悪役令嬢になったのは、ずっと銀の匙を使わされていたから
銀の匙が、白磁の底を小さく打った。
王城の小サロンにいた令嬢たちの視線が、ほんのわずかに揺れる。露骨に見つめる者はいない。けれど誰もが、その音を聞いていた。王太子主催の茶会で、侯爵令嬢エルゼリア・ヴァルトハイムがまたやった、と、胸の内ではきっとそう思っている。
匙を沈めたまま、彼女は茶の色を見た。薄い琥珀色。香りは軽い。花を強く焚いたものではない。鼻につく甘さもない。湯気の立ち方も穏やかだ。まずそれを確かめてから、彼女はようやく指先でカップの耳をつまんだ。
向かいに座っていた伯爵令嬢が、気まずそうに笑う。斜め隣の男爵夫人は視線を落とした。誰も咎めない。けれど誰も、その仕草を好ましいとは思わない。
「本日も、それをなさるのですね」
静かな声が落ちてきて、エルゼリアは目を上げた。
王太子セドリックは、笑っていなかった。金の髪は窓辺の光を受けて柔らかく見えるのに、青灰の瞳だけが少し硬い。責めているというほどではない。困っている、と言うほうが近かった。
「本日も、とは」
「茶の前に必ず確かめることです」
「習慣ですわ」
それだけ返して、エルゼリアは匙を引き上げた。変色はない。白い布の上へそれを置き、カップを口元へ運ぶ。だが実際に喉へ流す前に、ほんの一拍、指が止まった。
その躊躇いも、きっと見られている。
「慎重を通り越しておりますわね」
誰かが、軽く笑うように言った。悪意はない。場を和ませるための言い方だった。だがエルゼリアには、その気遣いのほうがよほど面倒だった。
「慎重で困る方がおられるのなら、改めますけれど」
口にしてから、少し鋭すぎたと思った。だが言葉はもう戻らない。小サロンの空気が薄く冷える。伯爵令嬢は慌てて「そのような意味では」と言ったが、遅い。
こういうところだ、とエルゼリアは自分でも分かっている。
本当は、相手を黙らせたいわけではない。ただ、軽く流せばいいところで、流し方が分からないのだ。善意も冗談も、いったん立ち止まって裏を見てからでなければ受け取れない。その一拍が、人には冷たく見える。
「エルゼリア」
セドリックが低く名を呼ぶ。たしなめるほど強くはないが、これ以上やめろという響きはあった。
「少し、肩の力を抜いたほうがいい」
「殿下が仰るなら、そう見えるのでしょうね」
「そう見える、ではなく、実際に疲れているように見える」
「顔色で人の中身まで分かるのなら、皆苦労はいたしませんわ」
男爵夫人がとうとう完全に黙り、誰かが扇をひらいた。扇骨の小さな鳴る音だけが、その場で妙にはっきり響く。
エルゼリアは自分の返答が、王太子の気遣いを撥ねつける可愛げのないものに聞こえたことを理解していた。理解していても、別の言い方を選べない日がある。朝から頭の奥に薄い鈍さがある日は特にだ。眠りが浅かった翌朝は、言葉の角が少しだけ鋭くなる。少しだけ。それで十分、場の空気は壊れる。
その時、サロンの扉がひらき、やわらかな光が差し込むような空気が流れ込んだ。
聖女リディアだった。
淡い金髪を背でゆるく結い、白に近い薄青の衣をまとった彼女は、王城のどこに立っても場を整える女だった。まだ若いのに、物怖じせず、それでいて押しつけがましさがない。誰もが好感を持ちやすい温度を、最初から知っているように見える。
「遅れてしまって、申し訳ありません」
そう言って彼女が微笑むだけで、先ほどまでの冷えた空気が少しほどけた。伯爵令嬢が安堵したように息を吐く。誰かも笑みを作る。セドリックの表情すら、わずかに和らいだ。
エルゼリアだけが、カップを置いた。
リディアは何人かへ挨拶してから、自然な足取りで空いている席へ着いた。王太子の斜め前、ちょうどエルゼリアの視界に入る位置だ。偶然なのか配慮なのかは分からない。分からないことは、だいたい信用しないことにしている。
「よろしければ、皆さまとご一緒したくて」
「もちろんだ」
セドリックが答える。短く、ためらいのない声音だった。その自然さが、かえってエルゼリアの胸の奥をざらつかせる。
茶が新たに運ばれる。菓子皿が置かれる。リディアはまず皆へ「綺麗なお菓子ですね」と笑いかけ、ひととおり場へ柔らかな言葉を配った。そのあとで、ようやくエルゼリアを見た。
「エルゼリア様も、今日はお顔色が少し」
その一言で、エルゼリアはわずかに眉を寄せた。心配の言葉だと分かる。分かるからこそ、なおさら面倒だった。
「聖女様にまで気を遣わせるほどではございません」
「でも、本当に少し青いですわ。朝からお加減が悪いのでは?」
「体調の善し悪しまで場で話すほど親しくしておりましたかしら」
言い切った瞬間、周囲の空気がまた止まった。
リディアは驚いたように瞬きをしたが、すぐに微笑みを戻した。その笑みが崩れないことが、エルゼリアにはかえって不快だった。気まずそうにでもしてくれればいい。少し傷ついた顔でも見せてくれれば、こちらも言い過ぎたと引ける。だが彼女はそうしない。柔らかいまま、場を壊さない位置へ立ち続ける。
「失礼いたしました。無遠慮でしたわね」
「いえ。聖女様はお優しいのですもの」
その言葉が皮肉に聞こえたことは、自分でも分かった。セドリックの視線がこちらへ向く。伯爵令嬢は菓子へ手を伸ばしかけたまま止まった。
すると、その時だった。エルゼリアの視界がふっと揺れた。立ちくらみ、と呼ぶには軽い。だが一瞬、床の模様が斜めに滑る。彼女は無意識にテーブルへ指をついた。
「エルゼリア様?」
リディアが立ち上がるのと、その手が伸びるのはほぼ同時だった。細い指先が、エルゼリアの手首へ触れる。温かく、ひどく人間らしい体温だった。
反射で、エルゼリアはその手を振り払った。
「触れないでくださいませ」
強い声だった。自分でも驚くほどはっきりとした拒絶だった。
椅子が小さく鳴る。誰かが息を呑む。リディアの手が宙に残り、それから静かに引かれる。
「……申し訳ありません」
彼女はそう言ったが、その顔に浮かんだものは傷つきではなかった。ほんの一瞬、確かめるような、何かを見極めたような視線だった。
それがひどく気に障った。
値踏みされたのだ、とエルゼリアは思った。勝者の余裕で見下ろされたような気さえした。そう思った瞬間にはもう、彼女の中でリディアは「王太子の隣へ立つ女」以外の何者でもなくなっていた。
「どうかしたのか」
セドリックが席を立ち、こちらへ来る。エルゼリアは先に体勢を立て直した。ふらつきはもう収まっている。ほんの数秒のことだった。それなのに、妙に心臓だけが速い。
「何でもありません」
「そうは見えなかった」
「聖女様が少し気を回しすぎただけです」
セドリックの視線が、リディアとエルゼリアの間を一度だけ往復する。それから静かに言った。
「今日はもう下がれ」
「皆さまの前で?」
「君の体調が優先だ」
「ありがたいことですわね。ここで倒れでもすれば、ようやく皆さまのお気に召しますもの」
しまった、と思ったのは、言葉が出てからだった。
周囲の令嬢たちの顔がこわばる。セドリックの瞳から温度が抜ける。リディアだけが、静かな顔でエルゼリアを見ていた。気遣っているようにも、優越感を隠しているようにも、少しも見えない。そのことがまた、どうしようもなく癇に障る。
「失礼いたします」
エルゼリアは礼だけをして、その場を離れた。背後に残る沈黙は、振り返らなくても分かる。
回廊へ出た途端、胸の奥の鈍い重さが少しだけ増した。窓辺の石の冷たさに手をつき、呼吸を整える。たぶん大したことではない。最近よくある、軽い頭重感と眠りの浅さの延長だ。だが、こういう日に限って、人と話すと余計な棘が増える。
「やはり休んだほうがよさそうだな」
追ってきたセドリックが、少し離れた位置で止まる。近づきすぎない距離の取り方は、いつからか彼の癖になっていた。昔はもっと近くで話していたような気がするが、その“昔”がどの程度前だったか、今でははっきりしない。
「殿下のお言葉は、いつも正しすぎて息苦しいですわ」
「気遣っているつもりだ」
「ええ。そうなのでしょうね」
その返しも、きっとまた冷たい。分かっているのに、別の言い方が見つからない。セドリックは何か言いかけて、結局言葉を飲み込んだ。そして代わりに、近衛へ視線だけで合図を送る。すると回廊の先に控えていた者が静かに動き、邪魔になる位置の侍従を下がらせた。
