第一話 恋愛と食欲は似ている
恋愛と食欲は似ているように思う。
失恋した時の、心に穴の空いたような喪失感は、空腹の空しさと似ているし、体に良くないものばかりを食べて、体を壊すのと同じように、自分に合わない人との妥協の恋愛は、お互いを傷つけるだけだ。
心が本当に求めているものを無意識に欲しているあたりが、似ているのだと思う。
俺が恋愛をするなら、温かいものでお腹を満たした時の様な幸福感を、相手に与えてあげたい。
成り行きに任せた、恋愛とは似て非なるものの経験から、俺はそう思った。
だけど……それは例えの話で、まさか自分が本当に食欲の対象として見られるとは、しかも、一目惚れした可愛すぎる先輩の食欲を、俺自身が満たすことになるなんて……。
誰が予想できただろうか。
高校に入学してまもなく、学校へ向かうバスの中での事。
後方の座席に座り、眠気を誘う揺れに微睡んでいると、騒がしい声が聞こえて目が覚めた。
緊張した空気の車内で、ガタイのいい男が女子高生に絡んでいる。顔が赤く、言っていることも支離滅裂で、かなり酔っ払っているように見えた。
女の子が男の大声に怯えて、身を縮めている。
「やめてください。怖がってます」
ヒートアップしている男が、今にも手を出しそうに見えて声をかけた。
だけど男に俺の声は届かなかったようだ。
男の、分厚い平手が振るわれる。
その一瞬がスローモーションのように感じた。だけど、咄嗟のことで体が動かない。
ダメだ……!
そう思った瞬間、誰かが男の腕を掴んだ。
グレーのブレザーに、白いシャツとライン入りの白いベスト。紺のネクタイに紺のズボン。
俺と同じ制服を着た男子高校生が、男の腕を掴み、睨みつけている。
彼に釘付けになっていたのは、俺だけじゃない。
車内がしんと静まり返って、スポットライトが当たっているみたいに、乗客の視線が注がれていた。
多分それは、その勇敢な行動だけが理由ではないように思う。
整った中性的な顔立ちに、光を帯びたような色素の薄い髪、透き通ったヘーゼルアイ。
うわ……こんなきれいな人って、この世に存在するんだ……。
こんな状況なのに、その容姿に思わず見惚れてしまう。
それまで騒いでいた男も、その美貌に面食らったのか、口を開けて間抜けな顔を晒していた。
「嫌がってんだろ、おっさん」
容姿に似合わず口調は荒い。
整った顔立ちが作る苛立ちの表情は、美人特有の迫力があって、いっそ清々しい。
だけどこの状況では、その歯に衣を着せない物言いを聞いた男が、彼に乱暴しないか心配で、気が気じゃない。
男の体格と比べて、彼は女の子に間違えられてもおかしくないくらい、華奢な体型をしている。
「すごく酔ってますよね!? 次のバス停で降りましょう!」
間に入って男に言い聞かせようとするも、傍らから男を挑発するような言葉が投げられる。
「迷惑なんだよ、酔っ払いクソジジイ」
この人、何で怒りを煽るようなこと言うの……?
「煩い、臭い、汚い」
その通りだけど、帰ってからお家で言って……。
恐れを知らないのかな……?
男の顔が、沸騰したお湯のように真っ赤になる。
振り上げられた平手が、彼のきれいな顔に直撃して、女性の悲鳴が響いた。
再び払われた手が、間に入った俺の顔に当たる。
揺れる脳内で、バス車内で暴行事件というニュースが流れる。
うわー……こんな事って本当にあるんだ……。
人って殴られるとこんなに痛いの……? 歯とか折れてないよね……?
泣いている子供を抱き寄せる母親、通報するサラリーマン、カメラを向けた女性。
それに床にねじ伏せられた男。
え?
一瞬のことで、何があったのか理解できなかった。
数秒の間に、暴行男はバスの床にねじ伏せられ、関節技を決められていた。
さっき平手打ちをくらった彼によって。
「お前、俺の事、弱いと思ったの?」
彼が、そう言って俺を見上げる。
「今、庇ったんだろ?」
悪戯っぽく笑う顔には傷ひとつない。
その後、暴行男は無事に警察に引き渡され、俺は近くの病院で手当を受けることになった。
「顔、大丈夫ですか? 当たったように見えましたけど……」
傷は見当たらないけれど、確かに彼が平手打ちを食らったように見えた。
念の為、病院に行くよう勧めようとするも、彼からの返事はない。
俺の見間違えだったのかな……。
彼が、俺に向かって手を伸ばした。
指が俺の頬に触れて、男相手なのに、思わず心臓が波打つ。
「血が出てる」
「え」
見ろと促すように顔の前に差し出された指は、俺の血が移って赤く染まっていた。
ヒィッ!
