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暗闇の果て

作者: 志村菫

この作品は、10年以上前にあるラジオドラマのコンクールに応募した作品です。

残念ながら最終選考で落ちましたが、誰かに読んで頂きたくて投稿しました。

よろしくお願いいたします。



 ここは……どこなんだ? 暗い……何も見えない。俺はどこかに閉じ込められているのか?

 待てよ……俺は……俺は……。


「おはようございます高山さん。点滴代えますね。今日はとてもいい天気ですよ」


 高山? 俺の名前か。

 点滴……ここは病院って事か……でも何でこんなに暗いんだ……何も見えない……そうだ目を開けなくては……あれ? どうしたらいいんだ!


「師長、三号室の木村さんのCTって午後に変更になったんですよね」

「そうよ。二時半から」

「あっ、あの……前に相談にのってもらってた件なんですが……私、カレシと別れました」

「ちょっと桃井さん! そんな話、患者さんの前で……」

「聞こえてないですよ」

「そんな事言うもんじゃありません」

「はい……すみません……でも、そろそろ三ヶ月ですよね? 目覚める可能性は……」


 三ヶ月? 三ヶ月も目覚めずに病院のベッドに? 何でだ……何でこんな事に? 一体何があったんだ? 思い出せない……。


「おはようございます」


 誰か入って来た? 今度は誰だ? 女性の声だ……。


「お、お、おはようございます」


 若い看護師、動揺してるな……。


「おはようございます、高山さん。今日はちょっと早いんですね」

「はい、師長さん。今日は娘の学校へ寄ってから仕事へ行かなくてはいけないので、ちょっと早めに…」


 娘の……学校?


「ちょっとお疲れのようですね。少し、顔色が悪いみたいですけど……」

「……はい……最近あんまり眠れていなくて……でも大丈夫です」

「あの……あれから捜査って進んでるんですか? だいたいの犯人の目星ってついてるんですか」

「ちょっと! 桃井さん、そんな話……」

「そんなに捜査は進んでないと思いますし、目星も……」

「答えなくていいですよ。でも、早く捕まればいいですね、高山さんを撃った犯人」

「はい……そうですね」

「では、奥さん、失礼します。心配な事があったら何でも言って下さいね……」


 ここの病院の師長さんの声はとても優しいな……って言ってる場合じゃない!

 ウソだろ……撃たれた? 俺は誰かに撃たれた?



「あなた、おはよう。私よ……」



 師長さんと若い看護師が出て行って間もなく、低くて重い声で「あなた……」って……。

 この女性は、俺の奥さんってことか? 何か冷たくてギスギスした声だ……。


「なーんて言っても聞こえてる訳ないか、さっきの桃井さんの言う通りよね。今日、何で美鈴の学校に行くのか知ってる? ふぅ……あの子タバコ吸ったらしいの、学校の体育館の裏で! あなたはいいわよねぇ、いつも肝心な時に家にいないし、今はこのざま!」


 な、何か……さっき、看護師さんと話していた時とは声のトーンが変わった様な……。

 それに、桃井って看護師の言ってた事やっぱり聞こえてたんだな……。


「だけどさぁ……あの子、どうしちゃったのかしら……来年は高校受験だから、もっと勉強しなきゃって張り切ってたのに」


 来年高校って事は中三か、俺には中三の娘がいるんだな。


「今回の事件でちょっとおかしくなっちゃったのかしら……」


 事件? 撃たれたって言ってたよな……。ひょっとして俺は刑事? 何らかの事件の犯人を追跡してて撃たれたとか……。


「あなた、私もう疲れたわよ。一体何があったの? 真面目なフリして、誰かに狙われる様な悪い事、陰でしてたの?」


 狙われた? まさか俺は悪徳刑事?


「まさかね。運悪く何らかの事件に巻き込まれただけよね。ドン臭いあなたらしいわ」


 ドン臭い? 何て事を言うんだ!


「警察の人が言ってたわ。あなたあの公園で撃たれた時、誰かを待っていたんじゃないかって。目撃した人がね、あのベンチの所でキョロキョロしながら立ってて、挙動不審な感じだったって」


 公園で撃たれた?


「私言ったわ。二週間ほど前から家に帰ってなかったから、帰りづらかっただけじゃないかって。ねぇ、一体どこで何してたの?」


 二週間も帰ってなかった? しかしこの女性、本当に俺の奥さんなのか? ずっと冷たい話し方だ……夫婦仲は冷め切っていたのか?


「とにかく、あなたが目覚めなかったら始まらないのよ! 本当にいつも中途半端なんだから! 目覚めるなら目覚める、逝くなら逝く! はっきりしてほしいわ! 入院費だってね……」



「もう、やめて下さい!」


 だ、誰だ? 若い女性の声だな……。


「驚いた………いつの間に入ってきたの?」

「すみません……ノックしたんですけど……」

「気付かなかったわ。どちらさま?」

「並木早苗といいます。以前、高山さんが働いていた会社でお世話になりました」

「はぁ……」

「あの、お話聞いてしまいました。随分ひどい事をおっしゃってましたね。高山さん、可哀想です」

「あなたには関係ないでしょ? こっちにも色々あるの。それにどうせ聞こえてないわよ! ちょっとくらいの愚痴、ここでこぼしてもいいでしょ」

「でも……」

「私ね、この人と結婚してから苦労の連続なの。いつもお人よしで要領悪くて損ばっかり。この人と結婚なんてするんじゃなかったって……いつもそう思ってるのよ」


 おいおい、何でそんな酷い事を初対面の人の前で言うんだよ……。


「そんな事ないです! 私は、高山さんは素敵な人だと思います」

「はぁ? 素敵な人?」

「それに……私の所にいたんです……」

「は?」

「そちらに帰ってなかった二週間、私の所にいたんです!」

「はぁ? 何て?」

「私、高山さんとお付き合いしてました」

「まさか……」

「嘘じゃありません! 私たち、不倫関係だったんです」


 えっ、えーっ! おいおい……若い子と俺が不倫?


「いつから? いつからなの!」

「高山さんが……会社を辞めてからです」

「えっ……そう……おかしいと思ったのよ。せっかく再就職した会社、一年足らずで辞めて来て……そう、あなたとの不倫が原因だったのね?」

 

 声、かなり震えてるな……そうだよな? 愛情があるからだよな? 夫婦仲は冷めきってなんていなかったんだ……。


「それで、どれくらい貢がせたの?」

「そんな関係じゃありません」

「ウソ! 主人には借金があったのよ、消費者金融から。何に使ったかは分からなかったけど……あなたね、あなたに貢いでたのね」

「だからそういう関係じゃ……」

「おかしいでしょ? あなたみたいな子がうちのくたびれて冴えないオヤジを好きになる訳ないじゃない! お金でしょ?」


 おいおい、もうやめてくれよ……。

 でも、俺には借金があったのか? しかも消費者金融って……。そりゃ奥さんも怒るよな……。


 落ち着いて……ちゃんと今までの事を整理してみよう。


1.俺の名前は高山。

2.何らかの事件で撃たれて意識不明。

3.家族は妻と中三のちょっとグレかけている娘がいる。

4.それに不倫している。

5.職業は刑事ではない。

6.性格は要領が悪くてドン臭い。

7.くたびれた、冴えないオヤジ。

8.妻から嫌われている。


ああ何か落ち込むな……もうこのまま目を覚ましてもいい事なんてないじゃないか! 意識が遠のくよ……ああ……ああ……。



Raindrops keep falling on my head

And just like the guy

Whose feet are too big for his bed

……♪


 音楽が……どこからか聞こえてくる……。


「おい高山、西崎だ。この曲、BJトーマスの『雨にぬれても』だぞ。お前が好きだった曲だよ。前、聞いた事があるんだ。思い出の曲とか聴かしたりすると、何か脳に刺激が行って、意識を取り戻すきっかけになるかもしれないって」


 ああ……確かにいい曲だ……うん、聞き覚えがある曲だ。

 そうか、俺はこういう曲が好きだったのか……。

 で、この男性は誰だ? 俺の友達か……西崎? 名前も声も……覚えてないなぁ……。


「今回の人事で俺もリストラされる事になったよ。ごめんな……前さ、仕事のミス全部お前に背負わせて、お前だけリストラされて……俺サイテーだったよ。あの頃、親父が末期癌だったろ? どうしても職を失う訳にはいかなくてさ……ごめん……言い訳だよな……」


 リストラ? そうか俺はリストラされてたのか。


「苦労したんだろ? すぐに転職先が決まったって喜んでたら、あの会社一年足らずで辞めたんだってな。何かあったのか? それからずっと派遣だったって、佳子ちゃんから聞いたよ」


 会社をすぐに辞めてから派遣?