そういうところが、エルゼリアには監視めいて見える。
「帰る馬車を用意させた」
「わたくしの意見は挟まれませんのね」
「今は挟まないほうがいい」
「結構。どうせ、わたくしが何を言っても“感じが悪い”で終わりますもの」
その一言だけは、少しだけ本音だった。
セドリックの表情が、ほんのわずかに動く。だが彼は否定しなかった。できなかったのかもしれない。実際、そう見えているのだろうから。
馬車の中で、エルゼリアは目を閉じていた。眠ってはいない。外の音も、対面に座るセドリックの気配も、全部把握したまま、ただ会話だけを拒んでいた。
「エルゼリア」
不意に名を呼ばれ、彼女は薄く目を開けた。
「どうか、今夜は何も無理に口にするな」
意味の分からない一言だった。
「何のお話ですの」
「……ただの忠告だ」
それ以上は言わない。エルゼリアは苛立ちとともに視線を外した。何でも分かったような言い方をして、肝心なことは何も言わない。そういうところが昔から嫌いだった。いや、本当に昔から嫌いだったのかどうかも、今では少し曖昧だ。
その日、ヴァルトハイム侯爵家へ戻る馬車の中で、エルゼリアは窓の外に流れる王都を見ていた。春の終わりの夕暮れはまだ明るく、石造りの建物の壁に淡い赤が残っている。あんなにも人がいて、あんなにも賑わっているのに、自分だけが別の世界へ押し戻されていくような気がした。
侯爵家の屋敷は、王都の北寄り、古い木立に囲まれた一角にある。庭は広く、四季ごとに植え替えられる花壇も、石畳の縁を整える低木も、誰が見ても手入れが行き届いている。外から見れば、静かな名門の屋敷だ。だがエルゼリアにとっては、門をくぐった瞬間から息の浅くなる場所だった。
出迎えの使用人たちは、完璧な礼をした。けれど誰ひとり、まともに目を上げなかった。帰ってきたというより、整えられた空気の中へ戻されたような感覚がある。
母は昼の疲れが出たと言って部屋で休んでいた。父も執務室へは出たものの、夕方には横になったらしい。以前は王都でも有数の剛毅な人として知られた父が、近頃は階段を上るだけで息をつく。母もまた、庭を歩く時間が年々短くなっている。医師は年齢や心労のせいだと言う。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。分からないものは、やはり信用しない。
兄のアルノルトは事故だった。馬の転倒。運が悪かったのだと皆が言った。
妹のエミリアは病だった。もともと身体が弱かったからと、皆が同じ顔で頷いた。
その「皆」の中には、父も母も、姉も、家宰も含まれていた。屋敷の中では、もう誰もその話をしない。死者の名は静かに飾られた肖像画の中へ追いやられ、廊下を行き来する者は皆、視線をそこから少しだけ逸らすようになった。
姉のクラウディアは、夕刻になって帳簿を持ったまま現れた。長い黒髪を後ろでまとめ、濃い青のドレスを隙なく着こなしている。疲れているはずなのに、顔色は崩していない。そういう女だった。
「戻ったのね」
「ええ」
「茶会はどうだったの」
「よくある王城の茶会でしたわ」
少しだけ棘を含めて返すと、クラウディアはそれを流すようにページを閉じた。
「お母様は今は会えないわ。お父様も今日は休ませたほうがいい」
「わたくしの顔を見るだけで、また悪くなると?」
「そういう言い方をしているうちは、あなたも疲れているのよ」
正しい言葉だった。正しすぎて、返す言葉を失う。クラウディアはすでに視線を帳簿へ戻している。彼女にとっては、今は感情より実務が先なのだろう。いつからそうなったのかは、思い出せない。
彼女のすぐ後ろには、家宰のルドルフが立っていた。
年齢は五十に差しかかるくらいだろうか。白髪の混じり始めた黒髪をきちんと撫でつけ、痩せた身体に無駄のない礼服を纏っている。侯爵家に二十年以上仕える古参で、父の代から家の内外を支えてきた男。王都では有能な家宰として名高い。姉も父も母も、彼の仕事ぶりを信頼している。
「お帰りなさいませ、エルゼリア様」
丁寧で、静かで、少しの揺らぎもない声だった。
「留守の間も、何事もなく」
その“何事もなく”という言い回しが、妙に耳についた。兄が死に、妹が死に、父母は弱り、家は薄くきしんでいる。それでもこの男は“何事もなく”と言う。あるいは、それこそが彼にとっての平穏なのかもしれない。
「ご丁寧にどうも」
エルゼリアは形式だけの礼を返した。ルドルフは表情を変えない。クラウディアもまた、二人の間の硬さを見て見ぬふりをした。
弟のユリウスだけが、その夜、食堂へ駆け込んできて、エルゼリアへまっすぐ抱きついてきた。
「姉上!」
まだ十にもならない身体は細く軽い。エルゼリアは反射で彼を抱き留めた。香油とインクの混じった、子どもらしい匂いがする。ユリウスは何も知らない顔で、ただ嬉しそうに笑った。
「戻ってきてくれてよかった」
その言葉だけで、胸の奥が一瞬だけ軋んだ。帰ってきてよかったのかどうか、彼女自身には分からない。だがユリウスにとっては、少なくとも今この瞬間、それは嬉しいことなのだ。
「しばらくいるわ」
「ほんとう?」
「ええ」
嘘ではない。どのくらい“しばらく”なのかは、自分でも分からないだけだ。
食卓へついても、屋敷の空気は重いままだった。父母は結局現れず、クラウディアも遅れると言って戻らない。ユリウスだけが学校で覚えた剣術や、庭師に見つからないよう裏庭で遊んだ話をしている。
運ばれてきたスープへ、エルゼリアはいつものように銀の匙を沈めた。変色はない。パンも肉も問題なく見えた。だが二口、三口と進めるうちに、頭の奥がまた少しだけ重くなった。香りはおかしくない。銀にも何も出ない。それでも、喉の奥に残る微かな青さのようなものが、どうにも嫌だった。
「姉上、もういらないの?」
ユリウスが不思議そうに尋ねる。
「少し疲れているだけ」
「お茶、持ってきてもらう?」
「いらないわ」
即答しすぎた。ユリウスはきょとんとしたが、すぐに「分かった」と頷く。その素直さを見ると、余計なことまで言ってしまいそうで、エルゼリアは視線を皿へ落とした。
部屋へ戻ると、侍女が夜の薬草茶を用意していた。眠りを深くするための、いつもの香り。薄い湯気が立ち、灯りの下で揺れている。
エルゼリアは近づき、銀の匙を沈めた。
変化はない。
それでも、彼女はカップを持ち上げなかった。
王城から戻る馬車の中で、セドリックが口にした意味の分からない忠告が頭をよぎる。今夜は何も無理に口にするな。何のことかも分からない、曖昧な一言。だが、曖昧なものほど厄介だ。気にしないふりをしても、頭の奥へ残る。
彼女は茶を窓辺から最も遠い場所へ移し、カーテンの隙間から庭を見た。夜の庭は暗く、木々の影が風に揺れている。昔、エミリアはこの窓から蛍を探すのが好きだった。アルノルトは夜更けまで本を読み、父に叱られていた。今、そのどちらもいない。
眠ろうとしても、すぐには眠れなかった。頭が重い。胸のどこかがざらつく。今日、自分が言った言葉を思い返す。もう少し穏やかに返せたはずだ。リディアをあそこまで拒む必要はなかったかもしれない。セドリックに対しても、別の言い方はあっただろう。
そう思うのに、次に同じことがあれば、また同じように身構える気もする。善意より先に疑いが立つ。その順番だけは、どうしても変わらない。
夜半近く、廊下でかすかな足音が止まった気がした。
エルゼリアは目を開けたまま、呼吸だけを浅くする。やがて足音は遠ざかった。気のせいかもしれない。侍女か、見回りの者か、あるいは本当に何もなかったのかもしれない。
それでも、胸の底に沈んだ鈍い感覚だけは消えなかった。
何かが、少しずつ悪くなっている。
そう思うのに、何がどう悪いのか、形にする前にいつも指先から零れていく。
翌朝、屋敷はいつも通りに動いていた。
その“いつも通り”が、エルゼリアには何より不自然だった。昨夜、王城で婚約が解消され、王太子妃候補としての立場を剥奪された娘が戻ってきたのだ。屋敷中にもっとさざめきがあってもいい。侍女たちが目配せし合い、下男たちが廊下の隅で噂し、誰かがうっかり哀れみや好奇心を浮かべてもおかしくはない。だが、この家の者たちは誰一人としてそうしない。
