それでは……」

老齢の側近、三淵晴員みつぶち はるかずが目を見開きながら、諫めようとするがその言葉を義輝は遮る。

「伊賀、主の言いたい事は判るが、これは予と長慶との戦いよ、将軍たる者あの様な輩に負けるわけには行かぬのよ」

他の意見は認めんとばかりに、眼光凄まじく近臣達を睨む姿に皆が皆、反対意見を述べる事も出来ずに、義輝の言葉通りに返答する事になってしまった。

その話を末席で聞いていた沼田祐光ぬまた すけみつは義輝の強引さに心中では呆れながら“何処まで行けるか興味はあるが、問題山積と言えよう”と考えていた。




湯殿で侍女と戯れ、酒宴でも良い気分になった勧修寺尹豊は、義輝が待つ主殿に案内された。

「室町殿、如何でおじゃりましたかな」

ほろ酔い気分の尹豊がにこやかに義輝に話しかける。

義輝は佇まいを正して答える。

「和睦に関しては、吝かではございませんが、幕府として条件がございます」

勅命講和に等しい和睦斡旋にも係わらず条件を出す義輝の態度に尹豊は息を呑みながらも条件を聞き出す。

「条件とはなんぞや?」

「はっ、一に山城、攝津、河内、和泉よりの三好勢の退去、二に堺の返還、三に人質として筑前守ちくせんのかみ嫡男ちゃくなん孫次郎慶興まごじろう よしおき三好義興みよし よしおき)を差し出す事を筑前守が呑むのであれば、この和睦を受け入れましょう」

義輝の余りの無茶な条件にほろ酔い気分も吹っ飛んだ尹豊は目を見開いて義輝を見つめる。

「なんと、過大な条件でおじゃる」

尹豊の言葉を聞いていない風を装いながら、義輝は話す。

「元来畿内は将軍家の差配する土地にございますれば、不法占拠を続けて居る筑前守に非がございましょう、それを返還さすのは、征夷大将軍として当然の義務であり権利でもありましょう、その旨を筑前守にお伝え下さい。さすれば、帰洛であろうが和睦であろうが、自ずとできる事にございます」

この義輝の言いように、尹豊は驚きながらも言葉を発する。

「む、室町殿、その様な条件で筑前守が納得するとでもお想いでおじゃるか?」

例え、勧修寺尹豊が自分より格上の正二位権大納言であろうと関係無いとばかりに、武家の事に公家が口を出すなと義輝は有無を言わさぬ表情で話す。

「御使者殿、この事が為されぬ以上は、誰が何と言われても和議などできる事ではございませんぞ」

義輝の威圧感に怯えた尹豊は身の危険も感じ、このまま居ても詮無き事と考え、帰洛する事にする。

「判り申した、室町殿の存念、確と筑前守にお伝えしようぞ」

尹豊は内心では“この分からず屋の公方め”と毒突きながら屋敷を出て行く。

その姿を見ながら、義輝は甲賀出身で臣下の和田惟政わだ これまさを近くに呼び寄せ耳打ちする。話を聞いた惟政は無言で頷き屋敷から退出し、その後故郷である近江甲賀へと向かった。




その夜、義輝は屋敷の縁で酒を飲みながら、一人で考えていた。

帝の即位に出られぬのは致し方ない、しかし何が悲しゅうて、三好腹と講和せねば成らぬのだ!予は征夷大将軍足利義輝じゃ!本来であれば、来年にでも左京大夫(六角義賢ろっかく よしかた)を先鋒にし三好腹を撃退し都を長慶から奪還できたものを、さすれば、予の手により帝の譲位を執り行えたものを、伊勢の輩のせいでこのざまじゃ!

全く忌々しきは伊勢の輩よ、伊勢(伊勢貞孝いせ さだたか)といい左京(北條氏康)といい、碌な事をせぬ兇徒じゃ!伊勢の輩共は、左馬頭さまのかみ古河公方こがくぼう足利義氏あしかが よしうじを旗印にしておる、予が認め偏諱を与えた藤氏ふじうじを差し置いてじゃ!

伊勢腹は、武田、今川と組んでおる、あ奴等、左馬頭を予に代わる将軍に押し立てる気では無かろうか、持氏もちうじもそうで有ったが、関東公方は危険分子よ、やはり早急に弾正少弼だんじょうしょうひつ長尾景虎ながお かげとら上杉謙信うえすぎ けんしん)に攻めさせねばならんな。

厄介な関東公方は藤氏がなろうと、予に刃向かうかも知れん、元々遠き血の薄い繋がりでしかないのだから、此処はやはり勝幡院(堀越公方ほりごえ くぼう足利政知あしかが まさとも)の様に我が身内を送る方が良いやもしれんな、さすれば、覚慶かくけい周暠しゅうこうが有力じゃが……

覚慶は駄目じゃな、あ奴は予がこの様な片田舎に居て、即位式に出られぬのを知りながら、即位式に出る様な痴れ者じゃ、あ奴まさか予に成り代わろうと画策しているのでは無かろうか、有りうる事よ、等持院様(足利尊氏あしかが たかうじ)の時の下御所(足利直義あしかが ただよし、お父上の時の義維よしつな(足利義晴庶兄)の事もある故、油断するべきでは無いな。

此処は覚慶を始末するか、長慶の時は一度目は忍び衆を送って失敗し、二度目は進士(進士賢光)に襲わせても失敗であったが、河内(遊佐長教ゆさ ながのり、三好長慶岳父)は成功しておる。ならば、さほど注目されておらぬ覚慶であれば可能か、全ては惟政が戻り次第じゃな。

今に見ておれ、征夷大将軍たる予を虚仮にした報いを受けさせてやろうぞ!

「フハハハハハ」

義輝の笑い声だけが月明かりだけの縁に響いていた。


第伍拾漆話 都と小田原と


弘治三年十一月十二日


■京 内裏 


公方の元へ和議斡旋に向かった勧修寺尹豊かじゅうじ ただとよが帰洛し、早速内裏へ昇殿したのであるが、その表情は優れていなかった。

尹豊を迎えた、九條稙通くじょう たねみちは、その表情から交渉が旨く行かなかったと感じて、挨拶も早々に公方側の対応を聴いた。

「亜相(大納言の唐名)如何であった?」

稙通の質問に尹豊は申し訳なさそうに、公方の態度と一方的に伝えてきた条件を話す。

稙通は話を聴いていくうちに、次第に思慮する顔になる。

「なんやて、公方はそないな注文を付けてきたんか?」

「はい、それは凄まじい剣幕でして」

「つまりは、公方は主上の和議勧告には応じせえへんということやな」

「雰囲気的に見れば、その様な感じでごじゃります」

尹豊の答えに、稙通は眉間に深い皺を見せながら瞑目し考える。

暫くして、目を開けると、尹豊を見た。

「亜相、御苦労でごじゃった。これより主上の元へ参る、先ほどの事を報告致すのじゃ」

尹豊に有無も言わせずに、稙通は侍従に命じ、主上の元へと向かった。

主上の元へ向かうと、御簾の向こうにいる主上へ稙通が挨拶を行い、公方と三好との和議について報告を始めた。

「主上、真に残念ながら、公方は和議には反対の様子におじゃります」

「何と、朕の願いを聞き届けないと言うのか」

「公方は、和議の条件として、三好が到底呑めへん事ばかりを言うてきておじゃります」

九條稙通から公方側の条件を聞いて主上は御簾を上げさせ不機嫌な表情を現す。

「太閤、朕は都を捨てて以来、ちいとも帰洛しない公方には常々思う所が有った。しかし其れも朕や院(後水尾上皇)が力なきために和睦もさせれずに居たからこそと思っておった。しかるに、この度漸く両者に和議を斡旋できるようになったが、公方は我を張り和議を受けぬと突っぱねた。流石に今回の仕儀で堪忍袋の緒が切れたわ、最早公方は公方に非ずじゃ、しかし廃する訳にも行かぬ。あの者には未だ未だひれ伏する者達が多くいる」

主上の言葉に九條稙通は答える。

「確かに、至近では六角、朽木、朝倉など遠きでは、長尾、織田などがおりまする」

「その通りよ、禁裏と同じく力なくも権威はある物、それを有り難がる者達も多くいると言う事よ」

帝の受傷気味の言葉に流石の稙通も言葉を呑む。

「太閤、曾祖父、祖父、父と歴代はまともな譲位も即位も出来ず、それどころか葬儀まで金が無くて延期の有様であったわ。今は何を考えたか坂東の力で潤っておるが、何時消えるか判らない繋がりよ。此処においては、左京大夫(北條氏康)の案を使い、坂東に征東大将軍として恭仁を下向させ、坂東の兵火を治めさせ、禁裏の復興の足がかりと致そう」

九條稙通等が北條家より提案されていた、恭仁親王うやひと しんのうの征東大将軍への就任と坂東への下向が決まった瞬間であった。

「御意にごじゃります」

反対する者も居ず、帝は満足そうに頷きながら、次の話を始める。

「恭仁の下向に伴い、明年早々に改元を致す」

「其れでございますれば、年号勘者ねんごうかんじゃを選定いたします」

「うむ、それと新年には、筑州(三好長慶)を修理大夫にせよ、また左京大夫にも相当の位を授けよ」

「御意」

全ての話が終わったと思ったとき、主上から稙通へ話が行われた。

「太閤、公方が帰洛するまで延期させていた、北條の馬揃えを年明けにも開催させよ、朕も東宮も楽しみにしておると、左衛門佐(北條氏堯)に伝えよ」

「御意にごじゃります」

そう言うと、帝はその場から退室して行った。

残された廷臣達は、顔を見合わせ、二條晴良、九條稙通達が中心となり、それぞれに仕事を割り振っていく、今までであれば、金が無いために儀式も何もかも簡略或いは省略していたのであるが、資金の問題が一気に解消したため、久々の大仕事にある者は奮い立ち、ある者はうろ覚えの知識を精一杯思い出そうとしていた。


弘治三年十一月二十五日


■相模國 南足柄郡 小田原 北條幻庵久野屋敷


小田原城下、久野にある北條幻庵の屋敷で、この日、北條氏康、北條幻庵、北條綱成が集まり、風魔小太郎からの報告を受けていた。

「御屋形様、尾張での首尾、成功致しました」

小太郎の報告に満足そうな笑みを浮かべる三人。

「そうか、流石は小太郎の息子よ、見事に成りきったようじゃな」

幻庵の賞め言葉に、小太郎が苦言を言う。

「幻庵様、小次郎は未だ未だ未熟者、その様にお褒めに成れば、あ奴が増長してしまいます故」

「なんじゃ、小太郎にしてみれば、未だ未だひよっこか」

綱成が笑いながら小太郎に突っ込みを入れる。

「左様にございます。拙者に勝てるように成るまでは、一人前と言えませぬ故」

「あい判った、しかし、小太郎よ多少の飴は必要ぞ」

氏康の言葉に、小太郎は“御意”と答えた。

「して、皆は到着したのじゃな」

「はっ、先ほど国府津湊に到着したとの一報が入りました故、あと一時(二時間)もすれば到着致すはずにございます」

「左様か、其れでは御屋形様、久々に茶でもたてましょう」

「幻庵老、よしなに」

一時後、茶の湯を楽しんだ三人は小太郎から、三人の風魔と来客の女性二名赤子三名が屋敷に着いたと報告を受け、佇まいを正し最初に風魔を呼んだ。

氏康達の前で頭を下げる三人に氏康が言葉をかける。

「小次郎、段蔵、狭霧、この度は御苦労であった。三年もの長き間、ようがんばってくれた。礼を申す」

主君自らの労いに三人が三人とも感激し、涙を流しながら益々頭を下げる。

「小次郎が平塚兵庫を演じきった事、狭霧が高嶋局に成りきった上での自害の様、見事であったと聞く、そして、それらを段蔵の幻術で尾張衆に信じ込ませる事、真に見事で有ったようだな。本当に御苦労であった」

