プロローグ
俺の名前は影待伊助。
イスケなんて変な名前の性で、俺は小さい頃から散々からかわれてきた。 だから俺は、初対面の人にはフルネームで自己紹介しないようにしている。 うっかりバラしたりなんかしたら、吹き出されるのがオチだ。
そんな俺だから、あまり積極的な方ではない。 二ヶ月付き合った彼女からも、半年前に別れを切り出された。 俺は必死でつなぎ止めようとしたが、結局無理だった。
原因は、風来坊みたいな生活をしているから。
でもこれは仕方ないんだ。 俺が俺で居られる場所が、そこしか無いからだ。 家族と住む一軒屋の隅っこにある、六畳間の自分の部屋。 俺の目の前には、ギターケースが横たわっている。 黒くてがっしりしていて、多少がたいの良い人間が座ってもびくともしない。 中には、俺が二年間必死で貯めた金で買ったアコースティックギターが眠っている。 俺はこれから、自分で居られる場所へと向かう。
日曜の昼間、ひっそりとした住宅街を車で走らせるとその一角に、埋もれそうなほど小さな一軒家が建っている。 その隣にある、三台しか停められないこじんまりとした駐車場に自分の車を停めると、中から荷物を引っ張り出して担いでその建物の前に立った。
ザラッとした印象のコンクリート作りのお洒落な壁には、窓はひとつもない。 壁の上の方に、小さな換気扇がポツンとあるだけ。 建物の隅の方の扉には、上部にランプが付いている。 まだ昼間だから点灯はしていないが、暗くなってから灯ると、それはなんともエキゾチックな雰囲気を醸し出す。
そのノブは太い木で出来た、これまたあまり見ない形をしている。 その下の鍵穴に鍵を入れて回すと、軽い金属の音と共にロックが外れた音がした。 ノブをぐっと引くと、木製の分厚い扉が中の空気を吸い出しながらゆっくりと開いた。
外からの光を頼りに進み行くと、すぐにもう一つの扉がある。 そこを開けると、昼間だというのに中は真っ暗。 無理も無い。 窓も無い建物だから、外の明かりが全く届かないのだ。 キンと言う静まった空気を感じながら手探りで壁伝いに歩き、スイッチを入れた。 するとオレンジ色の照明が淡く光り、中を照らした。
だだっ広い広さ二十畳ほどの空間に、四人掛けの小さなテーブル席が二席。 壁側にはカウンターがあり、少し高めの七脚の椅子が静かに並んでいる。 その反対側の壁には、一面に白いスクリーンが吊されている。 俺は、テーブル席を避けながらスクリーン脇の扉を開けた。 その向こうは物置になっていて、俺は薄暗いそこに足を踏み入れると、隅に立て掛けてある小さな折り畳み椅子二脚と折り畳みのテーブルを両手に持ち、再び部屋へと戻ると、壁ぎわにそれらをセッティングした。 そして、持ってきた黒い大きな鞄を開けてファイルを取り出すと、中から何枚かを取り、テーブルの上に並べた。
そうしているうちに、表の扉が静かに開く音がした。
「こんにちは」
俺が待つ部屋に訪れたのは、長谷川泰史。 いつもかっちりとした髪型と落ち着いた雰囲気のスーツ、少しぽっちゃりした腹を揺らして笑う四十代の男性だ。
彼もまた、左手にがっしりとしたギターケースを持ってきた。
「よろしくお願いします」
いつもご丁寧に深々とお辞儀をしてから席に座る。 いつも思うが、育ちが良さそうな人だ。 俺もつられて頭を下げてしまう。
「よろしくお願いします」
俺は、長谷川さんが椅子に座り、ギターを取り出してチューニングするのを待ってから、おもむろに口を開いた。
「では、今日はこの資料を使って、練習しましょう」
俺が差しだした資料に目を通しながら、長谷川さんは素直に
「はい」
と頷いた。
まず俺が手本を見せ、長谷川さんが後に付いて爪弾く。