朝の廊下を行く侍女は静かに頭を下げるだけで、視線を上げない。下男は通路を譲る。庭師は窓の外で木を刈りながら、こちらを見もしない。音も、気配も、みな必要な分しかない。
まるで屋敷全体が、昨夜のことをもうすでに片づいた案件のように扱っている。
窓辺の椅子で一晩ほとんど眠れないまま夜を明かしたエルゼリアは、指先でこめかみを押さえた。まだ薄い鈍さが残っている。重いというほどではない。だが、思考の端に薄布を一枚挟まれたような煩わしさが続いていた。
扉が叩かれ、侍女が入ってくる。
「お目覚めでいらっしゃいますか」
「ええ」
「奥様はまだお休みです。旦那様は執務室へ向かわれましたが、ご朝食は部屋でと仰せです」
「姉上は」
「朝から帳簿室に」
分かりきった返事だった。クラウディアはもう朝から動いているのだろう。父母が弱ってからというもの、この家では彼女の時間だけが誰より速く進んでいる。
「ユリウス様はお食事の前にお勉強のお時間を」
「そう」
侍女はそこで少し迷うように唇を閉じた。珍しい。ヴァルトハイム家の使用人は、余計な顔色を見せないよう仕込まれている。ためらいが見えるということは、それだけ昨夜のことが屋敷の中で奇妙な形に落ち着いているのだ。
「何か」
「……ご朝食を、皆様とご一緒になさいますかと」
遠回しだった。無理をなさらず部屋で、とは言わない。かといって、食堂へ降りてくださいとも言い切らない。どちらでもいいようでいて、どちらにも責任を持たない尋ね方だ。
「食堂へ行くわ」
侍女は頭を下げた。ほっとしたのか困ったのか分からない顔だった。
支度を整えて廊下へ出ると、朝の陽はすでに高くなっていた。南の回廊はよく光が入るのに、屋敷の内側はどこか薄暗い。窓は大きく、カーテンも上げられている。それでも明るさが隅まで届かないのは、壁にかかった肖像画の色が古く沈んでいるからか、それともこの家の空気そのものが光を吸うからか。
階段を下りたところで、ルドルフがいた。ちょうど給仕へ朝の指示を出し終えたらしく、手元の紙を閉じてこちらを見る。
「おはようございます、エルゼリア様」
「朝から働き者ですこと」
「朝に整えるべきものが多いもので」
いつもの声だ。丁寧で、穏やかで、隙がない。屋敷に戻ってきた娘へ向けるには冷たすぎず、かといって感情も乗らない。忠実な家宰の顔。その完成度が腹立たしい。
「わたくしの分まで整えてくださっているのかしら」
「昨夜お戻りになりましたので、多少は」
「多少、ね」
エルゼリアがそのまま歩き出しても、ルドルフはついてこない。ただ彼の視線だけが、廊下の曲がり角までついてくる気がした。
食堂へ入ると、まず目に入ったのは父の背だった。
以前より小さく見える。背筋は伸ばしているのに、その伸ばし方がすでに無理を含んでいるのが分かる。母はその向かいで、カップを両手で包むように持っていた。湯気は立っているのに、ひと口も飲んでいない。クラウディアは席についているが、皿を見るより先に広げた書類へ目を落としていた。ユリウスだけが、パンをちぎりながらこちらへ顔を輝かせる。
「姉上」
「おはよう」
その声に、母がようやく顔を上げた。
「エルゼリア……無理はしなくてよかったのに」
「部屋で食べても味は変わりませんもの」
言ってから、少しきつい響きになったと自分でも思う。母はかすかに眉を下げたが、何も言わない。父もまた、軽く咳払いをしただけだった。
「座りなさい」
父の声は以前より低く、息が混じる。エルゼリアは頷いて席についた。
給仕がスープを運ぶ。パンが置かれる。卵料理と薄く切った肉、煮た野菜。どれも上等で、過不足がない。どこにもおかしなところはない。
それでも、エルゼリアは銀の匙を取り出した。
父の視線が一瞬だけ動く。母は見ていないふりをする。ユリウスはもう慣れているから何も言わない。クラウディアだけが、書類から顔を上げもせず、低く言った。
「食卓でそれをしない日は来ないのね」
「必要がなくなる日が来るなら」
「その必要が、本当にここまであるのかと聞いているの」
問い詰める口調ではない。ただ疲れている。毎回同じところで引っかかることに疲れている。
「わたくしにはあります」
クラウディアはそこでようやく顔を上げた。夜を越しても整った横顔のまま、しかし目の下には薄い影がある。彼女はエルゼリアではなく、父を一度見た。父は何も言わない。結局、姉が肩で小さく息をついて終わる。
銀の匙に変色はない。
エルゼリアはそれを置いてスープへ口をつけた。やさしい塩気。朝のものとしては軽い。喉を通る。だが二口目を飲んだところで、頭の奥に、昨日から残っていた薄い重さがもう一段だけ濃くなる気がした。
顔には出さない。出せば、また「具合が悪いなら休め」で終わるからだ。
「昨日の件だが」
父がスプーンを置いて言った。その手の動きすら、少し遅い。
「しばらくは王都へ出るな。招待も断る」
「承知しております」
「噂は広がるだろうが、時間が経てば収まる」
時間が経てば。ずいぶん都合のいい薬だと、エルゼリアは思った。兄が死んでも。妹が死んでも。婚約が壊れても。時間が経てば、表面だけは収まる。そうして残るのは、磨かれた廊下と沈黙の増えた食堂だけだ。
「外へ説明を出す必要があります」
クラウディアがすぐに実務へ戻す。「殿下からの処分は“静養”を名目にしておいたほうが角が立ちません。聖女様への件は、王城側がどう話を整えるか次第ですが」
「任せる」
父は短く答えた。実務の細部に口を出す気力はもうあまりないらしい。
「各家から探りも入るでしょう」
ルドルフが、いつの間にか食堂の端に立っていた。入ってきた音を聞かなかったことに、エルゼリアはわずかに眉を寄せる。家宰はそれに気づいたふうもなく続けた。
「まずはお嬢様のご体調を理由に、面会も文書も絞るのがよろしいかと。今は刺激を避けるべきです」
刺激。昨日から何度その言葉を聞いただろう。何かが起きるたび、この家では“刺激を避ける”のが正解になる。結果、誰も何も見ない。
「私もそう思うわ」
母が小さく言った。「エルゼリアは少し痩せたもの」
「食が細いだけです」
「細いだけではないわ」
母はそこで咳き込み、口元へ布を当てた。以前なら使用人を下がらせ、自分で言葉を選び直しただろう人が、今では咳ひとつで話を断たれる。クラウディアがすぐに立ち、背に手を添える。ルドルフは何も慌てず、給仕へ水ではなく薬湯を持ってこさせた。
その流れがあまりに自然で、エルゼリアは食卓の上のスプーンを見た。
母は差し出された薬湯を、迷いなく飲む。
父もまた、自分の皿へほとんど手をつけていない。パンをちぎった指先が止まりがちだ。視線も時々、どこか遠くへ漂うように抜ける。病だ。年齢だ。疲労だ。そう言われればそれらしい。だが、何年もかけて少しずつ衰えていく様子は、時々あまりに滑らかすぎて、かえって恐ろしくなる。
「姉上、ジャム取って」
ユリウスの声が、張りつめた思考を断ち切った。エルゼリアは手を伸ばし、彼の皿の近くへ瓶を移す。弟の指はまだ小さく、パンを持つ形も頼りない。こういうものを見ると、ふと背筋に寒気が走る。守られているはずのものほど、実は脆い。
「昨日の夜会、きれいだった?」
ユリウスが何気なく尋ねる。子どもの関心は残酷だ。誰もが答えに困ることを、いちばんまっすぐに聞く。
「きれいだったわ」
「ふうん。姉上、今度ぼくも見たい」
エルゼリアは少しだけ笑った。
「もう少し大きくなったらね」
その短い会話だけが、食卓の中で唯一まともな温度を持っていた。
朝食のあと、父は休むと言ってすぐに立った。母は侍女に支えられて部屋へ戻る。クラウディアは帳簿室へ。ユリウスは家庭教師のもとへ送られる。人が散るたび、食堂の空気はますます薄くなる。
エルゼリアが席を立とうとした時、クラウディアが背を向けたまま言った。
「あとで少し時間をちょうだい」
「何のために」
「話があるから」
「実務の?」
「半分は」
それだけ言って、姉は去っていく。結局、彼女はいつも半分しか感情を表に出さない。残りの半分は、書類と数字と、この家の維持のために沈めてしまう。
昼過ぎ、帳簿室へ呼ばれたエルゼリアは、廊下の途中で一度立ち止まった。頭が重い。朝から薄く続いていた鈍さが抜けない。睡眠不足のせいだろうと思う。あるいは昨夜の緊張。もしかすると、朝に飲んだスープが合わなかっただけかもしれない。そう考えようとすると、今度は自分の考え方のほうが神経質すぎて嫌になる。
