一章 人形師と小間使い、そして魔術師8
*
ふう。なんとか明るいうちにお屋敷に帰ってこれたです。
「ただいまですぅ。ご主人さま」
おおっと、ビックリです。
玄関の扉をあけたら、いきなり、ご主人さまが床にしゃがみこんでるじゃありませんか。めそめそ泣いて、すっかり、しおれてます。
「きゃあっ。ご主人さまァ。水。水。水ですね!」
お花をかざった花瓶をとって、ご主人さまの頭から水をぶっかけました。すると、ご主人さまは、ちょっぴり、しゃっきりしました。よかったです。枯れなくて。
「シャルラン……生きてたんだね」
「生きてますよォ。見てください。元気いっぱい」
「王さまに殺されたんだと思った……」
むっ、むうっ! な、なんてキュートなんでしょう!
「ごめんなさいです。ご心配をおかけしました。王さまは、いい人だったんですよ。ちょっと別の用事で遅くなっちゃって」
「僕に心配かけないために、ウソついてるんだね。ほんとは命からがら逃げてきたんだ。ごめんよ。僕が行かないって言ったから。自分が怖くて、シャルランに押しつけたから」
涙で美しいお顔がグチョグチョです。
「違います。ほんとに恐ろしいことはなかったです。だから、もう泣かない、泣かない」
シャルランはご主人さまを居間につれていって、出窓にすわらせました。
「今日は光合成はしましたか?」
ぷるぷると首をふる花の精。
「ダメじゃないですかァ。お水持ってきますから、日暮れまで、ちゃんと光合成するんですよ」
ほんと、手のかかる可愛いご主人さまですねぇ。ふふっ。
シャルランは庭の井戸から新鮮な湧き水をたっぷりくんで、ご主人さまに飲ませてあげました。
そして、塔の怪しい魔術師のことを話してあげました。
「ーーというわけなんです。あの断崖の魔術師さんは、ミダスの一員じゃないかと思うのですよ。ご主人さま、心あたりはありませんか?」
ご主人さまは光合成のせいで、気持ちよさそうに昼寝する猫ちゃんみたいです。ぽやんとしながら、小首をかしげました。
「花の香りがした?」
「香り……は、わからなかったです。だって、すっごく、お酒くさかったんですよぉ。でも、花みたいな、ものすごい美形でした」
「ふうん」と言って、ご主人さまは、いよいよ首をかたむけます。そのまま、出窓の窓枠に、ほおずりしちゃいました。
「もしかしたら、それは僕の兄かも」
「え? お兄さん?」
「うん。死んだ母さんが言ってた。僕には兄がいるんだって。僕が生まれる前に生き別れになってしまったけど、生きていれば、母と同じ百合の精だ」
「百合ですか……」
百合ーーって感じじゃなかったですねぇ。
どっちかっていうと、もっと毒々しくて、ハデな花。
「でも、お兄さんなら、ぜひ会わないといけませんねぇ」
「僕は、いいよ」
「ええッ。なんでですかぁ。生まれて初めて出会ったご主人さまの一族ですよ? しかも、お兄さん」
「いいんだ。僕は青い薔薇だから」
よくわかりませんねぇ……。
「僕は……シャルランさえ、いてくれればいいよ」
ご主人さまは、そのまま眠ってしまいました。
*
風の力を借りて匂いをたどり、エイリッヒはシャルランのあとをつけた。
一軒の屋敷の前に立つ。
その窓から香る強い薔薇の香りに、エイリッヒは幻惑された。
アベルンは薔薇の都。
町中にただよう花の香りをかいだだけで、めまいをおぼえることも、しばしばあった。
しかし、今日のそれは、ふだんの比ではない。
屋敷に近づくほどに、高まるデジャヴュ。
そう。おれは知っている。
この香り。まちがいない。あの女だ。
はてしなく遠い過去から、記憶のさざ波が押しよせてくる。
今では忘れられた太古。
すべてのものに精霊の力が宿っていた。
火にも水にも風にも大地にも。
木々も、花も、鳥も、獣も、すべてのものが生命の唄を歌っていた。
『そこにいるのか? クリュンベルト』
私の愛した白い薔薇。
窓辺に誰かがもたれていた。
白い顔がこっちを見た。
『あなたはダメよ。ここへ来てはダメ』
『なぜだ? もう私を愛していないのか?』
『いいえ。でも、ダメなの。わたしは、あなたに謝らなければならないから』
『何を謝るというんだ。ようやく、おまえに会えたのに。長かった。この年月。何万年? いや、それ以上。
いくつもの獣がこの星の覇者となり、やがて滅びた。
人の世になり、われら精霊の仲間は、ほとんど絶えたが、私はただ、おまえに会いたいがため長らえてきた。
クリュンベルト。いつか必ず、おまえの魂は輪廻のはてに、よみがえると信じていた。でなくば、私の捧げ物は、なんの意味もなかったことになる』
『あのときのこと、あなたは後悔していないの?』
後悔? なぜ、おれが後悔などーー
引き潮のように、急速に幻惑が遠のいていく。
愛しい人の気配も。
待て。まだ行くな。
せめて、もう一度だけ、おまえの顔を見せてくれ。
おまえのほおに、ふれさせてくれ。
白薔薇は、霧のようにかすむ意識のかなたで、かすかに笑ったようだった。
『さよなら。わたしの愛した人』
とつぜん、エイリッヒは夢からさめたように、我に返った。
美しい薔薇園にかこまれた、しょうしゃな屋敷を見あげ、街路に立つ自分を発見する。
なんだろうか。ものすごい頭痛だ。
それに、なぜだかわからないが、涙が……止まらない。
(またかよ。くそッ。こんなところで、おれは何をしてるんだ)
いつもの幻影を見たような気がする。それも定かでない。三十分しかもたない記憶というのは、ほんとにやっかいだ。
(飲みなおすか)
エイリッヒは、きびすを返して歩きだした。