それぞれに賞められた、三人は、感動し震えていた。

「御屋形様、やはり段蔵を越後から呼び戻してようございましたな」

「全くだ、段蔵が居なければ、逃げ出す事すら出来なかったかも知れんと聞いた」

段蔵と言われる五十代後半の男が照れたように答えた。

「その様な事は、私が居なくても、御曹司(風魔小次郎)は、見事にやり遂げたはずでございます」

「段蔵、謙遜する必要は無いぞ、未だ未だ小次郎は儂からしたらひよっこよ」

風魔小太郎が段蔵にそう答えると、幻庵が笑いながら、小次郎に話しかけた。

「小次郎、そなたの父御はまた厳しい事よな」

「はっ、頑固親父にございます故」

その返答が面白かったので、皆が笑い出した。

一通り笑いが終わった後、狭霧が客人を案内して帰って来た。

「御屋形様、高嶋局様、陽様、御子方様を御案内致しました」

「うむ」

氏康達の前に、末森城で死んだはずの五人が現れた。

「北條左京大夫様にございます」

狭霧が高嶋局達に氏康達を紹介すると、二人が深々と頭を下げ、高嶋局が代表して挨拶を行う。

「お初にお目にかかります。わたくしは尾張末森城主織田武蔵守信成が妻の松と申します。この者は側室の陽、そして、三人の子にございます」

都落ちしたとは思えない程、立派な挨拶に氏康も幻庵も大いに感心する。

「良くいらっしゃった、武蔵守殿の事、真に残念でござった。彼の方で有れば、我等と共に帝を盛り立てれると思い、兵庫を遣わしたが、このような仕儀に成ろうとは、重ね重ね残念よ」

氏康の言葉に、自分達を逃がすために炎の中に消えた、平塚兵庫の姿を思い出して、松も陽も悲しそうな顔をする。

実は平塚兵庫は風魔小太郎嫡男小次郎が変装していたのであるが、二度と現れないために、死んだ事にして居たのである。これも加藤段蔵イリュージョンの成果であった。

「兵庫の事は残念であるが、松殿達を助け出す事が出来た事だけでも良かったと思っておる」

「ありがとうございます」

「さて、貴方方の処遇なのだが」

「はっ」

氏康が二人を確り見て話し始めると、二人は真剣な表情で聞き始める。何と言っても元々織田家は北條家の同盟国今川家とは不倶戴天の敵である事から、幽閉などされるのではと思ったからであるが、氏康の話は突拍子も無いもので有った。

「考えたのだが、末森で死んだ五人が居たのでは甚だ不味かろうと思い、御二方を儂の隠して居た側室と称して迎え入れたい、そして、その子らを我が養子として養いたいのだが、如何であろうか?」

余りの突拍子も無い話に、松も陽もポカーンとして言葉が出てこない。

暫し待つと、やっと松が正気に返り話し始める。

「左京大夫様、我等のような敵の妻や子を、お身内に加えていただけるなど、恐れ多い事にございます」

「松殿、儂は、そなたの素晴らしい気心に惚れたのかもしれん、それに赤子には父が必要よ、どうであろう受けてくれぬか?」

氏康の表情に真剣さを感じた松は、戦国の習いとして、夫亡き後まで操を立てるより、我が子が幸せに成れる事を考え、受ける事にし、佇まいを正して応えた。

「私のような者をそうまでお考えに成って頂いた以上、御屋形様の下知に従いまする」

それに合わせて、陽も是と答えた。

「これは目出度き事よ、御屋形様おめでとうございます」

「うむ」

そう言いながら、氏康は三人の赤子の元へ行き、一人一人を抱きながら、名前を付けていく。

「この子は、儂の七男に成る故、新七郎と名付ける。この子は八男であるから新八郎じゃ、そして末の子は、新十郎じゃ」

新九郎が既に居るから、九人目は新十郎になった。

「御屋形様、早速の三人の子持ちでございますな」

存在感が薄かった綱成がニヤッとしながら茶化した。

「左様よ、儂も凄いであろう、皆に隠れて三人も男児を作っていたのだからな」

見事な氏康の切り返しで、場が明るくなり、松や陽は此処ならば、安心してこの子等を育てる事が出来ると考えていた。

その後、十二月一日に氏康の隠し子として三人が紹介され、家臣一同が驚いたのである。

全ての始まりは康秀の情報と風魔の情報により、素質の有る子であると言う事と、母の松の聡明さに興味を持った氏康の仕業であった。その結果本来であれば、津田信澄つだ のぶすみ津田信糺つだ のぶただ織田信兼おだ のぶかねになるはずの三人が北條氏康の子に成ったのである。


弘治三年十二月十日


■相模國 南足柄郡 小田原城


雪の降る小田原では、氏政夫人梅姫のお産で城中がソワソワとしていた。

「お湯は準備よいか!」

「薬湯の準備を」

「酒精も揃っております」

梅姫が産気付きウンウンと唸っている中、康秀夫人妙姫は、隣で大きなお腹で冷静に茶を飲んでいる祐に話しかける。

「祐姉さん」

「なに?」

「梅様は苦しそうですけど、姉さんは、大丈夫なのですか?」

妙の目は、祐の今にも破裂しそうなぐらい大きなお腹に釘付けである。

それを見て、祐は笑いながら答えた。

「妙さん、子供というのは十月十日経ないと生まれないのですよ。梅様は新九郎様と子作りなさったのが一月の末だと言うではないですか、ですから丁度今日なのですよ」

その言葉に納得した妙は今度は祐の腹に耳を当てて赤子の動く音を聞きにかかる。

「赤ちゃん、私がもう一人のお母さんですよ、元気に生まれてきて下さいね」

にこにこ顔で腹の中の胎児に語る妙姫の髪を祐は優しく撫でる。

忙しく働く女中達も、二人の姿を一服の清涼剤の様に見ほれる。

「そう言えば、姉さんのお父上が大層御喜びとか」

ふと、妙が思い出したかのようにその話をすると、祐は渋柿でも食べたかのような顔をして応える。

「ええ、先々月に幻庵様が父に私の懐妊の事を知らせてくださったのですけど、それを聞いた途に、“絶対に抱けぬと思っていた孫が抱ける日が来るとは”と小躍りして喜んだそうです。更に“祐の嫡男を井伊家の養子として後を継がす”などと言い出したそうで、挙げ句に先月には今川の御屋形様(今川義元)に“我が孫を是非世継ぎとして認めて頂きたいので、北條の御屋形様に話をお願い致します”とお願いに上がったそうです」

その話に妙は笑い出す。

「姉さんのお父様は相当せっかちな方なのですね」

「妙さん、笑い事じゃないんですよ、井伊家には既に直親という歴とした養子が居るのですから、此処でこの子が跡継ぎになったとしたら、お家が割れるんですよ」

祐の言葉に妙がシュンと成って謝る。

「姉さん済みませんです」

「いえいえ、事情を知らないと父の行為は滑稽に映りますからね」

「姉さん、そうなると、その子はどうなるのですか?」

祐は妙の質問に悲しそうな顔で応える。

「既に今川の御屋形様と北條の御屋形様に話が来て居るとしたら、長四郎様も断る事が出来ないでしょうから、井伊の家に差し出すしかないのですけど……」

「女の子であれば、出なくて済みますね」

「ええ、出来れば私の子は全て女が良いのですけど」

「御姉様、お祈りしましょう、女の子が生まれてきますようにって」

「ええ、そうね」



その様な話の中、小田原城に赤ん坊の泣き声が響き渡った。

北條氏政の長女誕生の瞬間でであった。


第伍拾捌話 綱重帰洛と武田の困惑


弘治三年十一月二十五日


■京 池邸 


内裏の南西に完成しこの時点で北條家一行の拠点と成っている池邸に、長きにわたり西國へ工作に行き此の程帰洛した、本来の主人となるべき綱重が座敷で氏堯に報告を行っていた。

「左衛門佐殿、真に申し訳ございます。王直との会談は物別れに終わりました。偏に拙者の努力が足りなかったためでございます」

心底、王直を連れてこられなかった事に意気消沈している綱重であったが、氏堯は元々博打のようなかけで有ったと思っていたため優しく励ます。

「うむ、仕方が有るまい、王直とて海商としての意地と、やっと國に認められたという感情には、昵懇の博多衆の取次が有ったとしても、見ず知らずの我等の言葉など耳に入らないであろう。それに王直以外では十分な成果を上げておるのであるから気に病む事など無いぞ」

「はは、有り難きお言葉身に染みます」

「御苦労であった、さて帰洛祝いに宴を行おうぞ」

そう言って、氏堯は綱重を連れて大部屋へと連れて行く、其処には京へ来た北條家の面々が待っており、口々に綱重一行を労う。

シコタマ飲んで、その日の宴会は終わり、翌日になると、早速今回の遠征に関する成果などに対する、ジ事務仕事が始まった。其れは実に二週間に及んだが、王直以外の事は概ね成功裏に終わったと結論着けられた。

更に綱重一行が甑島、博多、松浦などで手に入れた唐物や高麗物は非常に良い物が含まれており、津田助五郎つだすけごろう(津田宗達)、田中與四郎たなかよしろう(千利休)などが、、目を見張り、是非とも譲って欲しいと懇願される事になる。


弘治三年十二月十日


■京 内裏 伏見宮邸


二週間の長い残務処理を終えた綱重は氏堯に連れられて、新築し檜の香りも香しい伏見宮邸へ向かった。宮邸に着くと、当主伏見宮邦輔親王と共に、太閤九條稙通、左大臣西園寺公朝が出迎えた。

「皆様、今宵はよしなにお願い致します」

「うむ、左衛門佐任せておけ」

氏堯が三人に挨拶をした後、三人は綱重の方を見る。

「西國での活躍は聞いておるぞよ」

「遠路遙々御苦労なこっちゃ」

「何時ぞやは、世話になったの」

三者三葉の挨拶を受け、唖然としながらも返答する辺りは、文化人である父幻庵の教育の賜物であろう。

「宮様、太閤様、左府様、態々のお出迎え、恐悦至極に存じます」

「さて、今宵はよい日になりそうよ」

「そうでおじゃりますな」

「正に」

口々に話ながら、座敷へと案内されると其処には立派な宴の支度が為されていた。

「今宵は綱重殿の帰洛祝いよ」

「ささ、ささ」

酒と沢山の料理が運ばれ、宴が始まった。

伏見宮も九條稙通も西園寺公朝も綱重の西國での話を聞きたがり、始めて聞く風土や風習に驚き、楽しんでいた。そんな中、中座した西園寺公朝が娘の月子を連れて帰ってきた。久しぶりに会う月子の美しさに綱重もときめいたが、所詮は左大臣の娘であるため、自分には生涯縁のない御方と思っていた。

「綱重様、お久しぶりにございます。何時ぞやはありがとうございました」

月子姫がにこやかにそして頬を赤く染めながら酒を注いでくる。

「月子様も、ご機嫌宜しいようで安心致しました」

「綱重様もお陰で、おもうさん共々、つつがなく暮らしております」

「其れは重畳でございます」

端から見れば、恋愛下手同士が話しているような初々しさが見えるのであるが、月子姫にしてみれば、ヤキモキしながら誘おうとしていたのであるが、綱重が身分の違いを考えていたのでそれに気が付かなかったのである。

