LITTLE CHILD
カランカランカラン……。
軽いベルの音が降り注いだ。
バーの営業中は、扉の内側にベルを取り付けてある。 中のカウンターからは直接外へ続く扉が見えないから、客が来たことを知るには最良なのだとマスターが言っていた。
俺は小部屋を抜けて、店の中へと入っていった。
「いらっしゃいませ」
太くて落ち着いた低い声が迎えた。 マスターは俺の顔を確認すると、嬉しそうににこりと笑った。 店内を何気なく見渡すと、珍しく客がもう一人いるのに気付いた。
カウンターの一番端の席に座って、まだ二十歳前後っぽい、若い女の子がカクテルに口を付けていた。
『のんびりできると思ってたのに……』
俺は少し不機嫌に思いながら、ちょうどその子の後ろにある四人掛けのテーブル席に腰掛けた。 いつもの俺の席。 ここに座って、のんびり煙草を吹かしながらコーヒーを飲むのが一番リラックスできるんだ。
バーでコーヒーって、おかしいかな?
しかし侮るなかれ、ここのコーヒーは、マスター厳選の豆をブレンドした、絶品コーヒーなのだ。 ――ま、酒が呑めないだけっていうオチ付きだけど……。
「いつもの、だね?」
マスターは俺の前に灰皿を置いた。 俺が頷くと、
「かしこまりました」
と、言葉こそ丁寧だが、友愛のこもった言い方をしてカウンターへと戻って行った。 その背中を見送りながら、俺は煙草に火を点けて長く息を吐いた。 オレンジ色に照らされた艶のある木でできたテーブルに白い煙が這い行き、やがて消えた。
店内には気にならない音量でジャズが流れ、食器の触れ合う音がかすかに聞こえる。 俺はそんな心地よい空間をかみしめながら煙草をくわえた。
しばらくそうしていると、芳しい香りと共にコーヒーが運ばれてきた。 俺の前に丁寧に置くと、
「あ、そうだ!」
と静かに口を開いた。
「影待くん、ライブが入ったよ。 来週の土曜日、大丈夫だよね?」
すでに決定じみた半ば強引な感じの言葉で言われ、俺はケータイを懐から取り出してスケジュールを確認した。 いつもの事だ。 俺はいつも暇だと思われているんだな。
「いいよ。 時間はいつもと同じ?」
と答えると、マスターも頷いて
「よろしく!」
と微笑んだ。 【いつもの時間】とは、午後四時だ。 それは開演時間の事で、俺たちスタッフはそれより一時間ほど早く入って音響機器などの準備とリハーサルをする。 俺はいつもの様にケータイのスケジュールに打ち込んだ。
するとマスターが、カウンターに座ってカクテルを飲んでいた女の子を指して言った。
「それから彼女、今度から手伝ってくれるって。 城沢音香ちゃん」
「あ、あたし、まだちゃんとオッケーしてないけどっ!」
困った顔をして勢いよく振り向いたその子と、いきなり目が合った。
「っ!」
その途端、俺は固まった。 煙草を持つ手が止まり、思考も停止した。
『な……なんだ?』
俺の横に立つマスターと話すその子の顔は、猫の目のようにクルクルと表情が変わる。 肩までのストレートな栗色の髪の毛が、何か言うたびに揺れる。 そのうち俺の視界がぼやけ、会話は遠くかすかに聞こえるだけになった。 不意にマスターに
「ねっ!」
と言われ、俺は戸惑いながらも平静を装って話を合わせた。
やがて彼女が帰ると、店内に客は俺だけになった。
「マスター……」
俺は、何本めかの煙草に火を点けた。
「何?」
カウンターの奥から、マスターが首を傾げた。 俺は一呼吸置いて言った。
「あのさ、さっきの子の名前って……」
「城沢音香。 音が香るで、音香。 さっき言ったじゃない。 聞いてなかったの?」
『音香……音香……音香……』
俺は心の中でその名前を繰り返した。
「皆はオッカちゃんて、呼んでるけどね」
『オッカ……オッカ……オッカ……』
俺は再び心の中でその名前を繰り返した。
「どうしたの、影くん? 何か変だよ?」
「……れ……」
「? ……何?」
マスターがカウンターの向こう側から耳を傾けた。 かすれた声が、喉から沸き上がった。
「一目惚れした……」