「佳子ちゃんは変わらないな。お前の結婚式以来会ってなかったもんな。俺がずっと独身だって言ったら驚いてたよ」


 さっきから佳子ちゃんって……ああ俺の奥さん? あのヒステリックな……俺の事を愛してなんていない女性。


「まぁ、ここでかっこよくさぁ、お前にもしもの事があったら佳子ちゃんと二人の子供は俺に任せておけ! とか言いたい所だけど…俺もこれから大変だしな」


もしもってどういう意味だよ! それに、娘だけじゃなく、俺にはもう一人子供がいるのか?


「今年、親父の三回忌なんだよ。もしあの世で親父に会ったら、頑張ってるって伝えてくれよ」


 えーっ! こいつ俺が百パーセント死ぬって思ってるのか。

 そっか、そうだよな……こんな状態だしな……でも、何で動けないんだ? 目が開けられないんだ


「それじゃあな、また見舞いに来るわ。ラジカセ置いていくから」


 ああ……革靴の音が徐々に遠のいて……ドアの閉まる音がする……。


 何なんだ! どうして動けない? どうしたらいいんだ……あれ? 今一瞬シーンが浮かんだ……薄っすらと何か思い出す。

 教会だ……誰かの結婚式か? ひょっとして俺とあの佳子って女性……いや、妻の?


 どこからかパイプオルガンの音がする。


 暗闇の中、映写機がスクリーンに映し出す様な……そんな映像が……。

 そこには綺麗な花嫁がいる。それじゃあ、隣の花婿は……俺?

 牧師さんの前で愛を誓い合おうとしている。あれ? 違う……俺じゃない! 俺じゃない!


「佳子さーん、待って下さい!」

「高山さん…」

「結婚しないで下さい! 僕と一緒に…一緒に来て下さい!」

「……もう遅いわ……だって私……」

「遅くなんてないです! さあ!」


 そうだ! 俺は佳子の結婚式の日、彼女を花婿から奪ったんだ!

 あれは何年前の事だろう…たぶん……16年……17年? 


 どこからかBGM……。

 さっき西崎って元同僚が聞かせてくれた『雨にぬれても』が流れている。


 でも、映画みたいにチャペルで彼女を奪おうとしたんじゃない……。

 ああ、待合室でウエディングドレスを着て鏡の前に立つ彼女を……俺はこっそりと従業員を装って侵入して……それでプロポーズしたんだ!


「佳子さん! 結婚なんてしないで下さい! 僕と一緒に行きましょう」

「もう……引き返せない……」

「僕もそう思いました……もう佳子さんは、僕の手を取ってはくれないと……でも、本当にこれでいんですか?」

「だって……私……」

「全て僕が受け止めるし……何も心配いりません。ただ大事なのは……気持ちです! 佳子さんが誰と暮らしたいかです……」

「え……私は……」


 確か、あの日は雨が降っていた。

 教会で彼女の手を取って走り……友達から借りた車に乗り込んだっけ……その時、ラジオから丁度この曲が流れてたんだ。

 その時、ずっと一緒にいよう……幸せになろうって誓った。

 でも……今じゃ……


「目覚めるなら目覚める、逝くんなら逝く、はっきりして欲しいわ!」


 なんて言われる有様。ああ……情けない。

 意識が遠のく……遠のく……。


 あれからどれほど時間が経ったのか、分からない……。

 俺の奥さんは毎日来てくれるけど、着替えを置いて無言で帰って行く事が多い……。

 たまに……


「あの若い女に来てもらった方がいいわよね」


 などと呟く。

 でも、あの女性はあれから来ない……。もう来ないかもな……あんなに罵られたんだから……。でも、外の声が聞こえる様になってから、過去の記憶が思い出されるようになった……。


 ガラガラガラ……。


 ああ、これは配膳車の音だよな。

 俺は食べる事ができないけど……でも、なんだろ、この匂いは……好きな匂いだよ。


 そうだ……醤油の匂い? ああ、これは生姜焼きか? ……今は昼食時か夕食時か、どっちだろう。


 あっ、そうだ!



「あの、相席いいですか?」


 ちょっと緊張したような女性の声……。


「あっ、どうぞ」


 店が混んでいて、いつものカウンターには座れないので2人席に座っていたら、二十代位の女性と相席になった。


 そうだ……その女性は……佳子だ。


 俺と佳子が出会ったのは、会社の近くの定食屋だった。

 紺色の制服姿にピンクのカーディガンを羽織った佳子は、とても可愛かった。そうだ、あの時店員が佳子にB定食を、俺にはA定食を運んで来たんだ。でも……。


「私、A定食を頼んだんですけど」

「えっ? あっ、す、すみません」


 店員は入ったばかりの新人の女の子で、間違えに気付いた時、泣きそうな顔をしたのをぼんやりと覚えている。でも、A定食はもう終わっていて……。


「すみません……勝手ですがB定食でお願いできますでしょうか?」


 店員の女の子は、お願いだからBでいいって言って……と凄い目力だった。それに押され、佳子はとても困ったような顔をしていた。たぶん、Bのメニューが苦手なんだろうと思ったので……。


「あっ、もしよかったら僕のをどうぞ」

「えっ?」

「どっちにしようか迷っていたので、今日はどちらでもよかったんです。だから交換しましょう」

「いいんですか? それじゃお言葉に甘えます」


 Aは確か生姜焼定食でBはサバ味噌定食。後で聞いたけど、佳子はアレルギーでサバがダメだったんだ。実は俺もサバは苦手だったけど、彼女の気を引きたくて……。

 それから定食屋で会うと話すようになった。昼休みが楽しみだったな……。


「うちの会社は、女性の事務員は私だけなんです」

「それじゃ寂しいですね。でも紅一点で会社の人気者でしょ」

「いいえ。そんな事ないです」

「男性社員ばかりだと、彼氏が心配するんじゃないですか」

「うちの会社は年配の人ばかりですから」

「そうなんですか」

「だから彼氏は心配なんてしてません」

「えっ!」


 やっぱり。そうだよな、彼氏いるよな……がっかりしたっけ……。

 その後、彼とは結婚の約束をしている事を知り、俺はあっという間に失恋。

 でも、あの日……。


「えっ? いいんですか?」

「会社の人に頂いたんですけど、彼が出張中で、友達も付き合ってくれなくて。だから高山さん、会社の方と行って下さい」

「一緒に行きましょうよ」

「えっ、でも……」

「日本代表、一緒に応援しましょう」

「でも……」

「ああ……彼氏が出張中に……ダメですよね」

「あっ……いえ、そんな事ないですけど……」


 あの日のサッカー観戦で、俺たちの関係が決定的になったのかもしれない……佳子は彼氏との式を、二ヵ月後に控えていたのに…


 日本代表を応援しているサポーターの声で殆ど会話は出来なかったけど、日本代表が負けそうな後半に佳子の不安そうな横顔を見て……俺は佳子に顔を近付けて話し掛けたっけ……。


「佳子さん、逆転するといいですね」

「でももうすぐアディショナルタイムです」

「大丈夫です。きっと……」


 大歓声が響き渡った……。


 アディショナルタイムで点が入り、盛り上がっている人々の中、なぜか佳子だけが止まっていたんだ。


「佳子さん?」


 気になって視線の先を追ったら、仲睦まじいカップルの姿があった。

 カップルの男性は、出張に行っている筈の佳子の彼氏だった。それから先は?