その為に、それを見ていた九條稙通がニヤリとして、氏堯を呼んで策を授けた。

「左衛門佐、近う」

「はっ」

端から見ると雑談をして笑っているようにしか見えなかったが、実際には康秀の故事に習ってしまえと氏堯に相談していたのである。

其れを知らない綱重は、その後、月子姫、伏見宮、稙通、公朝にシコタマ飲まされて、まんまと罠にはまってしまった。

酔いが回り、帰宅が困難になったため、氏堯共々伏見宮邸へ泊まった綱重であるが、翌朝目覚めると、なんと月子姫が一緒の寝具にくるまりスースーと寝息をたてていた。その姿に驚きながらどうしたら良いかと考えていると、伏見宮、稙通、公朝、氏堯が現れたため混乱したが、起きた月子姫から話で事情がわかり更に驚く事になった。

「宮様、太閤様、左府様、此処これは……」

「宮さん、太閤さん、おもうさん、これでうちは綱重様と夫婦になりましたで」

「月子様、其れは一体?」

してやったりと言う顔で、月子姫は綱重に説明を始める。

「あんな、うちが綱重様が恋しくてどないしても嫁になりたいと言うたら、太閤さんがこうしろと言ってくだっさったんよ。三田はんと井伊の姫はんも同じ様にして嫁になったそうやから、其れをまねしたんや」

「綱重、まあそれ以外にも、そなたを叙爵させ、池家を再興させるという事も決まっていてな」

「その為の、後ろ盾が、麻呂達と言う訳よ」

「既に主上も承知の事、確と頼むぞ婿殿」

衝撃の事実に綱重は暫く絶句していたが、結局その後に詳しい話を聞かされ、納得できないが納得しなければ成らなくなり、池家相続と月子姫との婚姻が決定したのである。


弘治三年十二月十日


■京 貧民窟


武田晴信が放った三ツ者の面々は、思うように行かない事態に頭を悩ませていた。

「おのれ、あの大久保長安が偽物とは!」

「流石は風魔、あれほどの変装とは」

「既に八人を失い、残りも手傷だらけでは……」

「お頭、如何致しますか?」

「うむ、風魔にしてやられるとは、御屋形様にどの様にお伝えしたら良いのか……」

「お頭、どうも大久保長安は都に来て居ないようですな」

「そうらしいな、我等の手練れが襲ったにも係わらず、返り討ちになるとは」

「始めから、囮を連れて来た訳ですか」

「その可能性が大きいな、二條の姫を氏政の正妻にするなどと言う謀を隠すために我等の目を誤魔化したのであろう」

「しかし、梅姫様が嫁がれておりますが、その様な事をすれば、御屋形様と北條との仲が悪化するのでは無いのでしょうか?」

御屋形である武田晴信は、諏訪家への攻撃などの条約破りで、他國からは信用されていないからこそ、北條は枷をはめるが如くに保険をかけたのだと、穴山信光に想像は出来たのであるが、まさか部下に教える訳にも行かずに、適当な誤魔化しを言う。

「北條とて、御屋形様と手切れするわけにも行くまい、恐らくは二人の正妻という形を取るつもりではないかと思う」

信光の言葉に、部下達は納得する。

「なるほど」

「尤も、御屋形様にお伝えした以上は、何らかの抗議を為さるはずだ」

「お頭、辛うじて長安の失敗を挽回できるわけですな」

小頭の言葉に頷く信光で有ったが、内心では組織の強化をしなければ成らぬなと考えていた。


弘治三年十二月二十五日


■相模國 南足柄郡 小田原城


年も押し迫ったこの日、小田原では武田家における北條家への取次(外交担当)である小山田おやまだ弥三郎やさぶろう信有のぶあり弟弥五郎やごろう信茂のぶしげが、武田晴信の北條側の真意を問いただす書状と共に雪をかき分けながら到着していた。

本来であれば兄の信有が来る所であるが、生憎信有は生来病弱の上、この頃労咳(結核)にかかり、伏せっていたため、数年前より信茂が対外的な事は代理していたのである。

小山田家は元々は武蔵國小山田荘出身であり、鎌倉時代に郡内へ移住したと言われているが定かではないが、北條家では他國衆として小山田荘に所領を宛がっていた。これは別に小山田家が北條家の家臣という訳では無く、取次に対する付け届けにあたる物であり、この時代には多々見られた事である。

「左京大夫様にはご機嫌麗しく」

「小山田殿もこの雪の中御苦労であるな」

信茂は挨拶も早々に、晴信からの書状を氏康に渡す。

「武田大膳大夫よりの書状にございます」

小姓から受け取った氏康は手紙を読み始める。

「うむ、成るほど」

そう言うと、手紙を急遽呼び出した幻庵に渡す。

幻庵も読みながら、頻りに頷く。

その姿を見ながら信茂は暫し待った後、氏康二質問をぶつける。

「ご無礼は承知でお伺い致しますが、大膳大夫が大層懸念しておりますが、左京大夫様は、摂家二條家より姫を御嫡男新九郎様正室にお迎えなさるとお聞き致しましたが、如何様なご判断でございましょうや?」

「小山田殿、大膳大夫殿の御懸念だが、当家としては梅姫を邪険に扱う気は毛頭無い、更に二條様の御息女との婚姻であるが、これは当家が望んだ物ではなく、二條様と九條様が当家と縁を結びたいが為に、お考えになった事で、あくまで打診と言うだけなのだ」

「では、お受けになるのでしょうや?」

それでも不審に思う信茂に幻庵が話しかける。

「小山田殿、新九郎は梅姫にぞっこんでしてな、側室など持ちたくないと申す次第でな、梅姫以外には手を出した女人はおりませんぞ、ましてや梅姫を差し置いて、二條様の御息女を正室にする事は無いのじゃよ」

「左様じゃ、婿の長四郎など、旅の最中に側室を作り子まで成したと言うのに、新九郎は都へ行き一年に成るというのに、浮いた噂すら無いのでな。儂の様に側室を抱えている事と違い新九郎は一途でな」

「カッカッカ、そうですな、長四郎は井伊の女地頭を手込めにし子を作り、御屋形様は後家に手を出して、四人も子供を拵えて居たのですからな」

幻庵が長四郎と先月に側室にした高嶋局達の事を引き合いに出し笑う。

「幻庵老、其れを言いなさるな、老いての恋じゃ」

氏康と幻庵が信茂を利用して、康秀は節操が無い、織田信成の妻と側室、子達の存在を氏康の側室と隠し子という事で定着させるように演技しているのである。

「カッカッカ、そうですな、儂もこの年で幼い娘を授かりましたからの」

「其れはおめでとうございます」

呆気に取られていた信茂も、氏康と幻庵の掛け合いにやっと慣れてきた。

「しかし、孫娘と娘が同じ年とはな」

「まあ、其れも面白かろうて」

「と言う訳で、儂としては、新九郎の考えを尊重し、二條様よりのお話はご辞退するつもりよ」

氏康の話に信茂もやっと疑念が晴れると思い始めた。

「当家としても、折角縁を結んだ武田殿と険悪な関係には成りたくはないのじゃよ」

「当方とて同じであります」




小山田信茂を労った後、氏康と幻庵は人払いし、話し合っていた。

「幻庵老、やはり大膳は食らいついてきたの」

「真に、長安の件で三ツ者の暗躍が読めるようになりましたからな」

「これで、益々武田の目は曇るか」

「小太郎には益々頑張ってもらわねば成りませんが」

「ご心配無用にございます」

何処から現れたか、風魔小太郎が膝を突いて待機していた。

「小太郎、頼むぞ」

「御意」

「それにしても、長四郎も難儀な事じゃな、御屋形様からもあれほどからかいのネタにされるとは」

「何の、幻庵老こそ酷い言いようであったぞ」

二人の掛け合いに小太郎がクスリと笑っていた。


第伍拾玖話 永禄改元


弘治四年 永禄元年(1558)一月十三日


■京 内裏 


再建成った内裏にて新年の行事がつつがなく終わり、改元の詔も発せられ、弘治四年は永禄元年と改元された。

改元後、春の除目にて、(正月十一日から三日間に渡り叙任が行われていた)公卿達は位階と官職の上昇を得た。

それに伴い、皇弟恭仁親王は二品親王となる当初の話と違い生者としては異例も言える、一品親王いっぽんしんのう(立場としては正一位・従一位と同様に扱われており、皇親の筆頭たる地位)に叙せられ、征東大将軍せいとうだいしようぐん上総守かずさのかみ上野守こうずけのかみ常陸守ひたちのかみ(三國は親王任國と言われ、國主は親王しか成れない為、律令時代における実質的な最高権威は次官の介であった)に任じられた。

此により、関東へと下向する事になった恭仁親王は後に征東大将軍宮せいとうだいしょうぐんのみや、或いは鎌倉将軍宮かまくらしょうぐんのみやと呼ばれるようになる。

此により足利将軍家の設置した鎌倉公方から古河公方の系統は実質的な権威を失い、象徴的な存在へと変わっていく事に成る。それに伴い、関東管領の権威も失われる事で、関東管領かんとうかんれい上杉憲政うえすぎ のりまさを保護して擁立している越後の長尾景虎ながお かげとらの越山(関東侵攻)に大きな歯止めがかかる事と成り、北條家の関東に於ける戦略の幅が広がる事と成っていく。

幕府よりも遙かに歴史のある朝廷を動かし得た北條氏康の謀の方が、武田晴信たけだ はるのぶ、長尾景虎、里見義堯さとみ よしたか佐竹義昭さたけ よしあきなどより優れていた事が要因の一つではあるが、実際の所は、当時武田と長尾は川中島で睨み合いを続けており、事も有ろうに景虎に至っては前年に出家騒ぎを起こした挙げ句に家出を行っていた事もあり、北條の動きにそれほど気を配れる状態では無かった。

武田は、本来であれば、夫人の実家三條家を通して朝廷の情報を仕入れられる筈であったが、三條家は当主不在でその伝手も使えず、他の家との繋がりも北條が経済的な裏付けを行ったが故に態々武田にヘコヘコする必要も無いと公家衆が考えてしまった事で途絶えがちになりつつ有った。

此には、武田家が甲斐や信濃に有った公家の公事役の上がりを掠め取り渡さなかった事も影響していた。同じく長尾家も青苧の上がりを掠め取っていたために、公家衆からは頗る評判が悪くなっていた。

その上武田は、本来であれば本願寺から情報を仕入れられる筈であったが、康秀の謀で、本願寺顯如夫人が北條氏康養女として嫁いだ事、更に浄土真宗と手打ちを行った事も影響し、本願寺が武田家より北條家との付き合いを重視する事にしたため、情報がさほど手に入れられなくなっていた。

また里見家は上総西部を北條に奪われ、裏切った國人の討伐で忙しく、京との外交どころでは無く、佐竹は宇都宮家の内紛に手を突っ込んでいる状態で有った。

つまり、北條氏康は四方の勢力が他の事で気が向かないうちに事を運んだ訳であるから、その状況判断の的確さは四者以上と言えた。尤も元案を作った三田康秀に関しては、全くと言って良いほど知られていなかったが。

征東大将軍就任以外にも、今回の内裏再建、朝廷の権威復興の立役者北條氏康一党、三好長慶一党にも叙任が行われた。

北條氏康には、従四位下じゅしいげ左近衞権中将さこのえごんちゅうじょうという位が与えられたが、これは朽木谷から帰洛しない征夷大将軍足利義輝と同じ位階と官職であり朝廷側の将軍家に対する憤りを現しており、また北條家に対する期待感の表れとも言えた。