その途端
「うっ!」
とマスターの端正な顔が崩れたかと思うと、激しく笑い始めた。 いつもクールなマスターが大笑いするのは珍しい。 長身がおおげさにも二つに折れ、腹まで抱えている。
「あっはははははは!」
「笑うな!」
俺はふくれて煙草を灰皿に押し付け、もみ消した。 マスターはひとしきり笑った後、目尻に浮かんだ涙を指先で拭いた。
「あーごめんごめん。 いきなり面白い話をするから」
「面白くないだろうが!」
こいつは人の弱みを握りたがるくせがあるのを忘れていた……。 俺が最後の一口を飲み干すまで、マスターは笑いを堪えるようににやけながら俺をチラチラを見ていた。
それにしても
『……城沢音香か……』
帰ってからずっと、その名前が頭の中を渦巻いている。 店内で見た、逆光の中の彼女からは、なんとも不思議な感覚を覚えた。 マスターには、勢いで
「一目惚れした」
と言ってしまったが、そんな簡単な一言では言い表わせないほど、俺の中にはモヤモヤしたものが残った。 初めて会ったはずなのに、どこか懐かしく、何も知らないはずなのに、どこか親しい感覚。 彼女とは何の会話も無かった。 最初以外、目も合わせていない。 だが、また会いたいと強く思っていた。
俺は六畳の自分の部屋に転がり、天井を見つめた。
ドーナツ型の蛍光灯から、光が淡く降り注ぐ。
午前一時を回ったのに、体のだるさとはうらはらに、頭が冴えきって眠れそうになかった。 城沢音香に会えるのは、次の土曜日。 俺は何だか彼女の事を考えるとボーッとしてしまう事に気付き、少しでも彼女の残像を打ち消すように、それからの日々はギター教室に一層熱を入れていた。
気が付くと、ライブ当日だった。
俺は逸る気持ちを押さえながら、セブンスヘブンへ車を走らせた。 店に着くと、ちょうどマスターが扉の鍵を開けるところだった。
「おはよう」
俺が言うと、マスターもにこりと笑って答えた。
「おはよう。 今日もよろしく!」
「ああ、こちらこそ」
中に入るとまず、マスターが扉のベルが鳴らない様に固定する。 ライブ中にカランカランと鳴られても困るからだ。
俺は一足早く中に入って、四人掛けのテーブル席とカウンターに並ぶ椅子を物置に片付ける。 すると、二十畳ほどのがらんとした空間が出来上がる。 そしてマスターが、カウンターと向かい合った壁一面に下ろされた白いスクリーンを上げると、向こう側には小さなステージが設置されている。 真ん中には常時ドラムセットと、両側にアンプが積まれ、その隙間にはスタンドマイクが数本立ててある。 そのマイクを適当にステージ前方に並べ、コードを繋いで使えるようにした。
そうしていると表の扉が開き、
「おはようございまあすっ!」
と元気の良い男の声が響いた。
「おはようございます!」
俺とマスターは挨拶を返した。 同じスタッフ仲間だ。 名前は立木弘人。 照明担当だ。 本当はもうひとり来るはずなんだが……あいつはギリギリになるまで来ないから、最近はあまり気にしなくなった。
まずマスターは彼に、今日から新人が来ることを伝えていた。 それが耳に届いた途端、俺の鼓動がいきなりスピードアップした。
『城沢音香のことだ……』
俺は平静を装いながら、会場の準備を急いだ。
「影さん、今日から助っ人が来るらしいっすね?」
人懐こい笑顔で手伝いに来た立木に、
「あ、ああ、そうみたいだな」
と返した。 すると
「可愛い子だといいなぁ!」
と希望に満ちた笑顔で作業をしはじめた。
「お前、彼女いるだろ?」
と冷たい視線を送ると、立木はにやっと笑って
「それとこれとは、別ですよ! 影さんだって、可愛い子と一緒だと、仕事のテンションを左右されるでしょ?」
と『別です』を強くアピールしながら、俺に同意を求めてきた。
