露天の質屋
『露天の質屋』
「それで、そっちの生活はどんな感じよ?」
街の雑踏の中、携帯電話から聞えてくる声に、俺は長い溜息を吐く。
「だいぶ慣れちゃきたが、やっぱ一人暮らしはしんどいよ。金もすぐ無くなるしな」
久しぶりに聞く友人の声に、素直な言葉を吐き出す。
「最近は貯金も使いきったからなぁ……。来月の家賃どうするか」
数年前までは、初めての一人暮らしに胸を躍らせていたのが嘘のようだ。
「お前は昔から無駄遣いが多いんだよ」
高校まで同じ学校にいた友人が、痛いところを付いていく。
「学生の頃だってバイトしてはやれバイクだ、やれお洒落だって金つぎ込んでたじゃねぇか」
「しょうがねぇだろ。あるときに使わなきゃもったいねぇとか思っちまうんだから」
友人からの言葉に、空しいだけの自己弁護を述べる。
「その時一気に使うほうがもったいねぇだろ……」
正論で返された。その通り過ぎて言葉が出ない。
「一人暮らしをしても、性格は変わらないか」
脳内で腐れ縁のにやけ顔が、鮮明に再生された。
「これでも、昔よりはマシになったと思うんだけどな」
高校時代の俺は、自分で言うのもなんだが、落ち着かない人物だった。
際立って不良というわけでもなく、成績も平均点を維持できていればそれでいいと思っていた。
過去の自分の自己評価は、結局『なんでもない奴』というところに落ち着く。
「確かに、お前から貯金なんて言葉が聞けるとはな」
何気にひどいことを言っているこいつは、小学校から高校までずっとつるんでいた友人だ。
小さい頃から一緒にいるが、フラフラしている俺とは違い、超が付くほど勤勉な奴だ。
正直、何故俺と友人になったのか今となっては思い出せない。
「金が無いなら働けよ。せっかく都会にいるんだからよ」
優等生の発言を受け、俺はまた溜息を吐く。
「簡単に言うなよ。そりゃお前は地元でも良い大学出て将来安泰だろうけど、こちとら高卒だぞ」
こいつは高校卒業してすぐに、地元どころか全国でも五本の指に入るだろう大学に入り、好成績で卒業。
今では、大手企業で将来を期待されていると聞いた。
大手どころか、小さな会社を転々としている俺には想像もできない人生を送っている。
「自分で決めたことだろ。誰かに文句を言えることじゃないだろ」
でも、とそこで言葉を区切り、先ほどとは違う優しげな笑い声を漏らした。
「お前みたいに自分の人生を決められるのは、素直に羨ましいと思うよ。親に縛られてる俺から見ればな」
俺も友人の事情は知っている。
両親が公務員をしているためか、とにかく良い職に付く事を子供の頃から強制されていた。
普通ならプレッシャーで反動がきそうなものだが、人一倍責任感が強い事と一人っ子という事もあり、結果今の安定を勝ち取ったのだ。
元々そういった才覚があったのだろうが、傍から見ていると本人の努力が大きいのだと思う。
そんな友人の本音に、俺も思わず笑みを浮かべる。
「あぁ、金のことは何とかするさ」
自然と柔らかい声が出た。
貧しいと心まで貧しくなるというが、それは周りの環境しだいなのだろう。
「へぇ~、何だ、アテがあるのか?」
友人が感心したような声を出す。
俺だって、いつまでも人に心配されるだけではないところを見せなければ。
「こっちに来て使わなくなったバイクの部品やら家財道具があるからな。適当に売れば金になるさ」
俺の自信満々の声を聞き、今度は友人が盛大な溜息を吐いた。
なんだか溜息の多い会話だ。
「お前なぁ……。どこら辺がマシになったんだ?」
俺のアイディアは、優等生には響かなかったようだ。
「これも生活の知恵だよ。そういえば、近々こっちに来るんだよな?」
あくまでも持論で押し切り、話題を変える。
「あぁ。って言っても仕事の用事だけどな」
「嫌味くさいな……」
悪態が口をつく。まったく、しっかりした友人だ。
「しばらくこっちに居るんだろ?久しぶりに呑もうぜ!」
「奢らないぞ」
即答された。しっかりしすぎだ……。
「別に期待してねぇよ。その頃には金作っとく」
収入に雲泥の差があるとしても、さすがに呑み代まで世話になるわけにもいかない。