更に、三好長慶が従四位下修理大夫に任じられ位階において将軍義輝と並んだ事も特記すべき事であった。

また、本人にしてみれば余りに思い役柄で有ったが故に不本意であったが、当初の計画通りに北條綱重が、池家を再興し従五位上じゅごいじょう右衛門権佐うえもんごんすけ兼検非違使佐けん けびいしのすけとなった。

その他、北條家に対して嫡男新九郎氏政が従四位下じゅしいげ左京大夫さきょうたいふ兼相模守さがみのかみに正式に叙任され、三男平三氏照が従五位上じゅごいじょう武蔵守むさしのかみ、四男新太郎氏邦が従五位下じゅごいげ左京亮さきょうのすけ、氏康四弟十郎氏堯は正五位下しょうごいげ弾正少弼だんじょうしょうひつ、幻庵嫡男三郎時長は従六位上じゅろくいじょう相模介さがみのすけ、北條孫九郎綱成は今まで自称であった従五位下じゅごいげ左衛門大夫さえもんたいふに正式に叙任され、北條幻庵宗哲は既に僧籍であるために上人しょうにん号と紫衣しえが許された。

北條氏堯の弾正少弼への任官は、越後の長尾景虎を刺激しまくる事になる、何故なら長尾景虎は関東管領かんとうかんれい上杉憲政うえすぎ のりまさを迎え入れた際に従五位下弾正少弼を自称し、その後天文二十二年(1553)九月に上洛した際に将軍義輝から推挙を受けるはずであったが、既に将軍は八月に三好勢と交戦し敗北後、朽木谷へ逃亡しており、拝謁が敵わなかった為に未だに自称している状態が続いていたからである。

(長尾景虎=上杉謙信の官位だが、歴名土代りゃくみょうどだいには、記録されていない為に、自称の可能性が指摘されている)(歴名土代 中世日本の四位・五位の位階補任(叙位)記録簿)

何と言っても、関東管領上杉憲政を保護し、その養子に収まる予定の自分は、自称でしかない弾正少弼であるにも係わらず、上杉憲政を越後に追った伊勢(北條)の輩が自分より上位の位階と自分の職分である官職を得たのであるから、収まりが付くはずもなかった。

その為か、関東へ帰國後に本来であれば小机城主になる予定であった氏堯が征東大将軍軍代として上野國平井城に入城後に数度にわたる刺客に襲われる事と成った。

そして家格においても、関東管領上杉憲政の位階と官職が従五位下じゅごいげ兵部少輔ひょうぶしょうゆでしかなく、従四位下左近衞権中将となった北條氏康より下位に置かれた事も関東情勢に影響しする事は目に見えていた。更に三男氏照の武蔵守も足利幕府内であれば、管領細川家代々の受領名で有る事も朝廷が征東大将軍府の管領たる職責を氏照背負わす気であると考えられたのである。

更に北條家家臣団でも正式に叙爵した者達が多数出た事は、既に関東管領より北條家の方が関東では正当な政治権力であると朝廷より認められたと、後々関東諸将は考えるようになり、征東大将軍府が置かれた鎌倉へ参内する者が多数出る事と成るのである。

北條家では、松田憲秀まつだ のりひで尾張守おわりのかみ大道寺政繁だいどうじ まさしげ美濃守みののかみ遠山綱景とおやま つなかげ丹波守たんばのかみ垪和氏続はが うじつぐ伊予守いよのかみなど、宿老達にも従五位下の位階と受領職が与えられたのは、征東大将軍の権威を見せつけるが為であったが、それ以外にも康秀の叙任を他の者達に嫉妬させないが為の行為でもあった。

康秀は、恭仁親王うやひと しんのう九條稙通くじょう たねみちの推挙により従五位下じゅごいげ右馬権頭うまのごんかみに叙せられ、三田家として過去最高の位階に上り詰めたが、三田家では従五位下に着いたと言う先例が無いと苦言が出る可能性も有ったが、長年公家社会を渡り歩いてきた九條稙通により、三田家の先祖であるたいら の良将よしまさ従四位下じゅしいげ鎮守府将軍ちんじゅふしょうぐんであった事から、先例有りとして問題なしとされた。

此により、康秀は位階と官職共に、父や兄を抜いてしまい、家に顔向けできないと悩むが、父綱秀、兄綱重(偶然にも幻庵次男と同名)は、康秀の叙任を聞いて喜んでいたのだから、康秀の取り越し苦労であった。尤も二兄、三兄はねたんでいたので、その点は合っていたのであるが。




その頃、将軍仮御所には、風の噂で改元が行われた事が伝わってきていた。しかし改元の目出度さなどこの地には全く存在していなかった。何故なら今まで有れば、改元は朝廷から幕府に対して相談があり、資金を幕府が出す事で改元が決まっていたのであるが、弘治から永禄への改元に関しては全く相談が無く、一方的な事後承諾どころか、朝廷から全く連絡すらない状態で有ったからである。

その為、へそを曲げた義輝は改元があったにも係わらず、弘治の年号を使い続ける事にした。これはあからさまに朝廷に反旗を翻した事と行っても良く、嘗て、鎌倉公方足利持氏が、同様の事を行い朝敵として成敗された事例を、現職の征夷大将軍が行い、帝に対する謀反人になるという前代未聞の現象となった。これは下手をすれば将軍義輝が朝敵として討伐の対象と成りかねない行為であった。

しかし、朝廷側も其処まで事を荒立てる気は無く、内裏造営の余波で復興の兆しが見え始めた都を焼くわけにも行かないために、遠隔地の鄙で有る故、改元の詔も届かぬのであろうと、大人の判断で敢えて将軍義輝を無視し、代わって修理大夫三好長慶を摂津守、山城守など畿内の國主に任ずる事で、義輝に対する当てつけとした。

それに喜んだ長慶は、先年の和睦成功の際に引き渡す約束であった堺を、御礼として朝廷へ献納した。此処において堺は幕府直轄領から朝廷の御料所として全國に知らしめられる事に成った。受け取った朝廷は早速、北條側からの話に有った鋳銭司ちゅうせんし(貨幣の鋳造を司る役)を置く事とし、長官として従五位上じょごいじょう内蔵頭くらのかみ山科言経やましな ときつね鋳銭正ちゅうせんのかみけん和泉守いずみのかみとして任じる事とした。

(鋳銭正はその國の守が兼任する事が多かったため)

此は山科家が朝廷の財政の最高責任者であるが為の任命であり、更に父山科言継が後水尾上皇(史実の後奈良天皇)の時代に献金の確保に多大なる奮闘をした事、そして九條稙通や北條家の面々と親しい事も考慮され決定した人事であった。

この後、言経は北條家の面々の助言を入れ、堺衆の面々に銭貨鋳造を請け負いさせる事にする。此により朝廷が出す貨幣に堺商人の経済力が裏付けされる事になり、良質で貨幣の文字を先帝後水尾上皇御自ら筆を取り揮毫して頂いた“永禄通寶”は渡来銭に代わり日本全國へ流通して行く、このため、渡来銭(中國からの輸入)鐚銭びたせん(すり減ったり欠けたりした銭)私鋳銭しちゅうせん(民間で作った銭)などは次第に淘汰されていく。

此により堺をはじめ博多などで経済活動が益々発展し堺以外でも征東大将軍府でも鋳造が行われたため、鎌倉、江戸、小田原などの北條家の勢力圏内の各地の発展に多大な影響を与えていく。


永禄三年一月十六日


近江國朽木谷おうみのくに くつきだに岩神館いわがみやかた 足利義輝仮行在所


一人蚊帳の外に置かれた亡命幕府では、正月十六日に甲斐國の武田晴信が信濃守護に嫡男義信が三管領に任じらていた。これは、将軍義輝が越後の長尾景虎を京へ呼び寄せ、その武力を背景に三好一党を退治しようと考えたために、信濃で対峙している武田家をどうにかしない限り、景虎が動きが取れないために、武田に長尾との和睦を命じていたのである。

其処で、晴信は将軍の命令を逆手に取り、和睦するのであれば、自分を信濃守護職に任じて貰いたいと逆提案を行ったのである。晴信は腐っても将軍権威の前には長尾景虎が馬鹿正直に命令に従う事を判っていたために、取れる物は全て取っておけと考えたのである。

その為、義輝としても背に腹は代えられない為、晴信の信濃守護職と義信の三管領準拠の扱いに同意したのである。結果として、この信濃守護職を根拠に、晴信の信濃侵略が正当化された為、武田は益々攻勢を強めて行ったのである。

結局は、義輝の状況を見ないでその場凌ぎの場当たり的な外交が混乱を返って助長させる事に成ったのであるから、見る者が見れば、義輝の未熟さが在り在りと浮かび上がる結果になった。


第睦拾話 歴史の齟齬


永禄元年一月二十日


■京 内裏 池邸


池邸には池家復興を祝う各家の当主達が次々に訪れていた。本来であれば、遙か昔に消え去った家のために、此ほどの公卿地下人達が来る事はないのであるが、三月にも北條一行が小田原への帰路に着くため、今後の北條との窓口と成る池家との繋がりを強化しておきたいと言う考えからであった。

何と言っても、荘園を寄贈されたとは言え、管理は完全に北條家に任せるしか無く、北條家の機嫌を損ねる事だけはしたくないからであった。

そんな中、伏見宮邦輔親王、太閤九條稙通、左大臣西園寺公朝と共に北條家の尽力で吉田家に勝利した白川伯王家当主雅業王も養嫡子邦常王(史実の常胤法親王)と共に挨拶に来ていた。雅業王は終始機嫌良く“北條殿は天下一の朝臣なり”などと褒め称えていた。

更に、石山本願寺より鋳物師を派遣し、御所造営に多大なる貢献をした本願寺顯如は新帝より念願叶って門跡位を授けられ、その御礼として参内した後、義兄弟である氏政、康秀に会いに屋敷へと来ていた。顯如も終始機嫌が良く、生まれたばかりの氏政の娘と何れ生まれる自分の息子との婚約を決めるほどであった。

その他、真継久直の家督横領から家督を取り返し、鋳銭正兼和泉守山科言経の下で実務を担当する、鋳銭祐ちゅうせんすけ兼和泉介に任命された新見富弘も“家督を取り戻せたのは北條様のお陰”と感謝の意を伝えに尋ねて来ていた。

この様な事で、都の公家衆と本願寺の面々に多数の面識が出来る事と成った。

この後、北條家一行は都にいる間、種々の宴、茶会、連歌などに呼ばれ続ける事になり、後々“都にいて一番疲れた一月”と回想する事になる。


永禄元年一月二十日


■甲斐國 府中 躑躅ケ崎館つつじがさきやかた


武田晴信は、この所の北條家の動きをジッと観察してきていた。

数年前より、北條家では大久保長安の手により多くの鉱山が開鉱され莫大な上がりを上げてきていた。その他にも、氏康が先代氏綱ばりの農政や民政などの手腕を発揮し関東が益々豊かになっていくのを見聞きし、貧しい甲斐と経済的に格差が生じるのを感じ、信濃への侵攻を益々強めていた。

更に、この所、朝廷、公家との繋がりが色々な事でもめたため疎遠になりつつ有り。逆に弘治元年(1555)に信濃守護職に任じられた事で将軍家との繋がりを強化してきた。しかし、晴信の信濃守護職就任以後も、長尾景虎は後水尾天皇(史実の後奈良天皇)の綸旨を盾に信濃へ出兵して各所に手を出してくるため、先年には報復のために、越後へ侵攻し苅田、狼藉、放火などをしたが、其れを将軍が咎めて来る片手落ちの裁定にほとほと困っていた。