一時間の授業がスタートした。
俺がこの音楽教室【フォレスト】に籍を入れて、ギター教室の講師をするようになって早五年。 最初のうちこそ、全然生徒も集まらず悪戦苦闘したが、最近は固定の生徒も何十人か抱えられるようになった。 ギターを抱えている場所、それが、俺が俺で居られる場所なのだ。
中学二年の時にギターの魅力に取りつかれてから、もう十五年位になる。 だが、高校の時に仲間うちで組んだバンドとは反りが合わず、一年くらいで脱退。 それからは、サポートとして幾つかのバンドを渡り歩いていた。 結局音楽生活のほとんどを一匹狼で来た俺。 別に喧嘩をしたとか、性格が合わないとかそんなんじゃなく、今でも普通に遊べる仲間たちだ。 そんな間柄だけど、今ひとつ彼らと一緒に音楽が出来ないのは、コレのせいである……。
長谷川さんは、俺が出した資料の中に記してある楽譜を手に取って頬を緩めた。
「あぁ先生、これ、いいですよね~、私も大好きなんですよ、ビートルズ!」
そこには【Get Back】の触りの部分だけをコピーしてあった。
「基本的なコード進行だから、一番覚えやすいと思って。 この曲は、ある程度の年齢の方なら、大半の方が知っておられるでしょうし」
そう言いながらも俺は、ビートルズについて語りたくて仕方ない衝動に駆られていた。
そう、俺は、ビートルズをこよなく愛する二十七歳独身彼女なしの男だ!
仲間たちは
「あんなの古のバンドじゃん!」
と罵倒するが、ソレに対しては強く反論しなくてはならない。 ビートルズこそが、音楽の原点! 礎! 今世間に溢れるアーティストたちは、ただのパクリだ!とも思う。
そう言うと、仲間たちは笑って聞く耳を持たない。 皆、ビートルズという名前を知っているだけで、彼らの素晴らしさを知らない。 だから最近、長谷川さんのように少し年上の人との話が合うのだということが分かった。 長谷川さんは楽譜を前に、自分のギターを構えて、俺の手本を待っている。 わくわくしているような、まるで子供のような瞳の輝きは、歳など関係ないものだ。
昔ほど、教えることに照れは無くなった。 むしろ、生徒達が上達することに快感さえ覚える。 今、俺はやりたい仕事に就き、好きなギターを誰にも邪魔されずに触っていられる。 こんな幸せな人生があって良いのだろうか。
そうこうしているうちに、約一時間の授業が終わった。
長谷川さんが帰ったあと、自分の荷物を片付け、今まで使っていた小さな折畳みの椅子とテーブルを物置に片付けていた。 すると、扉が開く気配がした。 長谷川さんが忘れ物でも取りに戻ってきたのかと顔を上げて様子をうかがっていると、長身で細身の男が入ってきた。
「おはよう!」
にこりと笑う彼に、俺も軽く手を挙げて
「おはよう」
と返すと、片付けの続きをはじめた。
彼はこの建物【セブンスヘブン】のオーナーだ。
川崎直樹。
二十七歳の時に、知り合いのつてを利用してこの建物を一から建てた。 それから五年、彼は一人でこの店を経営している。 俺は、マスターとはバンドの関係で知り合った。 俺みたいにあちこち渡り歩いていると、自然に顔も広くなる。 彼の厚意で、開店前に場所を借りているのだ。 マスターはカウンターの奥にスマートな動きで足を踏み入れると、腕に袖止めをはめながら
「影くん、今日も授業だったんだね、お疲れさま」
とにこりと笑った。 俺は片付け終わった荷物を置き直して、
「ああ」
と簡単な返事をした。 基本的にあまり会話はしないが、決して仲が悪いわけではない。
