祝いの会での出来事《2》
半ば強引に風真を納得させた茉莉は、風真と別れて化粧室へと向かっていた。
突然ーー茉莉は背後からぐいと腕を引かれた。
後ろを振り向かされると、そのまま身体を押されて壁に強く打ちつけられる。
「あー痛かったー?」
茉莉の目の前に、白色の髪の若い男がいる。
この場にそぐわない黒のラフな上下を着ているその男は茉莉よりも背が低く、上目遣いで茉莉を見る目の奥はギラギラと光っていた。
ひゅっと息が出来なくなった。
男の手で壁に押さえつけられたままの茉莉の身体が、無意識に小刻みに震える。
「泣かないでねー。泣かれるのマジ面倒だから」
楽しげに、それから凄むように男が言った。その声は茉莉には聞こえていなかった。
こわいこわいこわいこわい
この男が? この感じが
怖くて怖くてたまらないーー
×××××××ーーーーー×××ーーーー
『ーーつり、茉莉っ!』
どこからか聞こえてくる、必死に茉莉を呼ぶ声。
『ごめん茉莉。怖い思いをさせて。大丈夫、大丈夫だからーー』
ーーなさいごめんなさいごめんなさいーー
×××××××ーー×××××××××ーーー
『ーー茉莉。俺を……がっかりさせるな』
「っーー」
記憶の中の冷たい目が、茉莉をノイズがかった思考から引き戻した。
しっかりしなきゃ。こんなんじゃーー約束を守れない
そう自分に言い聞かせ、茉莉は手を強く握りしめる。
「さっきからなあんにも言わないけど、口が利けないの?」
「……いえ、」
絞るように声を出し、茉莉は軽く笑った。
「馬鹿がいたなぁって思って」
「はぁっ?」
「まぁでも、私が一人のところを狙ってくれたことには感謝しますけど。風真の手を煩わせずにすむから。あなたにはーー私一人で十分」
強がって吐き出した茉莉の言葉に、男が反応した。茉莉の身体から一旦手を離し、素早くその手を茉莉の首へと動かす。そして力を込めて、茉莉の首を絞め上げた。
「……う……」
苦しくて、茉莉は呻く。
×××××××××××××ーーー×××××ーーー
××××ーーー××ーーーーーー×××××××
再び、茉莉の思考はノイズに支配された。
「ーー何をしてるんですか? 矢島さん」
不意に力強く肩を掴まれ、矢島は振り向いた。
「あ、颯馬くん」
弾んだ声を上げ、矢島は茉莉からパッと手を放す。今の今まで矢島が首を絞めていた茉莉が咳き込み、その場にしゃがんだ。
「めっずらしー。颯馬くんから俺に話しかけてくるなんて」
苦しそうに咳をしている茉莉に目をやった後、颯馬が真顔で矢島を見る。
そんな颯馬に対して矢島もまた顔付きを険しくした。
「俺ね、茉莉ちゃんと楽しくお喋りしてたんだけど……そう見えなかった?」
「……京華さんに、茉莉さんのことを構えとでも言われました?」
矢島の質問には答えずに颯馬は聞いた。
「まあね」
この時茉莉はようやく咳が治まったらしく、呼吸を整えていた。
「そうですか。ではもういいでしょう? この仕事は私が引き継ぎます」
「えー」
不満気に矢島が鼻を鳴らす。
「もう十分だと思いますが? 面倒な始末は私がしておきます」
颯馬が視線をやった先を矢島も見る。焦点の定まっていないような目をした茉莉が座り込んだままでいる。
「あらら…でも放っておけばいいのに。颯馬くんってば優しいね。分かったよ、後は任せる」
「…………………」
矢島が無言の颯馬の肩をぽんぽんと叩いた。
「じゃあねー茉莉ちゃん」
「ーーえ? あ、と、」
唐突に声をかけられ、視線を矢島にやった茉莉はしどろもどろになった。一瞬矢島が不思議そうにしたが、そのままこの場から離れていく。
茉莉達から遠ざかっていく矢島は、内心訝しく思っていた。さっきの茉莉のきょとんとした目。まるで状況を何も理解していないようなーー
「ーー大丈夫ですか? 茉莉さん」
優しく気遣うような声。顔を向けると、心配そうな眼差し。胸がじんとなり、茉莉はゆっくりと彼を呼ぶ。
「そう、ま……?」
続く言葉は自然とこぼれた。
「ごめんね、迷惑かけちゃって……」
立ち上がり、茉莉は笑う。
何故かさっきからずっと纏わりつく恐怖心。何故か颯馬に縋りそうになる自分。
それにこの颯馬の態度ーー自分はきっと迷惑をかけた。
「もう大丈夫だから」
「……茉莉」
呼ばれて、茉莉はびくっとした。下唇をきゅっと噛み、うまく声を出そうと努める。
「私ちゃんとしっかりする。約束は守るから」
「約束……」
「風真は、必ず自由にする」
あの時のように颯馬を失望させない。これ以上颯馬に失望されたくない。
そのためには、弱さを見せてはいけない。
「……あの男ーー矢島に、何かされましたか?」
「え?」
茉莉は戸惑いつつ考えた。颯馬が何故そんなことを聞くのか分からなかった。
颯馬が不安そうな顔をしている理由もーー
「え、と……話しかけられただけだけど……」
颯馬が一瞬目を見開き、
「……そうですか……」
そう言って俯いた。茉莉に颯馬の表情は見えない。だが今の声音に安堵とどこか恐れに似た弱々しさを感じた。
「そうーー」
「茉莉さんはもう帰った方がいいと思います」
冷たい颯馬の口調が、茉莉が彼の名を呼ぼうとしたのを遮った。
「あなたは、ここにいるべきじゃない」
茉莉の脳裏に、さっきの颯馬と京華の姿が浮かんだ。
あんなに虐げられても京華に忠誠を尽くす颯馬。
自分が妾の子じゃなければ、自分が正妻の子であればーーなんて考えてしまう自分が恥ずかしい。自分が情けない。
こんなだから颯馬に見限られるのだ。そう、生まれなど関係ない。自分が強くないから。
颯馬にとって誰よりも大切な、彼自身のことよりも全てにおいて優先する存在の、風真を自由にする力が自分にないからーー
四年前、茉莉は主治医である篤人の実家で静養しなければならないほど調子を崩したことがあった。
そこで一ヶ月ほど過ごしたが、その時の記憶は曖昧だ。
ただひどく弱っていたように思う。
何故だかとても怖くて不安で、颯馬に縋ってしまった。颯馬を自分に縛ってしまった。
風真を自由にしたいと望む颯馬の力になると約束したのにーー
ようやく元気になった茉莉が颯馬に話しかけた時、初めて見る拒絶の目を向けられた。
役立たずだと、重荷になると、彼は茉莉のことを判断したのだろう。
「うん。せっかくの祝いの席に水を差したくないしね」
茉莉は平静を装って言った。
「風真のところまで送ります」
「……ありがとう。でも化粧室に寄って行きたいし、一人で大丈夫。颯馬は京華さんの側にいてあげて」
これからずっと強くあれば、彼は自分のことを見直してくれるだろうか。
今まで何度も考えてきたことを思いながら、茉莉は微笑む。




