枯れ木再生事業
その村には、どこにでもありそうな平和な空気が漂っていた。しかし、そこに住むタナカ氏という老人は、決して「どこにでもいる」タイプではなかった。彼は元・中央研究所の主席研究員であり、退職後の余生を、遺伝子工学の個人的な趣味に捧げていたのである。
ある日のことだ。タナカ氏が庭で品種改良の実験をしていたところ、隣に住む野心家の男が、タナカ氏の飼い犬を無理やり連れ去ろうとした。その犬は、タナカ氏が細胞膜の透過性を高める特殊なナノマシンを投与した試作品だったのだが、隣人はそれを「宝の場所を嗅ぎ分ける魔法の犬」だと思い込んでいたらしい。
結局、強引な連れ出しに耐えられなかった犬は、隣人の庭でストレス性のショックにより息絶えてしまった。悲しんだタナカ氏は、せめてもの供養にと、犬の亡骸を自分の庭の片隅に埋めた。すると、どうしたことか。数日後、その場所から奇妙な形をした一本の木が生えてきたのである。
「ふむ、犬の体内に残留していたナノマシンが、土壌の有機物と結合して自己増殖を始めたか」
タナカ氏は冷静に分析した。彼はその木を切り倒し、臼を作った。これで餅をつけば、何か面白い反応が見られるかもしれない。そう思って臼を叩き始めると、中から出てきたのは餅ではなく、金色の微細な粉末だった。
「これは素晴らしい。空気中の重金属を吸着し、結晶化させる触媒の役割を果たしている」
タナカ氏は満足げに頷いた。しかし、これを聞きつけた例の隣人が黙っているはずがない。彼は力ずくで臼を奪い取ると、自分の家で乱暴に餅をつき始めた。ところが、出てきたのは黄金ではなく、腐敗した生ゴミの山だった。
「汚らわしい! こんなものはゴミだ!」
激怒した隣人は、臼を斧で叩き割り、暖炉の薪にして燃やしてしまった。
翌朝、タナカ氏は隣人の家を訪れ、申し訳なさそうにしている彼から臼の灰を譲り受けた。
「灰になっても、その分子構造には興味がある。再利用の道はあるはずだ」
タナカ氏はその灰を袋に入れ、村を散歩することにした。ちょうど季節は冬。枯れ木が寒空に枝を伸ばしている。タナカ氏は、ふと思いついて、その灰を一掴み、枯れた桜の木に振りかけてみた。
その瞬間、奇跡が起きた。
灰の粒子が触媒となり、大気中の二酸化炭素と水分を瞬時に固定化。ピンク色の高分子結晶へと変貌させ、それがまるで満開の花のように枝を覆い尽くしたのだ。
「ほう、視覚的にも美しい。炭素固定のデモンストレーションとしては完璧だ」
タナカ氏が次々と枯れ木に「花」を咲かせていると、ちょうどそこへ、この地方を視察に訪れていた権力者が通りかかった。
「見事だ! この冬に桜を咲かせるとは。これぞ、わが国が求める革新的グリーン・テクノロジーだ!」
権力者はタナカ氏を称賛し、多額の助成金と名誉勲章を与えた。
面白くないのは隣人である。彼はタナカ氏の成功を見て、暖炉に残っていた残りの灰をかき集め、権力者の前へ飛び出した。
「私の方がもっとすごい花を咲かせてみせましょう!」
隣人は思い切り灰を投げつけた。しかし、彼の灰にはタナカ氏のような精密な計算も、ナノマシンの調整も含まれていない。ただの燃えカスである。
突風が吹き、灰は権力者の目と鼻に直撃した。
「無礼者! 暗殺を企てたな!」
隣人はその場で警備員に取り押さえられ、冷たい牢屋へと連行されていった。
さて、物語はここで終わらないのが、タナカ氏の住む現代社会の常である。
タナカ氏が開発した「灰」は、政府主導の「枯れ木再生・カーボンニュートラル事業」として大規模に採用されることになった。全国の枯れ木に、タナカ氏の灰がヘリコプターで散布された。
日本中は、季節外れのピンク色の結晶で溢れかえった。人々は歓喜した。これこそが科学の勝利であり、環境問題の解決策だと信じて疑わなかった。
しかし、数ヶ月が経った頃。
タナカ氏のもとに、政府の担当者が顔を真っ青にして駆け込んできた。
「タナカ先生! 大変です。あの『花』が、一向に枯れないんです!」
「当たり前ですよ」とタナカ氏はティーカップを置きながら答えた。「あれは植物ではなく、高分子結晶ですから。自然界の微生物には分解できません」
事態は深刻だった。枯れ木に付着した結晶は、周囲の土壌の養分を遮断し、さらに重層的に重なり合って、木の重さを限界まで引き上げた。ついに重さに耐えきれなくなった木々が、次々と住宅街に向かって倒れ始めたのだ。
さらに最悪なことに、この「花」の粒子は非常に軽く、風に乗って世界中に飛散した。人々の肺に入り込めば、体内の水分と反応して結晶化し、呼吸困難を引き起こす。
かつて「美しい」と称えられた光景は、今や「目に見えない死の粉」が舞う地獄絵図へと変わっていた。
「先生、どうにかしてこれを消す方法は……」
「ありますよ。ただ、それには莫大な予算と、また別の触媒が必要です。それを散布すれば、今度はすべてを黒い炭に変えてしまうでしょうがね」
タナカ氏は窓の外を眺めた。世界は今や、毒々しいほどに鮮やかなピンク色に染まっている。窓の外では、防護服を着た役人たちが右往左往し、結晶化したピンクの粉末を必死に掻き集めているが、その手つきは砂漠で砂を数えるように虚しい。
タナカ氏は、多額の助成金で購入した最高級の葉巻に火をつけた。
「まあ、見栄えだけはいい。隣人のような目先の利益に目がくらんだ連中や、それを手放しで称賛した大衆には、これくらい派手な終末がお似合いですよ」
ピンク色の粉雪が静かに、そして永遠に降り続く中、タナカ氏の冷ややかな笑い声だけが、防音完備のシェルターの中に響いていた。




