「見ていただけの人」
【入口】
この短編シリーズは、全6話で構成されている。
第1話から第5話には二つの入口がある。
『彼女の計画外伝』
そして、この物語そのもの。
第6話には三つの入口がある。
『彼女の計画外伝』
『彼女の喫茶店』
そして、この物語そのもの。
どこから入ってもいい。
最後には、同じ場所へたどり着く。
プロローグ
誰かの人生を変えた人は、
そのことを知らない。
見ていただけ。
声をかけなかっただけ。
一冊の本を勧めただけ。
冷めたコーヒーを捨てただけ。
その小さな出来事は、
誰にも気づかれないまま、
誰かの人生に残っていく。
この物語は、
名前を残さなかった人たちの、
痕跡である。
第1話 「見ていただけの人」
私は今でも、あの日のことを覚えている。
声をかけなかったことを。
彼女はいつも、少し離れた席にいた。
同じフロア、同じ時間帯、同じ無機質な空気の中で、彼女だけがどこか「ずれていた」。
机の上のペン立ての角度、コーヒーカップの取っ手の向き、視線の落とし方——すべてが、まるで誰かに見られていることを前提とした動きのように整然としていた。
私はそれを見ていた。
毎日、こっそりと。
彼女が時折、特定の男性社員を無言でじっと見つめる瞬間も。
その視線は好奇でも好意でもなかった。
もっと冷たい、「確認するような」目だった。
私はその光景を見て、胸の奥がざわついた。
でも、声をかけることはしなかった。
「関わると面倒だ」と、心のどこかで判断したからだ。
それが、私の選択だった。
ある日、彼女の様子がさらに変わった。
貧乏ゆすりが増え、時折、机の引き出しから小さなメモ用紙を取り出しては、すぐに戻す動作を繰り返すようになった。
私は距離を保ったまま、それを見ていた。文字までは読めなかったが、彼女の指先が震えていることだけはわかった。
彼女はある時、決心したように立ち上がった。
階段の方へ歩いていく。その後ろ姿を、私は見送った。
呼び止めることも、声をかけることも、しなかった。
数日後、職場で小さな噂が立った。
「非常階段に、あの人とあの人がいたらしい」
「誰かが見ていたらしい」
私はその噂を聞いて、自分の背筋が冷たくなるのを感じた。
あの時、声をかけていたら。
彼女の行動が変わったかもしれない。
もちろん、私は真相を知らない。
知りたくもなかった。
それから数年後、彼女が転職したと聞いた。
「キャリアアップのため」と上司は言った。
でも、私は違う気がした。
彼女は逃げたのではない。あの場所で「見てしまった」ことの重さを、自分の選択で引き受けたのではないか。
私はその後、何度か彼女のことを思い出した。
彼女の背中を。震える指先を。置いたと噂されるメモのことを。
今でも思う。
私の「見ていただけ」という選択が、彼女の孤独をさらに深めたのではないか。
誰も気付かないふりをすることが、誰かを「予期せぬ一歩」へと追い込むことがあるのだと。
でも、もうわからない。
彼女は私のことを覚えていないだろう。
顔も名前も、おそらく。
それでいい。
でも私は覚えている。
声をかけなかった自分を。
――『無名の痕跡』は各話を独立短編で投稿――
短編A-➁第1話「見ていただけの人」
短編A-➁第2話「冷めたコーヒー」
https://ncode.syosetu.com/n9565mm/1/
短編A-➁第3話「匿名の通報者」
https://ncode.syosetu.com/n9566mm/1/
短編A-➁第4話「好意の裏返し」
https://ncode.syosetu.com/n9573mm/1/
短編A-➁第5話「読んだ母、読まなかった母」
https://ncode.syosetu.com/n9575mm/1/
短編A-➁第6話「『カフェあおい』最後の日」
https://ncode.syosetu.com/n9587mm/1/
また、「彼女の計画外伝」に同時投稿されます。
★この作品が誕生した背景はSF長編「彼女の時空」を『彼女の』シリーズに繋げる「御前会議 ―物語創生記録―」全9話に掲載されています。よかったら覗いて見てください。
【御前会議_01】会議の前の小さな緊張
―第1話―
https://ncode.syosetu.com/n4662ml/1/
【御前会議_07】チロルチョコで繋ぐ、無名の線―第7話―
https://ncode.syosetu.com/n4662ml/7/