帳簿室の扉は半分開いていた。中ではクラウディアが紙を束ね、ルドルフがその横で報告をしている。声は低く、内容は領地の納品と王都の取引先について。どちらもまともだ。むしろまともすぎる。あの男はいつ見ても、姉のすぐ横で“家を回す”ことに最適化されている。
エルゼリアが入ると、ルドルフは自然に一歩下がった。
「お呼び立てして悪かったわ」
クラウディアはそう言って椅子を勧める。帳簿室には紙とインクの匂いが濃く、窓は開いているのに空気がこもって感じられた。
「夜会のことを叱るのなら、もう終わったわよ」
「叱るためじゃない」
姉は紙を閉じた。「ただ、あなたがこれからどうするつもりなのか確認したいだけ」
「どうするも何も、王都へ出るなと言われたわ」
「その通りにするのかどうかよ」
エルゼリアは少し考え、それから椅子へ座った。クラウディアは疲れた目で妹を見る。愛情がないわけではない。ただ今は、感情より実務が先に立ってしまっている人の目だ。
「しばらくはここにいるわ」
「それが賢い」
「皆そう言うのね」
「賢いことと、あなたが気に入ることは違うでしょう」
棘はない。だが情も甘くない。クラウディアらしい。
「昨夜のことは、王都では長く尾を引くと思う。だからこそ、あなたが余計な動きをしないほうがいい」
「余計な動き、ね」
「そう聞こえる言い方しかできないのは承知しているけど、わたしは家を守らなくてはならないの」
そこまで言って、クラウディアはようやく視線を落とした。ほんの一瞬だけ、人前で見せない疲れが滲む。
「お父様もお母様も、もう昔のようには動けない。ユリウスはまだ幼い。わたしが立たなければ、この家はすぐに崩れる」
その言葉に嘘はなかった。エルゼリアもそれは分かっている。だからこそ責めにくい。
「だから家宰を頼るしかない、と」
「頼らないで済むなら、そうしたいわ」
思いのほか率直な返答だった。エルゼリアは少しだけ眉を上げる。
「でも現実に、ルドルフなしでは回らないのよ」
「回らないようにされている、とは考えないの」
クラウディアの瞳が、そこで初めて鋭くなる。
「またその話?」
「その話、ではなく」
「兄上の時も、エミリアの時も、あなたはずっと誰かを疑っていた。今度はルドルフ?」
「疑う理由があるもの」
「理由を並べれば、何でも疑えるわ」
その返しに、エルゼリアは喉の奥がつまるのを感じた。言い返したい。だが、何をどう言えばいいのかが曖昧になる。輪郭はあるのに掴めない。嫌な感じがする。薄くおかしい。そういう感覚ばかりで、決定打にはならない。
「わたしはあなたを嫌っているわけじゃない」
クラウディアが、少しだけ声を落とす。
「分かってるわ」
「でも、あなたの警戒は時々過敏すぎる。全部に牙を向けていたら、何が本当に危険かも分からなくなる」
正論だった。だからいっそう腹が立つ。こちらの言うことが感情論に見える形へ、いつもきれいに押し込められてしまう。
「姉上には、見えないのね」
「何が」
「この家の空気」
クラウディアはしばらく黙った。それから、ひどく疲れた顔で微笑みともつかないものを浮かべた。
「見えているから立っているのよ」
その答えに、エルゼリアは何も返せなかった。姉は鈍いのではない。ただ、見えたうえで切り分けている。守るべきもの、飲み込むべきもの、見なかったことにするしかないもの。その線引きの中で生きている。エルゼリアには、そのやり方がどうしてもできないだけだ。
話はそれで終わった。クラウディアは再び帳簿へ戻り、ルドルフは静かに次の報告を読み上げる。もう自分の入る余地はないと分かり、エルゼリアは部屋を出た。
扉が閉まったあとも、中から二人の声はしばらく続いていた。淡々と、穏やかに、何事もない家の実務が進む声。
夕方になるころには、こめかみの重さが目の奥へ下りてきていた。寝不足だと言えばそれまでだ。王都では昨日の夜会のことが噂になっているだろう。屋敷の外ではすでに何十もの言葉が、自分を“悪役令嬢”として整え始めている。そう思うだけで胃が冷える。
侍女が休むよう勧め、薄い薬草茶を運んできた。エルゼリアはまた銀の匙を沈める。何も起きない。何も起きないからこそ、逆に腹立たしい。
彼女は茶を口にしなかった。
窓辺へ行き、庭を見下ろす。ユリウスが家庭教師と別れたあと、ひとりで木剣を振っているのが見えた。まだ振り回されているだけの形だ。足も定まらない。見ているこちらが怖くなるほど無防備だ。
――弟だけは守る位置に置く。
その考えが、ひどく自然に胸の中へ落ちる。
婚約が切れた今、自分はもう“王家へ嫁ぐ予定の娘”ではない。少なくとも外からはそう見える。だとすれば、今がいちばん処理しやすい。兄と妹は死んだ。父母は弱っている。姉は家を回すことに忙しい。自分だけが、余計なものを見て、余計なことを言う。
もし何かが起こるなら、遅くない。
来るなら今夜だ、と、エルゼリアは思った。
夕食の席で、彼女はいつもよりさらに口数を減らした。父はほとんど食べず、母は途中で席を立ち、クラウディアは食事より書類を優先する。ルドルフは自然な顔で給仕の手順を整え、薬湯を運ばせ、誰が何をどれだけ口にしたかまで把握しているようだった。ユリウスだけが、昼に見せられた木剣の稽古の続きを話したがった。
「今夜は早く休みなさい」
エルゼリアがそう言うと、弟は少し頬を膨らませた。
「まだ眠くない」
「眠くなくても寝るの」
「姉上は?」
「わたしは起きている」
「なんで?」
少し考えてから、エルゼリアは答えた。
「眠れそうにないから」
それは嘘ではなかった。ユリウスはそれ以上聞かなかった。子どもなりに、姉の今夜の顔色がいつもと違うことを感じたのかもしれない。
食後、彼を部屋まで送る途中で、エルゼリアは側仕えの若い侍女を呼び止めた。
「今夜は、ユリウスの部屋を離れないで」
「はい?」
「眠るまでではなく、朝までよ」
侍女は驚いた顔をしたが、すぐに頭を下げた。「承知いたしました」
理由は聞かない。いい侍女だと思った。聞かない者のほうが、この家では長く残る。
自室へ戻ると、エルゼリアはまず窓を確かめた。鍵は閉まっている。カーテンは半分だけ落とす。燭台は明るすぎない位置へ移す。寝台の脇に置かれた小卓の上から、余計な装飾品をどけた。短剣を一本、引き出しから出して手の届く場所へ置く。大した武器ではない。だが、何も持たずに待つよりはましだ。
夜の茶が運ばれてくる。眠りを助けるためのものだと侍女は言った。エルゼリアは頷きもせず、銀の匙を沈める。
変色はしない。
それでも、彼女は茶を窓辺から最も遠い位置へ置いた。香炉には火を入れない。寝台にも入らない。椅子を壁際へ引き、扉と窓の両方が視界に入る位置へ座る。
屋敷は静かだった。
階下の物音が少しずつ減り、廊下を行く足音も疎らになっていく。遠くで時計が鳴る。風が木を揺らす。誰かが戸を閉める。ごく普通の夜の音だ。だが今夜は、そのどれもが次の沈黙を際立たせるための前触れみたいに聞こえた。
エルゼリアは膝の上へ手を置き、呼吸を浅くした。
婚約が切れた今、自分は前ほど面倒な存在ではない。王家の婚約者という札が外れたのなら、残るのはただ、家の中で余計なことを嗅ぎつける娘だ。そういうものは、事故や病や衰弱の多い家では、ひどく消しやすい。
だから、来るなら今夜だ。
根拠は薄い。だが、これまでだって多くはそうだった。はっきりした証拠より、嫌な気配のほうが先に来る。自分はそれで生き延びてきた。少なくとも、そう思ってきた。
こめかみの奥がじんとする。眠気ではない。鈍い重さだ。指先で押さえても散らない。こんな日に限って、思考は妙にはっきりしている部分と、膜がかかったように鈍る部分がある。
自分の神経のせいかもしれない、と一瞬思う。元々こういう人間なのだと。誰も信じず、何でも悪く受け取り、相手の言葉をまっすぐ受け取れない、感じの悪い女なのだと。
けれどそれなら、なぜ銀に何も出ない日ほど、こうも頭が重いのか。
答えは出ない。考えた先で、いつも少しだけ輪郭がぼやける。
扉の向こうで、足音がひとつ止まった気がした。
エルゼリアは目を細める。部屋の灯りは低く、廊下から見れば彼女がどこにいるかはすぐには分からないだろう。短剣へ手を伸ばす。冷たい柄が掌に収まる。