立木は、顔はイケメンと呼ぶほどのものではないが、その話術で今まで何人もの女を手に入れてきた。 そんな彼なので俺は一抹の不安に襲われたが、気の無いふりをしながら、立木と二人で機材の準備に追われた。 機材のセッティングが終わると、俺と立木はカウンターの向こう側に行き、しっかりした作りの木の箱を取った。 その下には、音響と照明の機材が設置されている。 流し台の隣に精密機械という、なんともミスマッチな風景のなか、俺たちはそれを操りながら、月に一度ほどあるライブを彩らせるのだ。
その時、
「おはようございます!」
と若く甲高い声が、店内に入ってきた。 見ると、それぞれに楽器や鞄を背負った少年たちが十人、まとまって俺たち三人の前に並ぶと、一斉にお辞儀をした。
「今日はよろしくお願いしますっ!」
張りのある声で挨拶をされ、俺たちも
「よろしく」
と返した。 マスターから、申し込みに来た子は礼儀正しい子だったと聞いてはいたが、予想以上にちゃんとした若者たちだった。 機材の説明も真剣に聞くし、扱いも丁寧だ。 今日は機材を壊される心配は無いな。
「最近なかなか見ない礼儀の良さだな」
俺が呟くと、隣の立木も腕を組んで頷いた。
「借り物だろうが関係ねー使い方する奴もいるからなあ。 あいつら、なかなかやるじゃん!」
先輩づらして言いながら笑う立木。 二十五歳にしては、考え方は堅実な男だ。 先輩の俺やマスターに敬語も使えないような奴だが、どうにも憎めない所がある。 そこへマスターが戻ってきたので、今話していたことを伝えると
「彼ら、有名大学の在校生らしいよ。 話し方もちゃんとしてる」
と笑った。
「どうりで」
俺と立木は納得した。
「今日は三バンド。 これ、タイムスケジュールね。 今からリハやるから、よろしく!」
マスターはB5の紙を一枚ずつ俺たちに渡すと、ステージで楽器をつないだバンドマンたちに手を挙げた。 リハーサルは、通しというよりも、音がちゃんと出るかを重点的にやっている。 曲のさわりを数十秒ずつ演奏し、ボーカルマイク、それぞれの楽器の音がバランスよく奏でられたら、リハーサルは終了となる。
彼らは素人ばかりなので、音響や照明に特に注文をしてくることはない。 たまにはあるが、どれも若気の至りというか、ただ大音量を流したり、派手な照明効果をすれば客が盛り上がるかと勘違いをしているパターンが多い。 そんな時は、余計な説教はせずに結局、好きにはさせているが……ま、やっていけば自分たちで分かるはずだ。
リハーサルは四十分もすれば終わった。 後はのんびりと開演時間を待つのみだ。
一息付いたところで煙草を……と言いたいところだが、ライブハウス仕様の時は会場内は全時間【禁煙】。 俺たちスタッフも例に漏れず、だ。 外に行って吸うことも出来るが、それも面倒くさい。 仕方ないので、最近はガムを噛みながら過ごすことにしている。 懐からガムを取り出すと立木にひとつ渡し、もうひとつを自分の口に入れた。
「それにしても、新人ちゃん、遅いっすねー」
それは怒りや苛立ちでなく、明らかに楽しみで仕方ない様子の立木。 俺は再び、強くなった動悸を密かに静めなくてはならなかった。
一度だけ。 しかも、しっかり顔を見たわけでもないのに、なんだこの動揺は……。
「もぎり(受付)をしてもらうみたいだから、ギリギリに来るんじゃないかな?」
俺は、マスターがこの間言っていたことを思い出しながら話したが、立木はあまり聞いていないようだった。
「あー早く来ないかなー」
あごの下に両手を添え、両肘を突いて、女学生のようなポーズで妄想を膨らませる立木が気持ち悪い。 そうしていると、入り口に人の気配を感じた。
「オッカ、こっち」
気付いたマスターが手招きをすると、小さな影が現れた。 城沢音香だ。 彼女は、初めて見るのであろう、いつもとは違うセブンスヘブンの光景に目を奪われながら、カウンターの前まで小走りで来ると、マスターが俺たちを紹介した。
「オッカ、こっちの人が照明の立木弘人くん。 あっちの人が、この間ここで会った影待くん。 音響をやってるんだ」
立木は微笑みながら
「よろしくな!」
とニッコリと微笑んで片手を挙げた。 城沢は緊張した面持ちで丁寧にお辞儀をした。
