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左腕の怪我

そして今日もまた、悲鳴で幕が降ろされる。


「おはよう」

いつものように教室のドアを開けて、朗らかに挨拶を交わす。7月27日の朝、夏場なのに珍しく涼しい風が吹く。陽射しは眩しくはあるが優しく、一日の始まりを包み込んでいた。

美咲は当たり前のように自分の席に着き、早くに着いていた友人と当たり障りのない会話を楽しんでいた。高校最後の夏の一時。夏の長期休校が終わってしまえば大学受験に向けて殺伐とした空気になってしまう。それまでになるたけ楽しい思い出を残すことに必死だった。些細な会話であっても、精神的にはまだまだ幼い少年少女にとっては輝かしい日々の記憶として残るのだ。

「おはようございます」

そんな会話の絶えない教室に、新たな声が聞こえた。皆が一旦会話を止めて開いたドアに顔を向けると、一番に反応した女子が驚きの声をあげる。

「その腕どうしたの!」

遅れて気付いた周りの少年たちも騒ぎだし、女子はぐるぐると巻いた包帯の痛々しさに顔を背けた。当事者である少年、裕は大した事ないと軽く挨拶をしながら、自分の席を探してゆったりと歩き出した。幼馴染であった美咲は席を立つと、早歩きで裕の席に近づく。

「どうしたのそれ!……大丈夫?」

席に着いた祐は心配そうに聴いてくる美咲を見上げると一瞬だけ顔を歪めた。しかし、それも直ぐに柔らかい笑みに変えると、優しく答える。

「大したことじゃないんだよ、本当に」

でも、痛むのではないかと軽く触れてみると、少しだけ体が強張った。やっぱり大した事がないなんて嘘じゃないかと顔を向けると、彼は寂しそうに微笑んで傷付いた腕を摩りながら小さく呟いた。

「本当に大した事じゃないんだよ、こんな怪我なんか」

呟かれた言葉に疑問を持ちつつも、そこまで言うならと美咲は自分の席に戻った。席に着くと待ち構えたように質問攻めに会う。私にもよくわからないと答えながら裕の方を見ると、彼自身も周りの男子から質問攻めに会っていた。感情が読めない表情で、頑なに怪我について語らない。

そういえば彼は、自分以外に笑顔を見せなかった。

それを今になって思い出して、心配する気持ちが大きくなる。もしかしたら精神的な病による自傷行為なのかもしれない。そうであったら自分が助けてあげなくてはと胸の内で決意した。


高校生活最後の夏の授業は水泳だった。これが終わったら全校集会だ。夏休みだと浮かれ気分ではしゃぐ姿は、年相応よりもだいぶ幼く見えた。教師も今回は授業というよりも寧ろレクリエーションの要素のある内容で進めており、そのせいもあってとても賑やかになっていた。

裕は怪我のため、プールサイドで見学をしていた。着替えるのも大変だろうと制服のままスボンの裾だけ濡れないように捲っている。騒いでいる同級生の姿を見ては、退屈そうに空を仰いでいた。教師は見学者に対してはあまり気にかけていない。小さな水溜まりに足をつけて涼んでいた。

今朝はあんなに眩しかった陽射しは今は厚い雲に隠れてしまい、肌寒い風が身体を撫でる。プールから上がった生徒たちは強く風が吹く度に震えていた。冷たいシャワーに叫び声を上げている。