「まともに働けよ」
「わかってるよ。心配してくれてどうもな」
こんな自分にでも、気にかけてくれる友人が居る事に感謝の言葉が出る。
「ははっ。まぁ、適当にがんばれ」
「おう。じゃ、またな」
友人の励ましを受け、俺は通話を切る。
気が付くと、大きな駅の前まで来ていた。
特に用事も無く街中を歩いていたときに、友人からの電話が来たため、無意識によく通る駅前まで来てしまったのだろう。
せっかく来たんだし、何か酒でも見て帰ろうかと思っていると、視界の端に座り込んでいる男を捉えた。
ブルーシートを地面に敷き、小さな椅子に中年の男が俯いたようにして居座っている。
俺は、気付きと疑問を同時に持った。
気付いた事は、どうやらこの男は露天商だということ。
この辺りは人通りも多く、全国を回っている露天商が店を広げる事が多い。
この中年の男も、そういった商人の一人なのだろう。
そして、疑問。
男の前に広げられたブルーシートの上には、何一つ商品らしいものが置かれていない。
ある物といえば、自分で作ったであろう小さな立て看板が一つ。
看板に書いてある文字は
「『あなたの思い出、買い取ります』?」
意味がわからず、声に出して読んでしまった。
周囲の人間は、立ち止まりもせず通り過ぎていく。
「あの、すみません」
どうしても気になってしまい、店主と思われる俯いた姿勢の男に声を掛ける。
俺の存在に気付き、ゆっくりとした動きで店主が顔を上げる。
「あぁ、いらっしゃい」
気だるく眠そうな声で、店主が挨拶を返してきた。
「えっと、これはどういう商売なんです?露天なのに何も品物置いていないじゃないですか」
「どういうって」
俺の疑問に、店主は不思議そうな顔をする。視線を小さな看板に向けた。
「看板のとおり、私は質屋ですよ」
「質屋?露天なのに?」
理解できていない俺の顔を見ると、店主は顔面に笑みを貼り付けた。
「露天だからこその利点もあります。何せ、売っていただくものが思い出ですから」
鑑定士、のような類だろうか。だからといって露天でする意味がわからないのだが。
「わからないな。そもそも思い出なんでどうやって売れば……」
「簡単ですよ」
店主は、さも当然のことを説明するような口調になる。
「思い出の品を売って頂ければいいんです」
なるほど。これで合点がいった。
思い出の品であれば、常に持ち歩いている人間も多いだろう。
特に意味も無く、ただの習慣で持ち歩いている物であれば、金に換えようと思うかもしれない。
なかなか良くできた商売だと、俺は感心する。
しかし、何も品を置いていないところを見ると、あまり儲かってはいないようだ。
「思い出の品、ですか……。それは何でもいいんですか?」
俺は興味のままに、店主との会話を続ける。
「えぇ。ただし、思い出が詰まっていれば。ですが」
店主の顔が、商売人の表情になってきた。俺を良い客だと思ったのだろう。
「そうですか。例えば、バイクの部品なんかでも?」
先ほどの友人との会話を思い出す。
俺の手持ちで思い出の品といったら、それくらいしかない。
「思い出が詰まっていれば、ね。」
店主がゆるく微笑む。
「今日はずっとここに居ますか?売りたい物があるのですが」
さすがにバイクの部品は持ち歩けるような物ではないため、アパートに置いてある。
これから取りに向かえば、そんなに時間はかからないが、念のために聞いておく。
「お客様のご要望であれば、今日はここに居ましょう」
良かった。善は急げだ。
「じゃあ、今から取ってきますね!」
店主に伝えると、俺はすぐ自室のあるアパートに向かって歩き出した。
数十分後。
俺の前には、金属の部品を見つめる店主がいる。
あれからアパートの自室に到着し、実家のバイクから取り外してきた部品を押入れから引っ張り出した俺は、少しでも見栄えを良くしようと汚れや錆を取り除く作業をしていた。
学生時代を思い出しながら磨いていたため、予想以上に時間を食ってしまった。
急いで駅前に向かうと、約束どおり例の露天商はその場で営業していた。
