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1-5 『記憶のないリヒト・パーカー』

 異世界に来て、まだ一時間も経っていない。

 それなのに、もう殺されかけた――そんな事実が胸の奥でじんわりと熱を帯びていた。

 

 縁側に手をつき、外の景色をぼんやりとながめる。

 風はないのに葉だけが微かに揺れ、昼の光がきらきらと土道を照らしている。

 あれからアヴィには謝られ、彼女は「村の人たちにリヒト・パーカーが目が覚めたことを知らせに行く」と言って姿を消した。

 頭を水桶に突っ込まれたとき鼻に入り込んだ水の違和感は、まだ少しだけ残っている。

 それでも、トマトの匂いはきれいに落ち、包帯も巻き直してもらったことで、ようやく“落ち着いた”と言える状態になった。

 

「ほんとだー!! リヒト、目覚ましてる!!」

「ミイラ男だー! 包帯ぐるぐるだっさ!」

「ぎゃははは!」

 

 甲高い笑い声が縁側に響いた。

 男の子三人、女の子二人。五人の子どもが一斉に押し寄せ、利人を見るなり腹を抱えて笑い転げる。

 アヴィのときには気づかなかったが、この世界ではヨティスのように髪色も瞳の色も実に鮮やかだ。

 彼らの髪は栗色やカーキ色、瞳は赤黒かったり山吹色だったり、元の世界よりも“色彩の幅”が広い。

 そして全員の下瞼には、薄い傷のようなくぼみがあった。

 

「ねえリヒト、なんでぐるぐる巻きなの?」

「え、あー……怪我してるから?」

「なんでー?」

「んー……みんなと違って、怪我が治りにくいんだ」

「だっさ!」

 

 その言葉が頭に突き刺さって、反射的に笑うしかできない。

 と、その後ろから気配が近付く。

 

「リヒトはトルタじゃないんだよ。そんなこと言うんじゃないよ」

「げ、リズさん……」

「ほら、謝りなさい」

「えー……」

 

 ワインレッドの髪に赤黒い瞳の年配の女性――リズさんと呼ばれた人物が、やんちゃな男の子を軽く叱る。

 続いてカーキ色の髪に山吹色の瞳を持つ男性もしゃがみ込み、男の子の背をやさしく押した。

 

「アルフだって“ださい”って言われたら嫌でしょ」

「……そうだけど」

 

 アルフと呼ばれた男の子は、しぶしぶ利人のほうを向き、

 

「……ごめんなさい、リヒト」

 

 小さな声で言った。

 利人はふっと笑い、子どもの頭に手を置く。

 

「謝れて偉いじゃん。許してあげよう」

 

 優しく、冗談めかすように言えば、アルフは顔を真っ赤にして利人の脛を蹴り飛ばした。

 

「なんだよそれ! 頭撫でんな!」

「いってぇ……!」

 

 骨と皮ばかりの身体に、弁慶の泣き所へ全力の蹴り。思わず脛を押さえて悶えるしかない。

 男の子たちは下瞼を引っ張り、舌を突き出してあっかんべーをすると、笑いながら走り去っていった。

 追いかけてげんこつを落とすこともできたが、もう気力がない。

 

「悪いことしちまったね、子どもたちが。蹴られたところ、大丈夫かい?」

「まあ……思ったより痛くないですし……その、リズさん、でしたっけ?」

「ん? ああ、私はこの村の長をやっているエリザベスだよ」

 

 エリザベス、と名乗る彼女は穏やかな笑みを浮かべ、利人もその名前を反芻する。

 中学の歴史で聞いたことのある名前だが、それを“実在する誰か”に向かって呼ぶ日が来るとは思わなかった。

 女の子の一人――ベスは利人の左手の指をひとつずつ確認するように触れながら、村の仲間の名前を得意げに並べていく。

 もう一人の女の子――ハンナはいつの間にか利人の隣に座り込み、遠慮なく肩に寄りかかってきた。

 その微笑ましい光景を、エリザベスと男性――カイロが温かく見守っている。

 利人がそっとカイロに視線を向けると、彼は柔らかく目を細めて名を告げた。

 

「カイロだよ。よろしくね、リヒト」

 