 何か苦しい……疲れたのか……意識が遠のく……。


 どれくらい時間が経ったのか分からないが……。 

 サッと、窓を開ける音がして……。


「寒いかな? まっ、いいか……」


 ん? 若い男の声だな……。


 ドアが開く音がする。

 このペタペタという靴音は、佳子ではないな……。


「おにいちゃん! 窓閉めてよ、寒いって」

「ここ空気悪くない? 入れ替えないと。それに皮膚に刺激を与えた方がいいんだよ」

「本当に?」

「寒い! って言って飛び起きるかも」

「んな訳ないじゃん! ハハハッ……」


 若い女の子の笑い声……。

 今、確か……おにいちゃんって言ったよな?


「昨日さぁ、泣いてたろ、マイマザー。やめろよ心配掛けるの」

「最近、マイマザーは泣いてるか怒ってるかじゃん! うざっ!」

「気持ちは分かるけどさ、お前がやったベタな不良行為はダサイよ」

「おにいちゃんに説教されたくない」


 この二人は俺の子供たち?


「仲良しグループと約束してた私立高校受験できないからって、いきなりチョイ悪グループに入ってタバコかよ」

「ちょっと魔が差しただけだよ」

「そんなに友達と……そのお嬢様が入るような? 私立に行きたいのか?」

「うん。だって、中一の頃から約束してたもん。ずっと大学まで四人一緒って」

「気持ちワル。それじゃあ、就職も結婚も一緒かよ」

「まさか」

「だろ? 昔からさ、友達が持ち始めたからスマホが欲しい。友達とおそろいのバッグやブーツが欲しい……なんて感じだったろ?」

「……いいじゃん別に。それに、その高校の制服、超カワイイんだから。スカートがピンクとグレーのチェックなの」

「はいはい、そうですか。でもさ、美鈴」

「何?」

「そろそろ大人にならないと…」

「えっ……」

「親父もこんな状態だし……俺たちさ、早く大人にならないと……」

「嫌だ……そんな事言わないでよ」


 いいお兄ちゃんだな……でも、この二人の事、思い出せないなんて……。

 俺は父親失格だな……。


「まぁ、そんなにその私立に行きたきゃ、俺が何とかするか。今すぐ高校辞めて働いてさ」

「おにいちゃん! 何して稼ぐつもり?」

「そうだなぁ……ナンバーワンホスト目指して頑張るわ……」

「は? 無理無理」

「ホストは顔だけじゃないんだよ、美鈴ちゃんは子供だから分かんないだろ?」

「何? まさか体っていうんじゃないでしょうね」

「それもちょっと違うな……」

「じゃ何?」

「ハートだよ! 広くて温かい心で疲れた女性の心を癒すんだよ。俺って結構年上にもてるんだよなー」

「アホらし」


 あーあ……一体どういう会話をしてるんだこの二人は! 親の顔が見てみたい……。

 あっ、俺だった……。


「そうだ、ドラマの再放送みよう」

「お前、何しに来たんだよ」

「別に……おにいちゃんこそ」

「俺はバイトに行くついでに寄ったんだ」

「私は、塾行こうと思ったけど、サボった。でも行く所ないし」

「家に帰れよ! 受験勉強しろ!」

「だからぁ……」

 

 ガチャーン!


 何だ? 突然、何かが割れた?


「ほら、おにいちゃん、窓やっぱ閉めなきゃ、花瓶が落ちたじゃん!」

「うわっ、急に強い風が吹いたから……」



 ああ……ああ……。

 前にもこんな事があったような気がするな……。

 そう……今みたいに……何かが割れたんだ……。


「破片が結構飛んだよ……おにいちゃん、片付けてよ」

「うわっ、踏んだかも……」


 そうだ、あの日……。

 美鈴がカップを投げたんだ。俺に怒りをぶつけて……。


 カップが……壁に思いっきりぶつかって割れたっけ……。


「お、おい! 物を投げたりするんじゃない、美鈴」

「友達と一緒の私立じゃないと高校行かない。お父さん行っていいっていったじゃん。だから勉強頑張ってきたのに…」

「そうだな……」

「あのさ、最近何か他人事みたいな感じだよね。人の話し聞いてるのかどうか分かんない時あるし、何かイライラする!」

「ごめんな……」

「謝られてもさぁ……仕事うまくいってないの知ってるし、大変だと思うけど……親ならしっかりしてよ! 友達でこんな事で悩んでる子いないよ! みんな安心して勉強してるし」

「そうだな……」

「あーあ嫌だな、負け組みの子は私だけだよ……」


 あの時、すごくショックだった?

 違う……ショックどころか、何も感じず……そうだ……ただ無気力だったような?

 その時にマグカップの破片を踏んだっけ……でも、その痛みすらも感じなかったんだ……。


「お父さん、ごめん……酷いこと言ったよね」

「何?」

「今さぁ、花瓶が割れた瞬間ね、思い出してたの……お父さんと言い争った日の事……ああ、言い争ったんじゃないか……私が一方的に喋ってただけだわ……」


 えっ……今、俺が思い出してた事、同時に美鈴も思い出してたのか? 何だか嬉しいな……。


「……お父さんは私たちの事なんてどうでもいいのかなって……そう思う時があったの……」

「違うだろ? 私たちじゃなくて、私、だろ? 美鈴はいつも自分のことばっかじゃん」

「……そうかもしれないけど……でもそれってそんなにいけない事?」

「いけなくはないけど……でもこれからはそうはいかないぞ……」

「分かってるよ……何度も言わないでよ」

「でもさ……俺も……親父に酷い事してたよな……」

「ほぼシカトしてたよね……」

「まぁな……」

「どうして? 何かあったの?」

「……別に……」


 そうか……おにいちゃんとも距離が出来ていた?

 美鈴との事はぼんやりと思い出したけど……。

 シカト? そうだ、会話なんてなかった。美鈴には色々と言われたけど、おにいちゃんとは? 会話をしなくなっていたんだよな……いつからだ? なぜだろう……?


 あの美鈴が投げたカップを……パートから帰って来た佳子が拾ってくれたよな……。

うだ……あのカップは、マグカップだった。確か、父の日のプレゼントしてくれた物だった……。

 マグコップに「はると&みすず」と書いてあったんだ。


 はると……はると……晴斗だ。おにいちゃんの名前は晴斗……。

 あの日、男の子が生まれたら、名前は「晴斗」にしようって佳子と決めたんだ……。

 そう、あの日……。

 チャペルで佳子の手を取ったあの日……。


 ああ……とんでもない事をしてしまった……。


 俺と佳子は現実と向かい合わないといけなかったのだ。ただ情熱に任せて人生の大切な選択をしたのでは……と少し冷静になってみた。

 佳子は彼と結婚したら、きっとゆとりのある生活を送れただろう……。彼の会社は、俺の勤務している会社と比べ物にならないくらい大手で、家も結婚するのを機に新築の一戸建てを買う予定だったのだ……。