相変わらずブルーシートに何も置かれていないので、俺を待っていてくれたのだろう。
「お待たせしました。これが俺の思い出の品です」
大き目の紙袋に入れた金属類を店主に渡し、それから今までの間、時間にすると15分近く、店主は部品を眺めている。
何か専用の鑑定具を使うのかと想像していたが、特に道具を使う様子も無く、ただただ金属類に熱い視線を送っている。
俺はだんだん不安になってきた。
今店主が鑑定している部品は、高校時代にバイト代をつぎ込んで購入したマフラーやライトだ。
といっても、所詮高校生でも買える代物なので、高価な物ではない。
専門店に持って行けば、鼻で笑われるであろうガラクタだ。
「そんなに見つめなくても。そもそも高値が付くような物なので、買取が無理なら無理でいいですよ」
期待しすぎたと思った俺は、投げやりになってきた。
こうなると、何か別の方法で金策を練らなければならない。
何も一文無しというわけではない。
パチンコかギャンブルで粘れば、何とかなるだろうと考えていると、店主が顔を上げた。
「10万、で、どうでしょう」
「………………は?」
救いの声を、俺はすぐに理解できなかった。
店主は部品に向けていた熱い視線のまま、俺を見上げていた。
「あなたの大切な青春だ。10万円で譲っていただけませんか?」
「ちょっ、ちょっと待ってくださいよ!10万って、こんなガラクタに……」
テンパる俺に、店主はなおも熱い視線で語る。
「私が見ているのは部品じゃない。部品にこめられた思い出です」
言いつつ、店主は緩やかな笑みに表情を変換する。
「部品の価値はわかりませんが、あなたの思い出の価値なら良くわかる。あなたの青春、10万円で譲っていただけませんか?」
再度放たれた店主の言葉に、俺は流されるしかなかった。
「まぁ、あんたが良いならそれで良いけど……」
思わず、口調も雑になる。
自分に都合がいいのに、煮え切らないという妙な感覚に捕らわれている俺を無視して、店主は背後に置いていた鞄を取り出す。
「交渉成立」
店主は笑顔で言うと、鞄から出した茶封筒を差し出してきた。
戸惑いの表情を浮かべながら茶封筒を受け取り、中身を確認する。
「マジかよ……」
予想はしていたが、茶封筒の中身は一万円札がきっちり十枚入っていた。
「こんな大金を手渡しって……」
呟く俺を見る店主の表情は、最初の当たり前のことを説明する顔に戻っていた。
「まぁ、露天ですからね。またどうぞ」
翌日。
夏に入りかけたこの時期の街は、熱がこもり易く、容赦なく人々を蒸し焼きにする。
そんな灼熱の街中で、俺は人一倍汗を流していた。
俺の背後では、部屋から持ってきた電化製品や一世代前のゲーム機などが、小さな山を築いている。
それらを乗せた荷台を、数Km離れた駅前まで運んできたのだ。
昨日手にした10万円は、滞納していた家賃を支払う事により、ほぼ無くなっていた。
しかし。
「あのガラクタが10万で売れたんだ。これだけの家電があれば、今度こそ遊ぶ金が作れる」
大金の予感に俺はニヤつきながら、独り言を話していた。
通りすがりの人々は、汗だくで大荷物を引きずりながらほくそ笑む俺を、奇異な目で見ているが、それすらも気にならない。
とりあえず、昨日の駅前まで来てみた。
周囲を見渡し、露天商の姿を探していると。
「いた!」
昨日と寸分変わらぬ位置に、何も置かれていないブルーシートを広げ、その上に俯きながら座す中年を発見した。
さっきの声に気付いたのか、店主が少し遠くに居る俺に顔を向けた。
全力でリアカーを引きながら、店主の前までたどり着いた。
「いらっしゃい。あぁ、昨日の」
店主は汗でぐっしょり濡れた俺や、背後の家電の山にも気にする様子は無く、普通の挨拶をしてきた。
「はぁ、はぁ、ど、どうも……」
大量の荷物を運んだため、さすがに息が切れる。
「昨日はありがとうございました。部屋に置いていた思い出の品を色々持って来ましたよ」
俺は運んできた荷物を見る。
他人が見たら、ただの粗大ゴミの山だろうが、今の俺にはこれらが宝に見えている。
「それはそれは、ありがたいですね。どれ、拝見させていただきますよ」