来るなら今夜だ、と、もう一度胸の内で言葉にした。
その瞬間、不思議なほど心が静かになった。
怖くないわけではない。だが、今夜だけは恐怖より先に確信があった。何かが少しずつ悪くなっている。兄が死んだあの日から、妹がいなくなった日から、父母の顔色が戻らなくなった日から、ずっと続いている何かが、今夜ようやく形を持つ。
だから、目を逸らさない。
扉の外で、今度は確かに、衣擦れの音がした。
衣擦れの音は、一度だけだった。
それがかえって確かだった。風で鳴るものとも、見回りの足音とも違う。戸の向こうで、動きを止めた人間がいる時の、あのわずかな布の擦れる気配。エルゼリアは椅子の背へ体重を預けたまま、短剣の柄へ指をかけた。
「どなた」
声は思ったより平らに出た。
返事はすぐには来ない。沈黙がひとつ置かれ、それから扉の外で低い声がした。
「私でございます、エルゼリア様」
ルドルフだった。
胸の奥で何かが静かに冷える。驚きはない。むしろ、ようやくその名が形を持って目の前に来たという感覚のほうが強かった。
「こんな時間に」
「お休みになっていない気がいたしましたので」
「随分とお心配りが細やかですこと」
「お嬢様が昨夜のような日を越えられた直後です。何事もなければ、それがいちばんでございましょう」
何事もなければ。
またその言い回しだ、とエルゼリアは思う。この男はいつだって、起きていることを“何事”の外へ押し出す。兄が死んでも。妹がいなくなっても。父母が衰えても。まるで、整った表面の内側で崩れていくものは勘定に入らないと言わんばかりに。
「入ってもよろしくて?」
拒めば引くだろうか。たぶん引く。今夜はまだ、そのつもりなのかもしれない。あるいは、拒めるかどうかを確かめているだけかもしれない。
エルゼリアは短剣へ触れたまま言った。
「お好きになさい」
扉が静かに開く。音は最小限だ。軋みも立てない。ルドルフは片手に銀の盆を持っていた。載っているのは湯気の立つ茶器と、小さな蓋つきの薬壺。いかにも夜更けの気遣いに見える組み合わせだった。
彼は扉を閉めても、すぐには近づかない。部屋の中を一度だけ、さりげなく見た。窓。寝台。灯り。椅子の位置。卓の上の茶。香炉に火が入っていないこと。視線は素早く、しかし急いでいるようには見せない。長年この家を回してきた男の、身につきすぎた確認の動きだった。
「起きておいででしたか」
「眠れませんの」
「そうだろうと思いました」
彼は穏やかに微笑んだ。老いの気配を見せない整った顔に、その笑みだけが薄く貼りつく。人を安心させるための角度で作られた口元。何年見ても、どこか人のものに見えない笑いだった。
「少し気が昂ぶっておいででしょうから、こちらをお持ちしました。強いものではありません。香りを抑えた、穏やかなものです」
そう言って盆を小卓へ置く。所作は静かで無駄がない。侯爵家の寝室に夜更けの茶を運び込む家宰という絵面だけ見れば、忠実で、細やかで、配慮のある古参そのものだった。
エルゼリアは座ったまま、その茶器を見た。白磁の細い縁。湯気は薄い。香りは軽い。眠りを誘う草の匂いに、ほんの少しだけ別のものが重なっている気もする。だがそれは、気のせいだと言われればそうかもしれない程度の曖昧さしかない。
「よろしければ」
「ええ、どうも」
エルゼリアは短剣から手を離さず、代わりにもう片方の手で銀の匙を取った。ルドルフの目が、ほんの一瞬だけそこへ落ちる。驚きではない。苛立ちでもない。ただ、長く見慣れたものを再確認しただけの目。
匙を湯の中へ沈める。
白い表面に灯りが揺れる。音もなく、銀は沈黙した。曇りも黒ずみもない。いつものように、何も語らない。
それでもエルゼリアは茶器に手を伸ばさない。
ルドルフは微笑みを崩さなかった。
「何も問題はございませんでしょう」
「そう見えますわね」
「見える、ではなく、その通りです」
「あなたのお口からそう言われると、かえって飲みたくなくなりますの」
軽口のつもりで言ったのではない。だが、あまりに真っ直ぐに言いすぎると自分のほうが不利になることも、彼女はよく知っている。だから言葉の端に少しだけ冗談めいた響きを残した。ルドルフはそれをどう受け取ったのか、ただ薄く首を傾げる。
「私が何か企んでいるとでも」
「この家では、何も企んでいない顔をした方のほうが、信用できませんの」
「お言葉が過ぎます」
「それでも入ってこられたのは、あなたでしょう」
そこまで言って、エルゼリアはようやくカップを見つめた。指先が冷えている。頭はひどく冴えている部分と、膜の張ったように鈍る部分が交互にくる。考えはまとまりきらないのに、嫌な予感だけは細部まで輪郭を持っている。
そして、その時ふいに、あまりに自然すぎて逆に見落としていたことへ気づいた。
銀に反応しない。
何度も、何日も、何年も。銀には出ないのに、食後にだけ妙に頭が重くなる日があった。眠りが浅くなる夜があった。苛立ちが先に立ち、あとから言葉を悔やむ日があった。銀には何も出ない。だから自分の神経のせいかと、何度もそう思わされてきた。
エルゼリアはゆっくりと顔を上げた。
「……銀では分からないものに変えたのね」
初めて、ルドルフの顔からほんのわずかに何かが落ちた。
崩れた、というほどではない。ただ、貼りついていた忠実な家宰の面が、一呼吸だけ遅れた。それだけだった。けれどエルゼリアには十分だった。
「お嬢様」
低く、やわらかい声。たしなめるようで、否定するには慎重すぎる。
「何のことでございましょう」
「とぼけるの?」
「何を」
「ずっと前から、わたくしは銀で確かめていた。兄上が死んだあとも、エミリアがいなくなったあとも、ずっと」
ルドルフは答えない。答えないこと自体が答えだった。
「それなのに、何も出ない日ばかり増えていったわ」
エルゼリアは自分の声が静かすぎることに気づく。怒鳴ってもいない。責め立ててもいない。ただ、夜の静けさへ言葉を一本ずつ立てていくような話し方になっていた。
「食べていないのに頭が重い。眠れない。少しのことで苛立つ。言葉が尖る。あとから考えれば、どうしてあんな返し方をしたのか分からない日がある。それでも銀は黙ったまま」
ルドルフの目が細くなる。観察する目だ。こちらの確信がどの程度のものかを測っている。まだ誤魔化せるか、まだ“神経質な娘の妄言”に落とせるかを量っている。
「疲労でしょう。昨夜のこともありました。お嬢様は元より神経を張りつめやすい」
「元より、ね」
その言葉が喉に刺さる。
元より。そうだ。皆がそう言う。感じが悪いのも。疑り深いのも。言葉が刺々しいのも。エルゼリアの本性だと。最初からそういう女だったと。ならば、この頭の重さも、眠れなさも、胸の奥に溜まっていく苛立ちも、全部その延長で片づけられる。
「あなたにとっては、どちらでもよかったのでしょうね」
「お嬢様」
「元から性質が悪い女でも、そう見えるよう削られていく女でも」
ルドルフはそこで初めて、小さく息をついた。諦めたようにも聞こえるし、むしろここから先へ進める判断をしたようにも見えた。
「ずいぶんと見ておいでだったのですね」
「見ないで済む家ではありませんもの」
「それはお気の毒に」
気の毒に。
その言葉の薄さに、エルゼリアは笑いそうになる。この男は、兄の葬儀でも似たような顔をしていた。妹の棺が運ばれる時も。父が狩りへ出なくなり、母が庭へ下りなくなっても。この男の顔はいつも、少しだけ気の毒そうで、ひどく整っている。
「兄上の時も?」
「……何のことでしょう」
「エミリアの時も?」
ルドルフは答えない。
「父上と母上も?」
そこでようやく、彼は視線を少し落とした。恭順を示すような動きに見えるのに、その実、こちらの顔色を細かく読んでいるだけだと分かる。エルゼリアは背筋に沿って冷たいものが走るのを感じた。
「お嬢様は、昔から少し見すぎる方でした」
やっと出てきた本音は、ひどく穏やかな口調だった。
「余計なところまでお目に入る。だからおつらいのでしょう」
「見えてほしくないものでもあったのかしら」
「この家は、何もかもを真っ直ぐ受け止められるほど、単純ではございません」
「ずいぶんと綺麗に言うのね」
「綺麗にしなければ回らない家もあるのです」
回らない家もある。