 利人も思わず笑みを返す。

 ほんの数時間前まで、日本の畳の上で独り目を閉じていたはずなのに、今は知らない世界の縁側で、子どもたちの笑い声に囲まれている。

 

 その落差が夢のようで、しかし現実の重さだけは確かに胸に沈んでいた。

 

 ** * ***

 

 指名手配書とヨティスの断片的な説明から、リヒト・パーカーという男がどれほどの事をしでかしてきたのか――利人は、なんとなく察していたつもりだった。

 ゾエルガノフという帝国がどれほど巨大なのかも知らない。

 だが、一つの大都市が壊滅するほどの魔法を使い、死者数不明の大惨事を起こしたのだという。

 

 それだけ聞けば、極悪人でしかない。にもかかわらず、この村では――

 彼の身体を治療し、食事を与え、子どもたちは笑いかけ、大人たちは普通に接している。

 

 それが利人には、不思議で仕方なかった。

 

 やがてエリザベスとカイロは、伏せられるような声で事の一部を語った。

 ゾエルガノフ帝国内で行われていた“人体実験”。

 対象となったのは、ヨティスと同じトルタの血族で、傷の治りが異常に早いという特性を持つため、研究材料にされていたのだという。

 その“実験”の詳細について、エリザベスは子どもたちの前だからか言葉を濁した。

 それだけで、どれほど酷いものだったのか想像できた。

 そして、リヒト・パーカーは―― そのトルタ達を救うため、アルケイン領を焼き払った。

 

 善行であったのか、暴挙であったのか、それは分からない。

 だが結果として、命を救われた者たちが今、目の前で利人に笑いかけている。

 

「そんなことでね、リヒトに会いたいって人がたくさんいるんだ」

「……俺、記憶ないけど?」

「それでも、生きて戻ってきてくれただけで十分なんだよ」

 

 カイロはそう言い、利人の肩にそっと手を置いた。

 左手でキツネを作りハンナの鼻をつまむと、キャッキャと笑う。

 膝の上に座ったベスには「さっきのもっかい!」と言われ、膝を上下に動かす。

 

「ん? あれ、戻ってきたってことは、リヒト・パーカーに会ってるってこと?」

「そうだね」

「リズさんも?」

「ああ」

 

 ヨティスの口ぶりから、てっきりこの村の人間は誰もリヒト・パーカー本人には会っていないのだと思っていた。

 

「ハンナは初めて!」

「ベスも、初めて! リヒトに会ってるのね、リズさんと、カイロだけ!」

「あ、そうなの?」

 

 エリザベスを見ると頷かれ、カイロも同じく頷く。

 エリザベスが村の長で会っていたことに納得し、カイロもまた、それなりの立場の人間なのだろうと思う。

 

「じゃあ……、今の俺、リヒト・パーカーっぽい?」

「ん?」

「記憶ない事実は変えられないけど。ここで全くの別人だってなったら、俺に会いたいって言ってくれてる奴も、なんか嫌だろ?」

 

 記憶喪失だけでも十分迷惑をかけているのに、中身まで別人であることを告げるのは酷だと思い、利人は苦笑しながら続ける。

 

「もっと陰気な奴なら、それっぽく振る舞うし。陽気な奴でもどうにかするし」

 

 半ば冗談、半ば本気。

 だがカイロは小さく首を振り、穏やかな声で返した。

 

「大丈夫だよ、リヒト。記憶がなくても、君は、記憶を失くす前と変わらずリヒト・パーカーだから」

 

 その言葉に、利人は曖昧に「そっか」と呟く。

 安心していいのか、それとも余計に責任を背負ったのか。自分でもよく分からないまま、ベスを膝の上で上下に揺らし続けた。

 

「お、本当に起きてるじゃねぇか」

 

 利人の年齢の倍はありそうな男性たちが、次々に姿を現した。

 その後ろから女性たちも続々と現れ、老若男女合わせて五十人近くが縁側へ集まってきて、家の前は一瞬で“村総出の人だかり”となった。

 

「みんな、この村の人たちだよ」

 

 カイロが耳元で囁き、利人は乾いた笑いをもらした。

 

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