富士の雪
【原文】
「お客さん! 起きて見よ!」かん高い声である朝、茶店の外で、娘さんが絶叫したので、私は、しぶしぶ起きて、廊下へ出て見た。
娘さんは、興奮して頬をまっかにしていた。だまって空を指さした。見ると、雪。はっと思つた。富士に雪が降ったのだ。山頂が、まっしろに、光りかがやいていた。御坂の富士も、ばかにできないぞと思つた。
「いいね。」
とほめてやると、娘さんは得意そうに、
「すばらしいでしょう?」といい言葉使つて、「御坂の富士は、これでも、だめ?」としゃがんで言った。私が、かねがね、こんな富士は俗でだめだ、と教えていたので、娘さんは、内心しょげていたのかも知れない。
「やはり、富士は、雪が降らなければ、だめなものだ。」もっともらしい顔をして、私は、そう教えなおした。
お客さん、お客さん、という甲高い女声が頭痛を誘う。暖かい布団の中から右手を渋々取り出し、分かった、分かった、ととりあえず眼鏡を探す。客がこうして眠たそうにしているのに何事かと怒鳴りたくなるが、不意に昨晩の頼みごとを思い出し頭を掻いた。やっと瞼が半分開き、まつ毛が抜けるほど目をこする。ふと茶店の外に目を移すと、昨日の娘さんがまだ叫んでいた。こだまするほど響いている娘さんの声に、ほどよく温もっている布団から渋々起き、底冷えの廊下へ出てみる。娘さんは寒さからか興奮からか、はたまたその両方からか頬を下手な化粧より真っ赤に染め、さっきまでとは打って変わって黙ったまま空を指している。
視線の先を上にずらしていくと、自分でも分かるほどしだいに目が覚めていった。凛と冷える寒空から、雪が降っている。紙吹雪のようにひらひらと落ちてくるものもあれば、流星のようにまっしぐらに地上を目指してくるものもある。昨晩がピークだったのか、今はもう景色もしっかりと見えるし、大きな黒い塊のような雲も居ない。だが景色は一面真っ白で、昨夜とは何かが違う。その何かとは、富士だった。富士に雪が降ったのだ。山の方に体ごと向いてみると、その先には待ち望んだ富士の雪化粧が堂々と待ち構えていた。その山頂は磨いたように真っ白に光り輝いていて、冠雪の名に恥じない威厳がある。御坂の富士も、馬鹿にできるようなものでは無かったようだ。
いいね、と私らしくない素直な言葉をぼそっと呟くと、娘さんは雪の結晶に濡れた長い黒髪を袖口で丁寧に拭き取りながら得意げに顎を上げた。
「すばらしいでしょう? 御坂の富士は、これでもだめ?」
はしゃぎすぎて疲れたのだろう、しゃがみながらそう言う娘さんは私の言葉が本心からのものか品定めするように覗きこんでくる。私が前からこんな富士は俗でだめだと教えていたので、余計に私の言葉を待ち遠しく思っていたのかもしれない。
「やはり富士は雪が降らねば、な」
胸を張って袖口から手首を入れる。まったく、娘さんには完敗である。ひとひらの雪花弁が羽織りものに落ちてきて、そっと溶けていった。