第二話 お兄さん神
「何で兄貴が付いてくるんだよ」
朝のバスに揺られながら、隣に立つ兄に不満を言う。
自然だけどキチンと整えられた髪に、清潔感溢れるスーツ姿。特に女性から好かれやすい、整った顔立ち。
黙っていれば、仕事のできそうなイケメンサラリーマンなのに、どこか残念さとチャラさを感じるのは、その適当な性格のせいかもしれない。
「おい! 感謝する所だぞ? お前の様子が昨日おかしかったから、わざわざ付き添ってやってるのに!」
余計なお世話だ。
今朝はバスの乗客が少ないように感じる。
兄も同じことを思ったのか、
「昨日あんな事があったから、車で送る家庭もあるんだろうな」と言った。
スピーカーが停留場を告げ、空気が抜ける音とともにドアが開き、一人の乗客を乗せる。
その姿に目が奪われた。眠気の漂う空気が冴えていくような錯覚に、目がチカチカする。
彼は、真っ直ぐ俺の方に近づいて、俺の空いている方の腕に、自分の腕を回した。
「おはよう」
俺よりも背の低い先輩が、上目遣いで俺を見る。
心臓がギュンッという、聞いたことのない音を立てた。
ま、眩しい……!
ところで俺たち、こんな風に腕を組むほど仲良かったでしたっけ?
いや、昨日会ったばかりなんですけど……。
混乱する頭の中で、疑問が反芻する。
「学校の友達? きれいな顔~」
兄が横から顔を出して言った。
友達なのかと聞かれても俺にも分からない。あえて言うなら昨日色々あった間柄でしかない。
「先輩、俺の兄です」
とりあえず、兄の紹介をしておく。
「初めまして。俺、日ノ岡亜蘭といいます。こいつの一つ上の学年です」
先輩がそう言って、俺を指さす。
白くて細い指が可愛い。
「よろしく~」
挨拶もそこそこに、先輩が衝撃的な一言を口にした。
「俺、こいつに運命感じちゃって、頂いてもいいですか?」
運命。
「は……?」
「え……? あ、あの……。先輩、何のことですか?」
「一応、ご家族に許可取っとかないとまずいだろ」
何か、俺の知らない所で話が進んでませんか?
先輩が取ろうとしているのは、一体、何の許可ですか?
「ええと……亜蘭君は、こいつをどうしたいの?」
戸惑いが張り付いた顔で兄が聞くと、先輩は曇りのない真っ直ぐな目で言った。
「大事に味わいたいです」
大事に味わう。
は?どういうことですか!?
やっぱり昨日のあの、欲しいっていうのは告白だったんですか!?
顔から火が出せそうな程、熱い。
「俺の初めての相手だから、なるべく痛くしたくないし……」
「え、お前が下なの!? ていうか、そういう関係なの!? お前、そういうの理解あるタイプの方だったの!?」
兄が嘘だろという顔で俺を見る。
「黙れ」
朝から何を言ってるんだクソ兄貴。
そういう関係じゃないし、俺も男に一目惚れするとは思わなかったし、俺が下……え?
「家族からも、初めての時は優しくしろって言われているので。俺の姉が、初めての時にがっついて、相手が貧血で倒れたんです」
「は、激しい……」
「ちょ、ちょっと待ってください! 先輩、俺たちそういう仲じゃないですよね!?」
事の成り行きを正しい方向に直そうと、先輩の肩を掴み諭すと、この世の終わりを告げられたような表情が先輩の顔に浮かんだ。
「え」
こんな顔もできたのかという驚きと共に、悪いことをしたような気になって狼狽えてしまう。
「す、すみません……。傷つけるつもりは全くなくて、俺はむしろ嬉しいですけど……! こういうのは順序があるっていうか……」
「おい、男らしくないぞ。さっさと奪われてこいよ」
「黙れ」
兄の暴言に1オクターブ声が低くなる。
「亜蘭君。こいつは優柔不断だし、頼りないところがあるかもしれないけど、一応いい奴だし、俺に似て、顔も良いし背も高い」
「は?」
お前に似ているのは余計だろ。
兄が続けて、先輩に語り掛ける。
「俺はそういうのに理解がある方だから、安心して。こいつの事、好きにしちゃって。できればやさしくしてやってね」
必死に笑いを堪えて言う兄に、もう今ぶん殴ろうかなと思ってしまう。
帰ったら確実に殴る。
「マジ? お兄さん神!」
そう言って目を輝かせる先輩を見て、俺はもう自分が引き返せない所まで来ていることを自覚した。
先輩の唐突な距離感に戸惑いはあるものの、正直、口元が緩んでしまう程、うれしくてうれしくて仕方がない。
だけど、俺はまだ分かっていなかった。
先輩が俺に寄せる思いの本質を。
まさか、思い上がっていた自分を恥ずかしく思うことになるなんて、この時は想像もできなかった。