その言い方が、ひどく生々しかった。まるで、壊れていること自体を認めたうえで、なお壊れたまま回してきたと告白しているように聞こえる。
「兄上とエミリアも、その“回すため”のうち?」
ルドルフの表情は動かない。だが沈黙は少し長くなった。
「事故も、病も、この世からなくなったわけではありません」
「逃げるのね」
「逃げているのではございません。ただ、お嬢様は一度に多くを繋げすぎる」
「繋がっているからでしょう」
ルドルフは、そこでようやくわずかに笑った。微笑みと言うには温度が足りない。口元だけが動き、目がまったく笑わない笑いだった。
「本当に、勘のよろしい方だ」
それは褒め言葉ではなかった。厄介な道具を見つめる職人の目に近い。エルゼリアは、喉の奥が乾くのを感じた。それでも視線は逸らさない。
「父上と母上は、ただ弱っていった。兄上は事故で、エミリアは病で。わたくしだけ、どうして死ななかったのかしら」
その問いは、思っていたより静かに出た。
ルドルフはしばらく何も言わず、それから小さく首を傾けた。まるで、ようやくその順番でそこへ辿りついたか、とでも言いたげに。
「ご自分で、もうお分かりでしょう」
「聞かせて」
「残酷でございますよ」
「今さら?」
ルドルフは盆の脇へ手を置き、指先で縁をなぞった。爪の先まで整えられた手だ。帳簿も、鍵も、薬包も、同じ手つきで扱うのだろう。
「お嬢様は、王家へ上がるご予定でした」
その言葉で、胸のどこかが一段深く冷えた。
「ですから、今すぐ失われては困るお立場だった」
「だから殺さなかった、と」
「殺す必要が薄かった、と申し上げたほうが正確でしょう」
あまりに平然としていて、一瞬言葉の意味が頭へ入らない。殺す必要が薄かった。人ひとりを生かす理由にしては、ずいぶんと乾いた選び方だ。
「兄上もエミリアも、必要が薄かったの?」
「お二人には、お二人なりの不運がございました」
「あなた、本当に」
吐き捨てようとした言葉の先が、途中で切れた。怒りがないわけではない。ただ、その怒りがうまく形にならない。代わりに、頭の奥へじわじわと重いものが満ちる。銀に反応しない。銀に出ない。だから自分が神経質なのだと思わされる。そうしている間に、場での言葉は尖り、人との距離はさらに壊れ、ますます“扱いづらい女”に見えていく。
ルドルフはその沈黙を肯定と受け取ったのか、続けた。
「お嬢様はご立場がありました。王太子殿下の婚約者という名目は、それだけで多くを守る。だからこそ、消すのではなく、少しずつ整えればよかったのです」
「整える」
「ええ」
「わたくしを?」
「王家に上がるにしても、少々物分かりが悪すぎた」
物分かり。エルゼリアは短く笑った。声がひどく乾いている。物分かりが悪い。つまり、自分は最初から“使いづらい”側に分類されていたのだ。
「少し鈍れば十分でした」
ルドルフは穏やかに言った。
「眠りを少し浅くし、考えをわずかに濁らせ、感情の角を荒くする。それで人は、自分で自分を損ねてゆきます。周囲はそれを“元からの性質”と思う」
それだけで十分だった。これ以上、説明はいらない。エルゼリアの中ではもう、あまりに多くのことが繋がっている。
「わたくしを、わたくしのせいにしたのね」
ルドルフは否定しなかった。
「便利でございましょう」
便利。
この男にとって、自分の人生の輪郭はその程度の語で片づくものなのかと、エルゼリアは思う。怒りはある。確かにあるのに、頭のどこかがまだ鈍っている。剥き出しの憎悪へ届く前に、一段だけ膜がかかる。もしそれすら、この男が長年仕込んできた結果だというのなら、あまりに悪趣味だった。
「でも、今夜は違うわ」
「何がでございましょう」
「王家の婚約者ではなくなった」
そう言うと、ルドルフの目の奥が初めて深くなった。
「ええ」
「今なら、死んでも騒がれにくい」
「その通りです」
ここまで来ると、もはや隠さないのだ、とエルゼリアは理解する。今夜、ここへ来た時点で、この男はすでに“終わらせる側”へ進んでいる。
「だから来たのね」
「ようやく、お嬢様もそうお思いになった」
「見すぎる女ですもの」
その返しに、ルドルフはまた少しだけ笑った。
「本当に。昔から」
昔から。
兄が死んだ日、妹が熱に浮かされた日、母が薬湯を飲み干したあとでひどく眠たそうな顔をした日。父が狩りへ出なくなり、姉が帳簿ばかり抱えるようになった日。どの場面にも、この男はいた。整えた顔で。穏やかな声で。必要な役目だけをこなしながら。
そして、姉のすぐ横に。
「姉上のため?」
エルゼリアがそう問うと、ルドルフは盆へ置いたままの茶器を見た。
「何のことでございましょう」
「兄上も、エミリアも、父上と母上も。全部、姉上のために静かにしたかったの?」
ルドルフは答えない。だがその沈黙の質が変わった。否定のための沈黙ではなく、どこまで見えているかを確かめる沈黙になった。
「姉上だけは静かであるべきだと、そう思っていたのかしら」
エルゼリアの声は、今や自分でも驚くほど静かだった。叫んでもいない。泣いてもいない。ただ、確かめている。目の前の男の輪郭を、これ以上曖昧に逃がさないために。
ルドルフはゆっくりと彼女を見た。その目に、これまでずっと貼りついていた忠義の色が少しだけ薄れる。
「お嬢様は、本当に見すぎる」
それが答えだった。好意でも、忠義でもない。厄介なものへ向ける、静かな苛立ち。
「クラウディア様には、穏やかでいていただきたかった」
初めて、彼は姉の名をそのように口にした。
「余計なものに煩わされず、ただこの家の中心にお立ちになればよかった。それだけのことです」
それだけ。
兄と妹がいなくなり、父母が弱り、自分が鈍らされてきた、その先にある願いが“それだけ”なのだとしたら、この男の中では本当に、人の命も人生も、家具の位置を整えるのとさほど変わらないのかもしれなかった。
「守るつもりだったのではないのね」
ルドルフは少しだけ首を傾けた。
「守る、とは?」
「姉上を」
すると彼は、心底不思議そうな顔をした。そこで初めて、エルゼリアはぞっとする。この男は、自分が誰かを守っているつもりでさえないのだ。ただ、そうあるべき位置へ物を置きたかっただけなのだ。姉を。家を。父母を。兄妹を。自分を。
「あるべき場所に、お戻ししたかっただけです」
その一言で、部屋の空気がひどく冷たくなる。
エルゼリアは短剣の柄を強く握りしめた。
来る。
その確信だけが、今度はあまりに鮮やかだった。
ルドルフが動いた。
今度は迷いがなかった。細い刃が真っ直ぐ腹を狙う。脅しでも牽制でもない。刺して終わらせる角度だ。エルゼリアは横へ身体を切った。完全には避けきれず、刃先が脇腹をかすめる。熱い線が走る。遅れて、衣の下でぬるいものが広がった。
痛い。
だが浅い。まだ動ける。
彼女は痛みを確認した次の瞬間には、短剣を下から振り上げていた。喉ではなく、手首。深くは入らない。だが刃の持ち方がわずかに崩れる。その一拍を逃さず、エルゼリアは左手で燭台を掴み、ルドルフの肩へ叩きつけた。
金属が鈍く鳴る。ルドルフの身体がわずかに流れた。
それでも倒れない。
エルゼリアは歯を食いしばる。優雅さなどとうに消えている。息は乱れ、裾は裂け、髪飾りは床で踏まれている。それでいい。生きていれば、それでいい。
ルドルフが再び刃を起こす。今度は一段低く、腰ごと乗せてくる。止めきれない。受ければ腕が死ぬ。避けても、次が来る。
その一瞬だった。
どこから入ったのか、黒い影が視界を横切った。
音はほとんどない。ただ、ルドルフの刃が本来の軌道を外される硬い衝突音だけが、夜の中心で鋭く弾けた。ルドルフの身体が不自然に止まる。エルゼリアも止まった。止まらされた、に近い。
黒い人影が、二人の間へ割って入っていた。
近衛とも使用人ともつかない、暗い装束。顔の上半分を覆い、息さえ荒げていない。片手に短い刀身。もう片方の手でルドルフの腕を外へ払っている。その動きは速いのに、派手さがない。最短で、必要なだけを奪う動きだ。
ルドルフが初めて明確に動揺した。
「……誰だ」
低く漏れたその声に、影は答えない。代わりに足をひとつ踏み換え、ルドルフとエルゼリアの間へ“壁”のように立つ。
エルゼリアも息を呑んだ。誰か。だが味方だと断じるには早い。分からないものを信じるほど、自分はまともではない。