 でも……。


「高山さん……私、後悔なんてしていませんから……」


 運転していたので顔は見えなかったが、力強い声だった。

雨は強くなるいっぽうで、視界が悪い。だから取り敢えず適当な場所に車を止め、改めて俺の気持ちを伝えた。


「僕、全力で佳子さんとお腹の子供を守りますから!」


 佳子のお腹の中には、結婚相手との子供がいたのだ。


 それを知ったのは、あのサッカー観戦の日だった。結婚も決まっていたし、とっくに佳子の事は諦めていたが、あの結婚相手は二股を掛けていた。それを知った以上、放っておく訳には行かないと思ったが……。


「実は……あの子、私の友達なんです。同じ大学で……でも特別仲がいい訳ではなかったんですが……彼の会社の同僚の人達と私の学生時代の友達と、グループでよく遊びに行っていたので……」


 佳子の声は震えていた。


 当然、その後は結婚相手と話し合い、ほんの少し魔が差しただけで、マリッジブルーみたいなものだと謝られたそうだ。

 

「彼は、お腹の子供の為にちゃんと別れるって言ってくれました……でも何だか……不安で……このまま結婚していいのか……だけどすぐに式を挙げないと……お腹も目立って来るので。妊娠の事は、身内しか知らないんです……」


 佳子は泣き始めた。俺は抱きしめたくなったが、彼女のお腹には……。

 そうだ、もう黙って幸せを祈るしかないよな……。


 せめてお昼休みの短い時間だけでも、佳子を楽しませようと、定食屋で会った時はくだらない? 他愛もない? とにかく話したっけ……。

 そして……とうとう寿退社する日……。

 定食屋から会社に戻る道で、もう彼女には会えないのだと思うと辛くなった。


「な、何か寂しくなるな……今まで楽しかったです……佳子さんのお陰で、昼休みが楽しみで……」

「……高山さん……私こそ……」

「……あの……幸せになって下さい……」


 俺はなぜか握手を求めた……。

 佳子の手はとても温かくて……。

 その時、目が合ったら、佳子の目は潤んでいた。そして……俺の手を一瞬強く握った……ような気がした……。


 佳子の後ろ姿を見送った……。どうしたらいい?

 結婚式が近付く度に……気持ちが……どんどん……もう抑える事が出来なかった。

 気が付いたら走っていたんだ……。


 チャペルから佳子を連れて車に乗っている間、佳子と出会ってからの事を思い出していたっけ……。

それで、止まない雨を車の中から眺めながら……。


「そうだ! 今、子供の名前が浮かびました!」

「えっ? 男の子なのか、女の子なのか分からないのに?」

「男でも女でも、『晴』という字を使いたいです。どんなに雨が降ってもいつかは晴れるでしょ? 雨は嫌いじゃないけど……でも、やっぱり晴れて欲しいから……」

「いつかは……晴れる……ように? そうね、素敵」


 雨はなかなか止んでくれなかった。梅雨時だったせいか、ずっと降り続いたのだ。


 それから、佳子の家に頭を下げに行ったら、佳子の母親は庇ってくれたが、父親は俺たちの顔など見たくないと言っていると、インターホン越しに告げられた。

 俺の家は、その頃はもう父親が亡くなっていたので、母親が妹と二人で暮らしていた。


「透……あんたがそんなに大胆な事をするなんて、お母さん驚いたわ」


 ただ、そう言って笑って……佳子の体調を気遣ってくれた。


 ほぼ、佳子の家とは絶縁状態で、俺たちのささやかな結婚式にも出席してくれなかった。仕方がないよな……。

 そして、時が流れ……。

 待ちに待った、その日を迎えた……。


 おんぎゃーおんぎゃー……


 分娩室の前で……晴斗の産声を聞いた。

 嬉しかったな……




「透……眠っているの? 起きなさい……」


 この声は? ああ、母さんか……お見舞いに来てくれたんだね。


「今日は佳子さん、来ていないようね」

「ああ……来ていないよ……仕事が忙しいのかもしれない」

「仕事、掛け持ちしているんでしょ?」

「……そうみたいだ……事務の仕事の後、週に何日か他の仕事をしているらしい」

「らしいって……他人事みたいな言い方して……」

「仕方がないだろ……俺はこんなんで……動けないんだよ……」

「ねぇ透、私たち、昔から佳子さんに苦労ばかり掛けているわよね。だから……駄目よ、しっかりしないと……」

「分かってるよ……あれ? 何か今までと違う……そうだ、会話が出来てる?」


 でも、暗闇の中で姿が見えず、母さんの声しか聞こえなくて……だけど、俺の声は届いているみたいだ。


「透……お母さんが倒れた時の事、覚えてるわよね? まだ晴斗も美鈴も手が掛かる時期だったのに……佳子さん、私の世話をしてくれたわ……」

「……母さんが倒れた?」

「ほら、私が脳梗塞で……」

「そうだ……介護が必要になって……それから一緒に暮らし始めたんだっけ?」


 佳子と結婚して、晴斗の後に美鈴が生まれて……五年位経った頃に母さんが倒れたんだ。その頃、妹は嫁いでいて母さんは一人暮らしをしていた。

 小さいけど、俺と佳子は4LDKの家を買ったばかりで、一階の和室に介護用ベッドを置いて、五人での生活が始まった。


「左半身が麻痺して……言葉も話しづらくなって……佳子さん、よく面倒をみてくれたわ……本当に感謝してるのよ」

「ああ……そうだったよな? 佳子は本当によくやってくれたよ……俺、本当に頭上がらないって思った……」

「そうでしょ? 私がわがまま言ったりすると……おかあさん、もう言うこと聞いて下さい! とか、叱られたりした時もあったけど……だけどね、佳子さんが世話をしてくれることが嬉しくて……」

「ちょ、ちょっと待って、母さん! いつそんなに話せるようになった? 後遺症で……」


 違う……母さんは、四年前に……亡くなったじゃないか! もうこの世にいないんだ。

という事は、俺はもう……。


「ねぇ、何でずっとそこにいるの? こっちに来るつもりなの? それともそっちの世界に残る事ができるの?」

「……分からないんだ……目を開けようと思っても出来ないんだよ……どうしたらいいと思う? このままずっと中途半端だと、佳子に迷惑が掛かってしまう……」

「そうね……だからちゃんと向き合ってみなさい。大丈夫、怖がらないで……」

「母さん……ねぇ、もう行くの? どうしようか……俺はそっちへ行った方がいいのかな?」

「本気で言ってるの? そんな事よりも……晴斗ね、知ってしまったんでしょ……」

「えっ? ……そんな……知る訳ないだろ? 戸籍だって血液型だって……調べても怪しまれる事なんてない筈だ!」


 違う……俺は気が付いていたんだ……。

 晴斗の様子がおかしかったのに……でも、気が付かない振りをした……。

 佳子が話そうとしたけど、俺は事実を話す事を反対した……それでケンカにもなったっけ……。


「晴斗は……俺の子なんだよ……ずっとそう思ってきた……」

「そう思うんなら、ちゃんとそうやって話せばいんじゃないの?」

「でも……嫌だったんだ……」


 それを話したらどうなるのか? 怖かったんだよ……。

 

「母さん……? あれ? どこだよ……」

 暗闇の中、母さんを探した。でもいる筈がない……。

そのまま意識が遠のいた……。



「俺ってさぁ……お母さんに似てるって言われるけど、お父さんに似てるって言われた事ないんだよね……」

「そうだな。男の子って母親に似る場合が多いからな」


 いつもの夕食の時間の何気ない会話だった。

 まさか、晴斗が気付いていたなんて……いつ? 誰から?