店主はそう言うと、座った姿勢のまま熱い視線を向けた。
店主と荷物の間に居た俺は、邪魔にならない位置に体を移動させる。
「都会に出てから、ずっと俺の生活を支えてきた奴らでね」
既に鑑定モードに入っている主人に向けて、ゴミの山のアピールをする。
「確かに型は古いかもしれませんが、こいつらが無ければ、俺の生活は破綻していましたよ」
正直な事を言えば、短期で働いた金を使い、新型の電化製品を手に入れてはいた。
今日持って来た物は、狭い部屋をさらに狭くする原因であり、完全なゴミである。
捨てるにしろ、引き取ってもらうにしろ俺の生活を圧迫する以外に、使い道が無い。
そこに来て、この露天の存在は救済だった。
俺は少しでも値を上げるべく、ゴミの宣伝をする。
「この電子レンジなんて、金が無い時期に暖かい飯を食わせてく……」
「3千円」
これから熱を込めようとしていた俺のアピールは、主人の平坦な声に遮られた。
「………………は?」
昨日と同じ、理解不能という声を出す。
しかし、昨日とは心の動く箇所がまるで違う。
「えっと……このレンジがですか?」
何かの間違いと思い、聞きなおす。
「全ての思い出にあまり大切にされた様子が無いです。どう見積もっても、合わせて、3千円ですね」
「………………」
もはや、アピールもクソもあったのもではない。
ほんの数㎏のバイクの部品が10万で、これだけの電化製品が3千円?
納得がいくはず無い。
「ちょっと待ってくださいよ!それはいくらなんでも安すすぎるでしょ!」
身振り手振りまで加えて、主人に抗議する。
またも奇異な視線を浴びる事になるが、知った事ではない。
「それでは」
主人が真剣な目で俺を射抜いた。
両腕を広げた姿勢で、思わず俺は固まる。
「これらを手放す事に、未練はありますか?」
「それは……!」
通りすがりの人々からの痛みを伴って感じる視線と、主人の鋭い視線。
二種類の眼に挟まれた俺は、両腕を静かに下げるしかなかった。
「わかりましたよ!どうせゴミですしね!」
「交渉成立」
叩きつけるように言った俺の言葉など関係ないとでもいう風に、主人は営業用の笑みで封筒を差し出す。
中身を確認するも、印刷された科学者の無機質な表情が三つ並んでいるだけ。
「せっかく恥ずかしい思いをして運んできたのに、これかよ……」
俺の悪態を聞いた主人が顔を上げる。
「では、売るのを止めにしますか?またこの荷台を引いて帰りますか?」
主人は薄く笑いながら聞いてきた。
やはり、大量のゴミを嬉々として運んできた俺を、滑稽に思っているのだろう。
「交渉成立なんでしょ!やめませんよ!それと、この荷台も買い取ってください。もう使わないですから」
俺の提案に、主人はろくな鑑定もせずに懐に手を入れた。
戻ってきた掌には、銅貨が三枚乗っている。
「さ、三十円……」
「またどうぞ」
言いながら、俺に銅貨を握らせると、俯いた姿勢のまま動かなくなった。
抗議など一切聞かないと言いたげな沈黙に、俺はやるせない思いで溜息をつく。
来るときに比べて、比べようも無いほど軽くなった荷物をポケットに突っ込み、その日は帰宅した。
「クソッ!今日も負けかよ!」
目の前で銀の玉が次々と消えていく台に向かって、怒りをぶつける。
ゴミの山をはした金に変えてから、今日で二週間になる。
当然あの時の金は、あっと言う間も無く消えており、なけなしの貯金を崩しながら食い繋いでいる。
友人と呑む約束の日も近づいてきて、何とか所持金を増やそうと最近はパチンコに通っているが、全くもってうまくいかない。
今日で貯金も底を尽きていた。
心中を苦いものが溢れるのを感じながら、店を出る。
携帯の画面を表示させると、友人からの着信が何件かあった。
おそらく、こっちに着いた事を知らせるための電話だろうが、今の俺はとても会話する気分ではない。
苛つきから、無意味に歩幅を広げて歩く俺の視界に、安っぽいブルーシートの端が映った。
目を向けると、最近見なかった例の露天商がやはり俯いた姿勢で店を広げていた。