「下がって」
影が短く言った。男の声だった。抑えられているが若すぎない。命令とも懇願ともつかない、最低限の声音。
エルゼリアは下がらない。下がれない、ではなく、下がった瞬間に自分が盤面から外される気がしたからだ。
「嫌よ」
そう返した自分の声が、驚くほど平らだった。
影は一瞬だけ肩を揺らした。笑ったのかもしれない。だが次の瞬間には、ルドルフが再び動いていた。今度は影を狙う。黒装束の男は正面から受けず、半歩だけ斜めへ外し、そのままルドルフの肘を押し流す。ほんのわずかな接触なのに、ルドルフの体勢が崩れる。
強い。
だが、全部を奪うつもりではないのも分かった。止める。致命を外す。そこまでだ。仕留める動きではない。
エルゼリアはその隙に横へ回る。脇腹がずきりと痛む。だが浅い。まだ踏める。ルドルフの意識が影へ向いた今しかない。
「ルドルフ」
名を呼ぶと、彼が一瞬だけこちらを見る。そこへエルゼリアは床に散った茶器の破片を蹴り上げた。破片が彼の頬を裂く。目が細く閉じる。その瞬間、彼女は踏み込み、短剣を持つ手首を下から切りつけた。
今度は浅くなかった。
血がはっきりと散り、ルドルフの刃が床へ落ちる。
同時に、廊下の向こうで扉の開く音が重なった。
「エルゼリア!」
クラウディアの声だった。
次の瞬間、帳簿室にいた時とはまるで違う足音で彼女が飛び込んでくる。夜着の上に急いで羽織を引っかけただけの姿。髪も半ばほどけている。彼女の後ろには侍女がひとり、顔を青くして立ち尽くしていた。
クラウディアはまずエルゼリアの脇腹の血を見た。次に床の刃。倒れた燭台。破れた敷物。そして、その中央にいるルドルフを見た。
「……何をしているの」
その問いは、怒りでも悲鳴でもなく、理解を拒む声だった。
ルドルフは傷ついた手を押さえたまま、初めて取り繕う時間を失った顔をしていた。影はなお無言で立っている。その異物の存在も、今はクラウディアの目に入っていないように見える。彼女には、長年すぐ横にいた男の顔が変わってしまったことしか映っていないのだろう。
「お嬢様」
ルドルフはクラウディアを見た。声だけが急に甘くなる。痛ましいほど、馴染んだ響きだった。
「どうか、こちらへは」
「来ないで、姉上」
エルゼリアが先に言う。血の匂いが濃い。息を吸うたび、脇腹が痛む。それでも目は逸らさない。
「そいつはあなたを守っていたんじゃない」
クラウディアの瞳が揺れる。理解したくないのに、理解し始めている顔だった。
「違います」
ルドルフが初めて強く言った。「私は、あなたのために」
「ために、何を」
エルゼリアの声ではなく、クラウディア自身の問いだった。
そこでルドルフの顔が変わる。
恭順も穏やかさも、ついに崩れた。残ったのは、長く執着を押し殺してきた者だけが持つ、ひどく静かな熱だった。
「この家を静かにしたかったのです」
クラウディアは息を止めた。
「あなたが煩わされないように。余計なものに煩わされず、ただ立っておいでになれば、それでよかった」
「余計な、もの」
クラウディアの声が掠れる。
「兄上も、エミリアも、父上と母上も、わたくしも?」
エルゼリアがそう言うと、ルドルフは彼女ではなくクラウディアだけを見た。
「あなたには重すぎたのです」
「誰に」
「皆が」
その一言に、クラウディアの顔色がはっきりと変わった。ようやく見えたのだろう。この男は自分を支えていたのではない。自分を中心へ固定したかっただけだ。そのために周囲を削り、静かにし、動かなくして、最後には“立つしかない姉”を作った。
「あなたは……」
クラウディアの唇が震える。「わたしを、何だと思っていたの」
ルドルフは、その問いに対して、答えにならないほどまっすぐに答えた。
「あるべき場所にお戻ししたかった」
それは愛ではなかった。忠義でもない。まして保護などではない。ただ配置だ。家の中心に、彼の望む形のクラウディアを置くための調整。兄も妹も、父母も、エルゼリアさえも、そのための駒に過ぎなかった。
クラウディアの膝がわずかに揺れる。だが彼女は倒れなかった。倒れずに、唇を噛みしめて立っている。その姿を見て、エルゼリアは一瞬だけ、昔の姉を思い出した。兄が落馬した日の夜、泣く暇もなく使用人へ指示を飛ばしていた横顔。エミリアの葬儀の日、誰より静かに立ち尽くしていた背中。見えていなかったのではない。見えたものを片づけながら、生きてきただけなのだ。
その姉の前で、ルドルフがなお一歩踏み出そうとした。
影が動くより早く、エルゼリアが前へ出る。
脇腹の痛みで視界が少し白む。だが関係ない。ここで終わらせなければ、ずっと同じだ。
「来ないで」
今度の言葉は、ルドルフへ向けたものだった。
彼がようやくこちらを見る。手首の傷から血が落ち、白手袋を濡らしている。顔の裂け目も浅くはない。だがまだ動ける。動こうとしている。
だからエルゼリアは、もう待たない。
半歩で間合いへ入り、短剣を逆手に持ち替える。喉ではない。喉は外せば終わる。胸も厚着で読みづらい。だから、脇腹のさらに下、姿勢を支えるために力の集まる場所を狙う。綺麗ではない。令嬢のすることではない。だが今夜、自分は令嬢でいるために戦っているのではない。
生きるために刺す。
ルドルフが避けようと身体を引く。だが右手はもう使いにくい。左で受けるには遅い。エルゼリアの短剣は、衣を割り、その下へ入った。
深くはない。だが十分だ。
ルドルフの息が初めて乱れる。膝が落ち、床へ片手をつく。白い手袋が血と茶で汚れる。エルゼリアはすぐには刃を引かず、彼の目を見た。
「兄上が死んだ日から、わたくしは何もそのまま信じていない」
喉の奥が熱い。だが声は震えなかった。
「それでも足りなかった。銀に映らないものがあったから」
ルドルフの呼吸が浅くなる。まだ倒れきらない。だが、もう立ち上がるには遠い。
「でも、今夜は見えたわ」
そう言って、エルゼリアは短剣を引いた。
ルドルフが崩れる。床へ落ちる音は、砕けた茶器の音より小さかった。
あまりにあっけなくて、しばらく誰も動けなかった。
燭台の火が敷物の端を焦がし、侍女が慌てて踏み消す。焦げた匂いが血の匂いに混ざる。影はなお黙ったまま、部屋の入口に立っている。クラウディアは数歩の距離を保ったまま、床に倒れたルドルフを見ていた。
そしてようやく、彼女はエルゼリアを見た。
その視線には、恐怖も、痛みも、信じたくなかったものを見てしまった人間の空白もあった。
けれどそこに、妹を責める色はなかった。
クラウディアが一歩近づく。
「傷は」
「浅いわ」
すぐに答えた声が、思ったより掠れていた。エルゼリアはそこで初めて、自分がひどく息を詰めていたことに気づく。
クラウディアは倒れたルドルフを見た。血の広がる床。転がった刃。崩れた燭台。次に、エルゼリアの握る短剣を見た。その顔がわずかに歪む。だが泣きはしない。
「……そう」
それだけ言って、姉は唇を噛んだ。
兄が死んだ日も、妹がいなくなった日も、この人はきっとこうして立っていたのだろう。壊れかけたものを前に、まず崩れずにいることを選ぶ。誰かの代わりに。
「姉上」
エルゼリアが名を呼ぶと、クラウディアは妹の顔を正面から見た。
「わたし、見えていなかったわけじゃないの」
それは言い訳ではなかった。ひどく疲れた、本音だった。
「見えても、止められないものが多すぎた」
エルゼリアは何も言えなかった。その通りだと思ったからだ。見えても止められない。止めるには遅すぎる。そういうものの中で、姉は家を回してきたのだ。
「でも、これは」
クラウディアはそこで一度言葉を切り、床のルドルフへ視線を落とした。
「これは、見ないふりをしていいものじゃなかったのね」
その一言が、妙に深く胸へ沈む。
最初に動いたのは、入口に立ったまま沈黙していた影の男ではなく、外の気配だった。廊下の向こうで人の動く音が重なり、ほどなくして見知らぬ男たちが二人、無駄のない足取りで部屋へ入ってくる。近衛の装いではないが、屋敷の使用人でもない。彼らはクラウディアへ礼を取ったあと、倒れたルドルフの傷を押さえ、手際よく身動きを封じた。
屋敷の者ではない。
その事実が、今夜の異常の輪郭をさらに深くした。
エルゼリアがそれを問うより先に、また別の足音がした。急いではいない。だがためらいもない歩き方だった。