そんな中、北條家が摂関家二條家の姫と嫡男氏政との婚姻話が流れてきたのであるから、慌てふためく宿老達に対しては、泰然自若に振る舞いながらも内心では疑心暗鬼に囚われ、宿老の“小田原へ使いを立てるべし”の言を笑い飛ばしながらも、許可を与え仔細を聞くほどに晴信自身が焦りを感じていたのである。

北條と戦になったとしても、武田の兵達であれば鎧袖一触とは言わぬまでも、充分に戦果を上げられる事は判っているが、長尾がいる以上二正面作戦は避けたい、その為には“三國同盟こそ堅持されるべきである”と、考えて居たからこそである。

その後、小田原へ向かった小山田信茂が雪の笹子峠を越え、躑躅ケ崎館に登城し氏康よりの言を聞き、宿老達に“そなた等の取り越し苦労であったな”と笑い、信茂を労い褒美として米二十俵(この当時は籾付きなので、一俵20kgぐらいで約400kg)を与えて郡内へ帰したが、口では取り越し苦労と宿老を笑いながらも内心ではホッとしていたのである。以外に晴信は繊細で神経質な所があったのである。


永禄元年一月二十五日


■相模國 南足柄郡 小田原城


小田原では氏康と幻庵により三男氏照が呼ばれていた。

「父上、何用でございましょうか?」

「平三、そなたの養子縁組みだが、白紙に致す事にした」

(天文十五年(1546)川越夜戦の直ぐ後で山内上杉家から寝返った大石定久の娘お豊(比佐)との婚約が氏照七歳、お豊一歳(過去帳では天文十五年生まれ)と結ばれていた)

「父上のお言葉であれば、嫌とは言いませんが、理由をお聞かせ下さい」

「うむ、本来であれば、大石の婿として由井領(八王子市など)と武蔵守護代としての権威を譲り受けるつもりであったが、十郎(氏堯)のお陰で、そなたが武蔵守に任じられた事で守護代では役不足になってな」

氏康の説明に聡明な氏照は合点がいき頷く。

「成るほど、守護代は公方の権威であれば、朝廷の國主としての権威の方が今は上というわけですね。しかし養子ではなく嫁取りであれば武蔵守護代大石家の娘を迎える事は武蔵安定には重要な事では有りませんか?」

息子の成長を喜びながら氏康は氏照が見逃して居る事を付け加える。

「確かにその通りだが、そなたは見過ごしてる事が有る」

氏照は氏康の話しにハタと言う顔で考えるが今ひとつ良い考えが浮かばないようである。

「カッカッカ、平三には未だ未だ難しいのでしょうな。ほれ、瀧山の向かいには勝沼があるであろう」

幻庵が笑いながら、助け船を出す。

「勝沼……勝沼……あっ長四郎の叙任ですか」

やっと気が付いた氏照に氏康が話し始める。

「そうじゃ、長四郎が大石源左衛門尉おおいし げんざえもんじょう定久さだひさ)より遙かに高位になった事で、三田の家格が大石より上がった訳だ。既に長四郎により三田と縁がある以上、格下の相手を敢えて選ぶ必要は無い」

そう聞いて、何となく判ってきた氏照は自分なりに考えた答えを言ってみる。

「つまり、家格の下になった大石の娘より、三田の婿になれと言うわけですか」

氏照の答えに氏康と幻庵は頸を振り否定する。

「平三、残念じゃが、そうではない」

「うむ、此は未だ内々の話なのだが、征東大将軍府執事としてそなたに別家を立てさせる話が上がっておって、それに伴い、九條殿、二條殿からも二條殿の末姫をそなたの正妻にする話が来ておる」

いきなりの話に氏照は驚く。

「父上、二條様の姫と言えば、兄上へ嫁ぐと言う話が来て居ましたが、拙者にもですか?」

「いや、武田との関係も有り、新九郎(氏政)へ嫁ぐ事は早くから終いになっていて、そなたとの縁組みに変更していたのだが、事は征東大将軍府に係わる事なればと、そのまま新九郎の話として流していた訳だ」

「それにまんまと、武田は乗ってくれた訳じゃ、小山田も雪の中、御苦労な事よ。尤も駄賃代わりに米二百俵を与えてやったら、喜んで帰っていったがな」

「なんと、其れでは噂を流したのは我等の方でしたか」

「そうだ、十郎と共に如何にも其れらしく流したわけだ」

氏照の問いに氏康と幻庵が肯定する。

「つまり、征東大将軍府に仕える以上は公方の権威である守護代の家との繋がりは返って厄介であると」

「そう言う事だ。それに大石の娘を側室として迎えたとしても、危険であると判ったのでな」

「どの様な危険が?」

「うむ、小太郎に調べさせたのだが、あのお豊という娘は未だ十三なれど嫉妬深く直情径行な性格だと判ってな」

氏康の話に氏照が嫌そうな顔をする。

「下手をすれば、二條殿の姫と諍いを起こしかねん、ましてや万が一の事でも有れば、朝廷との繋がりが途絶えかねんのだ」

「なるほど、しかし大石は如何致すのですか?十三年もの間、虚仮にされたと思われれば不味いと思いますが」

「うむ、その点だが、三郎(北條幻庵長男三郎時長)を、そなたの代わりの婿養子として送る事に居したのだが、大石としてみれば格下に見られたと憤るであろう。その為に儂の養子として送る事にした」

「平三殿の嫁を取る事に成るが、此もお家のためと考えて頂きたい」

氏康の話の後、幻庵が佇まいを正して氏照に頭を下げる。

「大叔父上、頭をお上げ下さい。我が身は北條の為なら捨てる気がございますれば」

「済まぬな、お前達を彼方此方へと犬こっろの様に養子に出して」

「父上も、お気になさらないでくだされ」

場が落ち着いた所で、氏康が話を続ける。

「三郎を送ったとて、三田との確執が無くなるわけではない。特にあの家は古弾正(綱秀)弾正(綱重)は些か一徹者だが思慮深く、北條に尽くしてくれて居るが、次男三男が些か問題のある者で、長四郎の出世を妬んでいるようでな」

「長四郎も女児とは言え子が生まれたばかりですのに難儀な事ですな」

「真に、困った者じゃ」

「その上、残念ながら弾正には子は女児が一人しかおらぬ」

「もしや、その娘の婿にだれぞを送るというのでしょうか?」

氏照が氏康の話から推論を述べる。

「いや、古弾正と弾正が、年頭の挨拶時に、三田家中では長四郎が戻ってきて後を継ぐのではと、次男三男が疑心暗鬼になりつつ有って、ギクシャクし始めているとの事だ。家臣の中には其れを利用しておのれの権勢を手に入れようとする輩もいる。その災いを無くすために、次男喜蔵を弾正の養子とし後を継がす事で、古弾正も弾正も長四郎には三田本家を継がせぬと言う意志を見せ、騒動を無くそうと考え、その旨を承諾して欲しいと言ってきてな」

「しかし、その様な事よく調べられましたな」

「なに、所詮は伝統だけに胡座をかいてきた家、家臣共も動きが稚拙すぎる。あの程度の欺瞞など小太郎にかかれば紙切れ一枚の薄さでしかない」

「しかし、其れでは次男三男を廃嫡した方が遙かに良いのでは無いですか?」

「そこはそれ古弾正も人の親と言う事だ。それに此処で廃嫡した場合、家が割れる可能性が大きいそうだからな」

「その為に、長四郎も苦労しますな」

「仕方が有るまい、今や長四郎の知謀は当家にとってかけがいのない物、其れをあたら危険な実家へ送り無理に家督でも継がせて、寝首でもかかれれば取り返しが付かん」

「その通りじゃ、長四郎は今後とも北條から手放す事は無いの」

「その為ならば、三田の家督を次男が継ぐ事は容認の範囲よ」

「なるほど」

氏康の話に氏照も納得する。

「其処で、次男に三田を継がせる事で、古弾正と弾正の考えでは婿を取って家を継がせるつもりであった弾正の息女笛姫の居場所が無くなるのでな、六郎(氏堯嫡男氏忠1547~)に嫁がせる事に致した。此は古弾正、弾正ともに承知した事だ」

「それに、長四郎の娘が無事育てば、新七郎に嫁がせるつもりじゃ」

「其処まで決まっていますか」

「そうだ、此で長四郎と北條は二重三重の縁で結ばれる事に為る。序でに偏諱へんきを次男には氏を、三男には康を与えて安心させておくことに致した。さすれば長四郎に嫉妬することも無かろうよ」

「長四郎も此処まで頼りにされるとは気の毒と言えますな」

「仕方無い事じゃ、あの資質は埋もれさすには惜しすぎる。九條殿からなどは“自分に娘がいたならば、婿にして九條の家を継がせたい”と文が来た程よ」

氏照も康秀の出来の良さには目を見張っていたために、嫉妬心など起こらずに、義兄として護ってやろうと決心したのである。


永禄元年二月一日


■駿河國 駿府館


今川家では、北條家の内裏造営が好意的に受け止められていた。それは、既に今川義元が先年から将軍義輝を見限り、新たな人物を征夷大将軍に着け、自らは管領として天下に覇を得ようと野望を抱いていたからである。それが故に数年前より将軍御料所の守護不介入を無視しており、近年では先祖伝来続けていた音信も全くしなくなっていたのである。更に上洛の為の道として来年早々に伊勢湾商業圏の奪取を狙い尾張を攻撃をし織田家の覆滅する計画を義元立ては準備を始めていたのである。


第睦拾壱話 時は今 


永禄元年(1558)二月十五日


■京 三條西邸


大内裏にある三條西邸で歌会が開かれていた。参加者は当主三條西実枝、三條西公条さんじょうにし きんえだ九條稙通くじょう たねみち二條晴良にじょう はれよし北條氏堯ほうじょう うじたか(北條氏綱四男)、北条氏政ほうじょう うじまさ(北条氏康次男)、池朝盛いけ とももり(北條幻庵次男)、北條長順ほうじょう ちょうじゅん(北條幻庵三男)、三田康秀みた やすひでであった。

「いやいや、流石は幻庵宗哲げんあん そうてつ殿(北條早雲四男)の御子じゃ、見事なものですな」

北条綱重ほうじょう つなしげ改め、池朝盛朝は岳父西園寺公朝からの偏諱へんき、盛は池家の通字)を三條西実枝さんじょうにし さねえだが、朝盛の歌の見事さに関心して褒め称えている。

「亜相様(実枝が権大納言だったのでその唐名)直々にお褒めの言葉を頂き唯々恐悦至極に存じます」

和気藹々と続く歌会には、当主実枝の父である仍覚じょうかく(三條西公条)も出家していたが参加してきていた。何故なら三條西家は三田家と浅からぬ繋がりが有ったからである。

「ささ、典厩殿の番ですぞ」

歌が上手くないと参加を渋っていた康秀をからかうように氏政が形式撲った顔で歌を求める。康秀としても、幻庵の元で、和歌などを習ってきたので多少の心得はあるが、直ぐに思いつかないので破れかぶれに、有名な歌を先取りする事にした。