俺の血で、きれいなものを汚してしまったようで居た堪れない。
「汚れちゃってるじゃないですか!」
「汚れって」
慌ててタオルを取り出し、指を拭く。
彼はされるがまま動かない。
謎の状況と沈黙に耐えかねて顔を上げると、彼の不愉快そうな顔が見えた。
ハッ……! すみません俺が何か失礼な事を!? ゴシゴシしすぎて痛かったですか!?
「お前……」
鋭い視線が痛い。
お、怒ってらっしゃる……。
「な、何でしょう?」
彼は何かを言いかけてやめ、俺の腕を引き寄せた。
顔と顔がぶつかりそうなくらいに、距離が近くなって、熱湯をかぶったように顔が熱くなる。
「いいニオイがする」
「は」
「お前、俺と同じ学校だよな。名前は? 一年?」
俺の困惑をよそに、会話は続いていく。
「甲斐文都一年です」
いいニオイって言った?
柔軟剤のニオイとか? そういうの気になるタイプの方ですか?
「俺は日ノ岡亜蘭。お前の一個上」
「あ、やっぱり先輩だったんですね。校章の台座の色が違ったので……」
彼が微笑を浮かべる。
それは、この瞬間、この世の中で最も尊いのではと思わずにはいられない笑顔だった。
眩しくて思わず目を細める俺の耳元で、彼が囁く。
「お前の……が欲しい」
甘くとろけるような声が耳に残る。
二度と引き抜く事ができないように深く、心臓を射抜かれた気がした。
その事件は、その日の内にニュースになり、視聴者投稿の映像が流された。
暴行の瞬間から制圧までの映像がモザイク付で。
ニュースを見て、社会人の兄が
「これ、お前の学校の制服じゃない?」と言った。
「あら本当! あんたにもこんな勇敢さがあったらね〜」と母。
「高校入学して早々、階段で転ぶとかダサすぎるぞ」と父。
面倒なので適当に誤魔化したケガの言い訳を、家族は疑っていないようだった。
俺が言うのも何だけど、顔だぞ? 俺が怪我したの。
階段で転んで顔怪我するって、どんな転び方なの? 俺は5歳児なの?
俺が言うのも何だけど。
だけど、そんな事よりも……。
頭の中を疑問が渦巻く。
あの非力そうに見えた腕のどこに、男の腕を掴んで止めたり、ねじ伏せる力が隠れていたのかとか、確かに平手打ちを食らったはずの顔が、きれいなままだったこととか……。
そして何より……。
お前が欲しい?
あの時言われたことを思い出して赤面する。
先輩……会って早々告白しちゃうタイプの方ですか……?
ニヤつくな俺……!
同じ人間とは思えない、可愛すぎる先輩に微笑まれたからって浮つくな!
あれは、きっと、何か違う意味だったんだ……。そうじゃなかったら、本気にしてしまう……。
いや、先輩は男だけど……!
「お前、どうしたの……?」
兄が得体の知れないものを見るような目を、俺に向ける。
「帰ってきてから変だぞ? 何言っても空返事しかしないし」
「転んだ時の打ち所が悪かったのかしら……」
「精密検査でも受けさせるか?」
放っておいて下さい。
繰り返し思い返す先輩の笑った顔や、胸の高鳴りが、俺に告げている。
これは、人生初めての……一目惚れだ。
人を好きになるってこういう事?
俺の今までの恋愛めいたものは何だったの?
恋を自覚して、ため息を吐く。
残念だけど、俺と先輩の間に、これ以上何かがある訳がない。
同じ学校だからって、学年が違えば何の接点もない訳だし……。
忘れよう、少しの間、夢を見ていたと思って。
そう、その時までは思っていた。
忘れられるわけないのに。
この出会いが、俺の人生を変えてしまうなんて、想像もできなかった。