「あの子ね……私に聞いたの……俺はお父さんの子供じゃないの?って……だから私ね、笑って誤魔化した。何? ドッキリ? お母さん忙しいんだから、ふざけないでよって言ったわ……」


 あれは確か高校一年の夏休みが終わった頃だったっけ……。

 その頃から……少しずつ少しずつ……晴斗と俺はすれ違っていったんだ……。


 遠のく意識が導くのは、過去への重い扉だ。きっと、母さんが言っていたように、向き合わないといけない事なんだ。分かってるよ……。


「なぁ、やっぱ窓は開けるよ……今日はそれほど寒くないから……大丈夫だよ……」


 あれ? この声は晴斗か? ひとりか? 美鈴はいないみたいだな。


「あのさ……俺、高校やめようと思うんだ。母さんは反対してたけど、学費や家のローン……これから美鈴も高校に入れないといけないし……今、バイトしてる運送会社が雇ってくれるっていうんだ……」


 そんな……受験勉強、頑張って入った高校じゃないか!


「恩返しするよ……自分の子供でもないのに、俺の事17年も育ててくれてさぁ……今はこんな風になっちゃって……」


おい! 恩返しって……そんな他人行儀な事を何で言うんだ! ああ、目を開けないといけない! どうしたんだ……目覚めて言わないといけない!


 もし目覚めたら俺は晴斗に何て言うんだろう……お前は俺の子ではない!

違う……そんな言葉を並べたくないんだよ。だって俺の子じゃないか? 生まれた時からずっと一緒に過ごして来たんだよ……。


「正直に言うとさぁ……俺……怖かったんだよ。もしかしたら、俺の実の親って……酷い奴だったのかなって……だから、話そうとしてくれなかったのかな……って……」


 違うよ……晴斗……違うよ……。


「すげぇ怖かった……ずっと一緒に暮らして来たのに……そりゃあさぁ……仕事が派遣とかになって、母さんが働き始めて……生活が苦しくなってきてたけど……でも俺は、家族一緒に夕食が食べれて、たまにリビングでゲームやったり……よく言うありふれた日常ってやつ? 幸せだった……なーんて言ったら恥ずかしいけど……」


 晴斗……お父さんな、ちゃんと話さないといけないな……。

 そうだ、本当の気持ちを正直に……それは、とっても恥ずかしい事なんだ……。

 それはな……


「ちょっと! 誰ですか? ここで何してるの?」


 美鈴の声だ……。


「あ……すみません……以前にもお見舞いへ来させて頂きました……」


 この声は……そうだ! 俺の不倫相手!


「……今日は奥様……いらっしゃらないんですか?」

「……どなたですか?」


「……私、並木といいます……以前、高山さんが働いていた会社でお世話になりました」

「はぁ……あっ、お母さんなら、仕事が忙しいから来ません」


 そうだよな。

 最近は来てもすぐに帰ったり、俺に話しかける声もとても疲れているように感じていたんだよ……。


「……そうですよね。では、また……」

「じゃあ、お母さんには並木さん? がお見舞いに来たって言っておきますね」

「えっと……それじゃ……いや……すみません……やっぱり……」

「何ですか?」

「私……奥様を傷つける事を言ってしまったんです……だから、謝ろうと思って……」

「は?」

「だから……奥様に、高山さんとの事は嘘でした……っとだけ、お伝えください……」

 

 何だ? 並木さん……?

 嘘って……やっぱり不倫なんてしていなかったってことか?

 まぁ、何となくそう思ってたけど……。


「あと……ちょっとだけ、高山さんに話しかけてもいいですか?」

「はぁ……どうぞ……」


 こうして声を聞いていると、何か……こう……懐かしい? そんな感じがするよ。


「あの……高山さん! 絶対に目を覚まして下さい! 私たち、もう前みたいじゃありません! ちゃんと嫌な事は嫌だって言えるようになりました……それは高山さんの勇気のお陰です! 感謝してます……だから……だから……」


 泣いてんのか? ああ……俺の為に? 並木……早苗さん……。


「あの、親父の事について、聞きたいことがあるんですが……」

「はい。何でも聞いて下さい……私に分かる事でしたら……」

「……親父はリストラされた後、そちらの会社に就職が決まって、待遇の面でも申し分なく働いていたはずなのに、どうして辞めたのか、何か知ってます?」

「はい……高山さんはずっとうちの会社で働くつもりでいました。年齢的にも、もう転職できる年齢じゃないしって、そう言っていて……でも……」


 ああ、そうだよ……何があっても、定年まで働くつもりだったんだよ。

 だって、俺にはまだ学校を卒業していない子供たちがいるんだから……。


「……私たち、女性社員を庇ってくれたんです」

「庇うって? 何ですか?」

「うちの会社、セクハラが酷かったんです。でも、私たちは何となく笑ってその場をごまかしたり、上司のお茶の中に何か入れるくらいの小さな抵抗しか出来なくて……」

「げっ!」

「でも、高山さんはいつも助けてくれました。庇ってくれました。ある日、遠慮がちだけど、上司に言ったんです……」


 ……ああ……そういえば……。


「娘がいるんです。まだ中学生ですけど……もし、娘がここで働いていたらと思うと、心配です……って……」

「へぇ……お父さん、そんな事言ったんだ……」

「はい……心強かったです。でも上司は、俺には息子しかおらんから、そんな事は知らん……って言って話しは終りました」

「えっ? まさかそれだけなの? それだけで仕事やめる事になったの? そんなのおかしいよ!」

「美鈴、落ち着け……」


「……その事がきっかけで、上司側の人達が殆ど高山さんに仕事をさせなかったり、口を利かなかったり…はっきり言って苛めです」

「あなたたちは?」

「私たちは…ただ見ているだけしか…」

「だよな。親父も馬鹿だな、一緒にセクハラすればよかったのに。俺ならそうする」

「えっ」

「冗談冗談。お茶に何か入れられるの嫌だし」


 沈黙の後……再び並木さんは俺に話し続けた。


「私……高山さんと出会って……こんな素敵な大人の人がいるって知って……嬉しかったんです。早くに父親を亡くしているので……私はお昼休みに、仕事の愚痴を聞いてくれたり、ミスをカバーしてくれたり……本当に……高山さんに感謝しているんです……」


 ああ、そうだ。俺は彼女に若かりし頃の佳子を重ねていたんだ。

 話し方とか、性格とか……何か似ていたんだよ……佳子に。


「それでは……奥様によろしくお伝え下さい……」

「あ、あの……さっき、お母さんを傷つける事を言ったって……何?」

「あ……はい……私、高山さんと交際していたって……嘘を……」

「えっ? どうしてそんな嘘ついたの?」

「すみません……奥様が、あまりにも高山さんの枕元で……何て言うか……あの……酷い事を言うので、思わず……」


 俺も……声が聞こえるようになってから、最初に聞いた言葉があんな罵りだったから……落ち込んだよ。でも……。


「あの……うちの母、結構苦労してきて、今回の事件で爆発しちゃったんだと思うんだ。だから、ちょっとばかし親父の枕元で暴言吐いても、仕方ないって言うか………」


 晴斗……。


「それに、最近仕事でかなり疲れてるみたいだし……私も最近、学校で悪い事しちゃって……だから……本当は優しいお母さんなんです」

「そうですよね……ごめんなさい」

「いいえ……謝らないでください……お父さんの事、あんな風に思ってくれて嬉しかったっていうか……」

「えっ……」

「私……ちょっと複雑なんです……子供の頃は……あっ、今も子供なんですけど……もっと幼い頃……お父さんが大好きでした……優しくて……でも、お父さんのその優しさは、家族を苦しめる時があって……」


 美鈴……。


「前にリストラされた会社、お父さんが仕事のミスを全部背負って……同僚の人の家族が病気だから……あいつはクビになる訳にはいかないんだよ……なんて話を、夜中にお母さんとしていて……でも、お母さんはお父さんを責めたりしなかった……」