マスターは、カウンターの向こう側に下りている小さな白いスクリーンを上げた。 すると、三段の木棚には見事なほどの酒類の瓶が整列していた。 カウンターを照らす暖色系の光が、瓶にも反射して、なんとも言いがたい落ち着いた雰囲気を放出している。
その木棚の中央にひっそりと掛けてあるアナログ時計を見ると、針が十九時前を指していた。 バー:セブンスヘブンの開店時間だ。
「ありがとうございました」
一言礼を言って帰ろうとすると、マスターは
「もう帰るの? ゆっくりしていけばいいのに」
と淋しそうな顔をした。 いつもの言葉だ。 俺が
「これから楽器店にチラシを持っていきたいから」
と手を軽く上げると、マスターは
「相変わらず営業熱心だねえ」
と笑った。 当たり前だ。 いくら音楽教室に籍を入れてあるとはいえ、自分の生徒は自分で集めなくてはならない。 今だって、親と住む家に入れる金を出せば、到底贅沢なんて出来ない生活だ。
俺は車を走らせて目的の楽器屋へ急いだ。 リアシートには、チラシの山が紙袋に入って、俺の後頭部にプレッシャーをかけてくる。
「やぁ、おはよう!」
店の自動ドアをくぐると、俺に気付いた店長が愛想よく近寄ってきた。 ぽっちゃりした体型に紺色の作業エプロンをつけ、ひげの濃い顔だ。 半袖シャツから覗く太い腕にも、剛毛が包み込んでいる。 俺は心の中で【クマ店長】と名付けていた。
「いつもお世話になります。 これ、またお願いします!」
と、うやうやしくチラシの束を差し出すと、クマ店長はにかりと笑って受け取ってくれた。 この一瞬が、一番緊張をする。 もう何年もこうして依頼しているが、慣れないものだ。 悪い事をしているわけでもないのに、人に頼みごとをするときは何故か緊張する。 これは何故か治らない。
「ありがとうございます!」
いつものようにお辞儀をして礼を言うと、クマ店長は微笑みながら頷き、それから、少し眉をひそめた。
「影待くーん? 礼儀正しいのは凄く良いことだけど、もう少し愛想良くするといいと思うよ」
「あ……」
クマ店長は、にかりと口角を上げて見せた。
「笑顔笑顔!」
髭面がゆさゆさと動く。
「はは……すみません」
俺は苦笑いを浮かべて店を後にした。 車に乗り込むと、ため息が出た。
自分には、笑顔を作る能力が欠けていると思っている。 面白かったり楽しければ笑い声も笑顔も出るが、いわゆる愛想笑いというやつが苦手だ。 好きでもない相手や、楽しくもないのに笑顔を作るという行為は、面倒臭い。 仕事だからと意識してはいるが、たまに無表情のままで話しているようだ。
よく女性からも「怖い」と言われる。
愛しのジョン・レノンを意識したこの肩下までの長いチリチリの髪と、銀ぶち眼鏡も要因の一つだろう。 茶化す奴らには、関係ないだろ、と気にしないようにはしているが、やはり俺も男。 女にはもてたい。
俺はバックミラーを覗いて、指で口角を上げてみた。 どうもしっくりこない作り笑い。 俺はまたため息をついて、車を走らせた。
時間は二十時になるところだった。
このまま家に帰るのもつまらないな……。 それに、なんだか胸にモヤモヤが渦巻いている。 さっき言われた言葉は、思いがけず俺を落ち込ませたようだ。
「こんな時は、セブンスだな」
俺は気晴らしに、もう一度セブンスヘブンに戻ることにした。
店の前に着くと、駐車場にはマスターの車しか置いていなかった。 この店はいつもこんな感じだ。 休日だろうと平日だろうと関係なく、客が少ない。 大きな看板も無いし、たいした宣伝をしているわけでもない。 口コミで知った客が、また知り合いを呼び、広げていく。 だからこそ、のんびりした空間を独占できるのが魅力ではあるのだが。 車をマスターの隣に停めると、小さなランプが灯る店の扉を開けた。