1-1 『鏡の中のイケメン』
――どこだ、ここ。
ゆっくりと瞼を持ち上げると、見覚えのない天井が広がっていた。
木造建築ではあるものの、祖父と暮らしていた家とは微妙に異なる木目の流れや、鼻に残る匂い。
似ているのに、確実に違う。そう判断するまで、そう時間はかからなかった。
知らぬ間に他人の家に上がり込み、眠ってしまう――そんな奇行をやらかすタイプの人間なら、「またやっちゃった、てへっ」で済ませられるのかもしれない。
だが利人は天然行動など起こしたことがないし、酒も薬もやっていない。
だからこそ、この状況は端的に“ありえない”状況だった。
「……なんだよ、これ」
上体を起こそうとした瞬間、右腕が思うように動かない。
頼りなく残った左腕だけで身体を支え、どうにか座り込むと、視界に飛び込んできた自らの身体は、胸元から足先まで、真新しい白布にびっしりと覆われていた。
布が肌に食い込み、息をするたびに締めつけられるような圧が伝わる。
「すげぇな、この怪我」
自嘲気味の言葉をこぼしながら身体をまじまじと眺めると、すぐに“違和感”がその奥から浮上してきた。
重量感が違う。関節の可動も、筋肉のつき方も、肌の感触さえも違う。
骨と皮ばかりの、少し力を入れただけで折れてしまいそうな弱々しい四肢を確かめながら、利人は部屋の隅へ目を向ける。
棚の上、古びた鏡が置かれていた。
包帯に包まれた足をぎこちなく床へ運ぶたび、床板がギシッと鳴る。
鏡の前に立ち、映り込んだ顔を見た瞬間、利人の思考は止まった。
「……まじかよ」
そこに映っていたのは、見知らぬ男の顔だった。
頬をつまみ、瞼を引き下げて眼球を確認しても、鏡像は利人の知る表情を一切返さない。
青緑色の瞳。白めの肌。
どこか異国の血を思わせる整った骨格。
どう見ても――来栖利人ではない。
「なるほど、なぁ……」
ぽつりと漏れた声は、諦めとも納得ともつかない響きをしていた。
「知らない場所に来たんじゃなくて、知らない人間になったってことか」
鏡に映る青緑色の瞳は、もはや“来栖利人”とは違う誰かが映っていた。
***
来栖利人。それは、どこにでもいる極めて平凡な男子高校生だった。
成績も運動もそこそこ。友人もいて、彼女がいた時期さえある。
天才でも、不良でも、引きこもりでもなく、何か一つ突出したものがあるわけでもない。
『平凡』――それが来栖利人を最もよく表す言葉だった。
ただ、両親も祖父もなくし、家族と呼べる存在がもう誰もいない。
それだけが、彼の人生にある唯一の分かりやすい“不幸”だった。
利人は鏡の前で目の前の“新しい顔”をしげしげと観察する。
「……普通の人間だったっていうのになぁ」
自分がなぜ“知らない男”になっているのか、その理由は分からない。
鏡の中の男は、利人の動きに合わせて静かに瞬きを返す。
最近流行の転生モノなら、こういう状況はだいたい“選ばれた人間”の特権だったはずだ。
善行を積んだ聖人、どん底から這い上がった強靭な精神の持ち主、あるいは悲惨な過去を背負い、それでも前を向く者――。
――そういう“それっぽい理由”があるから、ああいう話は成立する。
だが利人には、そんな劇的な背景は何一つない。
それなのに。
「……イケメンかぁ」
鏡の中の男は、とんでもなく整っていた。
黒髪に青緑の瞳という、現実の日本ではまずお目にかかれない組み合わせ。
中二の“黒歴史まっ盛り”だった頃、これほどの外見にどれほど憧れただろうか。
そんな記憶が不意に蘇り、利人は思わず鏡の前で顔を傾けてみせる。
どの角度から見てもイケメン。芸能人以上の、作り物めいた整い方。
このルックスなら、何をしても許されるのではないか――そんな馬鹿げた考えが頭をよぎる。
「憑依先がイケメンって、それだけで人生イージーモードだよな」
自嘲混じりに漏らした声に、鏡の男は当然ながら何も答えない。
しかしその沈黙すら、絵になるのだから不思議だった。
ふと鏡から視線を外すと、部屋の細部が目に入る。
木造の柱、欄間に彫られた精巧な龍、その爪が掴む透明な丸石。
窓の向こうでは、夏の日差しを浴びてひまわりが勢いよく咲き誇っている。
木の匂いと蝉の鳴き声――確かに日本の夏のようでいて、どこか現実からずれている。
利人は左手の人差し指を唇に当てて考え込み、ふと顔を上げると、鏡の中の“新しい自分”と目が合った。
「……悩む姿も、顔がいいだけで様になるもんだな」
髪をかき上げる。
顎に手を添える。
斜めから自分を見る。
伸びをしてみる。
――どう動いても見栄えがする。
その事実に少しだけ浮かれていたとき、ふいに背後から視線を感じ、縁側に目を向けると、一人の女性が立っていた。
グレーの髪に濃い青色の瞳。初対面のはずなのに、強烈な印象を残す容貌をしている。
「えっと……。こんにちは」
助けを求めるように声をかけると、彼女ははっと肩を震わせ、慌てて頭を下げてからためらいがちに言葉を紡いだ。
「起きられていたんですね、リヒトさん」
他人の身体で鏡の前でポーズを決めていた利人の行動は、どう見ても不審者のそれだったろう。
それでも彼女は何も咎めず、ただ優しく微笑む。
その笑みが妙に胸に刺さり、利人は顔から火が出るほどの恥ずかしさに襲われた。