一人、また一人と教室に帰って行った。急げと教師が声を張る。あまり急ぐ必要の無い裕はプールのヘリに座り、足で水を蹴って時間を潰していた。

「水泳出来なくて残念だったね」

顔を上げると直ぐ側に美咲が立っていた。もうプールにはこの二人と教師が数人しかいない。早くしろと声を掛けられると、美咲が手を差し伸べて言った。

「ほら、行こうよ」

手を握ると強く引っ張られた。起き上がって歩き出す。教室に戻らなければないないからと二人とも急ぎ足だった。先程繋いだ手は自然と離れていた。

ポツリポツリと雨が降り出した。


傘を持っていないと嘆く生徒たちで、教室は騒がしかった。夏休み初日から雨かと落ち込んでいる者もいる。

「美咲は夏休みどっか行くの?」

友人に尋ねられた彼女は笑顔で答えた。

「うん、明日から家族で出掛けるんだ」

「いいなー。あ、でも雨になっちゃったね……」

「それでも楽しみだな。私、大学では一人暮らしだし、家族で出かけるのってしばらく出来なくなっちゃうから」

美咲がそう語ると、少しだけ寂しい雰囲気に包まれた。一人一人が別々の道に進むため、高校卒業後は頻繁に会えなくなるだろう。そんな空気を壊すように、一人が明るく言葉を切り出す。

「そういえば美咲は一人暮らしなんだよね。遊びにいかせてよ!」

「そうだね、遊びに行こうよ」

「うん、楽しみ!」

あえて明るく、果たされるか分からない約束を交わし合う。直ぐにいつもの明るさを取り戻し、ふざけ合いながら帰る支度をしていると、裕が近づいて来た。

「どうしたの?」

「あ、今日折り畳み傘を持って来たから」

使う?と傘を差し出す裕を見て、え?と美咲が驚て顔を上げる。

「裕はどうするの?」

「走って帰るよ」

「ダメだよ怪我人なんだから」

一緒に帰ろうと傘ごと手を掴むと、友人に手を降って別れを告げる。

「バイバイ、またねー」

「うん、夏休み後だね」

「気を付けて」

「二人もねー」

そのまま美咲に手を引かれて教室からでていこうとする裕に後ろから声が掛けられる。

「祐君も、バイバイ」

「またね」

裕驚いた表情を浮かべたが、すぐに笑顔を作ろうとする。

いつも、美咲にだけに向けていた笑みを。

「うん、またね」

その微笑みは優しくはあれど、複雑な感情も織り混ざっていることに誰も気付かなかった。


二人で帰る事は初めてではなかったが、今日はいつもと違う道で帰りたいと美咲が傘を引っ張るため、少しだけ遠回りの道を歩いていた。

折り畳み傘は一人用のため、二人で使うにはあまりにも小さ過ぎた。はみ出た肩がお互い濡れている。風が当たると余計に寒かった。怪我をしている左腕を庇うように内側に抱え込んでいて、美咲が裕の身長に合わせるようにして傘を持っていた。ときたまバランスを失って傘が頭に当たり、少しだけ雨に濡れた前髪が額に張り付く。それを払う素振りもせず、ただひたすら歩いていた。

「あ」

裕が小さく声を上げる。目線を追うとその先には小さな花が咲いていた。

アスファルトの裂け目から顔を覗かせている。雨に打たれて可哀想なくらい俯いていた。弱々しい花弁が、雨に負けて落ちてしまいそうだった。

「可哀想だね」

「花が?」

「そう。花が、たった一人で雨に濡れてる」

けれど、その花を摘んで帰ることはしなかった。このまま強過ぎる雨に打たれていたら、きっと死んでしまうだろう。美咲はその花から目線を離さなかった。

「少し、話があるんだ」

裕の言葉に美咲がゆっくり顔を向ける。

「少し家に寄ってくれる?」

「わかった」

短く返事をして、また歩き出す。

少しだけ強い風が吹いて、花びらがひとひら落ちた。


どうしたの?

その怪我はなんなの?

聞きたいことはたくさんあるの。

悩んでいるの?

辛いの?

痛いの?

でも、わからない。

どうして。

ああ、そんな。

危ないのに。

やめて。

どうして。

どうして。

どうして。

そんなことをするの。


「いやああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!」


そして今日もまた、悲鳴で幕が降ろされる。

いつも思うのは、この手の作品のジャンルは何が当てはまるのかわからないことです。

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