第七話 お預けして楽しいか
光を集めたようなプラチナブランドから水が滴り落ちる。
淡い茶に緑が混ざった宝石のような瞳、大きな目を引き立てる長いまつ毛、小さな鼻と口、それに輪郭。
普段から直視できないくらいの可愛さなのに、雨に濡れて伏し目がちに佇む姿のせいで、いつもより儚げに見える先輩が、美しい水の妖精みたいに思えてくる。
母が、俺にだけ聞こえる声で、
「ちょっと! きれいな子ね! 友達?」と言う。
兄と全く同じ反応。
だから友達なのかと聞かれても、俺にも分からない。
あえて言うなら食物連鎖的な関係かも知れない。辛い。
「すみません。玄関濡らしちゃって。急に雨降って来たから……」
そう言って先輩は、濡れた髪をかきあげた。
う、美しい……!
平凡なうちの玄関が、高級ホテルのロビーに生まれ変わったかのような錯覚が起きる。
母が、乙女のようにうっとりとした目で、口元で手を合わせる。
まるで、推しが目の前に現れたかの様な反応。
「これ持ってきただけなので、渡したら帰ります」
そう言って、先輩がビニール袋を差し出す。
中を覗くと、鉄分と書かれたドリンクが数種類入っていた。
「亜蘭君じゃん! どうしたの?」
騒がしい足音と共に、玄関に駆けつけた兄が先輩に声を掛ける。
「もしかして、文都の体調、気にして? わざわざ持って来てくれたの?」
「あ、はい。濡れちゃったけど……」
そう言って先輩は、眉尻を下げ、申し訳なさそうな顔をした。
尊い……!
俺の心臓が、雑巾を絞るように強く締め付けられる。
びしょ濡れの子犬がしょげているような表情に、その瞬間、甲斐家一同は陥落した。
「何言ってるの! 濡れてるくらい何でもないから! 泥付いてたって飲ませるわよ!」
「それどころか、亜蘭君がくれたものなら中身が泥水でも飲むぞ! 文都は!」
何勝手なこと言ってるんだ?
まあ飲むけど。
「それにこいつ丈夫だから、全然気にする必要ないし!」
「そうです先輩! 俺は何ともないです!」
「いや、でも今日様子おかしかったし」
グサッという音と共に、見えない刃物が俺の良心を刺した。
「とりあえず風邪ひいちゃうから中入って! そうだ! お風呂入っていって! 着替えは文都の置いとくから。濡れた服、乾燥機にかけて、乾いてから帰ればいいんじゃない?」
母が捲し立て、先輩をグイグイと家の中に押していく。
迫力に負けたのか、先輩は、されるがまま従っている。
兄がニヤついた顔で、
「俺の服を貸した方がいい?」と俺に問いかけた。
「ぶん殴られたい?」
好きな人が自分の服を着て、自分の部屋にいるという夢のようなシュチュエーションに、俺は緊張していた。
「お前の家族、面白いな……って、何で正座?」
俺の部屋に足を踏み入れた先輩が、ローテーブルの前で正座する俺を見て、困惑する。
「どうぞ」
テーブルを挟んで向かい側を手で示す。
座る場所を指定されて、更に困惑していることと思いますが、何卒お取り計らいください。
着席の位置を誤ると、食欲の対象として俺を見ている先輩に、その先輩を恋愛の対象として見ている俺が、間違いをおかしてしまいそうだからです。
俺の心情を知る由もない先輩が、俺のベットに腰掛け、無言で自分の隣を叩く。
座れと?