 そうだ……あの夜、佳子は俺を励ましてくれたんだ。

 あなたなら、絶対にすぐに次の仕事が見つかるから大丈夫。

 私もパートの時間を増やすから大丈夫よ……って。


「それに私が小学生の頃、お父さんが学生時代のお友達の……連帯保証人になっていたんです。で、その人がいきなり逃げたもんだから、お父さんがその借金を払わなくてはいけなくて……その頃、おばあちゃんが病気で……お母さんが介護をしなくちゃいけなくなったから……もうお母さん、毎日忙しくて……私も手伝ったりしたけど……でも、その時……お父さんは仕事が大変な時期で……分かるの……仕方がないって……でも、どうしても、お母さんが苦労ばかりして……そう思うと……お父さんに反抗的な態度を取ってしまって……」


 ああ……美鈴が不安になって、俺を責めたりしたのは、そんな気持ちがあったからなんだ……。分かっていたよ……でも、ごめん……お父さんは何も美鈴に言えなくなっていたんだ……。


「私も……父親が幼い頃に亡くなって、苦労して育ててくれた母親の背中を見て育ったので……美鈴ちゃんのお母さんに対する気持ち、少しだけ分かる気がします……」

「……ごめんなさい……変なことペラペラ喋っちゃった……」

「……いいえ……私でよかったら、話してね……」

「ありがと……並木さん……」

「あっ、私ったら父親が亡くなった話なんてして……縁起悪いわね……不謹慎だわ……ご、ごめんなさい……」

「やだ、並木さん考え過ぎだよ! 不謹慎って……なんか笑っちゃう! ハハハッ」


 美鈴が笑っている。

 そうだ……お父さんは、美鈴の笑い声を暫く聞いていなかったよな?

 美鈴だけじゃない……晴斗の笑い声も……もちろん、佳子の笑い声も……。


 ああ……


 再就職できた会社を辞めたとき……佳子は怒ったっけ。

 ずっと優しくて、俺を理解してくれていると甘えてきたけど、流石あの時は……。

 だから取りあえず、派遣で仕事を繋いだ。

 ああ、俺は家族に苦労ばかりかけてきたんだ……そう思うと、やっぱり苦しい……苦しい……。


「おい高山、俺だよ……西崎だよ……。相変わらずか……そうだよな。ああ俺さ、もう来月に退職だよ……何かさ、いろいろ考えて……もう思いきってラーメン屋で働くことにしたんだ……前に言ってたよな? 定年したら店をやりたいって……商売も甘くないけど……でも、全くの素人じゃないんだよ……高校から大学までのあいだ、ずっとバイトしてた店にさ、久しぶりに行ったら……」


 

 西崎か……。

 そうそう、いつも話が長いんだよな……。本題に入る前にあれこれ自分の話をして、それがちょっと長い……。でも、やっぱり会社、辞める事になったんだ……。それに、ラーメン屋の夢、本気だったんだ……。


「でさ……そこで働かせてもらう事になった訳さ。幸か不幸か、俺には嫁も子供もいないだろ? だから、せめて店を……あっ、そうだ俺の話はいいんだよ! 今日は松木の事を……」


 松木? ああ、松木か……前に美鈴が言っていた……俺が連帯保証人になったんだよ。だけど、払えなくて夜逃げした……。


「そこのラーメン屋に行ったのは、そこでバイトしてる学生の子が松木と同じ高校に行ってるっていう情報があったからなんだ。俺さ、ずっと松木の行方を探してたんだよ。それで、松木の長男の携帯番号が分かったから、連絡を取ってみたんだ……で、松木が俺んとこに連絡くれてさ……お前の事を話したんだよ。もちろん、驚いてた……で、佳子ちゃんに連絡するように言っておいたよ……」


 西崎……ずっと松木の行方を? もう俺は諦めてたんだよ…。


「俺はお前に何もしてあげられない……本当にごめんな……松木を探して……少しでも立て替えたお金が返ってきたらいいけど……まぁ、相変わらず大変そうだったから、お前の払った金をポンと返すとは思えないけど……あっ……」


 ドアを開ける音だ……。もうドアの開け方で佳子が来たって分かるようになった。


「ああ、西崎さん……いらしてたんですね……」

「佳子ちゃん……仕事で忙しいみたいだね」

「はい、バタバタしてます……あっ、松木さんから連絡をい頂きました……ありがとうございました」

「いやいや、お礼なんてやめてくれよ……俺は、高山には頭が上がらないから……」

「それでも……嬉しかったです……」

「俺に出来る事があったら、何でも言ってよ……」

「……ありがとうございます……」

「疲れた顔してるよ……ちゃんと休める時は休むんだよ……」

「大丈夫です……」

「相談とかあったら……」

「大丈夫です……」


 気のせいかな……ちょっと話し方に下心を感じるが……。


「あなた、おはよう。今日は嬉しかった話と、ムカついた話と両方あるのよ」


 嬉しかった話……よりもムカついた話の方が気になるが……。


「昨日の夜、電話があったの。誰だと思う? 松本さんよ。あっ、さっき西崎さんが来てたんだけどね……その西崎さんが松本さんを探してくれたの。それで、今回の事件の事を話したらしくて……でね、貸したお金、ほんの少しずつしか払えないけど、どんなに時間が掛かっても絶対に払うからって……泣いてたわ」


 さっき、西崎が言ってたことだな……そうか……あいつ、泣いてたのか……。


「わたしもう諦めてたのよ。でもあなた、あいつは絶対裏切ったりしないから、いつか必ず返してくれるって言ってたわよね」


 そうは言ったものの……実は自信がなかったんだ。


「松本さん、とても苦労したみたい。奥さんと末の娘さんが病気になったり……仕事もうまくいかなかったり……連絡したかったけど、耳を揃えてお金を支払うまでは連絡出来ないって……そう思えば思うほど……どんどん逃げるような形になってしまったって。確かに、逃げた松本さんの事を恨めしいと思った時があったけど……責められなかったわ……」


 佳子……ごめんな……。


「で、ムカついた話はね…」


 な、何だ? 声のトーンが変わったな、ドキドキするよ。


「私に、あなたを殺そうとした容疑が掛かってたらしいわ」


 えーっ! まさかそんな事!


「保険も一億や二億の保険に入ってた訳じゃないし、これから二人で頑張って行かなくちゃいけない時に……何でよ!」


 まさか……まぁ、今は寂しい時代になってるからな…でもまさか……。


「大体、何なのかしらね『殺し屋ドットコム』って」


 殺し屋ドットコム?


「警察の調べで、あなたは何者かにその殺し屋ドット何とかっていうので命を狙われてたって……」


 命を狙われてた? 誰に?


「一瞬、あの人の事が浮かんだの。結婚式の日、あんなに恥をかかせたから、ずっと恨まれてたのかなって……」


もし恨まれてるとしたら、彼しか思い浮かばないな……。


「でもあの人、上司の娘さんと結婚して、今は海外赴任だって。幸せに暮らしてるって警察の人が言ってたわ」


 そうか……それは良かった


「実はね、私よく想像してたの。もしあの日、あなたに付いて行かなかったらって。お母さんの介護をしている時、借金で苦しい時、あなたの仕事がうまくいかなくなった時……いつも……いつも…」


 そうか……当然だよな……本当に苦労ばかりかけてきたんだ。幸せにするつもりで佳子の手を取ったはずなのに…


「でもその度に、あのサッカー観戦の日を思い出すの。チャペルであなたの手を取った日を思い出すの……それで、やっぱりこれで良かったんだと思うの」


 佳子、ずっと君は俺との結婚を後悔してるんじゃないかと思ってたよ。でも、そんな風に思っていてくれたんだね


「でも、ここであなたを見ていると腹が立つの。だってあなた、借金してた事、会社で苛められてた事、何も言ってくれなかったじゃない……」


 違うよ。散々苦労かけてきて…言えなかったんだ……又、苦労や心配を掛けてしまうと思うと……だから……。


「あなたの手、こんなに温かいのに……ねぇ、生きてるんでしょ? 何で目を覚ましてくれないの?」


 手を握ってくれてるんだね。心で感じる事ができるよ。ああ、目を開けたい。でも、でも息苦しい……苦しい……意識が遠のく……こうやって弱っていくんだろうか……。


 小さく晴斗と美鈴の話し声が聞こえる。

……あれからどれくらい時間が経った? 