「時は今 雪が解けたる 二月哉」

完全に明智光秀の“時は今 雨が下しる 五月哉”のコピーであるが、先に言った者の勝ちであるが、内心では光秀すまんと謝っていた。

「うむ、先ず先ずですが、些か平凡すぎますな」

添削をした実枝からは落第点を貰ってしまったのである。

「ハハハ、知者と言える典厩にも苦手があったか」

稙通が笑うと、皆が笑いはじめた。

「その方が可愛げが有ると申しましょう」

そんな感じで、相変わらず可愛がられている康秀であった。

一通りそれぞれが歌を披露すると、仍覚が康秀に慈愛の顔を持って話しかけた。

「典厩殿(康秀)の曾祖父、弾正忠殿(三田氏宗みた うじむね)と、我が父、逍遥院しょうよういん三條西実隆さんじょうにし さねたかの号)は昵懇の間柄でしてな」

仍覚が康秀の顔に氏宗の姿を重ねたのか懐かしそうに見ながら話を続けていく。

「なんと、父からは曾祖父が上洛したとは聞いておりましたが、意外な御縁がある物でございますね」

「そうよの、弾正殿は、永正七年(1510)禁裏御服御料所の上総畔蒜荘かずさ あびるのしょうを武田三河守(真里谷城主武田信嗣)が横領したときに、先々帝であらしゃった後柏原帝の御為に、それを諫め取り返してくれた、まっこと氏宗殿は坂東でも随一の尊皇家であった」

「曾祖父がそれほどの事を為していましたとは」

「なんじゃ、典厩殿は知らなかったか?」

「はっ、残念な事に、四男と言う手前、幼くして家を出ました故、其処まで詳しくは知りませんでした」

康秀が始めて聞いたと驚いた顔をするので、仍覚は更に懇切丁寧に教えはじめる。

「あれは、明応(1492~1)の中頃で有ったか、父が歌道で昵懇にしていた、駿河嶋田の連歌師宗長を通じて弾正殿と知りったのは」

「それほど昔からでございましたか」

「そうよ、あの頃、都はすっかり興廃してたうえに、各地の所領は横領され我等は日々の糧に困るほどであったが、為す術もない状態で有った。されど本朝に根付いた伝統を消さぬ為に、ある者は下向し、ある者は学も何も無い國人共が己の格付けの為に飾りとして使う事を知りながらも、貴重な文献を切り売りするしか無い中、宗長殿に紹介された弾正殿は全く違った」

仍覚がしみじみと話す。

「あの時、父は宗長そうちょう殿の師、宗祇そうぎ殿より古今伝授を受けてはいたが、それで腹が膨れる訳でもなし、そんな中、宗長殿の仲立ちで弾正殿と音信をはじめたのであるが、坂東に居ながら都の世情にも詳しく、また歌の腕もまこともって見事なものであり、未だ未だ未熟であった麻呂など足元にも及ばぬ程であった」

「そう言えば、家に古き歌集などが大事に保管され、正月には恭しく上座に置かれた事を見た記憶がございます」

「それならば、恐らく道信朝臣歌集であろうな」

「お恥ずかしいながら、道信朝臣歌集とはどの様な歌集でございましょうか?」

「中古三十六歌仙の一人である、藤原ふじわら の道信みちのぶ卿の残した歌集でな、それを麻呂が常徳院じょうとくいん様(第九代将軍足利義尚)の命により書写したもので有り、題箋と奥書は常徳院様、御自ら御筆跡し愛蔵していた物であった」

「その様な貴重な物が我が家にあったとは驚きでございます」

「先ほど申したように弾正殿は、尊皇の志に厚き御仁成れば、自ずと朝廷だけではなく幕府にも知られた存在でな、あれは天文二年(1533)年五月十五日の事であったが、弾正殿が上洛してきてな、朝廷や幕府に献金を行い、将軍義晴公に拝謁した折りに下賜された品なのじゃ」

「何と、それほどまでに曾祖父は譽でありましたでしょう」

「そんな多忙の中、十九日に父に会いに来てくれてな、その際に源氏物語の鑑賞を行い盃を与えて持てなしたのじゃが、その時に道信朝臣歌集を持参し、麻呂に奥書を是非加えて欲しいと頼まれて書いたのじゃよ。その際に土産として弾正は黄金一枚(米二石が買える)を持って来てくれてな。あの当時の父の喜び様は今でも目に浮かぶの」

仍覚の話を聞いた九条稙通が話す。

「その話は麻呂も聞いた事がある、しかし弾正がなし得た事を、曾孫の典厩が再度為すとは何かの縁と言えようぞ」

稙通の言葉に、康秀が慌てて否定する。

「今回の事は、左中将(北条氏康)様の御英断有っての事にございますれば、私の功績など微々たる物」

「なんの、霜台(北条氏堯)も判っておる」

そう振られた氏堯も肯定する。

「左様にございます。典厩の話無ければ今回の事は無かったはずにございます」

「そう言う事よ」

「しかし」

「判っておる。そなたの事は秘中の秘と言いたいのであろう。それならば他にも功績がありすぎて瓦解気味じゃがな」

ニヤニヤしながら笑う稙通に康秀も困惑気味である。

「なんと言っても、現職の将軍に啖呵を切った訳じゃし、あの止瀉薬丸(正○丸)は元より純度の高き酒精、多田神領水、薬酒(養○酒)など上皇様が御健康に成られたのであるからな」

実際の所、康秀が北條家の政治経済に多大な影響を与えていると言う事は秘匿されてはいたが、それ以外の料理、薬学知識などに関しては、既に藤田○ことのTVCMで覚えていた製法で養○酒擬きを作り上げ、後水尾上皇に進呈した結果、病気がちだった上皇の病状が安定し史実と違い未だにご健在である時点で、都の公家衆には知れ渡り、同じ薬酒や止瀉薬を求めてきていたのであるから。

「はあ、些かやり過ぎましたか」

「ハハハハ、大丈夫で有ろう、既に御身には主上様より八瀬童子が遣わされておるのでな」

笑いながら稙通が驚くべき事を言い放つ。

「八瀬童子と言えば、主上の輿を担ぐ役と聞いておりますが?」

歴史的知識から八瀬童子=天皇の大喪の儀で棺桶を担ぐ役と思っていた康秀が不思議そうに尋ねる。

それを聞いた稙通は実はと前置きして説明をはじめる。

「余りこの事は話せぬが、確かにそれも仕事なれど、実はあの者達は皇家の影守りでもある。麻呂のような公卿でも知っている者は少ないがの。主上としては、今回の朝家復興に多大なる功績を上げ、更に疱瘡の予防法まで編み出した典厩である。それを知られればその身を狙う者が多く成ろうとお考えでな。其処で弾正(氏宗)以来の朝家への貢献を鑑み、主上のご判断で八瀬童子をつける事と成った訳じゃ、無論、左中将と風魔には知らせた上でのことだが」

余りの驚きに、驚愕の表情をする康秀達、それを見ながら笑う太閤九條稙通、真に悪趣味である。

稙通の話に参加者達は驚きを隠せない。

「なんと、主上からの格別のご配慮、海よりも深く山よりも高い感謝の念で一杯にございます」

康秀が深々と頭を下げる。

「麻呂に頭を下げてもしたか有るまい、典厩には、柳葉宮様にお話した南蛮人の教義について主上に直伝する事が決まっておる。その際に御礼する事よ」

「太閤様、それは真にございますか?」

再度の発言に流石の康秀も恐れ多くなる。何と言っても現代人の前世を持つのであるから、天皇に拝謁するなどよほどの有名人が園遊会で会うぐらいで、自分程度が会って良いのかと思ったからである。

「真も真じゃ、馬揃えの後、偶然にも御所で主上とお会いすると言う筋書きじゃ」

「何とも、恐れ多い事にございます」

「典厩任せよ。麻呂も一緒じゃ」

その後に何度となく付き合い続ける事と成る稙通と康秀であったが、この時ほど康秀は稙通を頼もしいと思った事は無かった。他の時は大概大変な事に巻き込むので、そのうちに“あのジジイ”と呼ぶようになったとか。

この後、影仕えである八瀬童子の巖笑坊と勿来の兄妹に会い、親しく話しかけて恐縮されたりしたのである。


永禄元年三月二日


■京 上京 新町通今出川下 狩野図子


久々に来た狩野家は相変わらずの賑わいであった。

「元信殿、お久しぶりでございます」

「典厩殿か、今月には小田原へお帰りとか、寂しくなりますな」

「何から何まで、元信殿にはお世話になり申した」

「なんの、儂の余生の楽しみを与えてくれたのですからな」

和気藹々と話す、二人であるが、その年の差は七十歳近かった。

なぜ此ほどまでに親しいのか、それは都へ来たその月に、康秀は絵師狩野家へ挨拶に来たことから始まっていた。

その日、主の狩野元信かのう もとのぶは康秀が尋ねて来たにもかかわらず、見向きもしないで、机の間から足を投げ出して絵を描き続けていた。余りの無礼な態度にお付きで来た、加治兵庫介秀成かじひょうごのすけひでなりが“無礼な”と小声で言い始めるが、康秀がやんわりと諭す。

「兵庫よいか、我等武士と同じく、狩野殿にも絵師としての矜持が有られる、しかも狩野殿は今まさに絵に命を吹き込んでいるのだ。それを我等の勝手で断ち切るは、傲慢と言えようぞ」

それを聞いた兵庫介は恥ずかしそうに謝った。

その言葉を聞いてか聞かずか、筆を置いた元信が、八十二歳には見えない鋭い眼光で康秀に目を合わせた。それが仕事を終えた合図だと悟った康秀が丁寧に挨拶をする。

「狩野元信殿とお見受け致します。お忙しい所お邪魔致して誠に申し訳ございません。拙者は、相模小田原の北條左京大夫が臣、三田長四郎康秀と申します」

その挨拶を聞いて元信も投げ出していた足を正座し佇まいを正して返答する。

「狩野元信と申します。三田殿が私のような一介の絵師に何の御用でしょうかな?」

「はい、是非とも狩野殿の御手をお借りし、洛中洛外の神社仏閣の正確な絵を残して起きたいのでございます」

康秀の提案を不思議がる元信。

「三田殿、それは如何なる仕儀にございますか?」

「はい、今の世は乱世にございますれば、神社仏閣とていつ何時兵火に焼かれるかも判りません。それはこの日の本の損失と成りましょう」

「確かにそうですが、それと私に何の関係が有るのでしょうか?」

「はい、幾ら用心しても兵火にかかる事を止める事が出来ないでしょう、その為に狩野殿のお力で、畿内各地の宝を絵に残して頂きたいのです」

康秀の話に驚く元信、今までその様な事を言う武将が居なかったのである。自分に絵を頼むのは自らの権威の象徴として飾る為であったからである。その為にこの、突拍子も無い事を言う若者を試してみたくなった。

「三田殿は、その絵を集めて如何するおつもりですか?」

元信に質問された康秀は、考える事もなく直ぐに答えた。

「絵を集めた後は、再建する御所に土蔵を造り、其処に保管し、何れ平和な世が来た際に再建の資料として使います」

此には、元信も驚き、康秀が心からそう言っていると感じたため、協力する事としたのである。それから約一年にわたり、狩野派の絵師達は畿内各地に向かい、貴重な建造物を次々に描いていったのである。

因みにこの時から狩野派が朝廷御用絵師として活躍を続けたために、都へ上洛した有る覇者は自らの居城の絵画を描かせる際に、天皇に頭を下げるはめに成った。


第睦拾貳話 京都御馬揃え


永禄元年三月五日


■山城國 京


平安の昔から都として栄えてきた京も応仁の乱以来の各戦乱で焼け続けてきたが、北條家による内裏再建の余波により多くの職人や労働者が集まり賑わいを取り戻しつつあった。

そんな内裏の西側、平安の昔には内裏の敷地であったが、今回の再建では敷地に含まれる事が無く麦畑しか無かった土地が整地され立派な馬場が造営されていた。馬場は東西一町(100m)南北五町(500m)であり内裏側である東側に桟敷席などが設けられ、帝や上皇を筆頭に公家衆が見物をし、西側は、平坦に整地され、其処に町衆が大勢集まり見物をしている。