「は……はい……」
あっさりと屈従する。
先輩の隣に座ると、シャンプーの香りがふんわりと香って、ますます落ち着かない。
うちのシャンプー、こんなにいい匂いだったかな……。
「お兄さんが髪乾かしてくれるって言うから、やってもらった」
「は!?」
頭を打つような衝撃の一言に、思わず先輩に顔を向ける。
先輩は、いたずらな笑顔で、
「やっとこっち見た」と言った。
心臓の鼓動が早くなり、危うく爆発しそうになると同時に、兄には今日死んでもらうことを決意する。
俺が自分の部屋を片付けている間に……あいつ……。
「兄が、他に何かやらかしませんでした?」
「姉がフリーか聞いてきたな。あと、俺みたいな弟がほしいって言ってた」
外堀から埋めようとする兄の図太さに嫌気がさす。
「あのさ……」
先輩の声音の変化に体が固くなる。
それと同時に、言わなければいけないとずっと思っていたことが溢れる。
「先輩、ごめんなさ……」
「悪かった」
俺の言いたかったことは、先輩の謝罪に消されてしまった。
「え?」
「本当はあんな風にいきなりするつもりじゃなかった。俺が吸血鬼だってこと、言ってなかったのも悪かったし。絶対怒ってると思って、今朝会ったら謝ろうと思ってたのに、お前ずっといないから……」
萎れた花のようにうつむく先輩に、俺は慌てて弁解する。
「びっくりしたけど、怒ってはいないですよ! 少し痛かっただけですし。むしろ今までのことに納得がいったというか……。俺は自分の勘違いが恥ずかしくて、先輩と顔合わせられなくて」
「勘違い?」
自分が墓穴を掘ったことに、ハッとして固まる。
「勘違いって何?」
「絶対言いません」
先輩が俺に、好意を持っていると勘違いしていたと言ったら、先輩との関係が終わるような気がする。
「と、とにかく気にしてませんから! 俺こそ、すみませんでした」
「じゃ、また吸ってもいいってこと?」
先輩が、俺に顔を寄せる。
先輩には俺の服は大きいようで、開いた襟元からきれいな鎖骨と白い肌が見えて、心臓が脈打った。
「そ、それは……先輩が望むなら、俺はかまわないっていうか」
ベットに手を置いて、段々と距離を詰める先輩に、俺は押し倒されているような格好になった。
中途半端な体勢で耐えている為、腹筋がプルプルする。
「今からでも?」
お風呂上がりのいい香りが、俺の神経を掻き乱す。
先輩とは違う種類の欲が横切って、思わず先輩を拒絶する。
「無理です」
一瞬で、苛立ちの表情に変わる先輩。
「はぁ!? お預けして楽しいか!? お前、こっちは、あれからずっと我慢してるのに……」
「違います! お預けしてるとかじゃなくて! 俺が先輩を襲いかねないんですよ!」
「非力な人間に何ができるって?」
「急に吸血鬼っぽいこと言わないでください! 先輩を押し倒すことくらい簡単ですよ!?」
挑発に乗るように、俺は先輩の両手首を掴み、ベットに押し倒した。
先輩の上に覆いかぶさるように馬乗りになる。
「あ、これがお前が言ってた、上?」
先輩は平然とそう言った。
体の内側から爆音が鳴り響く。
熱湯のように羞恥が噴き上がって、全身が赤くなっていくのを感じた。
「文都ー。亜蘭くんの服、大体乾いたから……」
ノックなしで入室する、デリカシーのない兄と目が合う。
長い沈黙が流れて、どこから出ているんだと思う、兄の甲高い悲鳴が響いた。
「キャーーーッ!?」
「ウワァーーッ!?」
慌てて跳ね起き、何でもないように装う俺。
「俺のプライバシー!! ていうか乾くの速くない!?」
死にたいほど恥ずかしくて、声が大きくなる。
「夏物だから乾くの速いんだよ! っていうか、お前は何しとるんじゃ! 獣かお前は! 自重しろ! 亜蘭君ビックリしてるだろ!?」
つられて兄の声も大きくなる。
先輩は、お前の大声に驚いてるんだよ。
「うるさいわよアンタ達!」
誰の声よりも大きい、母の怒声が響いた。