 ずっと眠っていたのか……何か、段々声が聞き取れなくなってきてるみたいだ



「親父……親父を撃った奴、捕まったよ。誰か知ってる? 殺し屋ナンバー8『ジャック』だってさ。完全にイッちゃってる奴だよ! ヤバイって……」

「俺は依頼されてやっただけだって……すっかり映画に出て来るような、プロの殺し屋みたいな事言ってるらしいわ」

「まぁ、だれが依頼したのか、これからの調べで分かるみたいだけどさ」

「誰なんだろね」


 殺し屋か……佳子が言っていたっけ……。

 捕まったのなら、やっと真相が明らかになるな……。


「ふぅ……何かさ、母さんだけじゃなくて俺まで疑われてたと思うとムカつくよ」

「うん、そうだよね」

「クソ! 警察のやつらめ! いくら血が繋がってなくても親だぞ! 親」

「うん……えっ? ちょ、ちょっと! 今さりげなく言ったけど……は? 冗談やめてよ」

「冗談じゃないんだ……本当なんだ」

「は?」



「……去年の夏休みさぁ……母さんの幼なじみが家に遊びに来てたの知ってるか?」

「ああ……なんとなく……」

「……俺さ、その日はバイトだったけど、忘れ物してちょっとだけ家に戻ったんだ……で、玄関を入った時……楽しそうに話してる母さんの声がして……」


 そうだった……幼稚園の頃から仲良しだったセッちゃん? 遠くに嫁いだけど、去年の夏に会いに来てくれたんだよな……。


「もう驚いたわよ……佳子がさぁ、お腹の子供の父親じゃない人と結婚するなんて……その子、もう高校生なんでしょ? 早いわね……私たちも年を取るはずだわ……そう言ったんだ……」


「マジで?」


「まさかの立ち聞きだよ……わざとらしいドラマの展開みたいじゃね? ……嘘だろって思った……だから、母さんに聞いたよ」

「そしたら?」

「顔を引きつらして、そんな訳ないでしょって……ああ、やっぱりって思った」

「やばっ……ショックだったよね……ていうか、私も……ショックでパニックだよ」

「ごめん……いきなり……驚くよな」

「ああ、それでお父さんとちょっと変な感じだったんだ……」

「うん……その頃からちょっとずつ親父を避けるようになった」


 晴斗はどうして知ったのか……ずっと佳子と話してたけど……。

 そうか……秘密はいつかバレるよな。でもその時、何か試されてるような気がしたっけ……。


「だから……親父が目を覚ましたら、ちゃんと話したいんだ……今度こそ」

「そうだよね……私も……ちゃんと話したい……」



 俺の好きな曲、思い出の生姜焼きの香り、西崎や並木さんの声……死んだ母の声、妻の手のぬくもり……そして、晴斗と美鈴との会話……。

 ああ、全て思い出したはずなのに……家に帰らなかった二週間から公園で撃たれるまでの間……一切思い出せない……。


 ああ……頭が痛い……苦しい……一体何だ?

 もしかしたらこのまま……段々体が弱っていって、そろそろ……。



「透、早く思い出さないと、手遅れになるよ。自分でちゃんと現実と向い合わないといけない。自分が犯した過ちと……」


 母さん? 過ちってなんだ? ここは? 狭くて息苦しい場所に俺はいる……。

 ここはどこだ?



「もしもし? 佳子か……仕事でちょっと遅くなるから……それじゃ……」

「遅くなるって? 仕事って……最近の仕事、期限切れになったんじゃないの?」

「大丈夫。次の派遣先、決まったから……じゃあ」


 嘘をついて電話を切った後、それからずっと家に帰らなかった……。

 ネットカフェで殆どの時間を過ごしていたっけ……。


 ぼんやりと……ネットを見ては眠る……そんな事の繰り返しだった。

 ある日、床の隅に落ちていたクシャクシャの紙を見つけた……そう…それは……。


『あなたの殺したい人は誰ですか? 殺し屋ドットコム』


 殺してくれるのか? 誰だろう……。

 殺したい奴は……俺をリストラした奴ら?    あのセクハラ上司?

 違う……違うよ……。


 もう、そんな事どうでも良かった。

 何もしたくなかった……誰かを恨み憎む気持ちも、パワーも……家族を気遣う余裕もなく…… 電車に飛び込む事も……樹海へ向かう事も……とにかく……消えたかった……この世界から……ぱっと……このまま……。


 俺の生命保険で、晴斗と美鈴が大学を卒業するまで……そうだな……何とかなるよな。

 佳子……ごめんな……やっぱり俺はダメな奴だった……。



 激しくドアの開く音がする。

 次は乱れた靴音だ。

 佳子……どうした? 今日は慌てているようだな……まさか……。


「あなた! なんて事を…」


 佳子……すまない……全てを知ってしまったんだね。


「自殺なんて……自殺なんて……しかもあんな方法で……」


 俺は自分自身を消したかったんだ。

 後先なんて考えてなかった……気が付いたら、消費者金融で借りた金を振り込み、俺を消す依頼を『殺し屋ドットコム』にした


「何で? 許さない! やっぱりあなたに付いて行くんじゃなかったって思うわ! このままだと……絶対にそう思うから、私!」


 駆けてくるスニーカーの音は晴斗か? その後には、ペタペタとした美鈴の靴音だ。


「おい! 落ち着けよ、大きい声出すなって! 美鈴、ドア閉めてくれ!」


 ドアを閉める音が聞こえたと同時に、美鈴の鳴き声がした。


「お、お父さん……私たちの事なんてどうでも良かったんだよ。私たちのこと置いて死のうとしたんだよ……だから……も、もう目覚める気なんてないんだよ。きっとこのまま……」

「美鈴……何でそんな事言うのよ……やめてよ……」

「だって……だって……」

「親父は、病んでたんだよ。正気じゃなかったんだよ……そうじゃなかったら……あんな事できる訳ない!」


 暫くの間、佳子と美鈴は泣き続けた……。

 もう辛いよ……俺はどうしたらいい?

謝らないといけないよな? 少しでいい……一言でいいから俺に目を開けて家族の顔を見る力と、「ありがとう」と「ごめんなさい」と言える唇の力を下さい。

 神さま、お願いします! お願いします!


「私が悪かったんだよ。酷い事言ったから…お父さん、傷付けたから……」

「違うわよ。お母さんが悪かったの。ちゃんとお父さんと話すんだった……たぶん、話せない空気、お母さんが作ってたのかもしれない」

「もうやめろって、今そんな事言っても何も始まらないだろ? どうする事も出来ないって……早く親父が目覚めるの待つしかないだろ」


 目覚められないのはなぜだろう……こんな中途半端な状態でいなくてはいけないのはなぜだ? 家族を捨てて逃げ出そうとした俺への罰なのか……でも、俺より苦しんでいるのは、佳子と美鈴と晴斗だから……。


「どんな気持ちだったのかしら……あの夜の公園で、目撃者の人があの人、挙動不審だったって言ってたから……戸惑って、迷って、後悔してたのかもしれないわね」

「誰だって死ぬのは怖いはずだよ…あんな死に方を選ぶなんて……やっぱり正気じゃなかったんだって……」

「私、どうしたらいいんだろ…もう何もする気になれないよ」

「しっかりしろって! 親父が目覚めたらさ、やり直すんだよ、皆でさ」


 晴斗、ありがとう…お父さんさ、段々苦しくなって来て…どうしたらいいのか分からないんだ…このまま…もう駄目なんだ…


「あれ? 親父? 今動いたよ」

「お父さん?」

「あなた!」


 最後に……思いっきり……力を振り絞ったよ……。



 もう、これで終わりだろう。

 こうして家族の気持ちを感じて逝く事ができるんだから……幸せかもしれない。

 でも欲を言えば、ほんの少しだけ皆の顔が見たかったな……話をしたかった……でも俺が望んだ事だ……。


「透、これでいいの? 自分の心に嘘はないのかい?」


 母さんの声が聞こえる。

 迎えに来てくれたのか? 何? 俺は自分の心に嘘を付いている?