時間が来ると竹ではなく本当の火薬を使った爆竹が次々に爆発し威勢を上げ、その煙が消えると共に、思い思いの仮装をした騎乗の者達と雑賀、根来衆などが現れ、順次馬場に入って行く。ある者は山法師の格好を、ある者は南蛮人の格好を、またある者は芸人の格好をしながら馬を巧みに操り、雑賀衆は見事な鉄炮射撃を見せながら、帝や上皇や公家衆の桟敷席前を練り歩く。さらには畿内各地より集まった大道芸人が、それぞれの得意な芸を披露する。

康秀も参加していたが、悪のり過ぎてまるであの有名なアルプス越え時のナポレオンの様な特注の真っ青な衣装と真っ赤なマントで現れ、馬場で異様に目立ちまくっていた。

帝も上皇も公家衆も女房衆もヤンヤヤンヤとその姿を見て楽しみ笑う。

その中には、本願寺第十一世顯如、延暦寺第百六十五世天台座主 応胤入道親王おういんにゅうどうしんのう、興福寺別当覚慶、興福寺多門院英俊こうふくじたもんいん えいしゅんなどの僧侶も居た。

そして集まった町衆も大賑わいで笑い続ける。しかも都だけでなく、畿内各地からも見物人が集まっていた。

今回の御馬揃えは、恭仁親王の征東大将軍任官と共に、内裏復興と洛中の再建を記念して、大いなる祭りを行うと内外に大きく伝えられた結果、多くの人々が集まってきたのである。

また、祭りの期間中は商売には一切の税がかからないと、発布されたため、それを見越して伏見や堺の商人達も集まり商売を始める。さらには、北條家自体も屋台を出して康秀監修の屋台料理を出し賑わっている。

「いらはいいらはい、明石でとれたタコを使ったたこ焼きだよ!」

「こっちは、相模名物の熱々のほうとうだよ」

「相模名物、蒲鉾と佃煮だよ」

「大判焼きは如何かね」

「梅酒はいかがかね」

「焼酎の果実割りも有るよ」

「多田院の霊験あらたかな神領水は如何かな」

そう言う、店主と洒落た南蛮給仕服(メイド服)を着て給仕する見目麗しい女性達。

「焼きうどんおいしいよ」

「ネギ鴨焼きはどうだね、タレが美味しいよ」

「天麩羅蕎麦も美味しいよ」

捻り鉢巻きに、ステテコ腹巻きと言うテキ屋姿の若衆達。

そんな売り子達の元気な声と、旨そうな匂いにつられて、町衆が屋台に並び、恐る恐る未知の食べ物を食べる。おっかなびっくりな顔が、すぐに笑顔になり“旨い旨い”と言って食べ続ける。それを聞いた他の町衆などが我も我もと求めて食べ始める。

皆が皆、未知の味に舌鼓を打ちながら、馬場で行われる各種見せ物を楽しみまくる。

気さくな公家衆は町衆と共に料理を摘みながらヤンヤヤンヤの喝采をあげている。特に山科言継などの人気のある公家は、新種の酒を全て飲み干す様な意気込みで、飲兵衛連中と杯を重ね続けている。

宴は三日間にわたって行われたが、この時ばかりは、帝から河原者に至るまで皆が笑い楽しみ大いに食べまくった。

今回は何と言っても目出度い祭りと言う事で、北條側の屋台だけでなく商人が出している屋台も飲食代は全て只であり全てが帝の思し召しとして下賜されたと発表された。まあ実際には全ての費用は北條側が出していたのであるが、北條家は裏方に徹して、あくまで朝廷が主であるとしていたのである。

三日間に及ぶ祭りで、多くの民が朧気ながら抱いていた都の支配者は幕府という感覚から、帝こそ都の支配者に相応しいとの思いが浮かび、いやが上にも帝の権威が益し、畿内各地の者達に帝の御威光を知らしめる事に成った。





成功の影には康秀の並々ならぬ苦労が有った事だけは確かで有るが。

事は、一月にさかのぼる。

「やはり、公方は和睦に応じませんか」

「そやな、向こうも意地が有るにゃろうな」

九條屋敷で、氏堯と稙通が真剣な顔をして相談していた。

「さすれば、肝心の公方が居ないのでは、御馬揃は公方に対する威圧である以上、無駄に成るかも知れません」

「それなんやが、霜台(弾正少弼の唐名で氏堯の事)はんに良い考えはあらへんか?」

そう言われて、はたと考え始める氏堯であるが、よい考えが浮かばない。

「太閤様、お恥ずかしいながら、よき考えが浮かびませぬ」

北條側としてみれば、何かと反北條の動きをする近衞前嗣や越後の長尾景虎に肩入れする公方を威圧する関係で、朝廷側としてみれば、応仁の乱以来まともに朝廷守護が出来ずに、将軍家、管領家などの内輪もめで徒に戦乱を長引かせる公方に対する威圧をと両者の利害が一致しての馬揃えで有り。既に馬場の造成も終わっているにも関わらず、肝心の公方が帰洛しないのであるから両者共に頭の痛い問題であった。

暫く目を瞑って考えていた稙通が、ポンと手を叩いた。

「うむー、そや、典厩なら、なんぞやおもろい考えをしてくれるんやないか?」

氏堯は、稙通の指摘に確かにと思った為に肯定する。

「確かに、長四郎であれば、なにか突拍子も無いことを考えつくやも知れません」

こうして康秀が急遽呼び出された。

「お呼びと聞きましたが」

康秀も一応礼儀を持って挨拶する。

「忙しいところすまぬ」

「いえ」

「早速だが、そなたも知っておるが、馬揃えに公方の参加が無くなった」

「そこでや、典厩になんぞ公方が居ないでも馬揃えが派手に成る考えはないかの?」

氏堯と稙通にそう言われた康秀ははたと考える。

暫くして考えが浮かび答える。

「ならば、馬揃えは公方の帰洛祝いではなく、恭仁親王様の征東大将軍の任官式とすれば如何かと」

それを聞いた二人が首を横に振る。

「麻呂達もそれを考えたが、それだけでは些か盛り上がりに欠けるとおもうのじゃよ」

そう言われて再度考え始める康秀、暫しの時間が経ち、ポンと手を叩いて目を開けた。

「なんぞ、思案が浮かんだか?」

「それならいっその事、全てひっくるめて、お祭りにして騒いでしまいましょう」

康秀の言葉を理解できずに二人は目を合わせて首をかしげる。

「長四郎、それは如何なる事だ?」

「最早、馬揃え自体を止めるわけには行きません。止めたら幕府の勝ちになりますから」

「そうやな、主上の名に傷が付くわ」

「その辺が、幕府側の思惑なのかもしれんな」

実際の所は只単に、将軍義輝が三好と北條が気に喰わないと言うだけであったが、そんな事は流石の稙通、氏堯、康秀でも判るわけがなかった。

「その辺りを考えれば、幕府の思惑を外してやれば良いだけと成ります」

「それが、祭りと言う事か?」

「祭りで何とかなるんかいな?」

怪訝な顔をする二人。

「祭りと言っても、規模をあり得ないほどにし、更に内外に大きく伝えて、各地からの見物人を迎え入れます。その上で、河原者達や流れの芸人達も呼び寄せ、馬揃えだけでない賑やかさを演出します。そして、大量の屋台を出し、食の祭典をも併設します」

聞いている二人は食の祭典の意味が判らないようである。

「長四郎、食の祭典とはなんだ?」

「職の祭典かの?」

「いえ、屋台と言う簡易店舗で御当地の食材や名物を使ったり、各地の名産品を調理して奉りに来た人々に食して貰う事を言うのです」

「ふむ、そんな事で、賑わいがでるんかいな?」

「まあ、確かに太閤様の御懸念のように、それだけでは余り盛り上がらないかも知れません」

「ではどうする?」

「まず今回の馬揃えは、主上の天覧になる訳ですから、公家衆の他にも五山の高僧や奈良や石山は元より高野山、叡山その他からも多くの方々に内裏復興と洛中の再建記念として招待を行います」

「まあ、それぐらいなら麻呂が口をきく事も出来るの」

「更に、我々が出す屋台以外に堺や伏見の商人も使って屋台を出させます」

「うむ、しかし何ら関係無い気がするが」

「その点も考慮しています」

「それなら良いが」

「その上で、全ての屋台の食事は無料に致します」

「無料とは、此はまた斬新な」

「只にしてなんぞ得があるんかいな?」

「無料と聞けば、民は多数集まるでしょう」

「確かにそうやな」

「民が沢山集まる事で、主上の行っている事が多くの者に知れ渡ります。人の口を遮る物は有りませんし、噂が流れる速度は恐ろしい物ですから」

「確かに」

「そして、今回の馬揃えは内裏復興と洛中の再建を記念しての事と知れ渡るわけです。そうなれば将軍の思惑など吹っ飛んでしまいます」

「確かにそうだが」

「只にするんのはどないわけや?」

二人の疑念を晴らすように康秀がニヤリとして話す。

「つまりは、今回の馬揃え祭りは朝廷により全ての食事が振る舞われた、ひいて言えば主上の御身心により全ての者へ下賜されたと言う訳になり、主上と上皇様の民を思う御心が益々知れ渡る訳です。まあ尤も資金等は北條うちが出しますが、宜しいですよね?」

そう言いながら康秀は氏堯を見る。

氏堯は苦笑いながら肯定する。

「あい判った。主上の為ならば、幾らでも出して見せようぞ」

氏堯が芝居じみた言い回しをすると、稙通もノリノリで答える。

「天晴れじゃ霜台、さぞ主上も御喜びに成られよう」

芝居が終わると康秀が更に追加をする。

「此は三好殿との話し合いが必要なのですが、祭りの期間中だけでも、商売に関しては無税としてやる事も必要です」

今度は先ほどからの話で合点がいった二人は頷く。

「成るほど、主上の御威光を知らしめる訳か」

「そうなりますし、自分の予測では三好殿は近いうちに公方と和睦し山城を明け渡すのでは無いかと思うのですよ」

「うむー、その様な動きがあるのか?」

「麻呂もその様な事を聞いた事がないが?」

「あくまで、推論ですが、三好殿(長慶)はとみに最近気弱になりつつ有るそうです。何故ならあれほど刺客などを送ってきた公方を廃する事すらしないのですから。今までの者達であれば、さっさと対抗の者を担ぎ上げて公方の交代をしていたでしょう。ましてや三好殿には阿波に足利義冬あしかが よしふゆ義維よしつな十一代将軍義澄の子で十二代将軍義晴の兄弟)と子である義親よしちか義栄よしひで)等が居るのもかかわらずにです」

「成るほど」

「恐らく、公方と和睦する事は時間の問題かと思うわけです」

「うむー、其処で布石を打つと」

「そうです。都で既に地自銭の廃止が決まり、その後に一時的にせよ商いに無税と来れば、その後に公方が地自銭の復活や運上金の取り立てをすれば」

「自ずと、公方の権威が落ちるという訳か」

「やって見ないと、結果はわかりませんけどね」

「そやけど、やらないよりはマシと言う訳やな」

「そうなります」

この後、三好への根回しは稙通が行い。それ以外の手回しは北條側が康秀が主として行った。その為康秀は、この日から二月下旬まで八面六臂の働きをする事になった。

焼きうどん用の鉄板、タコ焼き、大判焼きの焼型、コテなどを前世知識総動員で形を播磨から移動してきた鋳物師や仕事が一段落した鍛冶屋清兵衛や加藤正左衛門清忠にも頼んで色々な品を製作し、工兵隊の炊事兵に色々な料理を指導していった。

