第六話 先輩のあれやこれ
その後、動物園からどうやって帰ったのか俺には全く記憶がない。
兄の話では、先輩と理人が、放心状態の俺を家まで送ってくれたとか。
月曜の朝、リビングの窓から見える空には、隙間なく敷き詰められた雲。
まるで雨を降らすタイミングを見計らっているみたいだ。
自分の身に起こった一部始終を受け入れる覚悟をした俺は、今までの先輩とのあれこれを思い返す内、一つの仮説にたどり着いた。
先輩のあれやこれは、恋愛感情じゃなく、食欲だったのでは?
いいニオイがする
意味:おいしそう
運命感じちゃって、頂いてもいいですか?
意味:運命の食材に出会いました、いただいてもよろしいですか?
それから、自分がとんでもない失言をしていたことを思い出す。
あの、俺が上ですよね?
思わず壁に額を打ち付ける。
穴があったら入りたい。
「ついに、おかしくなった……?」
兄がネクタイを巻きながら、気味の悪いものを目撃してしまったような、歪んだ顔で俺を見ている。
「(元はと言えば、お前が下なの?とか言った)お前が悪い」
「俺、何もしてないよね!?」
これから人を殺しにいくような形相が窓に映る。
兄を見る俺の顔だった。
「今日、珍しく朝来るの遅かったね」
午前中の授業が終わった所で、理人はそう言った。
先輩と顔を合わせられなくて、いつも乗るバスを見送った結果、遅い登校になってしまった。
「ちょっと色々あって」
適当すぎる言い訳に、理人は、
「色々ね」と言って笑った。
「動物園の後、大丈夫だった? おもしろかったなー。水買って二人の所に戻ったら、先輩はすごく元気になってて、代わりに甲斐くんがダウンしてて」
「ごめん。送ってもらったみたいで」
「いいよ。お陰で甲斐くん送った後、先輩と二人で帰れたし」
二人でという部分に、モヤっとする。
妙な間が空いてしまって気まずくなる。
世話になっておいて、理人にイラッとするのはおかしいよな……。
「そういえば、見たかったものは見れた?」
何となく話題を変えたくて話を振る。
理人が見たいと言っていたのが、パンダの事だったら申し訳ないし。
「見たいものは見れたよ」
何故か、理人の笑顔がいつもと違って見える。
表情の裏に何か隠されているような気がして、目を離せないでいると、突然、俺から視線を外した理人の目が煌めいた。
「あ、先輩」
それを聞いて、反射的に席を立つ。
後ろのドアから、教室に入ってくる先輩の姿が頭に浮かんで、振り向いてはいけないと脳内で危険信号が発せられる。
「おおお俺、行かないと」
「え? どこに?」
「今、どこかで俺を呼ぶ声が…!」
「突然始まったヒーローごっこかな?」
謎の捨て台詞を残し、全速力で教室を後にする。
「午後の授業始まるまでには戻ってきてねー」と言う理人の声を背中越しに聞きながら。
避けても意味がないことは分かっているのだけれど……。
結局、今日一日、先輩を避けて、避けて、避けまくった挙句……帰宅してしまった。
先輩……! すみません! どうしても恥ずかしさでいたたまれなくて……!
昼休みに居座った理科室で、人体模型と向き合ってご飯を食べたり、帰宅時間をずらす為に適当に入った茶道部で、危うく入部させられそうになったけれど、先輩と顔を合わせずに済んだ。
それが良かったとは思えないけれど……。
お風呂上がりに乱暴に髪を拭きながら、盛大なため息をつく。
先輩、怒ってるだろうな……。
昼の間、降り出すのを我慢していた雨が、堰を切るように激しく地面を叩き始めた。
「文都ー! あんたにお客さん!」
雨音に混じって、母の俺を呼ぶ声が聞こえる。
いつもより高い声に、異変を感じながら玄関に向かうと、水から上がったようにびしょ濡れの姿で、先輩が立っていた。