 佳子と美鈴のすすり泣く声が止まない。 

 泣かないでくれ……


「親父……」


 晴斗の声が震えていた。


 今夜が峠だと医師からの説明があった。ああ……もうすぐお別れの時が来るみたいだ。

 もう……さよならだ……。


「あなた、まだたった十七年よ。結婚してまだ十七年……きっと、これからもっと苦労するかもしれないし、意外と大した苦労もないかもしれない……」


 佳子……君はいつも強くて優しくて……君がいたからやってこれたんだ……きっと君は生きて行ける。俺なんかいなくても……俺は家族の足枷にしかならない……。


「私、大丈夫よ。あなたを支えるから…ううん、支えあって生きて行きましょう……晴斗が言うように、やり直しましょう」


 俺は目覚めたい気持ちがあるのか?

 違う、嘘だ……俺は目覚めるのが怖いんだ。この先、ちゃんと仕事する自信もない。又、消えてしまいたいと思ってしまうかもしれない……そうしたら……皆、俺を捨てるだろ? 本当はこのまま死んでしまった方がいいって……心のどこかで思ってたんだ。


「もういいよ! 目覚めたくないならそれでいいよ」

「なんて事言うの、お兄ちゃん」

「でも、死ぬなよ! まだこうして眠っていたいなら、いいから……急がないから……」


 もう段々声が聞こえない……眠いよ……眠らせてくれ……。


「そうね……こうしていてくれるだけで……生きててくれるだけでいいわよね」

「ねぇ、お父さん、聞こえる? 死なないでね……みんないくらでも待ってるから」

「死ぬなよ!」


 ありがとう……こんな優しい家族の場所へ帰りたかった。でも、もう……。


「ねぇお母さん、このラジカセって何なの?」

「お父さんのお友達が置いていったの。好きな曲とか思い出の曲を聴かせたらいいんじゃないかってね」

「じゃあ、親父に聴かせようよ」

「そうね」



♪Raindrops keep falling on my head

And just like the guy

Whose feet are too big for his bed

……♪



「私、この曲知ってるよ。お父さんがたまに鼻歌で歌ってたもん……で、どんな思い出があるの?」

「結婚式の日の……思い出かしら」

「式の日にこの曲流したの?」

「ううん……お母さん、他の人と結婚しようとしてて……」

「えっ!」

「お父さんが式場から私を連れて逃げたの。その時、車のラジオからこの曲が流れてて」

「は? マジで?」

「お父さんね……随分走ったけど、大丈夫? お腹の赤ちゃんに障るから、ほら……って言って私の腰にブランケットを掛けてくれたの」

「お母さん、お腹の子って……」

「……もう夢中だったから、あんまり覚えてないけど……ただ不安だったな……でもね、ちっとも止まない雨の中で……」


 佳子さん、もしこの雨が止んで、太陽がパーッと出たら、不安じゃなくなりますか? でも、この雨は止みません……このまま降り続くでしょう。だけど、心配しないで……僕は負けません。そうしたらきっといつか、幸せがやって来るはずです。



「うわっ、何かカッコイイこと言うじゃん!」

「そう言った後に……この曲の歌詞、そんな意味じゃなかったかな……なーんて言って笑ったの」

「えっ?」

「それでね、二人で生まれて来る子供の名前を、車の中で考えて……」

「ちょ、ちょっと! さっきから勝手に話してるけど、お腹の子……当然、俺だよね」

「そうよ……」

「どうして、その人と結婚しなかったんだよ……」

「そんなの、お父さんの方が好きだったからに決まってんじゃん!」

「やだっ……美鈴、お母さん照れるわ……」


 今夜が峠だと言われている俺の前で、三人は明るく笑っている。

 ああ、俺も仲間に入れてくれよ……。

 でも、佳子と美鈴と晴斗の笑い声が段々遠くなっていく……。


「でもさ、不思議だよね、血が繋がってないのに、お兄ちゃんってお父さんによく似てるよね」

「は? どこが?」

「出来るかどうか微妙な事でも任せとけっていう顔する時あんじゃん」

「そういえば…」

「そんな事ねーよ」


 晴斗、実は……お父さんがお前に真実を話すのを躊躇った理由は……。

 実の父親と比べられるのが怖かったからなんだ……。

 何だよ! 母さん、どうして親父を選んだんだ? 勘弁してくれよ……なんて言われたら……。そんなふうに言われたら……生きていけないよ……。晴斗だけじゃない……佳子も美鈴も……。


 戻りたい……ずっと暗闇の中だ。怖くて歩けないよ。でも歩いてどこかへたどり着かなくては……少しずつ……少しずつ……。

 ああ……でも意識が遠のく……。



「満開だった桜が、今日の雨と風で散りそうね」

「えっー! 師長……私、明日カレシとお花見なんですよ……」

「カレシとは別れたんじゃないの?」

「……一度は別れたんですけど……別れたくないって泣かれちゃって……結局……」

「そう……ちょっと心配だわ……あなたは流されやすいからね……」

「師長……そんなふうに言わないで下さいよ……ねぇ、高山さん、どう思います?」

「そんなこと、高山さんに聞くんじゃないの!」


 ああ……暗闇の中……

ずっと……ずっと……声が聞こえなかったり……今日みたいに、はっきりと会話が聞こえたりする日もある……。

 優しい師長さんの声と、うっかり屋さんの桃井さんの声だ。


うわっ……おもいっきり強く開けたドアの音は……。


「もう、何で入学式に雨なのー! 新しい制服が……」


 やっぱり……美鈴か……。


「あら、美鈴ちゃん。今日は入学式だったのね」

「制服、良く似合ってるよー。かわいい!」


 そうか……入学式だったか……。


「でもね、やっぱりピンクとグレーのチェックのスカートがいいな……」

「まだそんな事言ってんのか! お姫様はどんな制服を着ても可愛いですよー」

「うわ! なんかムカつく!」


 晴斗も来たな……。


「ほらほら、お父さんと一緒に写真撮りにきたんでしょ? お母さん、これから仕事だから……早く!」


 佳子、久しぶりだな……最近忙しいかったもんな……。


「俺もバイト行かなくちゃ……」

「私もちゃんとバイト探さないと……」


 みんな……ずっと忙しいんだよな……。

 俺もこうしちゃいられない……。

 さてと……。


「じゃあ、シャッター押しますね! あっ、私ヘタだから師長が撮って下さいよ」

「はい! それじゃ、並んでください!」


 もし、神さまがチャンスを与えて下さったら……。

 ちゃんと家族と話そう……。

 情けない夫だけど、頼りない父親だけど……。

 もう一度……一緒に過ごしたいって……。


「……うぅ……」


 ああ…長い暗闇を歩いて来て、ようやく辿りつきそうだ……眩しい、光りが……。


「ほら、お父さんを囲んで!」


 雨が止まなくても、降り続いても俺は大丈夫、待っていてくれた家族がいる。

 だから……きっと幸せはやって来るはず……。


「……佳……子……」


……やっと出せた……俺の声だ……。


最後まで読んでいただきまして、ありがとうございました。

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