俺に気付いた主人が、ゆっくりと顔をこちらに向ける。
「あぁ、いらっしゃい」
こっちの気分などまるで考えていない、気の抜けた挨拶をよこしてきた。
「どうも、今日は何も持ってませんよ。失礼します」
一度は役に立ったが、売るものが無い状態では、この主人もただの変な中年だ。会話を続けても意味が無い。
「そうでしたか。困っているようでしたのでお声がけをしたのですが」
「何も売るものなんて持ってませんよ。ったく、結局貧乏のままかよ」
憤りのままに地面を踏みつけても、まるっきり意味が無く、空しい鈍痛のみが残る。
「どうしてもお困りならば、力になれますよ」
主人が、俺の足元を見ながらそう言ってきた。
「はぁ?だから売るものなんて無いって言ってるでしょう」
「あるじゃないですか」
主人が指差した方向は、俺の真下だった。
そこにあるのは、夏の太陽が映し出した、俺の落としている物。
「………………影?」
強烈な日差しで、黒くはっきりと映えた俺の影に、主人は例の熱烈な視線を注いでいる。
「売れるんですか?こんな物……」
そもそも、自然現象に所有権なんて無いはずだが。
「もちろん」
主人は言い切った。
「あなたとずっと一緒にいる影。なかなか良い」
主人はいたって真面目な表情だ。真剣な、とも形容できる。
「ちなみに、いくら位になるんですか?俺の、影は」
「そうですねぇ……。500万は下らないでしょう」
「ごひゃ……!」
あまりにも大きな経済的衝撃に、思わず一歩のけぞる。
「え?な?何でそんなに?」
「何故って……」
主人は少し困ったような顔になる。
まさかそんなことを聞かれるとは思っても無かった、というような表情だ。
「そりゃあ、あなた。影は思い出の塊ですからねぇ」
「………………」
自分の影を見つめながら硬直する。
あって当たり前の、只のヒトガタを、呆けたように見つめる。
「………………すぐに」
「はい?」
「すぐに、頂けるんですか。500万」
固まったまま、声を絞り出す。
後先を考えようにも、考え方なんて知らない。
しかし、ここで断ったら破産するのは火を見るより明らかだった。
「えぇ、もちろん。露天ですから」
主人は相変わらず、当然のことを答えているような口ぶりだ。
「わかりました。俺の影、あんたに売ります」
「交渉成立」
言いながら、主人は背後のかばんから分厚い茶封筒を取り出す。
俺には主人の一挙動一挙動が、スローモーションのように見えた。
俺は茶封筒を受け取り、感じた事も無いような罪悪感に近い感情が芽生え、その場から逃げるように走りだした。
冷静でなかった俺は、今まで手渡しされていた茶封筒が、今回に限っては地面に直接置かれた事に気付けなかった。
結局、走ってアパートの自室に戻った俺は、カーテンを閉めた暗い部屋に居る。
気疲れから知らぬ間に寝てしまっていたらしい。
外からの陽射しはとうに無く、星の見えない夜空が広がっていた。
影を見ることが何故か怖くなってしまい、明かりをつける気にはならなかった。
ふと、友人から着信があったことを思い出す。
放り投げていた携帯を拾い上げ、数時間前の着信に対してかけ直す。
「………………」
数回呼び出し音が鳴るが、出る気配が無い。
この時間なら、仕事を終えてホテルに着いていてもおかしくは無いのだが。
不思議に思いながらも、明日また連絡すれば良いかと思い、耳から携帯を話した瞬間。
「はい、もしもし?」
少し低いトーンで、友人の声が聞えた。
「お、おう!お疲れ!」
今のテンションで話すと暗くなりそうなので、無理に明るい声を出す。
「聞いてくれよ。宣言通り金作ったぜ!」
「………………」
電話口からの返答は無い。
心配させないように、さらに続ける。
「しかも500万だぜ?500万!信じられねぇだろ」
「………………」
返答は無い。
「あぁ、別に犯罪とかじゃねぇぞ。れっきとした……、あれだ。等価交換だよ」
「………………」
返答は
「…………あの」
あった。
しかし、どうも様子がおかしい。
「なんだよ。やけにしおらしいじゃねぇか」
「失礼ですが、どちら様ですか?」
…………は?
