船の上
……私は遭難しているらしい。波に揺られ、海を漂うゴムボートの上にいる。
漂流してどれほどの時間が経ったのかわからない。燃えるような太陽の下、意識はぼんやりしている。服はボロボロ、喉はカラカラ、腹も空いている気がする。『らしい』とか『気がする』などと曖昧に言うのは、どこか他人事のように感じているからだ。
実際、そうであると言える。ここは夢の中なのだ。そのことに早々に気づき、私はほっとした。ただ気楽に楽しめばいい。変化する状況を……と思っていると、目の前に一隻の船が現れた。木製の古びた船で、そこそこの大きさだ。
私は救助され、場面は船の中へと移った。
「まず、これに着替えてください」
甲板で、船長が紺色のツナギを差し出してきた。海の男にしては丁寧な物の言い方だ。まあ、実際の海の男の話し方を私は知らないが。
「それから髪を切りますね」
船長はバリカンを取り出した。もしこれが現実なら「どうして」「嫌だ」と反発するところだが、夢の中だからどうでもいい。耳元で風が囁いている。「流れに逆らうな」と。ああ、確かに航海とはそういうものなのだろう。逆らえば大海原に放り出されかねない。
髪を切り、ツナギに着替えた私は、ふと疑問を抱き、船長に訊ねた。
「あの、船長」
「はい、なんでしょう?」
「ここにいる乗組員、全員が同じ服装と髪型をしているみたいですが……」
船長を含め、彼らはまるでクローンのようだった。まあ、ここは夢の中なのだから、作画コストを削減していても不自然ではないのだが。
「ここでは、みんな同じでなければなりません。それがルールですから」と船長は答えた。
その言葉の意味はすぐにわかった。「食事の時間です」と案内された食堂では、乗組員たちがまるで鏡の中の反射のように同じペースで食べ、同じ量の水を飲んでいた。笑うタイミングも同じで、歩くときも歩幅や足の上がる角度さえ揃っていた。ハンモックに揺れる寝姿までもが同じだった。
「さあ、漕いでください」
場面が移り変わり、甲板に立つ。船長がそう言うと、乗組員たちは一斉に船の両脇に並ぶオールの前へ移動した。オールは左右に四本ずつあり、一本につき三人がついている。一本だけ、一人しかいない場所があり、そこが船長と私の持ち場らしい。
私は丸太のように太いオールを抱えるように持ち、漕ぎ始めた。
「オールはこのように持って漕いでください。みんなと同じように」
船長が隣でオールを漕ぎながらそう言った。私は周りを見渡した。確かに、自分だけ持ち方が微妙に違っていたので、慌てて他の乗組員の真似をした。
「あの、この船はどこに向かっているんですか?」
「みんなが見ている方向です。それが船の行く先です」
「いや、そりゃ、みんな前を向いているからそうでしょう。目的地はどこかという意味で……」
「リズムが少しずれていますよ。合わせてください」
「はい……」
「一人だけリズムが違うと、船の進みが遅くなります」
「わかりましたよ」
「異端は他の乗組員に不協和音をもたらします。ペースを合わせてください」
「わかりましたってば」
「調和は心地よいものです。安心できます」
「だからさっきからちゃんとやってるでしょう!」
「民主的にいきましょう」
「同じ方向を向きましょう」
「同じなら安心です」
「ルールを守りましょう」
「間違いに気づいても、みんなが声を上げないなら、あなたも声を上げてはいけません」
「同じような服を着ましょう」
「同じように髪を整えましょう」
「同じ言葉を使いましょう」
「右向け右」
「左向け右」
「前へ倣え」
「イイネしましょう」
「みんながつまらないと言ったら、つまらないと言いましょう」
「普通でいましょう」
乗組員たちの声が波のように押し寄せた。嵐の中で雨と風が打ち付けても、その声は耳に正確に届いた。
――同調しよう。
――同調しよう。
――同調。
「どぅーにたぁぇぇぇぇぇ!?」
目が覚めると、私は電車の中にいた。
「ぬあんほってんのぉぉぉ!」
帰りの電車の中で眠ってしまったらしい。騒がしい声に意識が戻り、その声の主が目に入った。少し離れたドア付近で、一人の男が大声を上げ、地団駄を踏んでいる。誰かと揉めているわけでもなく、ただ一人で怒り、叫んでいた。いわゆる危ない人だ。関わらないほうがいいタイプ。まさに異端――そう思った瞬間、背筋が凍った。
周りを見ると、乗客たちがスマートフォンを向け、その男を撮影していたのだ。ニヤニヤと、同じ表情で……。
電車が最寄り駅に到着し、私は電車を降りた。駅を出たところでスマホを取り出し、SNSで検索してみると、あの男の動画を早速投稿しているアカウントを見つけた。投稿者のコメントは【やべえやつがいた】。
すでに大量の『イイネ』が集まり、コメント欄はその投稿者に同調する声であふれていた。
――同調しよう。
一瞬、あの声が聞こえた気がした。
もしかしたら、私はまだ船の上にいるのかもしれない。