廊下の角を曲がって現れたのは、白に近い薄青の衣をまとったリディアだった。夜会の華やかな装いではない。それでも灯りの下に立つと、彼女だけは不思議と場の色を変える。
クラウディアが息を呑む。
「聖女様……」
「ご説明はあとでいたします」
リディアはそう言い、まずエルゼリアを見た。勝者の余裕も、慰めの色もない。ただ、ようやく間に合った者の静けさだけがあった。
「お怪我を」
「浅いわ」
リディアは近づく前に、はっきりと告げた。
「触れます」
その言い方は、強引でも遠慮がちでもなかった。エルゼリアは一瞬だけ迷い、それから何も言わなかった。指先が脇腹へ近づく。温かな気配が傷へ重なり、痛みが少しだけ遠のいた。
「深くはありません」
リディアは短くそう言って手を離した。そして、迷わず本題へ入る。
「最初にお触れした時、分かったのです」
茶会の回廊。ふらついた手首。振り払った温度。エルゼリアの記憶がそこへ戻る。
「あなたの中にあったのは、すぐ命を奪う毒ではありませんでした。だから銀にも出なかった」
リディアの声は低く、澄んでいた。
「けれど、長く積もる草の気配があった。眠りを浅くし、頭を重くし、考えを曇らせるものです。致命ではない。けれど続けば、人は自分の鋭さを自分で嫌うようになる」
エルゼリアは息を止めた。
「疑い深かったのではありません」
リディアはまっすぐに言う。
「そうでなければ立っていられない身体にされていたのです」
その言葉が、何よりも深く入った。
銀に出ない。だから自分のせいだと思うしかなかった。神経質なのだと。性格が悪いのだと。少し疲れやすいだけなのだと。何度も、何度も。
リディアはそこで、入口に立つ影の男へ視線を送る。
「わたくしが殿下へお伝えしたあと、影がつきました」
男は黙って顔を覆っていた布を外した。若い。だが少年ではない。王都の近衛にいそうな整った顔立ちだが、その目だけは訓練された者の乾いた静けさを持っていた。
「殿下の影です」
その言葉の意味が、エルゼリアの中で一拍遅れて落ちる。
「かなり前からです。常に近くではありませんでしたが、致命になるものだけは防いでいた」
エルゼリアが影の男を見ると、彼は簡潔に言った。
「馬車の車輪が緩められていた時。給仕が替えられた時。茶器が途中で差し替わった時。夜会で不用意に近づく者がいた時」
それだけだった。だが十分だった。
王太子の近衛が妙に厚かったこと。誰かが近づく前に侍従が割って入ったこと。なぜか給仕が替わったこと。小さな違和感が、一気に繋がる。
「断罪は」
クラウディアが低く問う。
リディアは頷いた。
「家宰を炙り出すための舞台でした」
部屋の空気がまた一段変わる。
「婚約者である限り、妹君は誰の目にも王家の庇護の中にある。相手は動きにくい。ですが、公に価値を失ったように見えれば、今度こそ処理できると考える」
クラウディアは床のルドルフを見た。リディアはその視線を追って、静かに続ける。
「ですから、影をつけたままお戻ししたのです」
おとりとして、とはあえて言わなかった。だが言わなくても分かった。
エルゼリアは手のひらが冷えていくのを感じた。
「そこまでして」
ようやく出た声は低かった。
「そこまでして、わたくしを使う必要があったの」
リディアは目を逸らさない。
「使ったのではなく」
そこで一度だけ言葉を選び、言い直す。
「殿下は、ご自分が嫌われることを承知で、そこまでしか届かないと判断なさったのです」
痛い言い方だった。けれど、いちばん正確でもあった。
影の男が懐から一通の封を取り出した。王家の紋章が押されている。血にも茶にも触れないよう包まれたその紙を、彼はまっすぐエルゼリアへ差し出した。
「殿下より」
受け取る指先は、思ったより震えていなかった。
文面は短い。セドリックらしい、無駄のない字だった。
――君を切り捨てたのではない。
――言葉が届かないと知っていたから、あの形を取った。
――信じてもらえぬまま終わるより、嫌われても生きていてほしかった。
――できるなら今度こそ、正面から君を愛したいと思っている。
そこで、呼吸が少しだけ止まる。
利用ではなく、好きだった。
好きだっただけではなく、愛そうとしていた。
最後の一行だけが、ひどく彼らしく、ひどく残酷だった。
――今すぐ信じろとは言わない。ただ、生きて私の前へ戻ってきてほしかった。
紙の重さが、急に変わる。
エルゼリアはしばらく黙ってそれを見ていた。すぐに泣けるほど素直ではない。読んだからといって、すぐ信じられるほど壊れ方も軽くない。
リディアが静かに言う。
「殿下は最初からすべて知っていたわけではありません。ただ、おかしいとは思っておられました。あなたは冷たいのではなく、不自然だったと」
不自然。その言葉が責めより深く刺さる。
「そして、わたくしに頼まれたのです。恋敵の役を引き受けてほしいと」
クラウディアがわずかに息を呑む。
リディアは続けた。
「殿下とわたくしの間に、そのような意味はございません。わたくしには別に想う方がおります。だから役を演じることに迷いはありませんでした」
そこで、初めて少しだけ苦く笑う。
「ただ、あなたにあれほど嫌われるのは、少し堪えました」
回廊で見た表情。茶会での距離。夜会で近づきすぎなかった立ち位置。今なら全部、別の意味に見える。
分かる。分かるのに、謝罪の言葉はまだ遠い。
エルゼリアは手紙を閉じた。
卓の上には銀の匙がある。長く握ってきた冷たさだ。兄が死んだ日から、妹が熱に浮かされた夜から、父母の顔色が少しずつ褪せていくのを見た日から、自分はそれを握り続けてきた。誰も信じられなくても、これだけは手元にあった。
銀は万能ではなかった。
いちばん深く刺さっていたものには、何も答えなかった。
それでも、無意味だったわけではない。
確かに自分を生き延びさせてもいた。
エルゼリアは銀の匙を手に取った。冷たさは変わらない。けれど、その意味だけが少し変わった気がした。
「……今すぐ全部は、無理だわ」
それは誰へ向けた言葉なのか、自分でも曖昧だった。セドリックへ。リディアへ。あるいは、ここまで生き延びてきた自分自身へ。
「そうでしょうね」
リディアは急かさずに答えた。
「わたくしでもそう思います」
その率直さに、エルゼリアの口元がほんの少しだけ緩む。笑みと呼ぶには浅い、ほとんど見えないほどの変化だった。
クラウディアが近づいてくる。足取りは重いが、確かだ。彼女は妹の脇腹の血と、手の中の手紙と、銀の匙を見た。
「エルゼリア」
久しく失われていた、姉らしい声だった。
「すぐには何も決めなくていい」
それだけだった。だがそれで十分だった。家を回すためでも、処理のためでもなく、ただ妹に向けられた言葉。
扉の外では、まだ人が行き来している。医師も、父母を起こす者も、屋敷を整える者もいるのだろう。今夜だけで終わる話ではない。兄も妹も戻らない。父母の衰えも消えない。家の空気も、すぐには変わらない。
自分の中だって同じだ。明日から差し出されたものを素直に信じられるわけではない。セドリックの手紙を読んだからといって、すぐにその人の前で泣けるほど簡単にもできていない。
それでも、前とまったく同じではいられないことだけは分かった。
エルゼリアは銀の匙を握りしめたまま、窓の外の闇を見た。
前を見る、とまではまだ言えない。
信じる、とも。
けれど、その夜はじめて、銀の匙を握る手の力がほんの少しだけ緩んでいた。
私の好きな形が、かなり濃く出た話になりました。
婚約破棄や断罪の場面を使いながら、今回は「何をされたか」よりも、「本人が自分のせいだと思わされてきたもの」を軸にしています。
銀の匙はお守りでもあり、限界でもありました。役に立っていたのに、全部は救えなかったものとして置けたのは、この話らしいところかなと思っています。
エルゼリアは強いというより、疑わなければ立っていられなかった人です。
だから最後も、急に全部を信じられるようにはしていません。すぐに綺麗に救われないけれど、それでも少しだけ握る力が緩むところまで行けたなら、今回はそこが着地点でした。
少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。
読んでくださって、ありがとうございました。