「おいおい、ふざけるなよ。なに言って……」
「番号を間違えているようですが……」
「んなワケあるかよ。お前、高校から番号変わってねぇだろ」
電話口の声は間違いなく友人のものだ。
液晶にも、数時間前の着信と同じ番号が表示されている。
しかし
「あなたは誰なんですか?どうして私の番号を知っているのですか」
友人の問いは、詰問に変わっている。
「おい、マジでふざけるなよ。ついこの前呑みに行く約束をしたじゃないか」
「覚えがありません。イタズラでしたらやめて下さい。失礼します」
ブツッ……ツー、ツー、ツー。
一方的に通話が切られた。
「どうなってんだよ……」
こんな事をして喜ぶような奴じゃない。
友人の勘違いだと考えて、無理矢理自分を納得させるしかなかった。
「そうだ。この機会に、親に借金を返しておこう」
気を紛らわすため、独り言を言いながら携帯のアドレス帳を開く。
登録されている実家の番号を確かめ、発信。
今回は、呼び出し音は無かった。
すぐに電話がつながり、声が流れる。
「お客様のおかけになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめになって、もう一度おかけ直し下さい」
ブツッ。ツー、ツー、ツー。
「………………」
声が出なかった。
不安が氷の手となって、俺の心臓を掴んでいるような気分だ。
「実家で何かあったのか?」
次は母方の親戚の家に向けて発信する。
「お客様のおかけになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめになって、もう一度おかけ直し下さい」
「………………」
次は父方の……。
「お客様のおかけになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめになって、もう一度おかけ直し下さい」
次は地元の友人に。
「お客様のおかけになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめになって、もう一度おかけ直し下さい」
次は。次は。次は。
「お客様のおかけになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめになって、もう一度おかけ直し下さい」
「お客様のおかけになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめになって、もう一度おかけ直し下さい」
「お客様のおかけになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめになって、もう一度おかけ直し下さい」
次は次は次は次は次は次は……。
「お客様のおかけになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめになって、もう一度おかけ直し下さい」
「お客様のおかけになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめ……」
「お客様のおかけになった電話番号は、現在つ……」
「お客様のおかけになった電話番号は、げ……」
「お客様のおかけになったで……」
「お客様のおかけになっ………………」
「ハァ、ハァ、ハァ…………」
息を切らしながら、街中を走る。
時間は既に深夜になっていた。
こんな時間に探しても居るとは思えなかったが、動いていないと頭がおかしくなりそうだった。
数十分走り続け、駅前に到達すると、居た。
手書きの小さな看板。安っぽいブルーシートに、俯いた姿勢で座り込んでいる中年の男。
「おい!」
主人の姿を視界に捉えた瞬間、俺は叫んだ。
「おい!あんた!」
数メートル先に居る主人は、ピクリとも動かない。
俺は主人の目の前に到達し、怒鳴る。
「おい!聞いてんのか、こら!!」
そこでようやく、主人はゆっくりと顔を上げる。
「あぁ、いらっしゃい」
「いらっしゃいじゃねぇ!!俺の周りでなにが起こった!」
主人は不思議そうに俺の顔を見つめる。
「うん?あぁ、昼間影を売ったお客さん」
「そうだよ!なに忘れてんだ」
主人の態度に、煮えたぎる感情が急速に膨張する。
「いえねぇ、忘れたわけではないんですよ。ただ、あなたはもう、あなたではありませんから」
「はぁ?!」
こいつまで何を言ってるんだ。そんな下らないなぞなぞに付き合っている場合じゃない。
「影を売っていただいた方は、皆さんそうなるんですよ。影は思い出の塊だと説明したはずですよ」
確かに、そんな説明はされた。だが、こんな訳のわからない事になるとどうやったら考えられる。
「あの説明で十分だと思いますよ。思い出を他人に譲ったわけですから。これまでの人生を手放したと同じ事です」
さも当然のことのように話す主人に、俺の理性の膜は弾けた。
「ふざけんな!!だったら今すぐ買い戻す!!」
「いやぁ、ウチでは影は人気商品でしてね……」
主人は困ったような笑みを浮かべる。
「もう売れてしまいました」
「う……れた……?」
売れたって何だ?
じゃあ、今の俺は何なんだ?
「ですから、あなたはもう何者でもないんですって。その証拠に」
主人は視線を車道のほうへ向ける。
視線の先を追うと、そこには闇夜を照らす一つ目の光。
バイクのヘッドライトだ。
「あなたは、あそこにいらっしゃいますから」
まもなく聞えてきたのは、聞き覚えの無い、酷く耳に懐かしいマフラーの俳気音だった。
終