その中で、飯場で給仕を担当していた旭や清忠夫人伊都、岡部又右衛門以言の妻田鶴、娘の凜なども新しい料理に興味津々で参加していた。

その後に、凜などは南蛮給仕服メイドで歩く姿が見られるように成ったが、対照的に旭は天麩羅やうどんなどの調理に並々ならぬ情熱を傾けていた、曰く“おらは凜ちゃんのように可愛くないだから料理さするだよ”と話していたのが印象的であった。

この辺は康秀の悪のりで有ったが、その後に堺などでも南蛮給仕服を着て料理を振る舞う店が出来たそうである。商人は目聡く真似するものである。


第睦拾参話 参内


永禄元年三月八日


■京 内裏


盛況の中で御馬揃えが終わり、ホッとしたのもつかの間、翌八日早朝には氏堯、氏政、康秀は九條稙通に先導され内裏の紫宸殿へと向かっていた。本来武家が帝から謁見を賜る際には小御所の庭で対応される事が殆どであったにも係わらず正殿と言える紫宸殿での謁見を賜る事と成ったのは、太閤九條稙通の尽力よりも、帝や上皇の感謝の気持ちが有ったようである。

「それにしても、食の祭典とは旨く行ったものや」

回廊を通りながら、稙通が康秀の行った御馬揃えを思い出しながら話しかける。

それを聞いた康秀が答える。

「大昔の大秦ローマの知者が言った言葉が有ります」

いきなり大秦と言われて稙通が不思議がる。

「それはなんぞじゃ?」

「民衆にパンとサーカスを」

「それは?」

「パンとは大秦や南蛮人などが食している小麦粉を練って焼いた物で、我等の飯の様な物です。そしてサーカスとは、色々な見せ物行う集団です。つまり、民に腹一杯喰わせ、明日への不安を無くし、笑いを与え続ければ、不満を言う民は殆ど居ないと言う事です」

康秀の説明に、氏堯も稙通も考え込んでしまった。

「確かに、あれで主上の名声は公方と比べて大いに上がったの」

「そう言う事です。単なる馬揃えでは、応仁以来散々酷い目に有ってきた京雀達から“野蛮な物よ”と侮蔑されるだけでしょうから、あの様に人の考え着かない事を行おうと考えたのです」

そういう風に説明していたが、実際の所は単にB-1グ○ンプリとお台場○険王を参考にしただけなんだがと康秀は思っていたが、あの様な、B-1○ランプリ、フリーマーケット、パフォーマンスの複合はこの時代では画期的な考えであった。



後に、足利十五代将軍を奉じて京都を制圧した織田信長が二度にわたり御馬揃えを行うが、京雀には征東大将軍恭仁親王の二番煎じと嘲られたうえに、規模自体は大きな物で有ったが行われたのは只単に軍事パレードであり、嘗て行われたような催し物も全くなく、親王行った大盤振る舞いの御馬揃えを期待していた者達からは“所詮織田は大した事が無い田舎大名よ”と笑われるはめになる。



稙通案内で紫宸殿に昇殿した氏堯、氏政、康秀は緊張の趣で帝のお成りを待つ。

帝のお成りを左大臣西園寺公朝が伝えると、三人は平伏する。

御簾の向こうに帝が座ると、面を上げるようにと公朝が命ずる。

続いて右大臣花山院家輔が三人の名を告げる。

主上おかみ、平弾正少弼(北條氏堯)、平左京大夫(北条氏政)、平右馬権頭(三田康秀)でごじゃります」

御簾の向こうでは家輔の言葉に頷く帝の姿が見える。

此処で帝が何やら命じると御簾が上がり直接帝が姿を現した。

再度平伏する三人に帝が声を直接かける。

「霜台(氏堯)、京兆尹(氏政)、典厩(康秀)内裏の事馬揃えの事、見事な差配であった」

それだけであるが、帝の意志の強い声に三人とも大いに感動し更に平伏をし続けた。

その後、参内は出来ないが内裏再建の立役者である北條氏康と三人に、帝から、天盃てんぱい(御酒)と御剣ぎょけんが下賜された。氏康には、備前國びぜんのくに包平かねひらの太刀が、氏堯には粟田口あわたぐち藤四郎とうしろう吉光よしみつの短刀が、氏政に三條弥太郎さんじょう やたろう守家もりいえの太刀が、康秀には無銘ながら見事な鎗が。

下賜された太刀、短刀、鎗を見て康秀は焦っていた。“藤四郎吉光って言えば、本来の歴史であれば、永禄三年に上洛する長尾景虎が下賜される物じゃなか、それに此って日本号じゃないか、黒田節の主役じゃねーか、それにこの包平って大包平じゃないか”と。

確かに長さが二尺六寸一分五厘(79.2cm)であり、ずっしり重く、樋に優美な倶梨伽羅龍の浮彫があり、熊毛製の毛鞘に総黒漆塗の柄である。しかも“三位の位まで頂戴している鎗だ”と稙通から聞いたのであるから間違いないと。

氏康が下賜されたのは、康秀の推測通り“大包平”であった。本来ならこの後巡り巡って池田輝政が手に入れるはずが、北條家による朝廷への献金で資金が増えた蔵人山科言継が下賜用に京の刀商人から買い求めて居た物で有る。

因みに氏政の守家は永正十四年(1517)に伊達稙宗だて たねむねが左京大夫に任じられた時の礼に当時の値段で四十六.九貫文(469万円)で購入し献上した品であったから使い回しと言えば言え無くもなかったが、そんな事は康秀達には判らない事である。


■京 九條邸


こうして帝への拝謁を終えたホッとした康秀達は、稙通に誘われて檜の香りも艶やかな九條邸へと向かった。其処で茶など飲みながら世間話をし始めた。

「主上も御喜びで良かった事よ」

稙通がにこやかに話し、三人が頷く。

暫くすると、稙通が康秀の行った二万貫(20億円)にも及ぶと言われた馬揃えの資金を魔法のように揃えた事を未だに信じられないとばかりに質問してくる。

「しかし、あれほど行って二万貫で済むとは驚きよ」

「元々、あの地(内野と呼ばれていた荒れ地)は手が入っておりませんでしたから、用地を買う必要はございませんでしたし、造営は連れてきた四千の工兵で事足りました」

「馬場はそうじゃが、あの料理の材料とて集めるのが大変であったろうに」

「あれは、主に小麦や蕎麦などを使っておりますから、米の様に高くありませんので」(この時代麦や蕎麦は雑穀扱いで米より大分安かった)

「それに運ぶにしても関所が多くて大変であったはずじゃ」

(この時代、皆が勝手に関所を作り通行料金を取っていたので物価が上がっていた)

「その辺は、堺より内裏造営の資材と共に運びましたので、全く手が出せませんから」

「なるほどの、それぐらいは禁裏も目くじらなぞ立てぬからの」

「と言う事です」

康秀がクスリと笑いながら答える。

「それでも、あれほどの資金をホイホイと生み出すとは」

「その辺も、色々と珍しい物を売りましたから」

そう言う康秀に、皆が頷く。

「しかし、唐物であれば判るが、あの様なガラクタが高値で買われるとは驚きじゃ」

実は御馬揃えの前、康秀が九條家を筆頭に各公家の不要な陶器を集めていたのであるが、大半の品は何処で作られたか判らない古めかしいガラクタに過ぎなかった。

「世の中には、古い物は珍しいと感じる方々もおりまして“この壺は呂宋の壺だ”と申せば百貫出しても欲しがり、“北宋の壺だ”と申せば千貫だしても手に入れようとする輩が多ございます。それと同じで、“此はさる公卿秘蔵の品で有ったが、やむを得ず手放した”と噂を囁けば欲しがる事欲しがる事」

康秀がニヤリと笑いながらそう話す。

「つまりは、連中を騙した訳か?」

氏堯が感心せんなと言う顔をする。

「騙したわけではございません。誰もそれらが百貫するとは申しておりません。品々は確かに公卿屋敷から出た物には違い有りませんし、確かに年代物でございますから、尤も余りに見窄らして恥ずかしくて外に出せなかった物であれば、秘蔵の品と言えましょう」

康秀のねじ曲がった答えに氏堯も渋い顔をするが、稙通は大笑いしはじめた。

「ホホホホ、流石は典厩じゃ、確かに家に隠しておいた物ならば、考え様によっては秘蔵の品よ、確かに嘘は申しておらぬし、買い手が勝手にそう思っただけじゃ、真に見事な頓智よ。霜台(氏堯)そなたの負けじゃ」

「はぁ……」

氏堯も仕方が無いかと溜息をついた。

「それに、綱重殿の持ち帰った高麗物で主上や太閤様達に献上した確りした由来の物以外は、與四郎や宗及に譲って万金を得ましたから、他にも内裏の濠を作った際に出た陶土を瓦職人のひよっこに手ごねで作らした茶碗に賀茂川の黒石を砕いた釉薬を塗っては乾かしを十数回続け、瓦用の登り窯で釉薬が解けた瞬間を狙って取り出した焼き物も、與四郎が唸りながら製造させて欲しいと言ってきましたから、その辺の指導料も貰いましたし」

「王道楽土から楽焼きと名付けたわけじゃな」

「そうです。黒い楽焼きで黒樂茶碗です。まあどうせ都から帰るのですから、欲しいと言うなら譲のも一つの手ですから」

「確かにそうじゃな」

「西國土産のあの青磁の高麗茶碗は松永殿がホクホク顔で五百貫出して買い求めておりましたから」

康秀が人の悪い笑みを再度出す。

「うむ、あれほどの品を求めるとは松永とはかなりの数寄者よの」

「あの東山御物(足利義政が集めた名品)である九十九髪茄子の茶入れを千貫で買い求める程ですから、尤も実休殿(三好義賢)からは、“名物ばかりに目が行って、真の茶の湯を理解していない”と言われている様ですけどね」

「形から入るのも一つの道と言えようぞ」

「長四郎、不思議に思うんだが、あんな茶碗に五百貫もの価値があるのか?」

氏政が、散々聞きたかった疑問を言う。

「ああ、見る人が見れば五千貫かもしれないし一文の価値も無いかも知れないけどね。尤もあれは朝鮮の一杯飯茶碗なんだよね。所謂庶民が使う雑器が流れ流れて甑島で使われていた訳」

康秀の答えに氏政だけでなく稙通も氏堯も唖然としてしまった。

「めめめめ飯茶碗に五百貫も払ったのか?」

驚く氏政に康秀がさも当然という感じで頷く。

「そう言う事、松永殿のは五百貫の価値有りと思えたんだろうね。決して此方が騙したわけではないから安心さ。だって東山御物は元より、この世で名品と言われている物の中には、うがい茶碗、筆洗、薬用人参の湯飲み、油壺とか、向こうでは雑器や出来損ないがかなり有るんだよ。

今回は大文字屋の疋田宗観と此方の高麗茶碗とで等価交換した天下三肩衝の初花だって有名な楊貴妃が使った香油壺と言われているけど、実際は南宋時代の作だし、呂宋の壺と言われている松嶋だって、実際は唐物の単なる壺だしね」

その話に、グファーと崩れ落ちる氏政であった。

その姿を見ながら“ホホホホ”と稙通は腹を抱えて大笑いしはじめ、氏堯はなんと言えぬなと言う感じで苦笑いし、康秀は“ゲラゲラ”笑いながら氏政の背中をバンバン叩いていた。

“長四郎、お前の知識は何なんだよ”

そう氏政は心の中で叫んでいた。



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