「あ、あの、今日からお世話になります、城沢音香です。 よろしくお願いします!」
そして顔を上げた城沢と、目が合った。
『やばっ!』
俺は、たまらなくなって視線を外しながら
「よろしく」
とだけ言って小さく頭を下げた。 城沢の笑顔と挨拶が俺の視界の端に映り、すぐにマスターは
「じゃ、オッカに仕事の説明をしたら開場しますので、皆さんよろしく!」
と城沢を扉の方へ連れて行った。 扉と扉の間の小部屋で受付をするのだ。 俺はやっと姿を消した城沢に、そっと息をついた。 立木がにっかりと笑いながら俺に言った。
「悪くないですね」
俺は
「ふうん」
と鼻を鳴らした。 何故か素直になれない。
しばらくすると、外からバタバタと走り込んでくる影があった。
「ギリギリっ! 間に合ったっ!」
立木隼人。 こんがりと焼けた肌が健康的な、元気印の小柄な少年だ。 彼は俺の隣に座る、照明担当の立木の弟だ。 どことなく似てはいるが、弟の方がやっぱり子供だ。 彼は挨拶もそこそこに少し汗ばみながらカウンターに入ると、冷蔵庫を開けてペットボトルを数種類取出し、次に台に乗って、手馴れた感じで上の棚から紙コップの束を取り出した。 立木弟は、ドリンク担当だ。 冷凍庫を開けて氷が充分に作られているのを確認すると
「よし! オッケー!」
と親指を立ててみせた。 俺と立木は、いつもながら時間ギリギリに来てもなお、憎らしいほど要領の良い動きに呆れながらも、
「はいはい」
と頷いてやった。 すると突然、外の明かりが店内にふんわりと届き、続々と客が入ってきた。
「開場したんなら、言えよ!」
立木兄が口を尖らせて文句を言うと、立木弟は押し寄せるドリンク作りに追われながら、
「ごめん、忘れてた!」
と悪気のない屈託の無い笑顔を見せた。
俺は次々に入ってくる客をぼんやりと眺めていた。 今はそれくらいしかやることがないからだ。 今時のファッションていうやつも、こういう時に勉強になる。 一応世の中の流行はチェックしておかないと、ギター教室の若い生徒に鼻で笑われてしまう。
次にマスターが戻ってきて、中の様子を眺めた。 長身のおかげで、少し爪先立ちをしただけで、場内のだいたいの様子が把握できる。 軽く見回したあと、
「そろそろ本番行きましょうか」
と俺たちに合図を送った。 俺たちも親指を立てて返し、楽屋に合図を送るスイッチを押した。 ステージの裏にある小さな楽屋の表示ランプを灯せば、ライブスタートだ。
照明が少し暗くなると、客たちの空気も張り詰めた。 皆が、やがて出てくるであろうバンドマンたちを待ちわびて、ステージに釘付けだ。
やがて現れたバンドマンたちが準備をし始めると、客たちは口々にメンバーの名前を呼んだ。 こんな七十人ほどしか入らないようなキャパでやる、まだバンドに毛が生えただけのような彼らにも、それなりにファンはいる。 もしかしたら、この客たちの何人かは【サクラ】なのかもしれないが、それでも、ステージと観客とのコラボレーションは成り立っている。
これから、十五分の持ち時間で会場をどれだけ盛り上げることが出来るか、それは彼らの技量次第だ。 俺たちはその手伝いをするだけ。
やがて始まった演奏に、観客は盛り上がっていった。 俺と立木兄弟は、カウンターの奥でその様子を見ながらたまに機材を扱う。 マスターは、受付で城沢と一緒だ。
もともと、受付にはバイトの女の子が担当していたのだが、結婚を機に辞めてしまったのでしばらくマスターが担当していた。 それだともし何かあったときに動きにくいのもあって、人を探していたらしい。 そこで、よく店に通ってくれ、明るい性格をしている城沢に白羽の矢が立ったというわけだ。
受付は、チケットもぎりとドリンクのオーダー取りや、扉の門番位だ。 初出勤ということもあるし、マスターはきっと二重扉の間にある二畳ほどの空間に、ずっと城沢と一緒にいるだろう。 あんな密室で、二人は一体どんな話をしているのか、気になって仕方が無い。
そんな悶々とした気分のまま、ライブの方は何事も無く二時間ほどで終わった。